武田信虎が武田家統一~勝山城の戦い
永正五年(1508年)10月4日、武田信虎が叔父の武田信恵父子らを勝山城に攻め滅ぼし、武田宗家を統一しました。
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平安から鎌倉時代の甲斐源氏(かいげんじ)武田信義(たけだのぶよし)に始まる甲斐武田氏は、室町時代においても、第7代当主の武田信武(のぶたけ)が鎌倉討幕に貢献した武功により、
甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご=県知事)を任されていた名門でしたが、10代当主の武田信満(のぶみつ)が、応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)に関わった事で失脚したため、国内が守護不在の無法状態となっていました。
そのため、事実上、国内を有力国衆(地元の武士)や守護代(しゅごだい=副知事)の跡部(あとべ)氏に牛耳られる形となっていたのを、
信満の息子で第11代当主の武田信重(のぶしげ)が結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)で功績を挙げた事で何とか再興の糸口をつかみ、孫の第13代当主=武田信昌(のぶまさ)が跡部を排除したものの、
まだまだ甲斐国内には穴山(あなやま)氏や栗原(くりはら)氏、大井(おおい)氏など有力国衆が勢力を誇っていたのです。
しかも、そんな中で武田が内部分裂・・・
第14代当主の武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)が、主導権を巡って争う、世に言う武田内訌(ないこう=内部の戦い)が勃発するのです。
身内同士で争ってる場合やないやろ!と思う中、
最初の頃の明応元年(1492年)こそ、市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いの勝利で油川信恵が優勢に立つ(7月22日参照>>)ものの、明応三年(1494年)3月の合戦にて信縄が勝利した後は、おおむね信縄方が優勢となっていましたが、
この間にも、この混乱を好機とみた駿河(するが=静岡県東部)の今川氏親(いまがわうじちか)や伊豆(いず)の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢宗瑞)などに、度々、甲斐への侵攻を許してしまっていました。
しかも、ご存知のように、明応七年(1498年)には明応の大地震(8月25日の前半部分参照>>)があり、これには甲斐も大きな被害を受けたのです。
これを機に、信恵側についていた父=信昌は、信縄と和睦して、何とか状況を好転させようとしますが、兄弟の対立が止む事はなく・・・
やがて永正二年(1505年)に、その信昌が病気で亡くなって、兄弟の争いは、ますます過激に・・・
そんな中、その父の後を追うかように、1年5ヶ月後の永正四年(1507年)2月に信縄が病死してしまい、
両者の戦いはそのまま、わずか14歳で家督を継ぐ事になった信縄の息子=武田信虎(のぶとら=この頃に信直から改名?)に受け継がれる事になったわけです。
当然、この信縄の死は、ここのところ負け気味で、やや低迷していた信恵派を勇気づける事となります。
かくして永正五年(1508年)10月4日、居城の勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市上曾根)において武田信恵は、甥の武田信虎にと戦うのです。
信恵派に同調するのは、
信恵の同母弟とされる岩手縄美(いわてつなみつ・つなよし)、
母方の叔父である小山田弥太郎(おやまだやたろう=小山田信隆?)、
家臣の栗原昌種(くりはらまさたね)
さらに上条(かみじょう)・工藤(くどう)・河村(かわむら)といった有力国衆をも味方についていました。
ところが・・・です。
この10月4日の戦いに、信虎は見事!勝利します。
史料が少なく、戦いの詳細については、くわしくご紹介できないのですが、
「此年十月四日武田八郎殿同子息武田弥九郎殿珍宝丸打レサセ玉フ」『勝山記』
「十月四日油川彦八郎ト四郎生害」『高白斎記』
とあり、
一蓮寺(いちれんじ=甲府市太田町)の過去帳にも
「永正五年十月四日合戦…武田彦八郎殿 栗原惣二郎 武田四郎殿 河村左衛門尉 武田弥九郎殿 同清九郎 ヲチンホ(孫の珍宝丸の事)」
とある事から、
この日に、信恵だけでなく、その息子や孫までが、ことごとく戦死した事は確かなようです。(勝山合戦)
これにて、約20年間に渡って繰り広げられた武田のテッペンを争う戦いに終止符が打たれ、信虎は武田家宗家としての地位を確立する事になりました。
こうして、肝心の信恵と、その血筋が亡くなってしまった事は、信恵派にとっては大きなダメージです。
それでも、生き残った信恵派の小山田弥太郎は、2か月後の12月5日に信虎を攻めますが、その日の深夜に奇襲攻撃を受けて敗れ、小山田弥太郎は戦死・・・(坊ヶ峰の戦い)
弥太郎とともに信虎と戦った小山田弾正(だんじょう=平三)と工藤らは、北条早雲を頼って韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市韮山)に逃げ込みますが、
同月24日の戦いで、その小山田弾正ら逃走メンバーも討ち取られたとか・・・
(ただし小山田弾正に関しては天文四年8月22日山中の戦い>>での死亡の説が有力)
とは言え、小山田弥太郎が戦死したとて、家督は息子の小山田信有(のぶあり=涼苑)が継ぎ、小山田氏自身は甲斐国東部の郡内地方(山梨県都留郡一帯)に未だ健在の状況でした。
そこで、勢いに乗った信虎は、翌永正六年(1509年)秋に、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に進軍し、周辺を火の海にした後、12月にも侵攻し、この時は、(詳細は不明なれど)小山田配下の有力家臣が多く戦死しているのが残る史料で見てとれます。
さらに信虎の郡内乱入は、翌永正七年(1510年)の春まで続きますが、どうやら、このあたりで小山田の力は尽きたか?・・・
小山田信有が武田信虎の妹を娶る=婚姻関係を結ぶ事で、両者の間に和睦が成立します。
…と言っても、これまでのような、
信虎の国中地方(甲府盆地が中心の山梨県中西部)に対する小山田の郡内地方という地域独立型の支配な感じは影をひそめ、完全なる従属=武田氏の有力家臣という形で小山田氏は生き残っていく事になります。
本日、一連の流れとして書かせていただいたように、この小山田氏の一件は、信虎と信恵の武田家内のトップ争いの延長上にある出来事でありますが、
一方で、この先続く、武田信虎による甲斐統一の始めの1ページでもあります。
そうです。
日付の関係上、お話が前後してしまいましたが、今回の出来事は、先週=9月28日の万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)へと続いていく事になるわけです。
今川氏親を相手に、小山田さん、武田の家臣として大活躍です(^o^)
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