今川氏親&北条早雲が小鹿範満を倒す~駿河今川館の戦い・第1次
長享元年(1487年)11月9日、北条早雲が今川館の小鹿範満を攻めて自害させ、甥の今川氏親に今川家を継承させた第一次今川館の戦いがありました。
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今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市・後の駿府城)の戦いと言えば、今川義元(いまがわよしもと)亡き後に、後を継いだ今川氏真(うじざね)を、西の徳川家康(とくがわいえやす)と北の武田信玄(たけだしんげん)が追い込む、永禄十一年(1568年)12月のアレ(12月13日参照>>)を思い起こす方がほとんどだと思いますが、
今回のは、それよりず~と昔=80年ほど前の、未だ戦国初期・・・いや、この同じ年に、西では、第9代室町幕府将軍の足利義尚(あしかがよしひさ=足利義政の息子)が陣中で亡くなる事になり近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)が勃発してますから、
あの応仁の乱(5月20日参照>>)の20年後とは言え、未だ、足利将軍家をトップに据えた上下関係が崩れてはいない時代・・・(この4年前には足利義政が銀閣寺建ててますし…(6月27日参照>>))
まさに時代は、室町将軍の時代から下剋上やりまくりの戦国へ…の転換期だった頃です。
そんな中、この10年ほど前の文明八年(1476年)(文明七年=1475年~文明十一年=1479年までの諸説あり)4月に、塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて当主の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)を失ってしまった駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)の今川家・・・(4月6日参照>>)
亡き今川義忠には龍王丸という嫡男がいたものの、その息子は、わずかに6歳・・・
しかも、かの今川義忠が命を落としたそもそもは、彼が落城させた遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)の残党から、凱旋帰還中に襲われた事による戦死で、
その残党の後ろには、将軍足利一門の有力者=斯波義廉(しばよしかど)がついていたので、今川としては、やや気を使わねばならない状況・・・
後継者が幼い事+足利家への気遣いがあいまって、やがて今川家内には、
「ちょうど良い年齢の誰か別人に家督を譲った方が良いのでは?」
という意見が出て来たのです。
そのちょうど良い人物というのが、現段階で20歳そこそこの小鹿範満(おしかのりみつ)という人物。。。
彼は、今川義忠の父の今川範忠(のりただ)の弟(範頼)の子=つまり従兄弟なので立派な今川家の後継者であるわけですが、かつて幕府の意向によって範忠が今川家を継いだため、その弟である父が駿府郊外の小鹿を領していたことから小鹿姓を名乗っていたのでした。
しかも小鹿範満の母は、堀越公方(ほりごえがくぼう=足利家の関東支配担当:当時は堀越に居)の執事(しつじ=公方の補佐役)であった上杉政憲(うえすぎまさのり=犬懸上杉家)の娘とも言われ(異説あり)、それなら足利家との太いパイプも期待できる。
とは言え、
「そのまま龍王丸が継ぐのが正統」
と考える家臣も、もちろんいますから、今川家は、ここで真っ二つに分かれるのです。
『今川記』には、
「爰(ここ)に今川一門…人々二つに分て
不快になりて合戦に及ふ
是主人御幼少の間
私の威を高して争ひける故也」
とあり、先代の死から、ほどなく合戦になっていた事がうかがえます。
危険を感じた龍王丸とその母=北川殿(きたがわどの=義忠の正室:桃源院殿)は、小川郷(こがわごう=静岡県焼津市西小川)の長谷川政宣(はせがわまさのぶ=西駿河の富豪)の館(小川城)に逃れて、身を潜める事に・・・
その後も続く内乱状態に、
小鹿範満を推す堀越公方の足利政知(あしかがまさとも=6代将軍・足利義教の四男で8代将軍・足利義政の弟)は、配下の上杉政憲に300の兵をつけて、龍王丸派を一掃すべく駿河に派遣して来ます。
さらに、同じく小鹿範満推しの関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)の上杉定正(さだまさ=扇谷上杉家)も、執事の太田道灌(おおたどうかん)に、これまた300の兵をつけて駿河に送り込んで来たのです。
堀越公方に上杉政憲に太田道灌・・・今をときめく大物揃いの駿河干渉にビビる今川の家臣たち。。。
そんな中、さすがに関東公方&関東管領の力が駿河にまで及ぶ事を警戒した幕府は、前将軍=足利義政(よしまさ)の名のもとに、幕府奉公衆の伊勢盛時(いせもりとき)を仲介係として派遣します。
この伊勢盛時は、龍王丸の母=北川殿の兄(もしくは弟)・・・ご存知、後の北条早雲(ほうじょうそううん)です。
この早雲(と…ここからは呼びます)が両派の中に割って入り、一つの解決策を提案したのです。
同じく『今川記』によれば、早雲は
「こういう風に家臣が真っ二つに分かれて合戦を繰り返すのは、今川家滅亡の基になる。
もちろん、どっちもが今川家の事を思ての行動やから謀反では無いけれど、主家が滅亡してしまうような事になるなら、それは謀反と同じ事なんとちゃうか?
京都(室町幕府)の意向に沿って、どちらかを退治するんやなくて、両者ともに歩み寄って、事を解決しませんか?」
と語りかけ、
折衷案として
「竜王殿の御在所存知て候間
御迎に参り御館へ返し奏(まつ)るべし」
と・・・
つまり、
龍王丸が成人するまでの間、小鹿範満が家督代行し、時期が来れば嫡流に返す…
という案を提示して、和睦を提案したのです。
この早雲の提案に、両今川の家臣は納得し、浅間神社(せんげんじんじゃ=静岡県静岡市葵区)にて互いに酒を汲み交わして和睦・・・両者ともに、これ以上は争わない事を約束して手打ちとしたのです。
同時に、早雲は将軍義政から、龍王丸の将来の家督継承を約束する御内書(ごないしょ=室町幕府の将軍が発給する書状形式の公文書)を得て、未来の不安を払拭しました。
一般的に、このあたりまでが、先の今川義忠の死亡直後の文明八年(1476年)の出来事とされます。
その後、しばらくは小鹿範満が今川館にて政務をこなし、龍王丸は、かの長谷川政宣の館にて庇護を受け、これキッカケで、政宣も正式に今川の家臣となります。
やがて文明十一年(1479年)の12月21日付にて、龍王丸に対して足利義政からの正式な『家督相続許可』が下りますが、この頃は、北条早雲は京都にて幕府の職務をこなしていた最中でしたし、未だ龍王丸は若いので、許可が下りてすぐに何か起こる事はなかったのですが、
やがてやがての文明十九年(1487年)・・・この年には、龍王丸はすでに17歳になっており、15歳頃に元服するのが一般的な当時としては、もう立派に家督を相続できるお年頃。。。
ところが、かの小鹿範満が一向に家督を返上しようとしない・・・業を煮やした北川殿が、今は足利義尚に仕えている早雲に、
「お兄ちゃん、何とかして~」
と助力を要請します。
このままでは
「成人するまでの家督代行」
の約束を反故にされるのではないか?
と判断した北条早雲は、
7月に長享元年(1487年)に改元されたこの年の11月9日、突如として駿河へ下向し、同志を集めて今川館を急襲したのです。
もちろん、抵抗を試みる小鹿範満一派ではありましたが、早雲の電撃的な攻撃に、まともな準備もできないまま、小鹿範満と、その弟(もしくは甥)の孫五郎(まごごろう=範慶)は自害し、小鹿氏は断絶・・・
と、なりそうになったところを、
これキッカケで今川館に入って元服して(元服時期には諸説あり)、今川氏親(うじちか)となった龍王丸が、孫五郎の庶子(しょし=側室の子)もしくは庶弟を取り立てて、
それまでは今川宗家(そうけ=嫡流)しか名乗る事ができなかった今川姓を名乗れるようにするとともに、万が一の時には今川家の家督を継げる家系として特別扱いする事で、未だ今川家内に残る小鹿範満寄りの家臣の不満を抑えたと言います。
この氏親の息子が、あの東海一の弓取りの今川義元です(6月10日参照>>)。
また、ここで駿河に来た北条早雲は、これを機に京都に戻る事無く駿河に定住・・・今川当主となった氏親を支えて遠江(とおとうみ=静岡県西部)奪取(6月21日参照>>)にまい進するとともに、
自らは、伊豆にて、かの堀越公方を倒す下剋上を果たし(10月11日参照>>)、100年に渡る関東支配を実現するのは、皆さまご存知の通り・・・まさに、関東北条家のはじまりはじまり~となる北条早雲誕生物語となった戦いでした。
(その後の早雲については【北条五代の年表】>>でどうぞ)
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