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2022年12月22日 (木)

維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ

 

大正六年(1917年)12月22日、長州ファイブの一人としてイギリスに留学し、帰国後の活躍で工学の父と呼ばれる山尾庸三が死去しました。

・・・・・・・

幕末、周防(すおう=山口県)庄屋の家に生まれた山尾庸三 (やまおようぞう)は、10代の頃、萩藩(はぎはん=長州藩)の重臣から経理の才能を買われて、陪臣(ばいしん=家臣の家臣)として藩に奉公に上がります。

その後、江戸にて学ぶ中、文久元年(1861年)に、幕府が、開国の延期を交渉するためにロシアに派遣する使節団の一員に選ばれアムール川(ロシアと中国との国境付近から流れる川)の査察など行った後、

江戸へ戻った時には、同郷の高杉晋作(たかすぎしんさく)に誘われて、ともに英国公使館焼き討ち事件(12月12日参照>>)を起こすほどのバリバリの攘夷派(じょういは=外国排除派)でした。
(伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したとも)

そんな中、翌文久三年(1863年)に、陪臣から藩士に取り立てられた山尾庸三は、人生の大転換となるイギリス留学の機会を得ます。

藩主の命ではあるものの、幕府の許可は得てないなので、事実上密航なわけですが、そのメンバーは、
Tyousyuu5b600gt 井上馨(いのうえかおる=当時は井上聞多)
遠藤謹助(えんどうきんすけ)
伊藤博文(いとうひろぶみ=当時は伊藤俊輔
井上勝(いのうえまさる=当時は野村弥吉)
に山尾庸三を足した計5名、

後に長州ファイブ(長州五傑)と呼ばれる事になる5人です。

藩から支給された600両と、留守居役大村益次郎(おおむらますじろう=当時は村田蔵六)から半ば強制的に出させた5000両を持って、イギリス商船に乗り込み、上海(しゃんはい=中国の都市)を経て、一路イギリスへ・・・

5人は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部の聴講生という形で、英語をはじめ様々な学問に触れる事になりますが、 

それから間もなくの元治元年3月(1864年4月)、
(日本から)砲撃を受けた連合国は、幕府に抗議したが幕府の返答が曖昧だったために、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」

つまりは、
「これから連合国総出で長州を攻撃するよ」
という外国艦隊による長州砲撃計画のニュースを知るのです。
(実際には薩英戦争の話だったとも)
★参照↓
 ●文久三年(1863年)5月「下関戦争」>>
 ●文久三年(1863年)7月「薩英戦争」>>

とにもかくにも、この日本からもたらされたニュースにより、留学生5人の運命が変わります。

考えに考えた末、井上馨と伊藤博文の2名が即座に帰国する事として、4月中旬にロンドンを発ち、山尾庸三と遠藤謹助と井上勝の3名は、そのままイギリスに残り、学業を続ける事にしたのです。

とは言え、これは「両者が袂を分かった」という事では無いのです。

この後の流れを見ると、これは完全なる役割分担・・・しかも、この時の彼らの判断が見事に的中した事が、後々の出来事によってうかがえるのです。

これまで、イギリスにて様々な近代的な事を実際に見て&聞いて、胸に抱いた思いは5人とも同じで、
攘夷がいかに無謀な事か、
「排除するのではなく、受け入れて学ぶべきだ」
との思いを抱いていたのです。

つまり、帰国する2名は、「母国が危ないから加勢」ではなく、「無駄な戦いをしないように」と藩主を説得するために帰国したのです。

この時に帰国した井上馨と伊藤博文の2名が、この後、明治新政府を引っ張って行く有能な政治家になるのは、皆様ご存知の通り。。。
 ●【幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多=井上馨】>>
 ●【伊藤博文くんを評価したい】>>

そして、残って学業を続けた3名は、、、

井上勝は、留学を終えて帰国した後、新橋⇔横浜間の鉄道開業(9月12日参照>>)に尽力したり、 外国に頼らぬよう、鉄道における工業技術者を養成する工技生養成所(こうぎせいようせいじょ)を造ったりして「鉄道の父」と呼ばれます。

遠藤謹助は、帰国後、造幣局(ぞうへいきょく=硬貨の製造所)(2月5日参照>>)に入り、局長を務めるなど、その生涯を貨幣鋳造に捧げ「造幣の父」と称されます。

Yamaoyouzou500ast そして山尾庸三は、
工部省(こうぶしょう=社会基盤整備と殖産興業を推進する官庁)の設立や運営にに尽力するほか、東京大学工学部の前身である工部大学校(こうぶだいがっこう=技術者養成機関)を設立したり、工学関連の重職に就き「工学の父」となりました。

そうです。
先に帰国した2名は、見事な政治家となりましたが、政治家だけでは新しい国造りはできません。

しっかりと新しい技術を学んだ専門家もいてこそ、様々な新しい事を成し遂げられるのです。

それぞれの性格と得意分野を見抜いて、それぞれの進む道を、わずかの間に見極めて、帰国組と居残り組に分かれた20代そこそこの若き5人の先見の明には脱帽するしかありません。

ところで本日主役の山尾庸三さんは、「工学の父」から、さらに…

留学中に、イギリスの造船所にて会話が不自由な職人が、日々、元気に明るく働く姿を見て感動し、障害を持つ人が自立できるよう教育する盲学校(もうがっこう)特別支援学校(とくべつしえんがっこう)の設立を建白(意見する事)し、障害者教育に熱心に取り組み、日本ろうあ協会の総裁にも就任しました。

大正六年(1917年)12月22日 山尾庸三は80歳でこの世を去りますが、その生活ぶりは、さすがに豪勢なものの、身分のワリには質素な物で、晩年になっても、マジメで素直で、他人の話をよく聞く良きお爺ちゃんだったとか・・・

…にしても・・・
歴史にifは禁物ですが、

もし、アノ時、
帰国組と居残り組のメンバーが入れ替わっていたら…
もし、全員が帰国していたら…
逆に、全員が残っていたら…

その先にある新政府は、どのような形になったのでしょうか?

妄想は止まりませんね。。。
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