畠山内紛に翻弄される奈良の戦国2~十市VS越智の壺坂の戦い
明応六年(1497年)10月19日、大和の地にて畠山尚順を支持する十市遠治が、壷阪寺に籠る畠山義豊派の越智家栄を攻撃しました。
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奈良時代から、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)や興福寺(こうふくじ=同奈良市)、そして春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強い場所だった大和(やまと=奈良県)地方では、鎌倉や室町の武士政権でも、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができず、
やがて戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが、国人(こくじん=地侍)や土豪(どごう=半士半農の地侍)として群雄割拠する事になるのですが、
あの応仁の乱で、東西に分かれて家督争いをした管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を輩出する家柄)の畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と従兄弟の畠山義就(よしなり=西軍)が(1月17日参照>>)、応仁の乱が終結しても戦いを止める事無く(7月12日参照>>)、彼らの領地である河内(かわち=大阪府南部)・紀伊(きい=和歌山県)・山城(やましろ=京都府南部)などで争い続けたため、その影響を受ける大和の土豪たちは、それぞれに味方して火花を散らしていました。
先日の大和郡山中城(こおりやまなかじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(10月12日参照>>)から約20年・・・
時代は、それぞれの息子=畠山尚順(ひさのぶ・ ひさより=政長の息子)と畠山義豊(よしとよ=義就の息子)の明応六年(1497年)頃になっても、未だ戦乱に明け暮れていて、それが、ここに来ても大和の諸将へ、深刻な影響を与えていたわけです。
この明応六年(1497年)の10月に、畠山義豊の拠る河内高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を落として士気あがる畠山尚順に同調する尚順派の十市遠治(とおちとおはる)は、
10月7日、義豊派の越智家栄(おちいえひで)のお膝元である越智郷(おちごう=奈良県高市郡高取町周辺)に攻め込み、周辺をことごとく焼き払いました。
翌8日にも再び越智郷に侵入し、周辺の寺社を焼いた後、少し離れた岡寺(おかでら=奈良県高市郡明日香村)に本陣を置き、長期戦の構えです。
大和の戦国位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
これに対抗する越智家栄は、自身が関所を設けている壺坂峠(つぼさかとうげ=竜門山地を越える峠の一つ)の近くの壷阪寺(つぼさかでら=奈良県高市郡高取町壺阪:南法華寺)の敷地内にあった館に、約700名が立て籠もって十市方に抵抗します。
この戦いで越智家の勇士=鳥屋吉宗(とりや・とやよしむね)父子が討死してしまいました。
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♪子ヲ思フ 焼野ノ雉子(きぎし) ホロホロト
涙モ越智ノ 鳥屋啼(なく)ラン ♪(『畠山記』より)
それでも踏ん張る越智衆でしたが、やがて「形勢不利」と見た者が、一人また一人と脱出を試みるようになり、
いつしか、籠城組は越智一族を含む約300名ほどに・・・しかも、そのうちの約200名が女子供でした。
そんな中、徐々に枯渇していく兵糧・・・やがて16日には、食物類が尽きてしまいます。
それでも越智衆は諦める事無く、十市衆が総攻めを仕掛けて来ても、雄叫びを挙げて応戦し、勇敢に戦い続けるのですが、
明応六年(1497年)10月19日、今回の壺坂の戦いにおける最大の激戦が展開され、双方に多くの死傷者が出るとともに、壷阪寺の堂塔のほとんどが焼失・・・
この時、三重塔は奇跡的に類焼を免れたと言います。
やがて、最大合戦から4日過ぎた10月23日、畠山尚順が大軍を率いて十市衆の援軍としてやって来ます。
…と言っても、本陣を置いたのは壷坂から離れた万歳(ばんざい=奈良県大和高田市市場)という場所・・・しかし、ここは越智衆の本拠である越智城(おちじょう=奈良県高市郡高取町越智)とは約7kmほどしか離れておらず、今回の壷坂へも、行こうと思えば半日ほどで駆けつけられます。
なんせ、畠山尚順にとっては敵は越智だけではありませんから、なるべく、全域を見据える場所に陣を置きたかったのでしょう。
とは言え、いつでも来られるような場所に大軍を置かれてしまった越智家栄・・・
しかも、籠城組はもはや疲れがピーク・・・いや、ピークなんかとっくに越えちゃってる疲弊ぶり。
「もはや!これまで…」
を悟った越智家栄は、やむなく門を開き、館の衆とともに吉野山(よしのやま)方面へと逃げていったのでした。
その後、寄せ手の十市衆は、周辺の清水谷(しみずたに)村に火を放って鬨(とき)の声を挙げ、集落から立ち上る煙に勝利を味わったと言います。
両畠山家のイザコザに巻き込まれて戦闘ばかり繰り返す事になる大和の土豪たちが願った平和は、まだまだ遠く・・・
疲弊した大和衆が和睦を話し合うも、それに反対する中央政府が、大和に侵攻するのは、この戦いから2年後の明応八年(1499年)の事でした(12月18日参照>>)。
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