奈良の平和を願って…大和国衆と赤沢長経の戦い
永正四年(1507年)11月15日、室町幕府の実権を握った細川澄元によって、奈良に派遣された赤沢長経が大和の国衆と戦い、周辺を焼き討ちしました。
・・・・・・・
室町幕府の足利将軍家の後継者争いを頂点に、管領家の後継者争いが加わり、それぞれに味方する全国の諸将が東西に分かれて争った応仁の乱(5月20日参照>は、当然の事ながら、その派閥に属するそれぞれの地方の国衆や土豪ら(その土地の地侍)をも巻き込んだわけですが、
それこそ当然の事ながら、どこもかしこもに後継者争いが勃発してるわけではなく、応仁の乱という大乱が起こったせいで、その派閥の縦社会関係から東西に分かれてしまった人たちもいるわけで・・・
そんな彼らの中には、文明九年(1477年)に応仁の乱が終わっても、未だ後継者争いに決着がつかないおエラ方が、いつまでも争い続けてる(7月12日参照>>)事にウンザリする人も出て来るわけです。
しかも、その戦いで、自分たちの土地が戦場となって荒される事は、半士半農(はんしはんのう=平時は農業やってる)の小さな国衆にとっては、むしろ迷惑なわけで・・・
歴史教科書でご存知の文明十七年(1485年)の山城の国一揆などは、まさにソレです(12月11日参照>>)。
応仁の乱が終わっても争いを止めようとしない畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と畠山義就(よしなり=西軍)に(12月12日参照>>)、応仁の乱最中には東西に分かれていた山城(やましろ=京都府南部)地域の国衆や土豪に農民が加わって一致団結し、
「もう戦いはヨソでやってくれ!」
「両畠山家は山城に入ってくんな!」
と蜂起した一揆なわけです。
しかし残念ながら、この山城の国一揆は、わずか8年の自治で終焉を迎えてしまいます。
それは、京都の中央政府(京方)=室町幕府・・・武士政権である彼らにとって、この日本に自分たちが干渉できない自治の土地があってはならないわけで・・・
結局、国衆の中でも京方についていた古市澄胤(ふるいちちょういん)を守護代(しゅごだい=副知事)に任命して潰しにかかり、山城の国一揆は明応二年(1493年)に大国に呑み込まれる形となったのです(9月17日参照>>)。
この山城の国衆と同じ憂き目に遭ったのが、今回の大和(やまと=奈良県)の国衆でした。
ここ大和は、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)や興福寺(こうふくじ=同奈良市)や春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強く、鎌倉時代から室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができなかった中で、
戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始め、興福寺に属する『衆徒』の筒井(つつい)氏や、春日大社に属する『国民』の越智(おち)氏や十市(とおち)氏・・・そこに箸尾(はしお)氏を加えて『大和四家』と称される国衆たち以下、大小モロモロが群雄割拠する場所になっていたのです。
それこそ、応仁の乱以前から彼らは畠山同士の戦いの影響を受け、東西に分かれて、そこに動員されていたわけです(10月16日【大和高田の戦い】参照>>)が、
例の如く、乱が終わってもコチラは終らない畠山家の争いのおかげで、
文明十一年(1479年)の【郡山中城の戦い】>>
明応八年(1499年)の【壺坂の戦い】>>
などなど。。。
そんなこんなの明応八年(1499年)10月27日、他家の争いに巻き込まれて領地を荒される事にイヤ気がさした筒井と越智の間にて和議が結ばれた事をキッカケに、大和の国衆は一団となって
「河内(かわち=大阪府南部・守護が畠山)の合戦を大和に持ち込むな」
と立ち上がったわけです。
しかし…そこに、明応二年(1493年)に明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)というクーデターを決行して将軍を足利義稙(あしかがよしたね=10代将軍)から、自身が推す足利義澄(よしずみ=11代将軍)に交代させ、
何なら将軍よりも幕府の実権った事実上のトップである管領(かんれい=将軍の補佐役)=細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の嫡男)が「待った」をかけて来たのです。
まさに山城の国一揆を同様、守護のいない大和で、国衆に一致団結されちゃぁマズイ
「それに、まだまだ河内の争乱には彼らの力が必要やん」
(と言っても、政元は山城の時はちと協力的だったんですが…)
とばかりに、同じ年の12月、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)を大和に派遣して秋篠城(あきしのじょう=奈良県奈良市秋篠町)を陥落させて法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)や喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)を焼き、秋篠氏に味方した筒井らもろともバラバラ状態に・・・(12月18日参照>>)
その後も、度々、京方のスキを狙ってゲリラ作戦を展開するも、またもや赤沢朝経らによって潰され(9月21日【井戸城・古市城の戦い】参照>>)・・・
と繰り返される中、永正四年(1507年)6月、実子がいなかった細川政元が、自身の後継者争いの関係で暗殺(9月21日参照>>)されたうえ、その急報を得て戦場から戻ろうとした赤沢朝経もが反対分子の一揆によって命を落とすという、大和国衆にとって逆転チャンスが訪れたのです。
しかし、さすがに手を緩めぬ京方・・・
細川政元の死から、わずか2ヶ月後の8月に、3人の養子による後継者争いの中で、ライバルの細川澄之(すみゆき)を倒して(8月1日【百々橋の戦い】参照>>)、幕府の実権を握った細川澄元(すみもと)が、赤沢朝経の養子=赤沢長経(ながつね=実父は不明)を大和に送り込んで来るのです。
もちろん、大和の国衆たちは、一致団結して、力の限りの防戦をするのですが、なんせ相手は幕府=中央政府ですから、そんな半士半農の小さな彼らの防衛能力にも限りがあるという物・・・
危険を感じた越智家教(おちいえのり=越智氏当主)は、自ら軍を率いて筒井(つつい=奈良県大和郡山市筒井町)まで進出し、協力要請を受けた河内の国衆も生駒(いこま=奈良県生駒市付近)まで出張って睨みを効かせました。
対する赤沢軍は、先を急がず祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町祝園)に布陣して様子うかがいます。
静寂を破って合戦が始まったのは10月1日でした。
一進一退をくりかえす戦いは翌日も続き、
3日には木津川(きづがわ)を渡った赤沢軍が般若寺(はんにゃじ=奈良県奈良市般若寺町)に殺到しますが、迎え撃つ大和国衆が早鐘をうって急を知らせ、集まった者たちによって必死の抵抗を試み、最初のこの戦いでは決着がつきませんでした。
次に起こった10月6日の合戦では、結集した大和国衆が木津(きづ=京都府木津川市付近)に撃って出るも、赤沢軍の反撃に遭い、100人余りが討死・・・
大和の北口を守っていた十市遠治(とおちとおはる=十市当主)が箸尾衆らとともに救出に向かって、敵将の内堀次郎左衛門(うちほりじろうざえもん)を討ち取り、翌日には、その首を宿院辻(しゅくいんのつじ=奈良県奈良市宿院町)にさらして、自らの士気をアピールします。
しかし10月18日には、すでに般若寺を占拠していた赤沢軍が、出陣するやいなや東大寺を奇襲し、ここを守っていた筒井順賢(つついじゅんけん=筒井氏当主・筒井順慶の叔父)をはじめとする大和国衆は、不意を突かれて総崩れとなり、やむなく撤退・・・
時を見て挽回を図るべく、大和国衆らは、
越智&布施(ふせ)氏は吉野(よしの=奈良県吉野郡)へ、
筒井&十市は河内へ、
箸尾は堺(さかい=大阪府堺市)へ…
と、それぞれ落ち延びていったのです。
居残った大和国衆は国一揆の形をとって、なおもゲリラ戦を展開して巻き返しを計りますが、
永正四年(1507年)11月15日には、赤沢軍による各地への焼き討ちが展開され、これまでの戦いで焼け残っていた場所を、ことごとく潰すように火が放たれ、大和一帯は焦土と化したのでした。
こうして赤沢軍に支配される事になった大和は、しばらくの間、静かで落ち着いた様子に見えましたが、それはうわべだけ・・・そこかしこで小さなゲリラ戦が繰り返され、翌・永正五年(1508年)になっても、国衆による大和奪回活動が止む事はありませんでした。
しかし、そんなこんなの永正五年(1508年)8月・・・
と、実は、大和国衆による上記のような合戦が繰り広げられている中、中央政府の状況が大きく変わりつつあったのです。
亡き細川政元が行った明応の政変で追放された足利義稙が、ここに来て西国の雄=大内義興(おおうちよしおき)の援助を受けて上洛をうかがい、現役の足利義澄との間に、またもや将軍の座を争う様相を呈して来たわけですが、
この状況に、上記の細川政元の後継を巡って、
最初は、細川澄之VS細川澄元の戦いで、澄元の味方となって勝利に貢献した3番目の養子の細川高国(たかくに)が、この大内&足利義稙派について、コチラの管領家も、またもや後継者争いの匂いプンプン・・・
…で、澄元配下の赤沢長経は、当然、大内&足利義稙派の敵!という事になり、この8月に河内にて細川高国と戦うのですが、
結果は敗北・・・高国に敗れた赤沢長経は、8月2日に河内で斬首となったのでした。
また、赤沢軍が大和に入って以降、京方に合力していた事で、事実上の大和の支配者となっていた古市澄胤も、この同じ負け戦にて自害した事で、
結果的に、大和に滞在していた細川澄元&赤沢配下の軍が、すべて退去していったのです。
ここに、ようやく、大和の地が国衆の手に戻りました。
良かった!良かった!
と言いたいところですが。
やっぱり、まだまだ世は戦国・・・なかなか、その縦社会の縁を切って歩んでいく事は難しく・・・
結局、天文元年(1532年)には、次世代の大和の国衆が、天下を揺るがす天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)に巻き込まれる事になるのですが、そのお話は7月17日の【天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆】のページ>>でどうぞm(_ _)m
ちなみに、
同じ応仁の乱で東西に分かれた戦った富樫(とがし)家の後継者争いに端を発する加賀一向一揆ですが、
コチラは縦社会というよりは宗教絡みなので100年続く事になります・・・くわしくは6月9日のページ>>で。。。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 武田信玄の伊那侵攻~高遠頼継との宮川の戦い(2024.09.25)
- 宇都宮尚綱VS那須高資~喜連川五月女坂の戦い(2024.09.17)
- 朝倉宗滴、最後の戦い~加賀一向一揆・大聖寺城の戦い(2024.07.23)
- 織田信長と清須の変~織田信友の下剋上(2024.07.12)
- 斎藤妙純VS石丸利光の船田合戦~正法寺の戦い(2024.06.19)
コメント