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2022年12月29日 (木)

賤ヶ岳の前哨戦~織田信孝の岐阜の乱

 

天正十年(1582年)12月29日、信長亡き後に、息子の織田信孝岐阜城に籠って挙兵した岐阜の乱にて和睦が成立し、秀吉が兵を退きました。

・・・・・・・・

ご存知、
天正十年(1582年)6月2日、
本能寺(ほんのうじ=京都市中京区元本能寺南町)にて織田信長(おだのぶなが)横死(参照>>)

その2日後に、囲み中だった備中高松城 (びっちゅうたかまつじょう= 岡山県 岡山市)開城させた(参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

奇跡の中国大返し(参照>>)で畿内に戻り、
天王山(てんのうざん=京都府乙訓郡大山崎町)にて、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を討ったのは6月13日の事でした(参照>>)
(もっとくわしくは【安土の年表】>>の真ん中あたりでどうぞ)

その後、
すでに信長の家督を継いでいた織田信忠(のぶただ)も、本能寺にて信長とともに亡くなったため、6月27日に織田家の後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)清洲城(きよすじょう=愛知県清須市一場・清須城)にて開かれますが、

城には多くの家臣が詰めていたものの、会議自体に出席したのは、先の秀吉と
柴田勝家(しばたかついえ)
丹羽長秀(にわながひで)
池田恒興(いけだつねおき)の4人の重臣たち・・・
(滝川一益は神流川の戦い>>で遅刻)

この時、後継者の候補には、はじめは織田信孝(のぶたか=信長三男)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長次男)か…と考えられていましたが、結局、すでに家督を継いでいた亡き信忠の嫡男(つまり信長の嫡孫)三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決定し、

わずか3歳であった三法師の後見人に伯父の織田信孝と織田信雄がなる事で収まりました。

ちなみにドラマ等で描かれる、
柴田勝家が信孝を推していた事や、それに対抗する秀吉が、事前に幼き三法師を手なずけて、諸将の前に三法師を抱っこしながら登場して、皆が「ははぁ」となるシーンは、今では、後の創作であろうとされています。

まぁ、考えたら、幼いとは言え、嫡流が継ぐのは当然ですからね~
なんせ、すでに信孝は神戸(かんべ)を、信雄は北畠(きたばたけ)を継いでますしね。

領地配分については、
信孝が美濃(みの=岐阜県南部)
信雄が尾張(おわり=愛知県西部)
羽柴秀勝(ひでかつ=信長の四男で秀吉の養子)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県南部)
勝家は越前(えちぜん=福井県東部)安堵でプラス長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を上乗せ、
丹羽長秀は若狭(わかさ=福井県西部)安堵でプラス近江(おうみ=滋賀県)2郡を上乗せ、
池田恒興は摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県南東部)
秀吉は河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)
三法師は安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を相続。。。

また、柴田勝家とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)結婚も、この会議にて決められたと言われています。
(少し前までは、信孝主導の秀吉に対抗するための婚姻とされていましたが、最近では秀吉はじめ会議出席者全員の賛同があったと考えられているようです)

…で、その後は、
ご存知のように、信長が構築した安土城は、6月15日に謎の不審火で燃えちゃってた(参照>>)ため、安土城が修復される間は、織田信孝が居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる事とし、皆々納得して会議はおひらきとなった・・・

てな事で、今では
勝家が「ぬぐぐぐ…」と悔しがり、
秀吉が三法師を抱っこして高笑い・・・
みたいな、ドラマのような展開はなく、実際には、ごくごく真っ当な結果であったという見方が主流です。

ところが、ほどなく、その関係がギクシャクし始めます。

ま、実際に、あの明智光秀を葬り去ったのが秀吉で、勝家は包囲中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)の関係で上杉景勝(うえすぎかげかつ)を警戒しなければならなかったために、その光秀討伐戦には参加できなかったわけで・・・(【前田利家の石動荒山の戦い】も参照>>)

その流れから、本来なら信長父の時代からの筆頭家臣である勝家と、途中採用の秀吉との力関係が微妙に変わって来ていた事も確かなのでしょうが、この頃(9月頃?)に勝家が自ら主導する信長の法要を行いながら、
秀吉は清洲会議の決定を反故にしとるんちゃうんか」
という弾劾状を書くと、

それに対抗するかのように、翌10月に秀吉も信孝に対する弾劾状を発し、自らが主導する信長の葬儀をやっちゃう(10月15日参照>>)わけです。

Odanobutaka600ats さらに、そんな中で織田信孝は、
「安土城の修理が終わったので三法師を安土へよこしてちょ」
という秀吉の要請を無視し続け、いつまでたっても三法師を岐阜城に置いたまま・・・

なので、ここらへんから、完全なる険悪ムードが漂いはじめた事で、11月2日、勝家はこの険悪ムードを和らげるべく、前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)3人を秀吉のもとに派遣して和睦交渉に当たらせました。

しかし、これは、雪多き北陸ゆえ、冬の合戦を避けたい勝家の、完全なる時間稼ぎ・・・

なんせ信孝は、相変わらず三法師を抱え込んだまま岐阜城に籠り、北陸&湖北(こほく=滋賀県北部)の柴田勝家と伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます)と連携して、滋賀→岐阜→伊勢の縦ラインの防戦を構築しているのですから。。。

この勝家の時間稼ぎ作戦をお見通しの秀吉は、その年の暮れ12月11日に柴田勝豊(かつとよ=勝家の甥で養子)が守る長浜城を囲んで投降を呼びかけ、12月15日に開城させました(参照>>)

一方の信孝は、すでに稲葉山砦(いなばやまとりで)に、守備隊として岡本良勝(おかもとよしかつ=信長の側室の叔父?)3000余りを配置し、本城=岐阜城には斎藤利堯(さいとうとしたか=斎藤道三の四男)ら重臣らを籠らせ、自らは山下本丸にて1万人の兵とともに準備を整えます。

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)の池田恒興や曽根城(そねじょう=岐阜県大垣市)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)から、この信孝の動きを聞いた秀吉は、織田信雄と連携し、丹羽長秀や筒井順慶(つついじゅんけい)堀秀政(ほりひでまさ)ら、約2万の軍勢を率いて、岐阜城へと向かいます。 

美濃に入った秀吉勢は、城下近隣を焼き払いつつ稲葉山砦を包囲し、コチラに降る者は拒まず、敵対する者だけを攻撃しつつも、信孝や本城には攻撃をせず、
「いつでもヤッたる事できんねんで!」
とばかりの陣形を取り、遠くの勝家や一益の出方を見ていました。

しかし、この一報を受けた勝家は、すでに雪深くなっていた北陸から動けず・・・それを知った一益からは、
「一時和睦して、春を待った方が良いのでは?」
との進言を受けた事で、信孝は、やむなく、

三法師とともに、自身の母や妻子を人質に出す条件で、秀吉に和睦を申し入れる事にしたのです。

かくして天正十年(1582年)12月29日信孝からの和睦養成を受け入れた秀吉は、包囲を解いて、三法師らを安土城に移し、自らは京都の山崎城(やまざきじょう=光秀討伐後に天王山に構築した城・宝寺城)へと戻って行ったのでした。

【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
Sizugatakezikeiretu2
しかし、これは、秀吉にとっても、また勝家にとっても、お互い様の一時休戦・・・

年が明けた天正十一年(1583年)2月には、秀吉軍が三方に分けれて伊勢に侵入し、滝川一益の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)への攻撃を開始し(2月12日参照>>)

3月には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)
からの柴田勝家北陸出陣(3月11日参照>>)

4月の峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)(4月17日参照>>)からの、
あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへと突入していく事になりますが、それら、続きのお話は、下記のリンクからどうぞm(_ _)m

★その後の関連ページ
(↓の各ページには、それぞれの経緯なども書いておりますので内容がカブッている部分が多々ありますが、ご了承くださいませ)
【美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
●番外編:【九十九橋の怨霊伝説】>>
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2022年12月22日 (木)

維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ

 

大正六年(1917年)12月22日、長州ファイブの一人としてイギリスに留学し、帰国後の活躍で工学の父と呼ばれる山尾庸三が死去しました。

・・・・・・・

幕末、周防(すおう=山口県)庄屋の家に生まれた山尾庸三 (やまおようぞう)は、10代の頃、萩藩(はぎはん=長州藩)の重臣から経理の才能を買われて、陪臣(ばいしん=家臣の家臣)として藩に奉公に上がります。

その後、江戸にて学ぶ中、文久元年(1861年)に、幕府が、開国の延期を交渉するためにロシアに派遣する使節団の一員に選ばれアムール川(ロシアと中国との国境付近から流れる川)の査察など行った後、

江戸へ戻った時には、同郷の高杉晋作(たかすぎしんさく)に誘われて、ともに英国公使館焼き討ち事件(12月12日参照>>)を起こすほどのバリバリの攘夷派(じょういは=外国排除派)でした。
(伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したとも)

そんな中、翌文久三年(1863年)に、陪臣から藩士に取り立てられた山尾庸三は、人生の大転換となるイギリス留学の機会を得ます。

藩主の命ではあるものの、幕府の許可は得てないなので、事実上密航なわけですが、そのメンバーは、
Tyousyuu5b600gt 井上馨(いのうえかおる=当時は井上聞多)
遠藤謹助(えんどうきんすけ)
伊藤博文(いとうひろぶみ=当時は伊藤俊輔
井上勝(いのうえまさる=当時は野村弥吉)
に山尾庸三を足した計5名、

後に長州ファイブ(長州五傑)と呼ばれる事になる5人です。

藩から支給された600両と、留守居役大村益次郎(おおむらますじろう=当時は村田蔵六)から半ば強制的に出させた5000両を持って、イギリス商船に乗り込み、上海(しゃんはい=中国の都市)を経て、一路イギリスへ・・・

5人は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部の聴講生という形で、英語をはじめ様々な学問に触れる事になりますが、 

それから間もなくの元治元年3月(1864年4月)、
(日本から)砲撃を受けた連合国は、幕府に抗議したが幕府の返答が曖昧だったために、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」

つまりは、
「これから連合国総出で長州を攻撃するよ」
という外国艦隊による長州砲撃計画のニュースを知るのです。
(実際には薩英戦争の話だったとも)
★参照↓
 ●文久三年(1863年)5月「下関戦争」>>
 ●文久三年(1863年)7月「薩英戦争」>>

とにもかくにも、この日本からもたらされたニュースにより、留学生5人の運命が変わります。

考えに考えた末、井上馨と伊藤博文の2名が即座に帰国する事として、4月中旬にロンドンを発ち、山尾庸三と遠藤謹助と井上勝の3名は、そのままイギリスに残り、学業を続ける事にしたのです。

とは言え、これは「両者が袂を分かった」という事では無いのです。

この後の流れを見ると、これは完全なる役割分担・・・しかも、この時の彼らの判断が見事に的中した事が、後々の出来事によってうかがえるのです。

これまで、イギリスにて様々な近代的な事を実際に見て&聞いて、胸に抱いた思いは5人とも同じで、
攘夷がいかに無謀な事か、
「排除するのではなく、受け入れて学ぶべきだ」
との思いを抱いていたのです。

つまり、帰国する2名は、「母国が危ないから加勢」ではなく、「無駄な戦いをしないように」と藩主を説得するために帰国したのです。

この時に帰国した井上馨と伊藤博文の2名が、この後、明治新政府を引っ張って行く有能な政治家になるのは、皆様ご存知の通り。。。
 ●【幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多=井上馨】>>
 ●【伊藤博文くんを評価したい】>>

そして、残って学業を続けた3名は、、、

井上勝は、留学を終えて帰国した後、新橋⇔横浜間の鉄道開業(9月12日参照>>)に尽力したり、 外国に頼らぬよう、鉄道における工業技術者を養成する工技生養成所(こうぎせいようせいじょ)を造ったりして「鉄道の父」と呼ばれます。

遠藤謹助は、帰国後、造幣局(ぞうへいきょく=硬貨の製造所)(2月5日参照>>)に入り、局長を務めるなど、その生涯を貨幣鋳造に捧げ「造幣の父」と称されます。

Yamaoyouzou500ast そして山尾庸三は、
工部省(こうぶしょう=社会基盤整備と殖産興業を推進する官庁)の設立や運営にに尽力するほか、東京大学工学部の前身である工部大学校(こうぶだいがっこう=技術者養成機関)を設立したり、工学関連の重職に就き「工学の父」となりました。

そうです。
先に帰国した2名は、見事な政治家となりましたが、政治家だけでは新しい国造りはできません。

しっかりと新しい技術を学んだ専門家もいてこそ、様々な新しい事を成し遂げられるのです。

それぞれの性格と得意分野を見抜いて、それぞれの進む道を、わずかの間に見極めて、帰国組と居残り組に分かれた20代そこそこの若き5人の先見の明には脱帽するしかありません。

ところで本日主役の山尾庸三さんは、「工学の父」から、さらに…

留学中に、イギリスの造船所にて会話が不自由な職人が、日々、元気に明るく働く姿を見て感動し、障害を持つ人が自立できるよう教育する盲学校(もうがっこう)特別支援学校(とくべつしえんがっこう)の設立を建白(意見する事)し、障害者教育に熱心に取り組み、日本ろうあ協会の総裁にも就任しました。

大正六年(1917年)12月22日 山尾庸三は80歳でこの世を去りますが、その生活ぶりは、さすがに豪勢なものの、身分のワリには質素な物で、晩年になっても、マジメで素直で、他人の話をよく聞く良きお爺ちゃんだったとか・・・

…にしても・・・
歴史にifは禁物ですが、

もし、アノ時、
帰国組と居残り組のメンバーが入れ替わっていたら…
もし、全員が帰国していたら…
逆に、全員が残っていたら…

その先にある新政府は、どのような形になったのでしょうか?

妄想は止まりませんね。。。
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2022年12月19日 (月)

鎌倉殿の13人…最終回「報いの時」の感想

 

いやはや…

来年の主役の松潤家康『吾妻鏡』読書風景から始まった「鎌倉殿の13人」最終回。。。

今年は、多忙により、あまり感想書けませんでしたが、全般的に良かったし、最終回も良かったですね~

最後は、ナレーターの長澤まさみさんが何らかの役で思い出を語ってる感じで登場するのか?と思ってましたが、違ってましたねww

しょっぱなから、戦い方の協議でモメる中、「坂口泰時を大将に、わずが18騎」という、ここは伝えられる通りの描写でしたね「泰時の出陣」参照>>)

そんな中、密かに
(木曽川の手前で?)チャンスがあったら俺は裏切るぜ」
と言ってた山本義村・・・

本来、これは八嶋智人さん演じられた武田信義の息子の武田信光の立ち位置だと思いますが(「木曽川の戦い」参照>>)、今回、息子は出てなさそうだし、出すなら役者さんの準備もいるので、これはこれでOK

放送時間の関係上、「美濃の戦い」>>がカットされて戦いは「瀬田&宇治」>>に行って、負けそうになった後鳥羽松也さんが、
「ぜ~んぶ、配下のヤツのせい…朕は担がれただけ~」
って、事にしちゃいましたが、

これは、以前その「瀬田&宇治」>>のページで書かせていただいたように、そういう事にしないと収まりませんものね~

「島流しなんで嫌じゃぁ」
という後鳥羽松也さん>>のもとへ、とっくに死んだはず(幽霊?)文覚>>が久々登場するのも、嫌さが伝わって来ますね~

…にしても、
「毒盛った?」
からの
「バレちゃった」
の、小栗義時菊池のえさんの二人芝居がコワイったりゃありゃしない。。。

小耳に挟んだ話によると、この時代には、まだ即効性の毒はなかったようですので、毎日々々飲んでもらってジワジワ…というのは、アリかも、、、

謎が多い中で、「奥さんの毒殺」という『名月記』のくだり「北条義時の最期」参照>>)に、ドラマ上はなったわけですが、

とにかく三谷氏は、新説や異説を取り入れて本筋に融合させて描くのがお好きだし、とてもお上手・・・今回も見事でしたね。

秋元巴御前横田義盛さんとくっつくのもナイスです「朝比奈義秀」参照>>)

小池政子さんが、孤児たちに親切にしていたのも、坂口泰時御成敗式目>>や、後の「いざ鎌倉」北条時頼>>のやり方に通じるとこがあるし…

大泉頼朝の死後、逝った人が13人という・・・これが「鎌倉殿の13人」というところに結び付けたのもお見事。。。
(私は佐藤上総介も忘れてはいない!キリッ)

個人的には、梶原善児さんや山本トウさん、また大竹歩き巫女さんのような架空の人物が、万能過ぎで無かった事も良かったです。

どこの誰とは言いませんが、架空の人物が難しい人脈を簡単につないだり、厄介な出来事を造作なく片付けちゃったりする時がチョイチョイあるので(笑

ちなみに、小栗義時が最後まで気にしていた仲恭天皇>>は、悲しい運命ながらも、もう10年ほど生きられます。

 

そして最期は
「ご苦労様…」

ホント良い終わり方でした。

一年間、楽しませていただき、
 ありがとうございましたm(_ _)m

それぞれの出来事のくわしくは
 「鎌倉時代の年表」>>からどうぞ
 .

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2022年12月15日 (木)

平安京ニュース~藤原頼行が藤原能信の従者を殺害

 

長和三年(1014年)12月15日、強姦をたくらむ藤原頼行の手助けに派遣された藤原能信の従者が、頼行に殺害されました。

・・・・・・・

第67代三条天皇(さんじょうてんのう)の時代の長和三年(1014年)の事。

右近衛将監(うこんえのしょうげん=宮中の警護役の3等官)を務めていた藤原頼行(ふじわらのよりゆき)。。。

その父は、時の鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を務めていた藤原兼行(かねゆき)という事なので、その息子の頼行も平安貴族としては、なかなかの上級お坊ちゃんだったと思われます。

なんせ鎮守府将軍というのは、古くは国内ただ一人の将軍で、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)も任命された要職で、部門の栄誉とされる地位ですから、今で言えば自衛隊のトップか警察のトップ・・・

…で、そんなボンボン藤原頼行には、ここのところ、気になる女性がいました。

Heianhime120 近江国(おうみのくに=滋賀県)の女性・・・という事だけで、くわしくはわからないのですが、この時代の事ですから、おそらくは大津(おおつ)あたりの、都からも近い場所に住んでいたのでしょうね。

ところが、そんな彼女は、どうやら藤原頼行には気が無い様子・・・

もちろん彼女の気持ちなど、記録に残るはずは無いので、あくまで想像ですが、このあとの頼行の行動を見れば一目瞭然。。。

なんと!頼行は、彼女を強姦しようと企てるのです。

しかし、この時代、、、若い女性が一人で街中をブラブラする事は、ほぼ無いですから、

「強姦する=彼女の家に行く」事になるわけですが、
どうやら頼行さん・・・自身の腕に自信が無かったのか?

とにかく
「一人で行くのは、ちょっと…」
と尻込み。。。

そこで、お友達の藤原能信(よしのぶ)君に相談します。

なんせ、能信君の父ちゃんは、今をときめく藤原道長(みちなが)・・・姉ちゃんの彰子(しょうし・あきこ)ちゃんは先代の一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)に嫁いで親王(後の後一条天皇)まで産んじゃって、もはやイケイケが止まらない状態ですから、怖い物なんてありゃしない。

すると、案の定、
「腕っぷしのえぇ奴、出したるさかいに…」

と、なんと!強姦の手助けを快諾してくれたのです。

かくして、能信君が派遣してくれる事になった従者とは
「山科(やましな=京都市山科区)で落ち合う」
との約束をして、
長和三年(1014年)12月15日、頼行は、いそいそと(強姦しに)出かけました。

ところがドッコイ、
山科で合った二人は、出会うなり口論となります。

その口論の内容は記録されていないので、何でモメたか?は想像するしかありませんが、

上記の流れを見る限り、おそらく派遣されて来た従者は、屈強で武に長けた人物なはず・・・

それが、
「自分が派遣された理由が、か弱い女性を強姦するためだった」
と知ったら・・・

「僕にはできません!帰ります」
と言ったか、あるいは、
「強姦なんていけません…止めましょう」
頼行を諌めたのかも知れません。

てか、普通はそうなりますよね?

頼行:「強姦するから誰かよこして~」
能信:「あいよ~!」
て、なる方がオカシイ。。。

…で、口論の末が、やがて合戦に発展し、この従者は頼行によって射殺されてしまったのです。

こんなので「合戦」というのもおかしな話ですが、やはり、この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)には、ハッキリと「合戦」と書いてある。

おそらくは、私たちが「合戦」と聞いて思い描く、源平やら戦国やらの合戦とは違うのでしょうけど、互いに矢を射かけたり、刀を抜いたりして刃傷沙汰になった事は確かなのでしょう。

上記の通り、屈強な従者が一人、亡くなってるわけですから・・・

しかし今回も・・・
安定の、お咎めなし。

なんせ、藤原頼行は、この8年後の治安二年(1022年)に、父と同じ鎮守府将軍に任命されているのですから・・・

「強姦やら殺人やらする奴が何を鎮守すんねん!」
とツッコミたくなりますね~ホンマ
Misuc3a330
とは言え、一方で、歴史好きとしては、
「この時代あたりは、こういう行為が罪とされていなかった」
という事実も踏まえておかねばなりません。

一般的には、この後の鎌倉時代、
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でお馴染みの北条泰時(ほうじょうやすとき)が貞永元年(1232年)に定める『御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)

そこに、
「謀反・殺人・山賊・海賊・夜討ち・強盗などは重罪」
と明記された事で、初めて「重罪」と認識された・・・と考えられています。
(その他、数々の違法行為は上記リンク↑からご覧あれ)

つまり、それまでは、
「人としてアカンやろ」
「人道的観点からNG」
「怨霊とかコワイねんけど」

とは思いながらも、殺人等が正式な罪とされていないと同時に、それを裁く法律も無かったわけです。
(もちろん、一つ一つ個別対応はしてたと思いますが…)

なんせ、今回の藤原頼行の事件でも、上記の通り、その行為は「合戦」となっているわけで…合戦なら人を殺害しても殺人罪にはなりませんものね~

そこらへんの、個人の事件と合戦の定義や区別等も、曖昧だったのかも知れません。

とは言え、
再来年の大河ドラマ「光る君へ」は、そんな平安時代を描くわけですが、そこらへんの、現代人との「認識の違い」「価値観の違い」はどのように処理されるのか?

個人的には、とても期待しております。

なんせ、大河で描く平安時代ですから、

脳内夢物語=美しい創作の『源氏物語』とは違うわけですからね~
もう、ワクワクです(^o^)

ちなみに、今回、強姦のお手伝いを快諾した藤原能信さんは、この2年後にも強姦未遂犯に関与してますが、そのお話は「平安京ニュース」5月25日号でどうぞ>>
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2022年12月 7日 (水)

誰もが欲しがる勇将・岡部正綱の生き様~第3次今川館の戦い

 

永禄十二年(1569年)12月7日、武田信玄岡部正綱の守る今川館を攻撃しました・・・第3次今川館の戦いです。

・・・・・・・・・

これまでも度々登場していますが・・・
あの徳川家康(とくがわいえやす)が、天正十三年(1585年)に近世城郭として整備して、後に駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区・府中城とも静岡城とも)と呼ばれる事になる城は、

近年(1982年)の発掘調査にて、戦国時代の新たな遺構が見つかり、この城郭の西側の一部が今川館(いまがわやかた)と呼ばれる今川氏の本拠であった事が分かっています。

…で、その今川氏は、ご存知のように、室町幕府から駿河(するが=静岡県西部)守護(しゅご=県知事)を任される名門だったわけですが、

文明八年(1476年)(文明七年=1475年~文明十一年=1479年までの諸説あり)に、塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて第8代当主の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)討死した(4月6日参照>>)事で、未だ幼い嫡男=今川氏親(うじちか)が成人するまでの間、義忠の従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)当主代理を務めることになったものの、

案の定、氏親が成人しても今川館に居座って当主の座を譲らなかった事から、母方の叔父の伊勢盛時(いせもりとき=後の北条早雲)の力を借りて小鹿範満から今川館を奪い返し、以後、氏親の今川宗家がここに居を構えて駿河を治める事に(11月9日参照>>)・・・これが第1次今川館の戦いです。 

ちなみに、この第1次の戦いをキッカケに、それまで幕府奉公衆として、ほぼ京都に滞在していた伊勢盛時が、伊豆(いず=静岡県東部)相模(さがみ=神奈川県)など、関東に根を下ろす事になります「北条5代の年表」参照>>)

その後、氏親の息子の今川義元(よしもと)が、この今川館を拠点に、海道一の弓取りとして活躍するのはご存知の通り・・・(「花倉の乱」参照>>)

しかし、これまたご存知の通り、永禄三年(1560年)、その義元が桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)にて尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)討たれた(2015年5月19日参照>>)事で、

Takedasingen600b 亡き義元と結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)(3月3日参照>>)を一方的に破棄した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)今川館から追い出し(2007年12月13日参照>>)

かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立して(2008年5月19日参照>>)遠江(とおとうみ=愛知県東部)に侵攻した(2019年12月13日参照>>)徳川家康が、信玄と連携して氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃して(12月27日参照>>) 、今川氏を滅亡に追い込んだわけです。

この永禄十一年(1568年)12月の、武田信玄が氏真の拠る今川館を攻撃する戦いが、第2次今川館の戦いと呼ばれる戦いなのですが、この時の信玄の行動に憤慨してる人が・・・

それは相模の北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫)。

そう、上記の通り、信玄が義元と結んでいた同盟は甲相駿三国同盟=つまり、駿河の今川と同時に相模の北条とも同盟を結んでいたわけですが、そこを無視しての駿河侵攻なわけで(12月12日参照>>)

しかも、その同盟の証として氏真は北条の姫を娶っており、この今川館から掛川城へと逃げる際には、あまりの急な攻撃に輿(こし)を用意する事が出来ず、この姫は氏真とともに徒歩で逃げるハメになったとか・・・

…で、勝手な同盟破棄もさることながら、自分の可愛い娘に屈辱的な恥い行動させた信玄に激怒となった北条氏康は、

かの三国同盟に時に娘を嫁に出すと同時に武田へ養子に出していた息子(後の上杉景虎)を、今度は上杉謙信(うえすぎけんしん)への養子として越後(えちご=新潟県)に送って上杉と同盟を結び

年が明けた永禄十二年(1569年)正月、すでに家督を譲っていた息子=北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて出陣させ、蒲原(かんばら=静岡県静岡市)から薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に向かわせたのです(1月18日参照>>)

この時の薩埵峠では、何とか防戦して事無きを得る信玄・・・なので、先の第2次今川館の戦いで今川館を落としたものの、その後の信玄は北条への防戦に忙しく、今川館の管理まで手が回らない。。。

この信玄大忙しの間に、そのスキを突いて今川館を奪い返していたのが、本日の主役=今川家臣の岡部正綱(おかべまさつな)でした。

 岡部正綱の岡部氏は、鎌倉時代の地頭(じとう=公領の管理)を経て、室町時代には代々今川氏に仕える譜代の家臣で、16歳で迎えた初陣での正綱は、臆することなく複数の首を討ち取る成果を挙げた武勇の持ち主でしたから、

先の第2次の戦いで今川館を信玄に奪われてからもチャンスをうかがい、北条の動きを気にした武田軍が撤退した4月頃、見事、今川館を占拠し、奪回を果たしていたのです。

さらに、その後、氏真の逃げ込んだ掛川城を落とすのに手こずっていた徳川家康が、北条の仲介によって氏真から掛川城を無血開城させる事に成功したのをキッカケに、

仲介してくれた北条と同盟を結んで、その後の氏真を北条が保護する事、そして北条氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を握る事を取り決めたのです。
(結局↑の取り決めは実現されませんでしたが…)

しかし、上記の取り決めは、信玄にとっては寝耳に水・・・本来なら家康と連携して駿河&遠江を取るはずが、
「このままやと旧今川の領地は、北条と徳川に取られるやんけ!」
と思った信玄は、

家康と訣別して独自に駿河に侵攻する事を決意し、この年の7月には配下の穴山梅雪(あなやまばいせつ=穴山信君・武田一門で信玄の甥)大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を攻撃させ(7月2日参照>>)、さらに北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へ・・・

とは言え、
さすがに、鉄壁の小田原城の守りに阻まれたため、この時の信玄は、やむなく撤退を開始するわけですが、

それを北条は見逃さず、10月6日には三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)両者がぶつかりました(2007年10月6日参照>>)

しかし、怯まぬ信玄は12月6日、北条氏信(うじのぶ=綱重とも・氏康の従兄弟)の守る蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃し、氏信らを討ち取って落城させています(12月6日参照>>)

とまぁ、上記の通り、先の第2次今川館の戦いからコチラまで、北条相手に縦横無尽の信玄だったわけですが、

いくら大忙しと言えど、さすがの信玄・・・1度奪った今川館を奪回されて、そのまま見過すはずは無いわけで。。。

案の定、かの第2次から約1年後の永禄十二年(1569年)12月7日武田信玄は今川館に籠った岡部正綱らに攻撃を仕掛けて来たのです。

これが、第3次今川館の戦いです。

しかし・・・
1年前には、わずか1日で落ちた今川館が、今回は、押しても退いても、ウンともスンとも言わず・・・しかも、籠る兵の数は、ここ何ヶ月かで岡部正綱が集めた氏真の近臣たちだけで、雑兵を合わせても、わずかに400名ほど。。。

天下を見据える武田信玄が、わずかの兵に翻弄されるとは!どうした事か・・・

信玄自身にも、その要因がつかめずにいたため、徐々に焦り始めます。

そこで信玄は、臨済寺(りんざいじ=静岡市葵区)の僧=鉄山宗鈍(てつざんそうどん)を仲介役に、好条件を提示して岡部正綱の説得に当たらせたのです。

その好条件とは、「年俸10倍!」

信玄は、正綱を称して
「万卒は得易く、一将は得難し (ばんそつはえやすく、いっしょうはえがたし)
(兵を集めるのは簡単だが、優秀な一人に巡り会うのは難しい)
と評価したとか・・・ 

とにもかくにも、信玄から、その武勇を高く評価され、開城を即された正綱は、今後も北条や旧今川からの援軍も望めない状況であるうえに、上記の通り、自身が義理を感じていた今川氏真が、すでに北条の仲介で家康に掛川城を明け渡している事もあって、

ついに信玄の申し入れを受け入れ、無血開城に踏み切ったのでした。

約束通り、3000貫の知行が与えられたうえに50騎の将として武田に迎え入れられ、以後、岡部正綱は武田の家臣として、信玄の駿河侵攻を支える事になります(1月4日参照>>)

Surugasinkouhanazawa
武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、
その武勇もさることながら、ここから注目したいのは、正綱さんの「身の振り方」・・・

その後も、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)をはじめとする信玄の西上作戦(10月13日参照>>)でも活躍し、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)(4月16日参照>>)に従い、天正二年(1574年)の勝頼の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)攻め(5月12日参照>>)や、有名な天正三年(1575年)5月の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)にも従軍しますが、

その直後から、武田方だった城が、
同年8月の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)
同じく11月の岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)(11月24日参照>>)
同じく12月の二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)
次々に、徳川家康に落とされてしまうのです。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中で迎えた天正九年(1581年)3月の第3次高天神城の戦いでは、家康の攻撃を受けて救援を求める城兵に対し、勝頼は一切答えず、援軍無きまま奮戦した諸将が全滅・・・生き残ったのは落城を知らせるために勝頼のもとへ向かった、たった11名のみという悲惨な戦いとなり、

討死した兵の中には正綱の一族の岡部元信(もとのぶ)もいたのでした(3月22日参照>>)

この出来事で意を決した正綱は、翌年の織田信長&徳川家康による甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田討伐)(2月9日参照>>)の時、同じく不満を持っていた穴山梅雪(2013年3月1日参照>>)とともに武田を出奔し、徳川家康側に走ったのです。

こうして、武田滅亡(3月11日参照>>)後は、徳川の家臣となった岡部正綱・・・しかし、ご存知の通り、この3ヶ月後に、あの本能寺で信長が横死(6月2日参照>>)、さらに、家康が伊賀越え(6月4日参照>>)で本拠に帰る途中に、かの穴山梅雪が殺害されてしまう(2012年3月1日参照>>)というアクシデントが。。。

この時、家康からの命を受けた岡部正綱は、いち早く下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)に向かい、城の構築準備に入っています(8月7日参照>>)

そう、その死で宙に浮いた穴山梅雪の領地の河内(かわち=同南巨摩郡)を確保するための工作です。

なんせ、このあと、上杉と北条と徳川で宙に浮いた旧武田の領地の取り合い天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が起こるわけですから、できるだけ早く押さえておくことに越した事ないわけで・・・

さらに、その後は、旧武田家臣を德川に取り込む事に尽力した岡部正綱。

残念ながら、その翌年の天正十一年(1583年)11月に42歳で死去しますが、これらの正綱の功績により、息子の岡部長盛(ながもり)美濃(みの=岐阜県南部)大垣藩5万石の大名となり、

その後も、途中に岸和田(きしわだ=大阪府岸和田市)6万石に移転したりもしますが、その末裔たちは、見事江戸時代を生き抜き、無事に明治を迎えました。

一説には、岡部正綱は、
「すでに徳川家康が今川での人質時代からの朋友だった」
とも言われているようですが、

どうやら、それは、岡部家が外様ながら徳川の譜代の家臣並みに厚遇された事への後付けの噂話だとか・・・

つまりは、そんな噂がでるくらい、家康が正綱の事を信頼していたという事なのでしょう。

とにもかくにも、岡部正綱という人は、戦国乱世に生きながらも、行く先々で信頼を勝ち取る類まれなる武将であった事は確かでしょう。
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