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2022年12月 7日 (水)

誰もが欲しがる勇将・岡部正綱の生き様~第3次今川館の戦い

 

永禄十二年(1569年)12月7日、武田信玄岡部正綱の守る今川館を攻撃しました・・・第3次今川館の戦いです。

・・・・・・・・・

これまでも度々登場していますが・・・
あの徳川家康(とくがわいえやす)が、天正十三年(1585年)に近世城郭として整備して、後に駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区・府中城とも静岡城とも)と呼ばれる事になる城は、

近年(1982年)の発掘調査にて、戦国時代の新たな遺構が見つかり、この城郭の西側の一部が今川館(いまがわやかた)と呼ばれる今川氏の本拠であった事が分かっています。

…で、その今川氏は、ご存知のように、室町幕府から駿河(するが=静岡県西部)守護(しゅご=県知事)を任される名門だったわけですが、

文明八年(1476年)(文明七年=1475年~文明十一年=1479年までの諸説あり)に、塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて第8代当主の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)討死した(4月6日参照>>)事で、未だ幼い嫡男=今川氏親(うじちか)が成人するまでの間、義忠の従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)当主代理を務めることになったものの、

案の定、氏親が成人しても今川館に居座って当主の座を譲らなかった事から、母方の叔父の伊勢盛時(いせもりとき=後の北条早雲)の力を借りて小鹿範満から今川館を奪い返し、以後、氏親の今川宗家がここに居を構えて駿河を治める事に(11月9日参照>>)・・・これが第1次今川館の戦いです。 

ちなみに、この第1次の戦いをキッカケに、それまで幕府奉公衆として、ほぼ京都に滞在していた伊勢盛時が、伊豆(いず=静岡県東部)相模(さがみ=神奈川県)など、関東に根を下ろす事になります「北条5代の年表」参照>>)

その後、氏親の息子の今川義元(よしもと)が、この今川館を拠点に、海道一の弓取りとして活躍するのはご存知の通り・・・(「花倉の乱」参照>>)

しかし、これまたご存知の通り、永禄三年(1560年)、その義元が桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)にて尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)討たれた(2015年5月19日参照>>)事で、

Takedasingen600b 亡き義元と結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を一方的に破棄した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)今川館から追い出し(2007年12月13日参照>>)

かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立して(2008年5月19日参照>>)遠江(とおとうみ=愛知県東部)に侵攻した(2019年12月13日参照>>)徳川家康が、信玄と連携して氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃して(12月27日参照>>) 、今川氏を滅亡に追い込んだわけです。

この永禄十一年(1568年)12月の、武田信玄が氏真の拠る今川館を攻撃する戦いが、第2次今川館の戦いと呼ばれる戦いなのですが、この時の信玄の行動に憤慨してる人が・・・

それは相模の北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫)。

そう、上記の通り、信玄が義元と結んでいた同盟は甲相駿三国同盟=つまり、駿河の今川と同時に相模の北条とも同盟を結んでいたわけですが、そこを無視しての駿河侵攻なわけで(12月12日参照>>)

しかも、その同盟の証として氏真は北条の姫を娶っており、この今川館から掛川城へと逃げる際には、あまりの急な攻撃に輿(こし)を用意する事が出来ず、この姫は氏真とともに徒歩で逃げるハメになったとか・・・

…で、勝手な同盟破棄もさることながら、自分の可愛い娘に屈辱的な恥い行動させた信玄に激怒となった北条氏康は、

かの三国同盟に時に娘を嫁に出すと同時に武田へ養子に出していた息子(後の上杉景虎)を、今度は上杉謙信(うえすぎけんしん)への養子として越後(えちご=新潟県)に送って上杉と同盟を結び

年が明けた永禄十二年(1569年)正月、すでに家督を譲っていた息子=北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて出陣させ、蒲原(かんばら=静岡県静岡市)から薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に向かわせたのです(1月18日参照>>)

この時の薩埵峠では、何とか防戦して事無きを得る信玄・・・なので、先の第2次今川館の戦いで今川館を落としたものの、その後の信玄は北条への防戦に忙しく、今川館の管理まで手が回らない。。。

この信玄大忙しの間に、そのスキを突いて今川館を奪い返していたのが、本日の主役=今川家臣の岡部正綱(おかべまさつな)でした。

 岡部正綱の岡部氏は、鎌倉時代の地頭(じとう=公領の管理)を経て、室町時代には代々今川氏に仕える譜代の家臣で、16歳で迎えた初陣での正綱は、臆することなく複数の首を討ち取る成果を挙げた武勇の持ち主でしたから、

先の第2次の戦いで今川館を信玄に奪われてからもチャンスをうかがい、北条の動きを気にした武田軍が撤退した4月頃、見事、今川館を占拠し、奪回を果たしていたのです。

さらに、その後、氏真の逃げ込んだ掛川城を落とすのに手こずっていた徳川家康が、北条の仲介によって氏真から掛川城を無血開城させる事に成功したのをキッカケに、

仲介してくれた北条と同盟を結んで、その後の氏真を北条が保護する事、そして北条氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を握る事を取り決めたのです。
(結局↑の取り決めは実現されませんでしたが…)

しかし、上記の取り決めは、信玄にとっては寝耳に水・・・本来なら家康と連携して駿河&遠江を取るはずが、
「このままやと旧今川の領地は、北条と徳川に取られるやんけ!」
と思った信玄は、

家康と訣別して独自に駿河に侵攻する事を決意し、この年の7月には配下の穴山梅雪(あなやまばいせつ=穴山信君・武田一門で信玄の甥)大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を攻撃させ(7月2日参照>>)、さらに北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へ・・・

とは言え、
さすがに、鉄壁の小田原城の守りに阻まれたため、この時の信玄は、やむなく撤退を開始するわけですが、

それを北条は見逃さず、10月6日には三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)両者がぶつかりました(2007年10月6日参照>>)

しかし、怯まぬ信玄は12月6日、北条氏信(うじのぶ=綱重とも・氏康の従兄弟)の守る蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃し、氏信らを討ち取って落城させています(12月6日参照>>)

とまぁ、上記の通り、先の第2次今川館の戦いからコチラまで、北条相手に縦横無尽の信玄だったわけですが、

いくら大忙しと言えど、さすがの信玄・・・1度奪った今川館を奪回されて、そのまま見過すはずは無いわけで。。。

案の定、かの第2次から約1年後の永禄十二年(1569年)12月7日武田信玄は今川館に籠った岡部正綱らに攻撃を仕掛けて来たのです。

これが、第3次今川館の戦いです。

しかし・・・
1年前には、わずか1日で落ちた今川館が、今回は、押しても退いても、ウンともスンとも言わず・・・しかも、籠る兵の数は、ここ何ヶ月かで岡部正綱が集めた氏真の近臣たちだけで、雑兵を合わせても、わずかに400名ほど。。。

天下を見据える武田信玄が、わずかの兵に翻弄されるとは!どうした事か・・・

信玄自身にも、その要因がつかめずにいたため、徐々に焦り始めます。

そこで信玄は、臨済寺(りんざいじ=静岡市葵区)の僧=鉄山宗鈍(てつざんそうどん)を仲介役に、好条件を提示して岡部正綱の説得に当たらせたのです。

その好条件とは、「年俸10倍!」

信玄は、正綱を称して
「万卒は得易く、一将は得難し (ばんそつはえやすく、いっしょうはえがたし)
(兵を集めるのは簡単だが、優秀な一人に巡り会うのは難しい)
と評価したとか・・・ 

とにもかくにも、信玄から、その武勇を高く評価され、開城を即された正綱は、今後も北条や旧今川からの援軍も望めない状況であるうえに、上記の通り、自身が義理を感じていた今川氏真が、すでに北条の仲介で家康に掛川城を明け渡している事もあって、

ついに信玄の申し入れを受け入れ、無血開城に踏み切ったのでした。

約束通り、3000貫の知行が与えられたうえに50騎の将として武田に迎え入れられ、以後、岡部正綱は武田の家臣として、信玄の駿河侵攻を支える事になります(1月4日参照>>)

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、
その武勇もさることながら、ここから注目したいのは、正綱さんの「身の振り方」・・・

その後も、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)をはじめとする信玄の西上作戦(10月13日参照>>)でも活躍し、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)(4月16日参照>>)に従い、天正二年(1574年)の勝頼の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)攻め(5月12日参照>>)や、有名な天正三年(1575年)5月の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)にも従軍しますが、

その直後から、武田方だった城が、
同年8月の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)
同じく11月の岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)(11月24日参照>>)
同じく12月の二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)
次々に、徳川家康に落とされてしまうのです。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中で迎えた天正九年(1581年)3月の第3次高天神城の戦いでは、家康の攻撃を受けて救援を求める城兵に対し、勝頼は一切答えず、援軍無きまま奮戦した諸将が全滅・・・生き残ったのは落城を知らせるために勝頼のもとへ向かった、たった11名のみという悲惨な戦いとなり、

討死した兵の中には正綱の一族の岡部元信(もとのぶ)もいたのでした(3月22日参照>>)

この出来事で意を決した正綱は、翌年の織田信長&徳川家康による甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田討伐)(2月9日参照>>)の時、同じく不満を持っていた穴山梅雪(2013年3月1日参照>>)とともに武田を出奔し、徳川家康側に走ったのです。

こうして、武田滅亡(3月11日参照>>)後は、徳川の家臣となった岡部正綱・・・しかし、ご存知の通り、この3ヶ月後に、あの本能寺で信長が横死(6月2日参照>>)、さらに、家康が伊賀越え(6月4日参照>>)で本拠に帰る途中に、かの穴山梅雪が殺害されてしまう(2012年3月1日参照>>)というアクシデントが。。。

この時、家康からの命を受けた岡部正綱は、いち早く下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)に向かい、城の構築準備に入っています(8月7日参照>>)

そう、その死で宙に浮いた穴山梅雪の領地の河内(かわち=同南巨摩郡)を確保するための工作です。

なんせ、このあと、上杉と北条と徳川で宙に浮いた旧武田の領地の取り合い天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が起こるわけですから、できるだけ早く押さえておくことに越した事ないわけで・・・

さらに、その後は、旧武田家臣を德川に取り込む事に尽力した岡部正綱。

残念ながら、その翌年の天正十一年(1583年)11月に42歳で死去しますが、これらの正綱の功績により、息子の岡部長盛(ながもり)美濃(みの=岐阜県南部)大垣藩5万石の大名となり、

その後も、途中に岸和田(きしわだ=大阪府岸和田市)6万石に移転したりもしますが、その末裔たちは、見事江戸時代を生き抜き、無事に明治を迎えました。

一説には、岡部正綱は、
「すでに徳川家康が今川での人質時代からの朋友だった」
とも言われているようですが、

どうやら、それは、岡部家が外様ながら徳川の譜代の家臣並みに厚遇された事への後付けの噂話だとか・・・

つまりは、そんな噂がでるくらい、家康が正綱の事を信頼していたという事なのでしょう。

とにもかくにも、岡部正綱という人は、戦国乱世に生きながらも、行く先々で信頼を勝ち取る類まれなる武将であった事は確かでしょう。
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