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2022年10月26日 (水)

加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼

 

慶長十年(1605年)10月26日、加賀前田家の家老であった村井長頼が死去しました。

・・・・・・・・・・・

村井長頼(むらいながより)は、尾張国愛知郡(あいちぐん=名古屋市中川区付近)土豪(どごう=半士半農の地侍)だった前田利春(まえだとしはる)が、織田(おだ)家の与力になって、荒子城(あらこじょう=愛知県名古屋市中川区荒子)主となったであろう頃からの譜代の家臣で、

はじめは、永禄三年(1560年)に前田の家督を継いだ前田利久(としひさ=利家の長兄)に仕え、その後、その後を継いだ弟の前田利家(としいえ)、その息子の前田利長(としなが=利家の嫡男)と、前田の当主3代に渡って仕えた家臣の中の家臣です。

Murainagayori600at 特に前田利家とは、利家が織田信長(おだのぶなが)小姓をやっていた時代から、例のあの事件で織田家を追放されていた時代(12月25日参照>>)にもつき従い、

もちろん、許されて織田家に戻った時(5月14日参照>>)も、ともにいて・・・

そんな利家が信長の命により、兄の利久に代わって前田家の当主となった永禄十二年(1569年)からは尚一層、主君を支える忠臣となっていくのでした。

そんな長頼は、ひとたび合戦となれば、最前線で活躍する武勇の人で、その腕で勝ちとった首は数知れず・・・その通称は又兵衛(またべえ)と言いますが、これは、主君である前田利家の通称=又左衞門(またざえもん)から・・・

そう、若き日の利家が、
「お前…また、槍で武功挙げたんか!」
て事から『槍の又左』と称されていたのと同じく、

彼も、
「またお前が…」
てな事で、その労をねぎらって、利家が自分の『又』の一字を与えたのだとか・・・

そんな中でも、元亀元年(1570年)の天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)の攻防戦(4月26日参照>>)

ご存知のように、この時、朝倉義景(あさくらよしかげ)の金ヶ崎城を攻めていた信長の背後から浅井長政(あざいながまさ)の軍が迫って来た事を受けて、挟み撃ちを恐れた信長が撤退を開始する=世に言う『金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)となるわけですが、

…で、この撤退戦で殿軍(しんがり=最後尾の軍)を務めたのが木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=豊臣秀吉)だったかも(異説あり)のお話(4月28日参照>>)は、以前にさせておただきましたが、

実は、この時、信長を護って、ともに戻ったのが前田利家で、当然、その横には村井長頼・・・

Nambangasa800a この時の彼の猛将ぶりを気に入った信長から、後日、長頼に南蛮笠(なんばんがさ=洋風のつば広帽子→)が贈られたらしいので、それだけ目を見張るようなカッコ良さだったという事でしょう。

さらに元亀元年(1570年)から勃発した信長と石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(9月14日参照>>)でも前田利家に付き従い、

あの本能寺(6月2日参照>>)のゴタゴタで起こった天正十年(1582年)の石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町付近)の戦い(6月26日参照>>)では前田軍の先鋒を務め、

翌年の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月23日参照>>)では、前田利家の与力となった長連龍(ちょうつらたつ)とともに離脱の殿軍を務めています。

利家の在る所、長頼あり・・・そんな奮戦ぶりの中でも、最大の名場面となるのが、天正十二年(1584年)に、秀吉が織田信雄(おだのぶかつ・のぶお=信長の次男)徳川家康(とくがわいえやす)連合軍と戦った小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)が飛び火して起こった北陸の小牧長久手と言える佐々成政(さっさなりまさ)との一連の戦い。。。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
6月24日:阿尾城の戦い>>

すでに金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)城主となっていた前田利家の命を受け、村井長頼は、末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)では、城主の奥村永福(おくむらながとみ)とともに城を守り、その翌年には佐々成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲したり、縦横無尽の活躍をしました。

そして、利家亡き(3月3日参照>>)後も、前田家の家老としてその基礎を築いたのです。

その後、訪れた前田家最大のピンチ・・・

そう、あの関ヶ原直前の、徳川家康からの『謀反の疑い』です。

利家の奧さんである芳春院(ほうしゅんいん=まつ)の甥っ子の土方雄久(ひじかたかつひさ)らが、
「大坂城にて家康を襲撃する計画を立てている 」
しかも、それが前田利長の企てである…と疑われ、

慌てて弁明に走る利長でしたが、結局、母親の芳春院が、弁明?あるいは証人?あるいは人質?として江戸に向かう事で、家康からかけられた謀反の疑いを晴らす格好となった一件です(5月17日参照>>)

その後、10年に渡って江戸で暮らす事になる芳春院(7月16日参照>>)は、江戸幕府による藩主の妻子を江戸に置く=江戸居住制の第1号なんて事も言われてますが、

この時、江戸へと向かう芳春院に同行したのも村井長頼なのです。

それから5年・・・

生まれながらに、前田家とともに生きた村井長頼は、慶長十年(1605年)10月26日、その江戸にて亡くなります。

享年63、

長頼が、その礎となって力を注いだ前田家は、江戸時代を通じて加賀百万石の花を咲かせ、その子孫は、加賀藩の最上級の重臣「加賀八家」として存続する事になります。
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2022年10月19日 (水)

畠山内紛に翻弄される奈良の戦国2~十市VS越智の壺坂の戦い

 

明応六年(1497年)10月19日、大和の地にて畠山尚順を支持する十市遠治が、壷阪寺に籠る畠山義豊派の越智家栄を攻撃しました。

・・・・・・・・

奈良時代から、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)、そして春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの教勢力が強い場所だった大和(やまと=奈良県)地方では、鎌倉や室町の武士政権でも、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができず

やがて戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが、(こくじん=地侍)土豪(どごう=半士半農の地侍)として群雄割拠する事になるのですが、

あの応仁の乱で、東西に分かれて家督争いをした管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を輩出する家柄)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と従兄弟の畠山義就(よしなり=西軍)(1月17日参照>>)応仁の乱が終結しても戦いを止める事無く(7月12日参照>>)、彼らの領地である河内(かわち=大阪府南部)紀伊(きい=和歌山県)山城(やましろ=京都府南部)などで争い続けたため、その影響を受ける大和の土豪たちは、それぞれに味方して火花を散らしていました。

先日の大和郡山中城(こおりやまなかじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(10月12日参照>>)から約20年・・・

時代は、それぞれの息子=畠山尚順(ひさのぶ・ ひさより=政長の息子)畠山義豊(よしとよ=義就の息子)明応六年(1497年)頃になっても、未だ戦乱に明け暮れていて、それが、ここに来ても大和の諸将へ、深刻な影響を与えていたわけです。

この明応六年(1497年)の10月に、畠山義豊の拠る河内高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を落として士気あがる畠山尚順に同調する尚順派の十市遠治(とおちとおはる)は、

Dscn1581at600 10月7日、義豊派の越智家栄(おちいえひで)のお膝元である越智郷(おちごう=奈良県高市郡高取町周辺)に攻め込み、周辺をことごとく焼き払いました。

翌8日にも再び越智郷に侵入し、周辺の寺社を焼いた後、少し離れた岡寺(おかでら=奈良県高市郡明日香村)に本陣を置き、長期戦の構えです。

Yamatotubosaka  大和の戦国位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

これに対抗する越智家栄は、自身が関所を設けている壺坂峠(つぼさかとうげ=竜門山地を越える峠の一つ)の近くの壷阪寺(つぼさかでら=奈良県高市郡高取町壺阪:南法華寺)の敷地内にあった館に、約700名が立て籠もって十市方に抵抗します。

この戦いで越智家の勇士=鳥屋吉宗(とりや・とやよしむね)父子が討死してしまいました。

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♪子ヲ思フ 焼野ノ雉子(きぎし) ホロホロト
 涙モ越智ノ 鳥屋啼(なく)ラン ♪(『畠山記』より)

それでも踏ん張る越智衆でしたが、やがて「形勢不利」と見た者が、一人また一人と脱出を試みるようになり、

いつしか、籠城組は越智一族を含む約300名ほどに・・・しかも、そのうちの約200名が女子供でした。

そんな中、徐々に枯渇していく兵糧・・・やがて16日には、食物類が尽きてしまいます。

それでも越智衆は諦める事無く、十市衆が総攻めを仕掛けて来ても、雄叫びを挙げて応戦し、勇敢に戦い続けるのですが、

明応六年(1497年)10月19日、今回の壺坂の戦いにおける最大の激戦が展開され、双方に多くの死傷者が出るとともに、壷阪寺の堂塔のほとんどが焼失・・・

この時、三重塔は奇跡的に類焼を免れたと言います。

やがて、最大合戦から4日過ぎた10月23日、畠山尚順が大軍を率いて十市衆の援軍としてやって来ます。

…と言っても、本陣を置いたのは壷坂から離れた万歳(ばんざい=奈良県大和高田市市場)という場所・・・しかし、ここは越智衆の本拠である越智城(おちじょう=奈良県高市郡高取町越智)とは約7kmほどしか離れておらず、今回の壷坂へも、行こうと思えば半日ほどで駆けつけられます。

なんせ、畠山尚順にとっては敵は越智だけではありませんから、なるべく、全域を見据える場所に陣を置きたかったのでしょう。

とは言え、いつでも来られるような場所に大軍を置かれてしまった越智家栄・・・

しかも、籠城組はもはや疲れがピーク・・・いや、ピークなんかとっくに越えちゃってる疲弊ぶり。

「もはや!これまで…」
を悟った越智家栄は、やむなく門を開き、館の衆とともに吉野山(よしのやま)方面へと逃げていったのでした。

その後、寄せ手の十市衆は、周辺の清水谷(しみずたに)に火を放って(とき)の声を挙げ、集落から立ち上る煙に勝利を味わったと言います。

両畠山家のイザコザに巻き込まれて戦闘ばかり繰り返す事になる大和の土豪たちが願った平和は、まだまだ遠く・・・

疲弊した大和衆が和睦を話し合うも、それに反対する中央政府が、大和に侵攻するのは、この戦いから2年後の明応八年(1499年)の事でした(12月18日参照>>)
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2022年10月12日 (水)

畠山内紛に翻弄される奈良の戦国~筒井順尊の郡山中城の戦い

 

文明十一年(1479年)10月12日、筒井順尊郡山衆を攻めた郡山中城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

今では、大和郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)を中心に、お趣のある城下町として知られる大和郡山は、

戦国時代後半に、あの松永久秀(まつながひさひで)(11月24日参照>>)がやって来て後、
織田信長(おだのぶなが)の支援を受けた筒井順慶(つついじゅんけい)(4月22日参照>>)が拠点にし、
さらに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟である羽柴秀長(はしばひでなが)(1月22日参照>>)が現在につながる城下町を整備するわけですが、

Dscn3753at2
箱本館紺屋↑…大和郡山の城下町巡りは姉妹サイト「京阪奈ぶらり歴史散歩」でどうぞ>>

それ以前、度々大きな歴史的事件の舞台となりつつ奈良時代から平安時代を経ても、かつて建立された東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)、そして春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強い場所で、鎌倉時代から室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができずにいました。

また、そんな大和の南に広がる山岳地帯も、あの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が室町幕府の北朝に対抗する南朝吉野山で開いた(12月21日参照>>)事でもわかるように、そこは中央政府から干渉されない者たちが居を構える場所となっていたのです。

やがて戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始めます。

Yamatokooriyamanakazyoukankeizu 郡山城と周辺の位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その代表格が、興福寺に属する『衆徒』と呼ばれる筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』と呼ばれる越智(おち)十市(とおち)

そこに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称され、彼ら国人(こくじん=地侍)土豪(どごう=半士半農の地侍)などが群雄割拠する事になるのですが、

そこにからんで来るのが、室町幕府政権下で一応の大和の守護(上記の通り一応ですけどね)だった畠山(はたけやま)・・・

あの応仁の乱で、その大乱の口火を切る家督争いから発展した御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と従兄弟の畠山義就(よしなり=西軍)が、応仁の乱が終結しても戦いを止める事無く(7月12日参照>>)、彼らの領地である河内(かわち=大阪府南部)紀伊(きい=和歌山県)山城(やましろ=京都府南部)などでゴチャゴチャやるわけです。

なんだかんだ言っても彼らは幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を出す家柄)・・・いくら力をつけたとは言え、大和地域だけの国衆では太刀打ちできませんから、大和四家の彼らも少なからずの影響を受ける事になって来るのです。

文明九年(1477年)には、河内にて畠山義就が畠山政長に大勝した事を受けて、義就派の越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)大和で大暴れ・・・

政長派の筒井順尊(つついじゅんそん=順慶の曾祖父)箸尾為国(はしおためくに)は居所を追われて、各地を点々とする流浪の身となっていました。

・‥…━━━☆

ところで、今回の郡山城には、犬伏城(いぬぶせじょう)とか雁陣之城(がんじんのじょう)という別名がついているのですが、

前者の犬伏城というのは、お城のある場所が南北に犬が伏せたような形に小高くなっていた事で、その一帯を犬伏丘(いぬぶせのおか)と呼んでいた事に由来します。

一方、後者の雁陣之城とは・・・
実は冒頭に書いた戦国後半の武将たちが来る以前には、ここを郡山中(なか)郡山辰巳(たつみ)戌亥(いぬい)など→これらをまとめて郡山衆(こおりやましゅう)と呼ばれる土豪の衆がこの犬伏丘に居を構えており、彼らの複数の城が、それぞれ連携するように点在する様が雁陣=雁の群れの如く見えた事にあるようです。

もちろん城と言っても、後年の郡山城のような物ではなく、どちらかと言えば環濠集落に近い居館であったと思われますが、

そんなこんなの文明十一年(1479年)10月12日、ここのところは福住郷(ふくすみごう=天理市東部周辺)に身を潜めていた筒井順尊が、この頃、越智の傘下にあった郡山中氏の郡山中城を攻撃したのです。

Yamatokooriyamanakazyousyain 『日本城郭大系』によると、この郡山中城は「鰻堀池の西方高地」にあったとの事(右写真参照→)・・・

この鰻堀池(うなぎほりいけ)は現在も郡山城址の西南にありますから、さらに西の、周辺より標高が80mほど高くなっている場所にあったと思われます。

とにもかくにも、この犬伏丘周辺は大和における戦術的要衝で、あとの無い筒井にとっては、是非とも押さえておきたい場所なわけで・・・

かくして、この一戦に家運を賭ける筒井軍は、ほら貝を吹き、鬨(とき)の声を挙げながら周辺の家々を焼き払います。

「郡山中危うし」の一報を聞いた越智傘下の今市(いまいち)は、すぐさま後詰(ごづめ=後方支援)に出陣し、古市も主力を投じて駆けつけます。

素早い援軍の登場にジリジリと押されていく筒井勢・・・

しかし、ある程度は落ち延びて行くものの、なおも200余りが郡山中城の南の筒井郷(つついごう=大和郡山市筒井町)にとどまり、戦意も旺盛なまま、頑なに動こうとしませんでした。

その名を聞いてお察しの通り、そもそもはこの筒井郷が筒井氏の本拠地・・・これまで不本意ながら福住を拠点とし、様々なゲリラ戦を展開して来た筒井にとって、もはや譲れません。

ここに来て、あまりに強引な筒井軍を目の当たりにした今市と古市は、
「頑なな彼らと戦って損害を大きくするよりは…」
と、とりあえず、郡山中城を救った事をヨシとし、引き揚げていったのでした。

こうして、郡山衆が一応の勝利となり、郡山中城は守られましたが、一方で、筒井も、もともとの本拠に留まった・・・という事で、

なんとなく「ふりだしに戻る」のような結果となった、今回の郡山中城の戦い。。。

しかし、当然の事ながら奈良の戦国は、まだまだ続きます。
(松永久秀が大和平定を開始するのは約90年後の永禄二年(1559年)(11月24日参照>>)

それは畠山政長と畠山義就が亡くなり、その息子たちの時代になっても・・・

20年後、あの壷坂寺(つぼさかでら=奈良県高市郡高取町壺阪:南法華寺)を焼き尽くしてしまう明応六年(1497年)の戦いについては、【十市VS越智の壺坂の戦い】でどうぞ>>。。。
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2022年10月 4日 (火)

武田信虎が武田家統一~勝山城の戦い

 

永正五年(1508年)10月4日、武田信虎が叔父の武田信恵父子らを勝山城に攻め滅ぼし、武田宗家を統一しました。

・・・・・・・・

平安から鎌倉時代の甲斐源氏(かいげんじ)武田信義(たけだのぶよし)に始まる甲斐武田氏は、室町時代においても、第7代当主の武田信武(のぶたけ)鎌倉討幕に貢献した武功により、

甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)を任されていた名門でしたが、10代当主の武田信満(のぶみつ)が、応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん=上杉禅秀による鎌倉公方への反乱)に関わった事で失脚したため、国内が守護不在の無法状態となっていました。

そのため、事実上、国内を有力国衆(地元の武士)守護代(しゅごだい=副知事)跡部(あとべ)に牛耳られる形となっていたのを、

信満の息子で第11代当主の武田信重(のぶしげ)結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)功績を挙げた事で何とか再興の糸口をつかみ、孫の第13代当主=武田信昌(のぶまさ)跡部を排除したものの、

まだまだ甲斐国内には穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国衆が勢力を誇っていたのです。

しかも、そんな中で武田が内部分裂・・・

第14代当主の武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)が、主導権を巡って争う、世に言う武田内訌(ないこう=内部の戦い)が勃発するのです。 

身内同士で争ってる場合やないやろ!と思う中、

最初の頃の明応元年(1492年)こそ、市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いの勝利で油川信恵が優勢に立つ(7月22日参照>>)ものの、明応三年(1494年)3月の合戦にて信縄が勝利した後は、おおむね信縄方が優勢となっていましたが、

この間にも、この混乱を好機とみた駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)伊豆(いず)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢宗瑞)などに、度々、甲斐への侵攻を許してしまっていました。

しかも、ご存知のように、明応七年(1498年)には明応の大地震(8月25日の前半部分参照>>)があり、これには甲斐も大きな被害を受けたのです。

これを機に、信恵側についていた父=信昌は、信縄と和睦して、何とか状況を好転させようとしますが、兄弟の対立が止む事はなく・・・

やがて永正二年(1505年)に、その信昌が病気で亡くなって、兄弟の争いは、ますます過激に・・・

Takedanobutora500aそんな中、その父の後を追うかように、1年5ヶ月後の永正四年(1507年)2月に信縄が病死してしまい、

両者の戦いはそのまま、わずか14歳で家督を継ぐ事になった信縄の息子=武田信虎(のぶとら=この頃に信直から改名?)に受け継がれる事になったわけです。

当然、この信縄の死は、ここのところ負け気味で、やや低迷していた信恵派を勇気づける事となります。

かくして永正五年(1508年)10月4日、居城の勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市上曾根)において武田信恵は、甥の武田信虎にと戦うのです。

信恵派に同調するのは、
信恵の同母弟とされる岩手縄美(いわてつなみつ・つなよし)
母方の叔父である小山田弥太郎(おやまだやたろう=小山田信隆?)
家臣の栗原昌種(くりはらまさたね)
さらに上条(かみじょう)工藤(くどう)河村(かわむら)といった有力国衆をも味方についていました。

ところが・・・です。

この10月4日の戦いに、信虎は見事!勝利します。

史料が少なく、戦いの詳細については、くわしくご紹介できないのですが、

「此年十月四日武田八郎殿同子息武田弥九郎殿珍宝丸打レサセ玉フ」『勝山記』
「十月四日油川彦八郎ト四郎生害」『高白斎記』
とあり、
一蓮寺(いちれんじ=甲府市太田町)の過去帳にも
「永正五年十月四日合戦…武田彦八郎殿 栗原惣二郎 武田四郎殿 河村左衛門尉 武田弥九郎殿 同清九郎 ヲチンホ(孫の珍宝丸の事)
とある事から、

この日に、信恵だけでなく、その息子や孫までが、ことごとく戦死した事は確かなようです。(勝山合戦)

これにて、約20年間に渡って繰り広げられた武田のテッペンを争う戦いに終止符が打たれ、信虎は武田家宗家としての地位を確立する事になりました。

こうして、肝心の信恵と、その血筋が亡くなってしまった事は、信恵派にとっては大きなダメージです。

それでも、生き残った信恵派の小山田弥太郎は、2か月後の12月5日に信虎を攻めますが、その日の深夜に奇襲攻撃を受けて敗れ、小山田弥太郎は戦死・・・(坊ヶ峰の戦い)

弥太郎とともに信虎と戦った小山田弾正(だんじょう=平三)と工藤らは、北条早雲を頼って韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市韮山)に逃げ込みますが、

同月24日の戦いで、その小山田弾正ら逃走メンバーも討ち取られたとか・・・
(ただし小山田弾正に関しては天文四年8月22日山中の戦い>>での死亡の説が有力)

とは言え、小山田弥太郎が戦死したとて、家督は息子の小山田信有(のぶあり=涼苑)が継ぎ、小山田氏自身は甲斐国東部の郡内地方(山梨県都留郡一帯)未だ健在の状況でした。

そこで、勢いに乗った信虎は、翌永正六年(1509年)秋に、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)進軍し、周辺を火の海にした後、12月にも侵攻し、この時は、(詳細は不明なれど)小山田配下の有力家臣が多く戦死しているのが残る史料で見てとれます。

さらに信虎の郡内乱入は、翌永正七年(1510年)の春まで続きますが、どうやら、このあたりで小山田の力は尽きたか?・・・

小山田信有が武田信虎の妹を娶る=婚姻関係を結ぶ事で、両者の間に和睦が成立します。

…と言っても、これまでのような、
信虎の国中地方(甲府盆地が中心の山梨県中西部)に対する小山田の郡内地方という地域独立型の支配な感じは影をひそめ、完全なる従属=武田氏の有力家臣という形で小山田氏は生き残っていく事になります。

本日、一連の流れとして書かせていただいたように、この小山田氏の一件は、信虎と信恵の武田家内のトップ争いの延長上にある出来事でありますが、

一方で、この先続く、武田信虎による甲斐統一の始めの1ページでもあります。

そうです。
日付の関係上、お話が前後してしまいましたが、今回の出来事は、先週=9月28日万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)へと続いていく事になるわけです。

今川氏親を相手に、小山田さん、武田の家臣として大活躍です(^o^)
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