加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼
慶長十年(1605年)10月26日、加賀前田家の家老であった村井長頼が死去しました。
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村井長頼(むらいながより)は、尾張国愛知郡(あいちぐん=名古屋市中川区付近)の土豪(どごう=半士半農の地侍)だった前田利春(まえだとしはる)が、織田(おだ)家の与力になって、荒子城(あらこじょう=愛知県名古屋市中川区荒子)主となったであろう頃からの譜代の家臣で、
はじめは、永禄三年(1560年)に前田の家督を継いだ前田利久(としひさ=利家の長兄)に仕え、その後、その後を継いだ弟の前田利家(としいえ)、その息子の前田利長(としなが=利家の嫡男)と、前田の当主3代に渡って仕えた家臣の中の家臣です。
特に前田利家とは、利家が織田信長(おだのぶなが)の小姓をやっていた時代から、例のあの事件で織田家を追放されていた時代(12月25日参照>>)にもつき従い、
もちろん、許されて織田家に戻った時(5月14日参照>>)も、ともにいて・・・
そんな利家が信長の命により、兄の利久に代わって前田家の当主となった永禄十二年(1569年)からは尚一層、主君を支える忠臣となっていくのでした。
そんな長頼は、ひとたび合戦となれば、最前線で活躍する武勇の人で、その腕で勝ちとった首は数知れず・・・その通称は又兵衛(またべえ)と言いますが、これは、主君である前田利家の通称=又左衞門(またざえもん)から・・・
そう、若き日の利家が、
「お前…また、槍で武功挙げたんか!」
て事から『槍の又左』と称されていたのと同じく、
彼も、
「またお前が…」
てな事で、その労をねぎらって、利家が自分の『又』の一字を与えたのだとか・・・
そんな中でも、元亀元年(1570年)の天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)の攻防戦(4月26日参照>>)。
ご存知のように、この時、朝倉義景(あさくらよしかげ)の金ヶ崎城を攻めていた信長の背後から浅井長政(あざいながまさ)の軍が迫って来た事を受けて、挟み撃ちを恐れた信長が撤退を開始する=世に言う『金ヶ崎の退き口』(4月27日参照>>)となるわけですが、
…で、この撤退戦で殿軍(しんがり=最後尾の軍)を務めたのが木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=豊臣秀吉)だったかも(異説あり)のお話(4月28日参照>>)は、以前にさせておただきましたが、
実は、この時、信長を護って、ともに戻ったのが前田利家で、当然、その横には村井長頼・・・
この時の彼の猛将ぶりを気に入った信長から、後日、長頼に南蛮笠(なんばんがさ=洋風のつば広帽子→)が贈られたらしいので、それだけ目を見張るようなカッコ良さだったという事でしょう。
さらに元亀元年(1570年)から勃発した信長と石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(9月14日参照>>)でも前田利家に付き従い、
あの本能寺(6月2日参照>>)のゴタゴタで起こった天正十年(1582年)の石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町付近)の戦い(6月26日参照>>)では前田軍の先鋒を務め、
翌年の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月23日参照>>)では、前田利家の与力となった長連龍(ちょうつらたつ)とともに離脱の殿軍を務めています。
利家の在る所、長頼あり・・・そんな奮戦ぶりの中でも、最大の名場面となるのが、天正十二年(1584年)に、秀吉が織田信雄(おだのぶかつ・のぶお=信長の次男)&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍と戦った小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)が飛び火して起こった北陸の小牧長久手と言える佐々成政(さっさなりまさ)との一連の戦い。。。
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●6月24日:阿尾城の戦い>>
すでに金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)城主となっていた前田利家の命を受け、村井長頼は、末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)では、城主の奥村永福(おくむらながとみ)とともに城を守り、その翌年には佐々成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲したり、縦横無尽の活躍をしました。
そして、利家亡き(3月3日参照>>)後も、前田家の家老としてその基礎を築いたのです。
その後、訪れた前田家最大のピンチ・・・
そう、あの関ヶ原直前の、徳川家康からの『謀反の疑い』です。
利家の奧さんである芳春院(ほうしゅんいん=まつ)の甥っ子の土方雄久(ひじかたかつひさ)らが、
「大坂城にて家康を襲撃する計画を立てている 」
しかも、それが前田利長の企てである…と疑われ、
慌てて弁明に走る利長でしたが、結局、母親の芳春院が、弁明?あるいは証人?あるいは人質?として江戸に向かう事で、家康からかけられた謀反の疑いを晴らす格好となった一件です(5月17日参照>>)。
その後、10年に渡って江戸で暮らす事になる芳春院(7月16日参照>>)は、江戸幕府による藩主の妻子を江戸に置く=江戸居住制の第1号なんて事も言われてますが、
この時、江戸へと向かう芳春院に同行したのも村井長頼なのです。
それから5年・・・
生まれながらに、前田家とともに生きた村井長頼は、慶長十年(1605年)10月26日、その江戸にて亡くなります。
享年63、
長頼が、その礎となって力を注いだ前田家は、江戸時代を通じて加賀百万石の花を咲かせ、その子孫は、加賀藩の最上級の重臣「加賀八家」として存続する事になります。
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