大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり
明治四十二年(1909年)11月23日、大阪の長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われました。
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心斎橋(しんさいばし)は、かつて大阪の中心部を東西に流れていた長堀川(ながほりがわ)を渡るべく、南北に架けられていた橋の一つです。
この長堀川は、あの大坂夏の陣(【大坂の陣の年表】参照>>)の7年後の元和八年(1622年)に、大坂の商人の岡田心斎(おかだしんさい)らによって開削されたと言われ、おそらくは、それと同時期に橋も架けられ、開削者の一人である心斎にちなんで、その名を心斎橋と命名されたと思われます。
当時は、心斎橋の一つ西に四ツ橋(よつばし)という橋が東西南北の4方向に架けられていて、そこが、江戸の吉原(よしわら)&京都の島原(しまばら)と並ぶ、大坂の新町(しんまち)(1月7日参照>>)という一大遊郭街に通じる場所だった事から、この心斎橋も大いに賑わった事でしょう。
江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』には、心斎橋とともに賑わう『松屋』という店の様子が描かれています。
この松屋は、京都の伏見にて『大文字屋』という古着屋を営んでいた下村三郎兵衛(しもむらさぶろべえ)の三男坊だった下村彦右衛門(ひこえもん)なる人物が、独立して開業した呉服卸問屋が大阪に進出した際、心斎橋の松屋清兵衛店から店舗を譲り受け、『大丸松屋店』と号して開業した呉服店です。
そう・・・今も残る『大丸百貨店』
この頃の心斎橋は、長さ18間(約35m)×幅2間半(約4m)の木造の橋でした。
やがて維新が成った後の明治六年(1873年)、幕末に通訳として活躍した本木昌造(もときしょうぞう)の設計にて、心斎橋は鉄橋に生まれ変わります。
当時、鉄橋の橋は、かなり珍しく、錦絵や絵はがき(↑)の題材として、しばしば取り上げられたとか・・・ちなみに、この鉄橋は、明治四十一年(1908年)に撤去されますが、アーチ部分が鶴見緑地公園に移築され、現存する最古の鉄橋として、今も見る事ができます。
かくして、その翌年の明治四十二年(1909年)11月23日、3代目となる石造りの心斎橋が完成し、壮大な渡り初め式が行われたのです。
野口孫市(のぐちまごいち )という建築家の設計で、愛媛県産の花崗岩(かこうがん)で造られた石橋には彫刻がほどこされ、当時は珍しいガス灯が取り付けられた事で、これまた絵はがき(↑)等の格好の題材となりました。
二重の橋が水面に美しく映る事から「眼鏡橋」の愛称でも親しまれたとか・・・
しかし、時の流れは酷な物・・・
昭和三十七年(1962年)、長堀川が埋め立てられて、川の北側を走っていた末吉橋通(すえよしばしどおり)と重なって、新たな長堀通(ながほりどおり)となる事で、当然の事ながら心斎橋は撤去される事に・・・
とは言え、やはり大阪のシンボルの一つであった心斎橋が無くなる事を惜しむ声があったからなのでしょうか?(さすがに当時の事は覚えてません)
2年後の昭和三十九年(1964年)に、長堀通をを横断する歩道橋として移築されました。
(ちなみに茶々の子供の頃の記憶はコレ=歩道橋の姿です~歳バレる)
しかし、それも平成二年(1990年)に開催された国際花と緑の博覧会(通称:花博)のための地下鉄工事で撤去され、現在は、交差点の一部が石造橋とガス灯を復元したデザインの仕様となっているようです。
(実はコレになってから行った事が無い茶々であります(笑)
とにもかくにも、様々な変貌を遂げて来た心斎橋・・・
今では、心斎橋筋商店街を中心とした繁華街のイメージが強いですが、それこそ、あの四ツ橋とともに、
「昔、ここに橋があった」
という古き良き思い出だけは、心に留めておきたいですね。
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