津守んちの桜が欲しいねん~藤原頼通の暴行事件
万寿二年(1025年)11月30日、時の権力者=藤原頼通が、津守致任の邸宅にあった桜の木を奪いに行きました。
・・・・・・・・・
ご存知、藤原氏の全盛を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)・・・
その正室とされる源倫子(みなもとのりんし)との間の長男として生まれた藤原頼通 (よりみち)は、その道長から最も優遇された息子です。
なので、早くから昇進に次ぐ昇進の七光り浴びまくり人生でした。
さらに、道長の圧力に負けた三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)が、寛仁二年(1018年)10月に、ようやく譲位を承諾して、道長の孫(母は道長長女の彰子)にあたる後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)が、わずか9歳で即位した事で、
道長が、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠む
という我が世の春を迎えた事で、その翌年には息子の頼通は、わずか26歳=歴代最年少の摂政(せっしょう=幼い天皇の補佐)となり、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原一族の長)も譲り受けたのです。
寛仁三年(1019年)には、体調を崩した道長が出家した事で、まさかまさかの27歳で関白(かんぱく=成人の天皇の補佐)に・・・と言っても、まだまだ一線を退く気が無い道長が前太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)として補佐する形ではありましたが・・・
とにもかくにも、父のサポートありながらも、事実上は、政権のトップとなった藤原頼通。。。
もはや、この国のすべてを手に入れた???
いやいや・・・ところがドッコイ
そんな頼通さん、いつも、そこを通るたびに目にしては
「欲しいな~」
と思いながらも、手に入らない物がありました。
それは、ある邸宅にあった桜の木・・・
毎年、春になると美しい花を咲かせ、その家の前を通るたびに、心なごみます。
「いいなぁ」
と思いながらも、よその家の木ですから・・・
とは言え、よくよく考えれば、
「この国を牛耳る俺様に、手に入らない物なんか、あってたまるか!」
しかも、その邸宅の主は、津守致任(つもりむねとう)という、貴族でも、かなりの下っ端。。。
兵部録(ひょうぶのさかん=兵の人事や武器の管理部署の下位役人)・右少史(うしょ=公文書の記録などする下位役人)などを何年も務め、すでに老人の域に達している年齢でありながら、官位は、ようやく外従五位下(げじゅごいげ)なった人。
この「外従五位下」の「外」というのは「外位(げい)」と呼ばれ、あまり良い家柄では無い出身の人に与えられる地位で、
いわゆる
「良いトコの出ではないけれど、地道に頑張って来て、何とかギリギリで中級貴族の部類に入る」
といった感じの立場だったわけです。
なので・・・
強い七光りでハチャメチャやりまくりな藤原道長の息子たちの中では、まだ良識のある人であったらしい藤原頼通さんであっても、
この時ばかりは、
「なんで?この俺が、そんなヤツに遠慮せなアカンねん!」
とでも思ったのでしょうか?
いきなり津守致任に
「桜の木を召し上げる」
の通達を出したのです。
さすがに天下一の実力者の命令・・・津守致任に断る術はありません。
かくして万寿二年(1025年)11月30日、藤原頼通から命を受けた従者たちが、いそいそと津守致任の邸宅に行ってみると・・・
なんと、かの桜の木、
見どころのある枝がすべて切り取られて、見るも無残な木になってしまっていたのです。
命令を断る事はできない…
けど、そのまま言いなりになるのはくやしい…
男致任、一世一代の決断!
せめてもの抵抗とばかりに、自ら、銘木の桜を、取る価値もない桜にしてやったのです。
これまで小さな事からコツコツと…の精神でやって来た叩き上げのオッチャンにしては、命懸けの暴れっぷり・・・よほどブチ切れたんでしょうね?
もちろん、これには藤原頼通のメンツ丸つぶれ・・・
怒り爆発の頼通は、すぐさま従者たちに致任を捕らえさせ、自宅の一室に監禁して、殴る蹴るの暴行を加えたのです。
この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)』では、
その暴力行為が
「殊(こと)に甚(はなは)だく…」
と、かなりの暴力行為だった事は書かれているのですが、その後日の記述がない。。。
この日記に書かれている他の事件の例を見てみると、万が一、誰かが亡くなった場合は、大抵、その事が書いてあるので「書いてない」という事は、おそらく津守致任は、暴力は受けたものの無事だったと思われますが、
一方で、いわゆる刑事事件として、頼通が逮捕される事も無かったと思われ、さすがに天下一の七光り。
とは言え、同じこの年に、頼通は、父の道長からの勘当を喰らっているので、ひょっとしてコレが原因なのかな?
ま、ここまでやったら、しばらく大人しくしてもらわない事には・・・ね。
とは言え、この事件の2年後に、君臨していた道長が亡くなった事で(12月4日参照>>)、結局、その後は頼通が名実ともに国のトップ&藤原一族のトップになっちゃうんですけどね。。。
ただし・・・やはり天は見ていたのか?
トップ就任の半年後の長元元年(1028年)6月には、東国で平忠常(たいらのただつね)の乱が勃発し(6月5日参照>>)、
朝廷が乱の鎮圧に手こずる中で、源頼信(よりのぶ)が活躍した事から(8月5日参照>>)、
この一件が、この先、関東一円にて清和源氏(せいわげんじ)が勢力を持つキッカケとなってしまうのです。
永承八年(天喜元年・1053年)3月には、あの有名な平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう=京都府宇治市)を完成させる(3月4日参照>>)藤原頼通さんですが、
残念ながら、もはやこのあたりから、後々やって来るであろう武士政権への種をまいてしまっていたわけですね~
★小右記に記されている事件の一例
●【藤原兼隆の藤原実資下女襲撃事件】>>
●【大江至孝による強姦未遂からの殺人】>>
●【酒乱の藤原兼房が宴会で大失敗】>>
●【藤原兼経 の立て籠り事件】>>
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