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2022年11月30日 (水)

津守んちの桜が欲しいねん~藤原頼通の暴行事件

 

万寿二年(1025年)11月30日、時の権力者=藤原頼通が、津守致任の邸宅にあった桜の木を奪いに行きました。

・・・・・・・・・

ご存知、藤原氏の全盛を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)・・・

その正室とされる源倫子(みなもとのりんし)との間の長男として生まれた藤原頼通 (よりみち)は、その道長から最も優遇された息子です。

なので、早くから昇進に次ぐ昇進の七光り浴びまくり人生でした。

さらに、道長の圧力に負けた三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)が、寛仁二年(1018年)10月に、ようやく譲位を承諾して、道長の孫(母は道長長女の彰子)にあたる後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)が、わずか9歳で即位した事で、

道長が、
 ♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠む

という我が世の春を迎えた事で、その翌年には息子の頼通は、わずか26歳=歴代最年少の摂政(せっしょう=幼い天皇の補佐)となり、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原一族の長)も譲り受けたのです。

寛仁三年(1019年)には、体調を崩した道長が出家した事で、まさかまさかの27歳で関白(かんぱく=成人の天皇の補佐)に・・・と言っても、まだまだ一線を退く気が無い道長が前太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)として補佐する形ではありましたが・・・ 

Fuziwaranoyorimiti600ga とにもかくにも、父のサポートありながらも、事実上は、政権のトップとなった藤原頼通。。

もはや、この国のすべてを手に入れた???

いやいや・・・ところがドッコイ

そんな頼通さん、いつも、そこを通るたびに目にしては
「欲しいな~」
と思いながらも、手に入らない物がありました。

それは、ある邸宅にあった桜の木・・・

Dscn12586b600※イメージです(写真は正法寺)

毎年、春になると美しい花を咲かせ、その家の前を通るたびに、心なごみます。

「いいなぁ」
と思いながらも、よその家の木ですから・・・

とは言え、よくよく考えれば、
「この国を牛耳る俺様に、手に入らない物なんか、あってたまるか!」

しかも、その邸宅の主は、津守致任(つもりむねとう)という、貴族でも、かなりの下っ端。。。

兵部録(ひょうぶのさかん=兵の人事や武器の管理部署の下位役人)右少史(うしょ=公文書の記録などする下位役人)などを何年も務め、すでに老人の域に達している年齢でありながら、官位は、ようやく外従五位下(げじゅごいげ)なった人。

この「外従五位下」「外」というのは「外位(げい)と呼ばれ、あまり良い家柄では無い出身の人に与えられる地位で、

いわゆる
「良いトコの出ではないけれど、地道に頑張って来て、何とかギリギリで中級貴族の部類に入る」
といった感じの立場だったわけです。

なので・・・
強い七光りでハチャメチャやりまくりな藤原道長の息子たちの中では、まだ良識のある人であったらしい藤原頼通さんであっても、

この時ばかりは、
「なんで?この俺が、そんなヤツに遠慮せなアカンねん!」
とでも思ったのでしょうか?

いきなり津守致任に
「桜の木を召し上げる」
の通達を出したのです。

さすがに天下一の実力者の命令・・・津守致任に断る術はありません。

かくして万寿二年(1025年)11月30日藤原頼通から命を受けた従者たちが、いそいそと津守致任の邸宅に行ってみると・・・

なんと、かの桜の木、
見どころのある枝がすべて切り取られて、見るも無残な木になってしまっていた
のです。

命令を断る事はできない…
けど、そのまま言いなりになるのはくやしい…

男致任、一世一代の決断!
せめてもの抵抗とばかりに、自ら、銘木の桜を、取る価値もない桜にしてやったのです。

これまで小さな事からコツコツと…の精神でやって来た叩き上げのオッチャンにしては、命懸けの暴れっぷり・・・よほどブチ切れたんでしょうね?

もちろん、これには藤原頼通のメンツ丸つぶれ・・・

怒り爆発の頼通は、すぐさま従者たちに致任を捕らえさせ、自宅の一室に監禁して、殴る蹴るの暴行を加えたのです。

この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)では、

その暴力行為が
「殊(こと)に甚(はなは)だく…」
と、かなりの暴力行為だった事は書かれているのですが、その後日の記述がない。。。

この日記に書かれている他の事件の例を見てみると、万が一、誰かが亡くなった場合は、大抵、その事が書いてあるので「書いてない」という事は、おそらく津守致任は、暴力は受けたものの無事だったと思われますが、

一方で、いわゆる刑事事件として、頼通が逮捕される事も無かったと思われ、さすがに天下一の七光り。

とは言え、同じこの年に、頼通は、父の道長からの勘当を喰らっているので、ひょっとしてコレが原因なのかな?

ま、ここまでやったら、しばらく大人しくしてもらわない事には・・・ね。

とは言え、この事件の2年後に、君臨していた道長が亡くなった事で(12月4日参照>>)、結局、その後は頼通が名実ともに国のトップ&藤原一族のトップになっちゃうんですけどね。。。

ただし・・・やはり天は見ていたのか?

トップ就任の半年後の長元元年(1028年)6月には、東国で平忠常(たいらのただつねの乱が勃発し(6月5日参照>>)

朝廷が乱の鎮圧に手こずる中で、源頼信(よりのぶ)が活躍した事から(8月5日参照>>)

この一件が、この先、関東一円にて清和源氏(せいわげんじ)が勢力を持つキッカケとなってしまうのです。

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平等院鳳凰堂

永承八年(天喜元年・1053年)3月には、あの有名な平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう=京都府宇治市)を完成させる(3月4日参照>>)藤原頼通さんですが、

残念ながら、もはやこのあたりから、後々やって来るであろう武士政権への種をまいてしまっていたわけですね~ 

★小右記に記されている事件の一例
 ●【藤原兼隆の藤原実資下女襲撃事件】>>
 ●【大江至孝による強姦未遂からの殺人】>>
 ●【酒乱の藤原兼房が宴会で大失敗】>>
 ●【藤原兼経 の立て籠り事件】>>
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2022年11月23日 (水)

大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり

 

明治四十二年(1909年)11月23日、大阪の長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われました。

・・・・・・・・・

心斎橋(しんさいばし)は、かつて大阪の中心部を東西に流れていた長堀川(ながほりがわ)を渡るべく、南北に架けられていた橋の一つです。

この長堀川は、あの大坂夏の陣(【大坂の陣の年表】参照>>)の7年後の元和八年(1622年)に、大坂の商人の岡田心斎(おかだしんさい)らによって開削されたと言われ、おそらくは、それと同時期に橋も架けられ、開削者の一人である心斎にちなんで、その名を心斎橋と命名されたと思われます。

当時は、心斎橋の一つ西に四ツ橋(よつばし)という橋が東西南北の4方向に架けられていて、そこが、江戸の吉原(よしわら)京都の島原(しまばら)と並ぶ、大坂の新町(しんまち)(1月7日参照>>)という一大遊郭街に通じる場所だった事から、この心斎橋も大いに賑わった事でしょう。

江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』には、心斎橋とともに賑わう『松屋』という店の様子が描かれています。

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摂津名所図会(国立国会図書館蔵)に描かれた松屋と心斎橋

この松屋は、京都の伏見にて『大文字屋』という古着屋を営んでいた下村三郎兵衛(しもむらさぶろべえ)の三男坊だった下村彦右衛門(ひこえもん)なる人物が、独立して開業した呉服卸問屋が大阪に進出した際、心斎橋の松屋清兵衛店から店舗を譲り受け、『大丸松屋店』と号して開業した呉服店です。

そう・・・今も残る『大丸百貨店』

この頃の心斎橋は、長さ18間(約35m)×幅2間半(約4m)木造の橋でした。

やがて維新が成った後の明治六年(1873年)、幕末に通訳として活躍した本木昌造(もときしょうぞう)の設計にて、心斎橋は鉄橋に生まれ変わります。

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鉄橋の心斎橋(手彩色絵はがき=個人蔵)

当時、鉄橋の橋は、かなり珍しく、錦絵や絵はがき(↑)の題材として、しばしば取り上げられたとか・・・ちなみに、この鉄橋は、明治四十一年(1908年)に撤去されますが、アーチ部分が鶴見緑地公園に移築され、現存する最古の鉄橋として、今も見る事ができます。

かくして、その翌年の明治四十二年(1909年)11月23日、3代目となる石造りの心斎橋が完成し、壮大な渡り初め式が行われたのです。

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石造りの心斎橋(手彩色絵はがき)

野口孫市(のぐちまごいち )という建築家の設計で、愛媛県産の花崗岩(かこうがん)で造られた石橋には彫刻がほどこされ、当時は珍しいガス灯が取り付けられた事で、これまた絵はがき(↑)等の格好の題材となりました。

Sinsaibasiisi2c600 二重の橋が水面に美しく映る事から「眼鏡橋」の愛称でも親しまれたとか・・・

しかし、時の流れは酷な物・・・

昭和三十七年(1962年)、長堀川が埋め立てられて、川の北側を走っていた末吉橋通(すえよしばしどおり)と重なって、新たな長堀通(ながほりどおり)となる事で、当然の事ながら心斎橋は撤去される事に・・・

とは言え、やはり大阪のシンボルの一つであった心斎橋が無くなる事を惜しむ声があったからなのでしょうか?(さすがに当時の事は覚えてません)

2年後の昭和三十九年(1964年)に、長堀通をを横断する歩道橋として移築されました。
(ちなみに茶々の子供の頃の記憶はコレ=歩道橋の姿です~歳バレる)

しかし、それも平成二年(1990年)に開催された国際花と緑の博覧会(通称:花博)のための地下鉄工事で撤去され、現在は、交差点の一部が石造橋とガス灯を復元したデザインの仕様となっているようです。
(実はコレになってから行った事が無い茶々であります(笑)

とにもかくにも、様々な変貌を遂げて来た心斎橋・・・

今では、心斎橋筋商店街を中心とした繁華街のイメージが強いですが、それこそ、あの四ツ橋とともに、
「昔、ここに橋があった」
という古き良き思い出だけは、心に留めておきたいですね。
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2022年11月15日 (火)

奈良の平和を願って…大和国衆と赤沢長経の戦い

 

永正四年(1507年)11月15日、室町幕府の実権を握った細川澄元によって、奈良に派遣された赤沢長経が大和の国衆と戦い、周辺を焼き討ちしました。

・・・・・・・

室町幕府の足利将軍家の後継者争いを頂点に、管領家の後継者争いが加わり、それぞれに味方する全国の諸将が東西に分かれて争った応仁の乱(5月20日参照>は、当然の事ながら、その派閥に属するそれぞれの地方の国衆や土豪ら(その土地の地侍)をも巻き込んだわけですが、

Ouninnoransoukanzu2 それこそ当然の事ながら、どこもかしこもに後継者争いが勃発してるわけではなく、応仁の乱という大乱が起こったせいで、その派閥の縦社会関係から東西に分かれてしまった人たちもいるわけで・・・

そんな彼らの中には、文明九年(1477年)に応仁の乱が終わっても、未だ後継者争いに決着がつかないおエラ方が、いつまでも争い続けてる(7月12日参照>>)事にウンザリする人も出て来るわけです。

しかも、その戦いで、自分たちの土地が戦場となって荒される事は、半士半農(はんしはんのう=平時は農業やってる)の小さな国衆にとっては、むしろ迷惑なわけで・・・

歴史教科書でご存知の文明十七年(1485年)の山城の国一揆などは、まさにソレです(12月11日参照>>)

応仁の乱が終わっても争いを止めようとしない畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍)(12月12日参照>>)、応仁の乱最中には東西に分かれていた山城(やましろ=京都府南部)地域の国衆や土豪に農民が加わって一致団結し、

「もう戦いはヨソでやってくれ!」
「両畠山家は山城に入ってくんな!」
蜂起した一揆なわけです。

しかし残念ながら、この山城の国一揆は、わずか8年の自治で終焉を迎えてしまいます。

それは、京都の中央政府(京方)室町幕府・・・武士政権である彼らにとって、この日本に自分たちが干渉できない自治の土地があってはならないわけで・・・

結局、国衆の中でも京方についていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して潰しにかかり、山城の国一揆は明応二年(1493年)に大国に呑み込まれる形となったのです(9月17日参照>>)

この山城の国衆と同じ憂き目に遭ったのが、今回の大和(やまと=奈良県)の国衆でした。

ここ大和は、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強く、鎌倉時代から室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができなかった中で、

戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始め、興福寺に属する『衆徒』筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』越智(おち)十市(とおち)・・・そこに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称される国衆たち以下、大小モロモロが群雄割拠する場所になっていたのです。

それこそ、応仁の乱以前から彼らは畠山同士の戦いの影響を受け、東西に分かれて、そこに動員されていたわけです(10月16日【大和高田の戦い】参照>>)が、

例の如く、乱が終わってもコチラは終らない畠山家の争いのおかげで、
文明十一年(1479年)の【郡山中城の戦い】>>
明応八年(1499年)の【壺坂の戦い】>>
などなど。。。

そんなこんなの明応八年(1499年)10月27日、他家の争いに巻き込まれて領地を荒される事にイヤ気がさした筒井と越智の間にて和議が結ばれた事をキッカケに、大和の国衆は一団となって
「河内(かわち=大阪府南部・守護が畠山)の合戦を大和に持ち込むな」
立ち上がったわけです。

しかし…そこに、明応二年(1493年)に明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)というクーデターを決行して将軍を足利義稙(あしかがよしたね=10代将軍)から、自身が推す足利義澄(よしずみ=11代将軍)に交代させ、

何なら将軍よりも幕府の実権った事実上のトップである管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の嫡男)「待った」をかけて来たのです。

まさに山城の国一揆を同様、守護のいない大和で、国衆に一致団結されちゃぁマズイ
「それに、まだまだ河内の争乱には彼らの力が必要やん」
(と言っても、政元は山城の時はちと協力的だったんですが…)

とばかりに、同じ年の12月、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)大和に派遣して秋篠城(あきしのじょう=奈良県奈良市秋篠町)を陥落させて法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)を焼き、秋篠氏に味方した筒井らもろともバラバラ状態に・・・(12月18日参照>>)

その後も、度々、京方のスキを狙ってゲリラ作戦を展開するも、またもや赤沢朝経らによって潰され(9月21日【井戸城・古市城の戦い】参照>>)・・・

と繰り返される中、永正四年(1507年)6月、実子がいなかった細川政元が、自身の後継者争いの関係で暗殺(9月21日参照>>)されたうえ、その急報を得て戦場から戻ろうとした赤沢朝経もが反対分子の一揆によって命を落とすという、大和国衆にとって逆転チャンスが訪れたのです。

しかし、さすがに手を緩めぬ京方・・・
細川政元の死から、わずか2ヶ月後の8月に、3人の養子による後継者争いの中で、ライバルの細川澄之(すみゆき)を倒して(8月1日【百々橋の戦い】参照>>)、幕府の実権を握った細川澄元(すみもと)が、赤沢朝経の養子=赤沢長経(ながつね=実父は不明)を大和に送り込んで来るのです。

もちろん、大和の国衆たちは、一致団結して、力の限りの防戦をするのですが、なんせ相手は幕府=中央政府ですから、そんな半士半農の小さな彼らの防衛能力にも限りがあるという物・・・

危険を感じた越智家教(おちいえのり=越智氏当主)は、自ら軍を率いて筒井(つつい=奈良県大和郡山市筒井町)まで進出し、協力要請を受けた河内の国衆も生駒(いこま=奈良県生駒市付近)まで出張って睨みを効かせました。

対する赤沢軍は、先を急がず祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町祝園)に布陣して様子うかがいます。

Hannyazi800そんな中、

静寂を破って合戦が始まったのは10月1日でした。

一進一退をくりかえす戦いは翌日も続き、

3日には木津川(きづがわ)を渡った赤沢軍が般若寺(はんにゃじ=奈良県奈良市般若寺町)に殺到しますが、迎え撃つ大和国衆が早鐘をうって急を知らせ、集まった者たちによって必死の抵抗を試み、最初のこの戦いでは決着がつきませんでした。

次に起こった10月6日の合戦では、結集した大和国衆が木津(きづ=京都府木津川市付近)に撃って出るも、赤沢軍の反撃に遭い、100人余りが討死・・・

大和の北口を守っていた十市遠治(とおちとおはる=十市当主)箸尾衆らとともに救出に向かって、敵将の内堀次郎左衛門(うちほりじろうざえもん)を討ち取り、翌日には、その首を宿院辻(しゅくいんのつじ=奈良県奈良市宿院町)にさらして、自らの士気をアピールします。

しかし10月18日には、すでに般若寺を占拠していた赤沢軍が、出陣するやいなや東大寺を奇襲し、ここを守っていた筒井順賢(つついじゅんけん=筒井氏当主・筒井順慶の叔父)をはじめとする大和国衆は、不意を突かれて総崩れとなり、やむなく撤退・・・

時を見て挽回を図るべく、大和国衆らは、
越智&布施(ふせ)吉野(よしの=奈良県吉野郡)へ、
筒井&十市は河内へ、
箸尾は(さかい=大阪府堺市)へ…
と、それぞれ落ち延びていったのです。

居残った大和国衆は国一揆の形をとって、なおもゲリラ戦を展開して巻き返しを計りますが、

永正四年(1507年)11月15日には、赤沢軍による各地への焼き討ちが展開され、これまでの戦いで焼け残っていた場所を、ことごとく潰すように火が放たれ、大和一帯は焦土と化したのでした。

こうして赤沢軍に支配される事になった大和は、しばらくの間、静かで落ち着いた様子に見えましたが、それはうわべだけ・・・そこかしこで小さなゲリラ戦が繰り返され、翌・永正五年(1508年)になっても、国衆による大和奪回活動が止む事はありませんでした。

しかし、そんなこんなの永正五年(1508年)8月・・・

と、実は、大和国衆による上記のような合戦が繰り広げられている中、中央政府の状況が大きく変わりつつあったのです。

亡き細川政元が行った明応の政変で追放された足利義稙が、ここに来て西国の雄=大内義興(おおうちよしおき)の援助を受けて上洛をうかがい、現役の足利義澄との間に、またもや将軍の座を争う様相を呈して来たわけですが、

この状況に、上記の細川政元の後継を巡って、

最初は、細川澄之VS細川澄元の戦いで、澄元の味方となって勝利に貢献した3番目の養子の細川高国(たかくに)が、この大内&足利義稙派について、コチラの管領家も、またもや後継者争いの匂いプンプン・・・

…で、澄元配下の赤沢長経は、当然、大内&足利義稙派の敵!という事になり、この8月に河内にて細川高国と戦うのですが、

結果は敗北・・・高国に敗れた赤沢長経は、8月2日に河内で斬首となったのでした。

また、赤沢軍が大和に入って以降、京方に合力していた事で、事実上の大和の支配者となっていた古市澄胤も、この同じ負け戦にて自害した事で、

結果的に、大和に滞在していた細川澄元&赤沢配下の軍が、すべて退去していったのです。

ここに、ようやく、大和の地が国衆の手に戻りました。

良かった!良かった!
と言いたいところですが。

やっぱり、まだまだ世は戦国・・・なかなか、その縦社会の縁を切って歩んでいく事は難しく・・・

結局、天文元年(1532年)には、次世代の大和の国衆が、天下を揺るがす天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)巻き込まれる事になるのですが、そのお話は7月17日の【天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆】のページ>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに、
同じ応仁の乱で東西に分かれた戦った富樫(とがし)の後継者争いに端を発する加賀一向一揆ですが、

コチラは縦社会というよりは宗教絡みなので100年続く事になります・・・くわしくは6月9日のページ>>で。。。
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2022年11月 9日 (水)

今川氏親&北条早雲が小鹿範満を倒す~駿河今川館の戦い・第1次

 

長享元年(1487年)11月9日、北条早雲今川館小鹿範満を攻めて自害させ、甥の今川氏親に今川家を継承させた第一次今川館の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市・後の駿府城)の戦いと言えば、今川義元(いまがわよしもと)亡き後に、後を継いだ今川氏真(うじざね)を、西の徳川家康(とくがわいえやす)と北の武田信玄(たけだしんげん)が追い込む、永禄十一年(1568年)12月のアレ(12月13日参照>>)を思い起こす方がほとんどだと思いますが、

今回のは、それよりず~と昔=80年ほど前の、未だ戦国初期・・・いや、この同じ年に、西では、第9代室町幕府将軍の足利義尚(あしかがよしひさ=足利義政の息子)が陣中で亡くなる事になり近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)が勃発してますから、

あの応仁の乱(5月20日参照>>)の20年後とは言え、未だ、足利将軍家をトップに据えた上下関係が崩れてはいない時代・・・(この4年前には足利義政が銀閣寺建ててますし…(6月27日参照>>)
まさに時代は、室町将軍の時代から下剋上やりまくりの戦国へ…の転換期だった頃です。

そんな中、この10年ほど前の文明八年(1476年)(文明七年=1475年~文明十一年=1479年までの諸説あり)4月に、塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて当主の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)を失ってしまった駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川家・・・(4月6日参照>>)

亡き今川義忠には龍王丸という嫡男がいたものの、その息子は、わずかに6歳・・・

しかも、かの今川義忠が命を落としたそもそもは、彼が落城させた遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)の残党から、凱旋帰還中に襲われた事による戦死で、

その残党の後ろには、将軍足利一門の有力者=斯波義廉(しばよしかど)がついていたので、今川としては、やや気を使わねばならない状況・・・

後継者が幼い事+足利家への気遣いがあいまって、やがて今川家内には、
「ちょうど良い年齢の誰か別人に家督を譲った方が良いのでは?」
という意見が出て来たのです。

そのちょうど良い人物というのが、現段階で20歳そこそこの小鹿範満(おしかのりみつ)という人物。。。

彼は、今川義忠の父の今川範忠(のりただ)の弟(範頼)の子=つまり従兄弟なので立派な今川家の後継者であるわけですが、かつて幕府の意向によって範忠が今川家を継いだため、その弟である父が駿府郊外の小鹿を領していたことから小鹿姓を名乗っていたのでした。

しかも小鹿範満の母は、堀越公方(ほりごえがくぼう=足利家の関東支配担当:当時は堀越に居)執事(しつじ=公方の補佐役)であった上杉政憲(うえすぎまさのり=犬懸上杉家)の娘とも言われ(異説あり)、それなら足利家との太いパイプも期待できる。

とは言え、
「そのまま龍王丸が継ぐのが正統」
と考える家臣も、もちろんいますから、今川家は、ここで真っ二つに分かれるのです。

『今川記』には、
「爰(ここ)に今川一門…人々二つに分て
 不快になりて合戦に及ふ
 是主人御幼少の間
 私の威を高して争ひける故也」
とあり、先代の死から、ほどなく合戦になっていた事がうかがえます。

危険を感じた龍王丸とその母=北川殿(きたがわどの=義忠の正室:桃源院殿)は、小川郷(こがわごう=静岡県焼津市西小川)長谷川政宣(はせがわまさのぶ=西駿河の富豪)の館(小川城)逃れて、身を潜める事に・・・

その後も続く内乱状態に、
小鹿範満を推す堀越公方の足利政知(あしかがまさとも=6代将軍・足利義教の四男で8代将軍・足利義政の弟)は、配下の上杉政憲に300の兵をつけて、龍王丸派を一掃すべく駿河に派遣して来ます。

さらに、同じく小鹿範満推しの関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)上杉定正(さだまさ=扇谷上杉家)も、執事の太田道灌(おおたどうかん)に、これまた300の兵をつけて駿河に送り込んで来たのです。

堀越公方に上杉政憲に太田道灌・・・今をときめく大物揃いの駿河干渉にビビる今川の家臣たち。。。

そんな中、さすがに関東公方&関東管領の力が駿河にまで及ぶ事を警戒した幕府は、前将軍=足利義政(よしまさ)の名のもとに、幕府奉公衆伊勢盛時(いせもりとき)仲介係として派遣します。

Houzyousouun600 この伊勢盛時は、龍王丸の母=北川殿の兄(もしくは弟)・・・ご存知、後の北条早雲(ほうじょうそううん)です。

この早雲(と…ここからは呼びます)両派の中に割って入り、一つの解決策を提案したのです。

同じく『今川記』によれば、早雲は
「こういう風に家臣が真っ二つに分かれて合戦を繰り返すのは、今川家滅亡の基になる。
もちろん、どっちもが今川家の事を思ての行動やから謀反では無いけれど、主家が滅亡してしまうような事になるなら、それは謀反と同じ事なんとちゃうか?

京都(室町幕府)の意向に沿って、どちらかを退治するんやなくて、両者ともに歩み寄って、事を解決しませんか?」
と語りかけ、

折衷案として
「竜王殿の御在所存知て候間
 御迎に参り御館へ返し奏(まつ)るべし」
と・・・

つまり、
龍王丸が成人するまでの間、小鹿範満が家督代行し、時期が来れば嫡流に返す…
という案を提示して、和睦を提案したのです。

この早雲の提案に、両今川の家臣は納得し、浅間神社(せんげんじんじゃ=静岡県静岡市葵区)にて互いに酒を汲み交わして和睦・・・両者ともに、これ以上は争わない事を約束して手打ちとしたのです。

同時に、早雲は将軍義政から、龍王丸の将来の家督継承を約束する御内書(ごないしょ=室町幕府の将軍が発給する書状形式の公文書)を得て、未来の不安を払拭しました。

一般的に、このあたりまでが、先の今川義忠の死亡直後の文明八年(1476年)の出来事とされます。

その後、しばらくは小鹿範満が今川館にて政務をこなし、龍王丸は、かの長谷川政宣の館にて庇護を受け、これキッカケで、政宣も正式に今川の家臣となります。

やがて文明十一年(1479年)の12月21日付にて、龍王丸に対して足利義政からの正式な『家督相続許可』が下りますが、この頃は、北条早雲は京都にて幕府の職務をこなしていた最中でしたし、未だ龍王丸は若いので、許可が下りてすぐに何か起こる事はなかったのですが、

やがてやがての文明十九年(1487年)・・・この年には、龍王丸はすでに17歳になっており、15歳頃に元服するのが一般的な当時としては、もう立派に家督を相続できるお年頃。。。

ところが、かの小鹿範満が向に家督を返上しようとしない・・・業を煮やした北川殿が、今は足利義尚に仕えている早雲に、
「お兄ちゃん、何とかして~」
と助力を要請します。

このままでは
「成人するまでの家督代行」
の約束を反故にされるのではないか?
と判断した北条早雲は、

7月に長享元年(1487年)に改元されたこの年の11月9日突如として駿河へ下向し、同志を集めて今川館を急襲したのです。

もちろん、抵抗を試みる小鹿範満一派ではありましたが、早雲の電撃的な攻撃に、まともな準備もできないまま、小鹿範満と、その弟(もしくは甥)孫五郎(まごごろう=範慶)自害し、小鹿氏は断絶・・・

と、なりそうになったところを、
これキッカケで今川館に入って元服して(元服時期には諸説あり)今川氏親(うじちか)となった龍王丸が、孫五郎の庶子(しょし=側室の子)もしくは庶弟を取り立てて、

それまでは今川宗家(そうけ=嫡流)しか名乗る事ができなかった今川姓を名乗れるようにするとともに、万が一の時には今川家の家督を継げる家系として特別扱いする事で、未だ今川家内に残る小鹿範満寄りの家臣の不満を抑えたと言います。

この氏親の息子が、あの東海一の弓取りの今川義元です(6月10日参照>>)

また、ここで駿河に来た北条早雲は、これを機に京都に戻る事無く駿河に定住・・・今川当主となった氏親を支えて遠江(とおとうみ=静岡県西部)奪取(6月21日参照>>)にまい進するとともに、

自らは、伊豆にて、かの堀越公方を倒す下剋上を果たし(10月11日参照>>)100年に渡る関東支配を実現するのは、皆さまご存知の通り・・・まさに、関東北条家のはじまりはじまり~となる北条早雲誕生物語となった戦いでした。
(その後の早雲については【北条五代の年表】>>でどうぞ)
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2022年11月 1日 (火)

藤原道長の乱痴気宴会で初登場~紫式部の『源氏物語』

 

寛弘五年(1008年)11月1日、時の左大臣=藤原道長が自邸にて大宴会を催しており、そこで『源氏物語』の事が初登場します。

・・・・・・・・

平安時代中期に成立した日本の長編物語『源氏物語』。。。

写本に写本が重ねられ、その内容も微妙に違い、その題名すら、

「源氏の物語」「光る源氏の物語」「光源氏」「源氏の君」 という主人公の名前由来のほか、
「紫の物語」「紫のゆかりの物語」など、光源氏の奧さんで理想の女性として描かれる女主人公の紫の上(むらさきのうえ)の名前由来で呼ばれたりもしています。

作者も、一般的には紫式部(むらさきしきぶ…実名不明で、この紫も源氏物語由来らしいけど)とされますが(7月30日参照>>)、女性が書いたとは思えない男性目線な部分もあり、
作者は男?…いや複数で書いた?なんて事も言われていますね。

そんな中で、
「平安時代中期に成立した」
「作者は紫式部」
というのが一般的な定説とされるのは、

Murasakisikibu600at 実は、紫式部自身が書いたとされる『紫式部日記(むらさきしきぶにっき)に、宮中の人々の生活ぶりや人物評、自らの人生観に加え、

エゴサーチしたであろう自作小説『源氏物語』の世間の評判についても、アレコレ書いてあるからなのですが、

 .
中でも、寛弘五年(1008年)11月1日の記述に、ハッキリと『源氏物語』の事が書いてあり、これが史実と思われる文書に登場する『源氏物語』の初の記録・・・という事になります。
(なので11月1日は「古典の日」という記念日なのだそうです)

とは言え、日記の内容は、かなりムチャクチャです。

なんせ、
冒頭に書いた通り、この寛弘五年(1008年)11月1日藤原道長(ふじわらのみちなが)が自宅で宴会を開いて、それが、大物揃いなワリには、かなりハチャメチャで無法地帯なランチキ騒ぎだったわけで・・・

もちろん、そこに紫式部も同席していたので日記に書いてるわけですが、

・‥…━━━☆

何か知らんけど、この日の道長はかなり機嫌が良くて、宴会が始まった頃には、すでに道長はデキあがっており、紫式部のケツを追いかけまわして
「和歌を歌え!」「はよ歌え!」
とカラオケを無理強いする中年上司の如きありさま。。。

一方、右大臣の藤原顕光(あきみつ)は、そばにあった布製の調度品のほころびを見つけて、そこを引き破るという遊びを実行中・・・
それに気がついた女房が、トントンと背中を叩いてたしなめると、今度はその女性に卑猥な言葉を浴びせつつカラむ・・・

内大臣の藤原公季(きんすえ)は、息子の実成(さねなり)が昼間の儀式で、ちゃんとした作法ができた事に感激して、大声でオイオイと泣き倒す始末。。。
(↑息子言うても、もう30過ぎてんねから、できて当たり前)

権中納言の藤原隆家(たかいえ)は酒癖が悪いのか?スケベなのか?
一人の女性についきまとい、着物つかむわ、腕をつかむわ

さらに宴会場の一郭を見てみると、藤原兼隆(かねたか=道長の甥)とともにいる道長の息子たちがヘベレケ状態だったので、紫式部は彼らを避けるようにして、まだ、まともに見える藤原実資(さねすけ)のもとへ・・・

そんな実資は、周りの女性たちが着ている着物の枚数を数えるのに夢中で(←酔うとるがなww)、すでにゴキゲンなご様子でしたが、

紫式部が、試しにマジメな質問をすると、ちゃんとした答えが返って来たので
「この人は大丈夫やな」
と思ったとか・・・

そこへ割って入って来たのが、中納言の藤原公任(きんとう)・・・彼は、後に『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)の撰者として知られる事になる歌人で、芸術的センスのある人なのですが、

やはり、かなり酔っていたのか?
紫式部に向かって
「あなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ…」
 
「スンマセンwwこのへんに若紫さんがいてはる~って聞いて来たんやけど…」
と言ってきたのです。

「若紫」とは、(物語上で言葉として出て来るわけではありませんが…)暗に、源氏物語の女性主人公である紫の上の少女時代の事を指します。

この場合は、紫式部に向かって、この言葉を放ってるわけですから「若紫」とは紫式部の事?

理想的な女性として描かれる紫の上の、さらに純真無垢な少女時代となれば、美しい人に例えられて、さぞかし…って思うものの、

ちょっと待ったぁ~~~

この時の紫式部は・・・
生年が不明だし、同母の兄弟と思われる藤原惟規(のぶのり)が天延二年(974年)頃の生まれとされながらも、兄なのか?弟なのか?も不明なので、あくまで予想ではありますが、

高齢出産も厭わない今と違って、この時代は一人の女性が子供をもうける年齢には限りがありますから、そこンとこを踏まえれば、おそらく紫式部も、20歳はとっくに過ぎた…ひょっとしたら20代後半か30歳近い年齢でしょ?

現に、道長の長女=藤原彰子(しょうし)の家庭教師として迎えられた時点で、彼女は、すでに夫と死別し、子供もいたわけですから、、

そんな彼女に「若紫」呼ばわりは・・・
完全におちょくってますよね?

これに対する紫式部の返事は・・・

実際には、黙って退いたらしいですが、日記の中での心の叫びは
(この場に)光源氏みたいなええ男がおらんのに、紫の上がおるわけないやろが!」
と、かなりご立腹だったとか・・・

ただし・・・
オッサンが女子を追いかけたり、調度品を壊したり、泣き叫んだり、修羅場となったこの日の宴会ではありましたが、

平安貴族の宴会と言えば必ず…と言って良いほど定番な
暴力沙汰にはならなかったようなので、今回ばかりは、意外と、楽しい宴会だったのかも知れません。

Murasakisikibu800
彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

とにもかくにも、この日の紫式部の日記に登場した『源氏物語』の話が日本初の記述・・・

少なくとも、この頃には『源氏物語』が形になっていたし、周囲も知ってる有名な物語となっていた事がわかるわけです。
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