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2022年12月29日 (木)

賤ヶ岳の前哨戦~織田信孝の岐阜の乱

 

天正十年(1582年)12月29日、信長亡き後に、息子の織田信孝岐阜城に籠って挙兵した岐阜の乱にて和睦が成立し、秀吉が兵を退きました。

・・・・・・・・

ご存知、
天正十年(1582年)6月2日、
本能寺(ほんのうじ=京都市中京区元本能寺南町)にて織田信長(おだのぶなが)横死(参照>>)

その2日後に、囲み中だった備中高松城 (びっちゅうたかまつじょう= 岡山県 岡山市)開城させた(参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

奇跡の中国大返し(参照>>)で畿内に戻り、
天王山(てんのうざん=京都府乙訓郡大山崎町)にて、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を討ったのは6月13日の事でした(参照>>)
(もっとくわしくは【安土の年表】>>の真ん中あたりでどうぞ)

その後、
すでに信長の家督を継いでいた織田信忠(のぶただ)も、本能寺にて信長とともに亡くなったため、6月27日に織田家の後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)清洲城(きよすじょう=愛知県清須市一場・清須城)にて開かれますが、

城には多くの家臣が詰めていたものの、会議自体に出席したのは、先の秀吉と
柴田勝家(しばたかついえ)
丹羽長秀(にわながひで)
池田恒興(いけだつねおき)の4人の重臣たち・・・
(滝川一益は神流川の戦い>>で遅刻)

この時、後継者の候補には、はじめは織田信孝(のぶたか=信長三男)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長次男)か…と考えられていましたが、結局、すでに家督を継いでいた亡き信忠の嫡男(つまり信長の嫡孫)三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決定し、

わずか3歳であった三法師の後見人に伯父の織田信孝と織田信雄がなる事で収まりました。

ちなみにドラマ等で描かれる、
柴田勝家が信孝を推していた事や、それに対抗する秀吉が、事前に幼き三法師を手なずけて、諸将の前に三法師を抱っこしながら登場して、皆が「ははぁ」となるシーンは、今では、後の創作であろうとされています。

まぁ、考えたら、幼いとは言え、嫡流が継ぐのは当然ですからね~
なんせ、すでに信孝は神戸(かんべ)を、信雄は北畠(きたばたけ)を継いでますしね。

領地配分については、
信孝が美濃(みの=岐阜県南部)
信雄が尾張(おわり=愛知県西部)
羽柴秀勝(ひでかつ=信長の四男で秀吉の養子)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県南部)
勝家は越前(えちぜん=福井県東部)安堵でプラス長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を上乗せ、
丹羽長秀は若狭(わかさ=福井県西部)安堵でプラス近江(おうみ=滋賀県)2郡を上乗せ、
池田恒興は摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県南東部)
秀吉は河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)
三法師は安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を相続。。。

また、柴田勝家とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)結婚も、この会議にて決められたと言われています。
(少し前までは、信孝主導の秀吉に対抗するための婚姻とされていましたが、最近では秀吉はじめ会議出席者全員の賛同があったと考えられているようです)

…で、その後は、
ご存知のように、信長が構築した安土城は、6月15日に謎の不審火で燃えちゃってた(参照>>)ため、安土城が修復される間は、織田信孝が居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる事とし、皆々納得して会議はおひらきとなった・・・

てな事で、今では
勝家が「ぬぐぐぐ…」と悔しがり、
秀吉が三法師を抱っこして高笑い・・・
みたいな、ドラマのような展開はなく、実際には、ごくごく真っ当な結果であったという見方が主流です。

ところが、ほどなく、その関係がギクシャクし始めます。

ま、実際に、あの明智光秀を葬り去ったのが秀吉で、勝家は包囲中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)の関係で上杉景勝(うえすぎかげかつ)を警戒しなければならなかったために、その光秀討伐戦には参加できなかったわけで・・・(【前田利家の石動荒山の戦い】も参照>>)

その流れから、本来なら信長父の時代からの筆頭家臣である勝家と、途中採用の秀吉との力関係が微妙に変わって来ていた事も確かなのでしょうが、この頃(9月頃?)に勝家が自ら主導する信長の法要を行いながら、
秀吉は清洲会議の決定を反故にしとるんちゃうんか」
という弾劾状を書くと、

それに対抗するかのように、翌10月に秀吉も信孝に対する弾劾状を発し、自らが主導する信長の葬儀をやっちゃう(10月15日参照>>)わけです。

Odanobutaka600ats さらに、そんな中で織田信孝は、
「安土城の修理が終わったので三法師を安土へよこしてちょ」
という秀吉の要請を無視し続け、いつまでたっても三法師を岐阜城に置いたまま・・・

なので、ここらへんから、完全なる険悪ムードが漂いはじめた事で、11月2日、勝家はこの険悪ムードを和らげるべく、前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)3人を秀吉のもとに派遣して和睦交渉に当たらせました。

しかし、これは、雪多き北陸ゆえ、冬の合戦を避けたい勝家の、完全なる時間稼ぎ・・・

なんせ信孝は、相変わらず三法師を抱え込んだまま岐阜城に籠り、北陸&湖北(こほく=滋賀県北部)の柴田勝家と伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます)と連携して、滋賀→岐阜→伊勢の縦ラインの防戦を構築しているのですから。。。

この勝家の時間稼ぎ作戦をお見通しの秀吉は、その年の暮れ12月11日に柴田勝豊(かつとよ=勝家の甥で養子)が守る長浜城を囲んで投降を呼びかけ、12月15日に開城させました(参照>>)

一方の信孝は、すでに稲葉山砦(いなばやまとりで)に、守備隊として岡本良勝(おかもとよしかつ=信長の側室の叔父?)3000余りを配置し、本城=岐阜城には斎藤利堯(さいとうとしたか=斎藤道三の四男)ら重臣らを籠らせ、自らは山下本丸にて1万人の兵とともに準備を整えます。

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)の池田恒興や曽根城(そねじょう=岐阜県大垣市)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)から、この信孝の動きを聞いた秀吉は、織田信雄と連携し、丹羽長秀や筒井順慶(つついじゅんけい)堀秀政(ほりひでまさ)ら、約2万の軍勢を率いて、岐阜城へと向かいます。 

美濃に入った秀吉勢は、城下近隣を焼き払いつつ稲葉山砦を包囲し、コチラに降る者は拒まず、敵対する者だけを攻撃しつつも、信孝や本城には攻撃をせず、
「いつでもヤッたる事できんねんで!」
とばかりの陣形を取り、遠くの勝家や一益の出方を見ていました。

しかし、この一報を受けた勝家は、すでに雪深くなっていた北陸から動けず・・・それを知った一益からは、
「一時和睦して、春を待った方が良いのでは?」
との進言を受けた事で、信孝は、やむなく、

三法師とともに、自身の母や妻子を人質に出す条件で、秀吉に和睦を申し入れる事にしたのです。

かくして天正十年(1582年)12月29日信孝からの和睦養成を受け入れた秀吉は、包囲を解いて、三法師らを安土城に移し、自らは京都の山崎城(やまざきじょう=光秀討伐後に天王山に構築した城・宝寺城)へと戻って行ったのでした。

【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
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しかし、これは、秀吉にとっても、また勝家にとっても、お互い様の一時休戦・・・

年が明けた天正十一年(1583年)2月には、秀吉軍が三方に分けれて伊勢に侵入し、滝川一益の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)への攻撃を開始し(2月12日参照>>)

3月には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)
からの柴田勝家北陸出陣(3月11日参照>>)

4月の峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)(4月17日参照>>)からの、
あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへと突入していく事になりますが、それら、続きのお話は、下記のリンクからどうぞm(_ _)m

★その後の関連ページ
(↓の各ページには、それぞれの経緯なども書いておりますので内容がカブッている部分が多々ありますが、ご了承くださいませ)
【美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
●番外編:【九十九橋の怨霊伝説】>>
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