畠山内紛に翻弄される奈良の戦国~筒井順尊の郡山中城の戦い
文明十一年(1479年)10月12日、筒井順尊が郡山衆を攻めた郡山中城の戦いがありました。
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今では、大和郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)を中心に、お趣のある城下町として知られる大和郡山は、
戦国時代後半に、あの松永久秀(まつながひさひで)(11月24日参照>>)がやって来て後、
織田信長(おだのぶなが)の支援を受けた筒井順慶(つついじゅんけい)(4月22日参照>>)が拠点にし、
さらに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟である羽柴秀長(はしばひでなが)(1月22日参照>>)が現在につながる城下町を整備するわけですが、
箱本館紺屋↑…大和郡山の城下町巡りは姉妹サイト「京阪奈ぶらり歴史散歩」でどうぞ>>
それ以前、度々大きな歴史的事件の舞台となりつつ奈良時代から平安時代を経ても、かつて建立された東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)や興福寺(こうふくじ=同奈良市)、そして春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強い場所で、鎌倉時代から室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができずにいました。
また、そんな大和の南に広がる山岳地帯も、あの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が室町幕府の北朝に対抗する南朝を吉野山で開いた(12月21日参照>>)事でもわかるように、そこは中央政府から干渉されない者たちが居を構える場所となっていたのです。
やがて戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始めます。
郡山城と周辺の位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
その代表格が、興福寺に属する『衆徒』と呼ばれる筒井(つつい)氏や、春日大社に属する『国民』と呼ばれる越智(おち)氏に十市(とおち)氏、
そこに箸尾(はしお)氏を加えて『大和四家』と称され、彼ら国人(こくじん=地侍)や土豪(どごう=半士半農の地侍)などが群雄割拠する事になるのですが、
そこにからんで来るのが、室町幕府政権下で一応の大和の守護(上記の通り一応ですけどね)だった畠山(はたけやま)氏・・・
あの応仁の乱で、その大乱の口火を切る家督争いから発展した御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と従兄弟の畠山義就(よしなり=西軍)が、応仁の乱が終結しても戦いを止める事無く(7月12日参照>>)、彼らの領地である河内(かわち=大阪府南部)・紀伊(きい=和歌山県)・山城(やましろ=京都府南部)などでゴチャゴチャやるわけです。
なんだかんだ言っても彼らは幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を出す家柄)・・・いくら力をつけたとは言え、大和地域だけの国衆では太刀打ちできませんから、大和四家の彼らも少なからずの影響を受ける事になって来るのです。
文明九年(1477年)には、河内にて畠山義就が畠山政長に大勝した事を受けて、義就派の越智家栄(おちいえひで)や古市澄胤(ふるいちちょういん)が大和で大暴れ・・・
政長派の筒井順尊(つついじゅんそん=順慶の曾祖父)と箸尾為国(はしおためくに)は居所を追われて、各地を点々とする流浪の身となっていました。
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ところで、今回の郡山城には、犬伏城(いぬぶせじょう)とか雁陣之城(がんじんのじょう)という別名がついているのですが、
前者の犬伏城というのは、お城のある場所が南北に犬が伏せたような形に小高くなっていた事で、その一帯を犬伏丘(いぬぶせのおか)と呼んでいた事に由来します。
一方、後者の雁陣之城とは・・・
実は冒頭に書いた戦国後半の武将たちが来る以前には、ここを郡山中(なか)・郡山辰巳(たつみ)・戌亥(いぬい)氏など→これらをまとめて郡山衆(こおりやましゅう)と呼ばれる土豪の衆がこの犬伏丘に居を構えており、彼らの複数の城が、それぞれ連携するように点在する様が雁陣=雁の群れの如く見えた事にあるようです。
もちろん城と言っても、後年の郡山城のような物ではなく、どちらかと言えば環濠集落に近い居館であったと思われますが、
そんなこんなの文明十一年(1479年)10月12日、ここのところは福住郷(ふくすみごう=天理市東部周辺)に身を潜めていた筒井順尊が、この頃、越智の傘下にあった郡山中氏の郡山中城を攻撃したのです。
『日本城郭大系』によると、この郡山中城は「鰻堀池の西方高地」にあったとの事(右写真参照→)・・・
この鰻堀池(うなぎほりいけ)は現在も郡山城址の西南にありますから、さらに西の、周辺より標高が80mほど高くなっている場所にあったと思われます。
とにもかくにも、この犬伏丘周辺は大和における戦術的要衝で、あとの無い筒井にとっては、是非とも押さえておきたい場所なわけで・・・
かくして、この一戦に家運を賭ける筒井軍は、ほら貝を吹き、鬨(とき)の声を挙げながら周辺の家々を焼き払います。
「郡山中危うし」の一報を聞いた越智傘下の今市(いまいち)は、すぐさま後詰(ごづめ=後方支援)に出陣し、古市も主力を投じて駆けつけます。
素早い援軍の登場にジリジリと押されていく筒井勢・・・
しかし、ある程度は落ち延びて行くものの、なおも200余りが郡山中城の南の筒井郷(つついごう=大和郡山市筒井町)にとどまり、戦意も旺盛なまま、頑なに動こうとしませんでした。
その名を聞いてお察しの通り、そもそもはこの筒井郷が筒井氏の本拠地・・・これまで不本意ながら福住を拠点とし、様々なゲリラ戦を展開して来た筒井にとって、もはや譲れません。
ここに来て、あまりに強引な筒井軍を目の当たりにした今市と古市は、
「頑なな彼らと戦って損害を大きくするよりは…」
と、とりあえず、郡山中城を救った事をヨシとし、引き揚げていったのでした。
こうして、郡山衆が一応の勝利となり、郡山中城は守られましたが、一方で、筒井も、もともとの本拠に留まった・・・という事で、
なんとなく「ふりだしに戻る」のような結果となった、今回の郡山中城の戦い。。。
しかし、当然の事ながら奈良の戦国は、まだまだ続きます。
(松永久秀が大和平定を開始するのは約90年後の永禄二年(1559年)(11月24日参照>>))
それは畠山政長と畠山義就が亡くなり、その息子たちの時代になっても・・・
20年後、あの壷坂寺(つぼさかでら=奈良県高市郡高取町壺阪:南法華寺)を焼き尽くしてしまう明応六年(1497年)の戦いについては、【十市VS越智の壺坂の戦い】でどうぞ>>。。。
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