« 2022年12月 | トップページ | 2023年2月 »

2023年1月31日 (火)

600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語

 

明治三十年(1897年)1月31日、 幕末には徳川慶喜の側近として、維新後も新政府の一員として活躍した哲学者=西周が、この世を去りました。

・・・・・・・

文政十二年(1829年)に、石見津和野藩(いわみつわのはん=島根県津和野町)御典医の家に、嫡男として生まれた西周(にしあまね=西周助とも)は、
(ちなみに作家で陸軍軍医だった森鷗外は従兄弟の子=親戚です)

あまりの勉強好きに、一代還俗(いちだいげんぞく=嫡男だけど家業を継がなくても良い)を許され、11歳で藩校に入学して蘭学を学んでいたところ、あのペリー来航(6月3日参照>>)をキッカケに、藩命にて江戸に派遣され、

その後、蕃書調所( ばんしょしらべしょ=江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)に所属して教授並みになる一方で、哲学をはじめとする西洋の学問の研究に励みました。

おかげで文久二年(1862年)には、幕命で榎本武揚(えのもとたけあき)らとともにオランダに留学し、ライデン大学にて法学や経済学や国際法…もちろん、哲学も大いに学び、

慶応元年(1865年)に帰国してからは、目付け役として徳川慶喜(とくがわよしのぶ=江戸幕府15代将軍)に重用され、さらに、その2年後には徳川家が設立した沼津兵学校(ぬまづへいがっこう)初代校長にも就任します。

この頃には、大名クラスを上院に、藩主クラスを下院に据え、德川幕府を中心に、今で言う三権分立を実現した議会政治の草案を記したり、幕末の四侯会議(しこうかいぎ=島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城からなる諮詢機関)の時には徳川慶喜の傍らに座って、その意見交換の指導をしたとも言われます。

Nisiamane400ask こうして、幕末期は幕府側の一員として活躍していたにも関わらず、維新が成った後の明治新政府からも、その手腕を乞われて出仕の要請を受け、兵部省文部省官僚として働き、『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ=陸海軍軍人の心得などを明治天皇の言葉として記した)草案を考えて軍政の整備に尽力しました。

…と言っても、西周の本領…というか、目指す場所というのは、軍人でも軍略家でもなく、もともと留学中に熱心に学んでいた西洋哲学であったわけで、

そこで、明治六年(1873年)に福沢諭吉(ふくざわゆきち)らとともに学術団体・明六社(めいろくしゃ)を結成し、『明六雑誌』(めいろくざっし)という機関紙を発行して、西洋哲学誌を翻訳して紹介し、日本における哲学の基礎を築こうと奮闘します。

そう・・・この西周が、なにげにスゴイのは、この外国語の翻訳。。。

外国語の音を、そのままカナや漢字で置き換えるのではなく、漢字が持つ本来の意味を考慮して造られた造語で、これは和製漢語(わせいかんご)と呼ばれます。

もちろん、この明治期だけではなく、以前、ご紹介させていただいた
杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』(3月4日参照>>)
宇田川玄随(うだがわげんずい)父子率いる宇田川一門『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)(12月18日参照>>)でも、この手法が使われ、

『解体新書』では「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」など、
『西説内科撰要』では「細胞」「酸化」「還元」「繊維」「金属」「珈琲」
などなどの和製漢語を造って難解な洋書を翻訳しています。

同じ明治期でも、先の福沢諭吉をはじめ、福地源一郎(ふくちげんいちろう)中江兆民(なかえちょうみん)、作家として有名な森鷗外(もり おうがい)夏目漱石(なつめそうせき)なんかも、造語=和製漢語を造っていますが、

西周のソレは、造った数がハンパない・・・一般的に知られているだけで約600ほどあるとされ、しかも、それが現在でもバリバリ使われている現役の単語なのです。

ご本人一押しのphilo sophy「哲学」をはじめとして、
skill「技術」
active「能動」
will「意識」
mental「心理」
moral「道徳」
さらに、
「芸術」「本能」「断言」「属性」「抽象」「単元」「定義」「理性」「主観」「客観」「実在」「刺激」
…などなど、キリがありません。

もう、西周の造った単語なしでは日常会話ができないくらいww
おかげで、日本では外国語をほとんど知らなくても一流の高等教育を受ける事ができるww

おそらくは、日本に漢字や漢文が伝えられた飛鳥&奈良時代以降、多くの新語&造語が造られたであろう中で、比較的近代の明治期とは言え、西周の造った造語が、ここまであまねく全国民に行き渡っているなんて!

しかも、オモシロイのは、西周作含むこれらの和製漢語の多くが逆輸入されて、現在の中国の若者の間でも普通に使われているところ・・
(ちなみに中華人民共和国の人民共和国は和製漢語)

それは、やはり漢字の意味を知る民族にとって、それだけ誰もが納得するウマイ訳し方だったという事でしょう。

そんな中、明治十七年(1884年)頃から体調を崩し始めた西周は、公職を辞職して大磯の別邸にて静養をしながらも、学問は怠らず、西洋の心理学と東洋の仏教思想との融合などについて研究していたと言いますが、

やがて明治三十年(1897年)1月31日帰らぬ人となりました。

幕臣でありながらも、新政府において貴族議員に任じられたところをみると相当優秀な人だったと思われる西周ですが、実際にところ、福沢諭吉ほどは知られていませんよね~

実は、若き日に起草した『軍人勅諭』、、、
これが、戦後、軍国主義に走ったおおもとではないか?と考えられ、一時、西周を語る事がタブー視されていた事も確かなのです。

しかし、最近の『軍人勅諭』の研究では、西周が草案したソレと、実際に発布されたソレは、別人によって書き換えられた部分があるうえ、戦時中のプロパガンダによって、さらに歪められて伝わった感もある事が指摘されていて、

徐々に、「もっと評価されるべき偉人」として注目されて来ているようです。

もっともっと知りたいし、多くの人に知ってほしい人物ですよね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年1月25日 (水)

享保の大飢饉からの享保の打ちこわし~

 

享保十八年(1733年)1月25日、江戸の町人1700人余り米問屋の高間伝兵衛宅を襲撃しました。

これは、江戸で起こった初めての打ちこわし「享保の打ちこわし」と呼ばれます。

・・・・・・

「打ちこわし」とよく似た感じで「一揆(いっき)というのもありますが、

そもそも正長元年(1428年)9月に、日本で初めて起こった「正長の土一揆」(9月18日参照>>)を皮切りに、有名どころでは、
借金を棒引きにする徳政令(3月6日参照>>)を要求する「徳政一揆」
自治や独立を要求する「国一揆」(【山城の国一揆の終焉】参照>>)
宗教絡みの「一向一揆」(【加賀一向一揆】参照>>)
などなどありますが、

基本は、飢饉のあとなどの生活の苦しみに堪えかねた地方の農民などが年貢の減免やエラそうな役人の交代を領主や役人に訴えて起こす暴動です。

もちろん、戦国時代には上記の通りの宗教絡みや国人(こくじん=土地に根付いた半士半農の侍)絡みのもありますが、江戸時代になってからは、ほぼ農民たちによる土一揆が主流な感じです。

一方、「打ちこわし」は、
主に江戸や大阪など都市部に住む貧しい人たちが、飢饉などで米が不足しているにもかかわらず、米を買い占めてさらに値上げを画策する米商人をはじめとする豪商を「米出せや!」とばかりに襲撃するものです。
(なので「打ちこわし」は主に江戸時代に入ってから…)

ただし、たまに一揆と打ちこわしが連動して起こる事もあるので、ピッシリ線引きできるわけではありませんが、基本はそんな感じで、原因は、どちらも飢饉のあとの米不足や苦しい生活の改善にあるようです。

そんな中、今回、江戸という大都市で起こった初めての「打ちこわし」。。。

そもそもの原因は、前年の享保十七年(1732年)に起こった享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)でした。

それ以前、かの暴れん坊こと8代将軍の德川吉宗(とくがわよしむね)が、享保元年(1716年)~享保七年(1722年)くらいにかけて実行した享保の改革。。。(6月18日参照>>)

  1. 「足高の制」・・・幕府官僚体制の整備
  2. 「目安箱」・・・庶民の意見を聞くために設置
  3. 「新田開発」・・・新作物作りも奨励
  4. 「株仲間結成」・・・商業の統制を図る
  5. 「上米(あげまい)の制」・・・武士の財政難救済
  6. 「定免法(じょうめんほう)・・・年貢の定額徴収

てな、感じが次々行われたわけですが、とにかくは、
「幕府の財政を立て直して困窮する武士たちに給料を支払うために新田開発して米をたくさん作ろう」
というのが主たる目的だったわけです。

それから約10余年・・・おかげで多くの米が採れるようになりましたが、「米が十分にに行き渡る」となると・・・そう、米の値段は当然安くなって来ます。

これまた当然ですが、この頃は幕府お抱えの武士の給料も「米」ですから、米の値下がりは給料のベースダウンになってしまう。。。

しかも、米が安くなったからとて、他の物の値段が全部安くなるわけではありませんから、逆に、他の物の物価は高く感じるわけで。。。

そこで幕府首脳陣は、手っ取り早く米価を調節すべく、各天領に
「米を生産地に留め置き代官所等に貯蔵しておくように」
との命令を出します。

もちろん、江戸や大阪の米商人にも
「やたらに米を売り出さずに規制せよ」
との命が下ります。

ところがドッコイ、そんなこんなしていた享保十七年(1732年)、瀬戸内海沿岸にてイナゴが大量発生・・・近畿地方から西の稲がイナゴたちに喰い荒されてしまい、たちまち西日本が飢饉に陥るのです。

一説によれば、近畿から九州を含む西国にて1万数千人が餓死したと言われます。

これが江戸にも影響を及ぼす事態によって、幕府首脳陣も慌てて米商人たちに
「米を放出せよ」
との命を出しますが、そこは商人・・・お役人の自分勝手で出したり出さなかったりの手のひら返し・・・
「素直に言う事ばっかり聞いておられんわい」
(もうチョイ引っ張れば値段も上がるしね)
とばかりに、出し惜しみするのです。

かくして享保十八年(1733年)1月25日、事件は起こります。

Bakumatuedosityuusoudouzu1100a
打ちこわし「幕末江戸市中騒動図」(国会図書館蔵)

江戸は日本橋に店を構える幕府出入りの米商人=高間伝兵衛(たかまでんべえ)は、米商人の中では比較的幕府に忠実で、なんだかんだで命令通り、米の放出に協力していた人なのですが、一般庶民から見れば、米商人は皆同じ・・・

いつしか
「高間は米をいっぱい持ってるのに売り惜しみをして値段を吊り上げる気だ」
との噂がたち、店頭に1700人余りの町人が押し寄せたのです。

慌てて店側は、家の蔵に貯蔵していた2万石の米を放出し
「今までのままの値段で売るから静まって~~」
と頼みますが、もはや1700人の勢いは止まらず・・・

ここに江戸初の「打ちこわし」が決行されたのです。

巷には
♪大岡(多くは)食わない
 たった越前(一膳) ♪
てな歌が大ハヤリ。。。

そう、実は、幕府首脳陣の中には、時の老中らとともに、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)も、その力量を買われて加わっていたのです。

しかも町奉行の本分は「江戸の町の治安を守る事」・・・原因を作ったのも大岡様なら、騒動を止められなっかったのも大岡様。。。

てな具合で、どうやら、誰が主導権を握っていたかは、一般庶民の皆さまもお解りのようで・・・

とは言え、大岡様は、このあとに寺社奉行にもなってるので、責任をなすりつけられる事も無く、まぁ大丈夫かな?

あと、襲撃された高間伝兵衛さんも、本人は当日は店を留守にしていたし、その後も米価の安定に務めたので無事・・・

上記の通り、噂では1700余人いた襲撃組も、中心人物となった数名が流刑にされただけで、多くは無罪だったようです。

ま、幕府首脳陣も自分たちの「やりようのマズさ」感もあったりなんかして、穏便に治めようとしたのかも・・・
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年1月20日 (金)

大河ドラマ「どうする家康」の1・2回の感想

 

「どうする家康」第1回第2回を視聴させたいただきましたが、、、
どうする?感想(;_; )オロオロ ( ;_;) アセアセ💦

一応、歴史ブログなので、歴史好きから見たストーリーの感想を書かなきゃ!と思うのだけど、
映像のインパクトが強すぎて、1度見ただけでは内容が入って来ないww

とにもかくにも、第一印象は、映像全体が中国ドラマ(史劇・時代劇)みたいでしたね~

背景やら馬やらがCGなので、そのように思うのかも知れませんが、なんかバックの風景が外国っぽくて中国の大草原で戦ってるみたいな?

合戦シーンは、まるで中国ドラマの
「琅琊榜(ろうやぼう)か?
「九州縹緲録(きゅうしゅうひょうびょうろく)か?
(ちなみに私は中国時代劇も好きなので批判してるわけではありません)

そう言えば、九州縹緲録の主人公の皇子も、はじめヘタレ(途中で覚醒します)で、彼を助けて奮い立たせ親友となる武人は槍の名手やったww
(しかも槍の名手=姫野を演じた陳若軒さんは山田裕貴クンに雰囲気が似てるかもww←個人の感想です)

初回の最後にテルマエ信玄が瞑想してる崖から見える景色は、まるで「桃花シリーズ(中国古代神話がベース)に出て来る天界か神仙界の風景みたいやったし…

ま、昨年HITした「るろ剣」の実写版映画も、格闘シーンなどがワイヤーアクションバリバリの中国ドラマっぽい殺陣になってたので、そういう演出が今のハヤリなのかも知れません。

これは、
「ひょっとして服部半蔵が、屋根から屋根へワイヤーアクションで飛びまくるかも知れん」
と、逆に期待。。。

ドラマの演出も、時代とともにハヤリの手法が採用されるのは当たり前の話で、やがては、それが主流になる時が来るかも知れませんしね。

現に、1回目見た時には、あのメリーゴーランドのように同じ動きをするCG乗馬シーンに、思わず
「これで、えぇん?」
と突っ込んでしまいましたが、2回目は、ちょっと見慣れてきましたww

聞くところによると、あのCG馬たちは、動物を酷使する乗馬や合戦シーンは
「動物愛護の観点からも不適切ではないか?」
との考えによる新しい試みだそうで、

そんな新しい試みは、1~2回だけ見て判断できる物ではありませんし、ひょっとしたら1年間見終えた後でも…
なんなら5年10年経った後に、
「あの時にアレやったのは斬新だったねぇ」
との評価を受けるかもわかりませんから、今、この時点での評価は時期尚早という物でしょう。

ただ、一方で、一大河ファンとして
「これは…どえらいパンドラの箱を開けてしまったのでは?」
との思いもあります。

動物愛護もそうですが、大規模な合戦シーンを撮影できる場所が少なくなっている事も確か・・・

先日は、同じNHK様の「100カメ」という番組で、「鎌倉殿の13人」の富士の裾野での巻狩りシーンの撮影の、スタッフ様の奮闘ぶりを拝見させていただきましたが、

100人に及ぶエキストラさんが、衣装に着替え、メイクをやって準備万端整えても、
「雨が降ったら撮影中止」
「風が吹いたらセットがぶっ飛ぶ」
「イノシシの別撮りに1日がかり」
等、かなり苦労されているのを目の当りにし、大変な思いをされながらお仕事に挑んでおられる事に感銘を受けました

この先、合戦シーンを撮影できるくらい広く、現代物が見切れないような場所も、どんどん減っていくだろうし…そんな中で将来の事を見据えたら、CG採用も致し方ないところです。

ただ…なら、
動物愛護から馬や動物はCG,
場所と天候に左右されないから背景はCG(←今ココ)
伝統技法を受け継ぐ職人が少ないので建具や衣装はCG、
格闘シーンは危険を伴うのでモーションキャプチャーで対応、
って事になると、これからのドラマはどうなってしまうのだろう?
と考え出したら、頭の中でアホな妄想がどんどん加速するww

とは言え、それこそ新しい試みは大切です。
何でも挑戦してみない事にはお話になりませんから、試してみる価値はあるでしょう。

そんな新しい試みと言えば、巷では
「軽すぎる」
なんて事も言われている今回の松潤家康さん・・・

私としては、題名が「どうする家康」だと聞いた時点で、すぐさま、あの三方ヶ原の脱糞シーン(参照>>)が思い浮かび、
「おそらくは、敵に囲まれ窮地に立った家康さんが右往左往するんだろうな~」
と予想していたので、壮絶ヘタレな松潤家康が、どんなけアタフタしても、
「そんなヘタレが、やがて天下統一する武者に変貌するさまを描いて下さるんだろうなぁ」
という期待しか浮かんできません。

おそらくは本物の虎を見た事が無いであろう松嶋於大の方「ガオーッ」とやろうが、

相撲の「可愛がり」よろしく、きつく当たりながら成長を期待するツンデレ岡田信長が、
「待ってろよ!俺の白兎」
と言いながら、顔見せただけで撤退するブロマンス(もしくはBL)満載な感じも、

それはそれで、歴史に興味のない方に楽しく見てもらうためには、アリな演出だと思います。

Ieysunagarebata ただ、歴史好きとして「アレ?」って思った気になる所もチラホラ・・・

最初の第1回の段階では、松潤家康は駿府にいたわけですが、第2回の回想シーンでは
「三河から逃げようとした所を織田に奪われた」
事になってましたよね?
(父が三河におるのになぜ逃げるのかワカランが)

一般的な歴史では、家康父の松平広忠が、今川の支援を受けるために息子を今川に人質に出そうとしたのを、途中で織田が奪う(参照>>)・・・
(注:「最初から織田へ人質に出された」説もあります)

つまり、織田としては松平を味方につけるべく家康を奪った事になるわけで、ただ逃げようとしてるのを奪ったわけでは無い。

結局は、広忠が織田に屈する事が無いまま死んでしまい(参照>>)、その後の安祥城の戦いで、信長の兄を生け捕りにした今川方の太原雪斎によって信長兄⇔家康の人質交換という形で、家康は今川の人質に収まる(参照>>)わけですが、

ドラマでは、上記の通り
「今川への人質」ではなく、
「三河からの脱出」になってる事で、
そこのところ(織田→今川に行くくだり)はどう描かれるのか?
興味津々です。

興味津々と言えば、第2回の角田昌久大樹寺を囲まれた時に言った
「織田からも武田からも三河を守ってみせる!」
との松潤家康の高らかな宣言。。。

これは、どの立場でおっしゃってるのか?

このあとに
「今川様は必ず蘇る」
って言ってたので、おそらく今川の立場なら、

この時はまだ甲相駿三国同盟(今川と北条と武田の同盟)(【善得寺の会盟】参照>>)が活きてるはずなので、テルマエ信玄は味方のはず・・・

この後に、信玄は三国同盟を勝手に破棄して駿河への侵攻を開始しますが、その頃には家康も今川と訣別して(【長沢の戦い】参照>>)

信長と同盟を結んで(【清須同盟】参照>>)、なんなら信玄と連携して北と西から同時に今川を攻めるわけなので、ここでもやっぱりテルマエは味方のはず・・・
(信玄は今川館>>・家康は掛川城>>

信玄と家康が敵対するようになるのは、掛川城を落とすのに手こずった家康が、

(三国同盟を信玄から勝手に破棄された)北条に助けてもろたついでに同盟結んで、北条氏直を今川の後継者にする事を決めちゃったからなのでは?(【大宮城の戦い】参照)

と思うのですが、それはそこ・・・ドラマが歴史に忠実である必要は無いので、気になる部分は、物語の中でウマくまとめて辻褄を合わせて下されば良き事

そうなれば、今回の大河によって
新しい家康像が確立されるかも知れません。

新しいドラマの形も生まれるかも知れません。

なんせ、最初の最初、なにげに
「寅年の寅の日の寅の刻生まれの家康は、生まれながらに帝王の資質を持つ」という話は、家康を神格化するための眉唾で、実は卯年生まれ

という最新の説をブッ込んで、ヘタレ家康のイメージを視聴者に与えてくださるという見事な手腕を披露されたワケですから。。。

これだから大河ファンは止められませんなwww

本年も、色々期待しながら、視聴させていただきたいと思います。

それぞれの出来事の参照ページは【徳川家康の年表】>>からどうぞm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4)

2023年1月16日 (月)

北条氏政から城を守れ!簗田持助の第3次関宿城の戦い

 

天正二年(1574年)1月16日、足利藤政が、北条に狙われている関宿城への救援太田資正に要請・・・第3次関宿城の戦いが勃発します。

・・・・・・・・

江戸川(茨城・埼玉・千葉県・東京を流れる利根川の分流)をさえぎるような形で構築された関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )は、南北朝時代か室町時代の初め頃に簗田(やなだ)によって築かれた城ですが、

場所的に、ここ周辺が利根川水系等の要地であり、関東の水運を抑えるに絶好の地であった事から、かねてより関東支配を目論む北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫・3代目)「関宿を抑えるは、一国を獲ると同じ」と言ってはばからず、

おかげで、戦国時代には、何度も戦場となった城でした(3月2日「第1次関宿城の戦い」参照>>)

…というのも…

Asikagakuboukeizu3足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そもそもは、関東に根を張る足利(あしかが)が、あの南北朝のゴタゴタで京都にて室町幕府開く事になったため、京都に居る将軍の代わりに、領地である関東を治めるべく派遣した鎌倉公方(かまくらくぼう)の後継である古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠としたので)が、

ここに来て、その5代目トップを巡って、足利義氏(よしうじ=4代・晴氏の息子)足利藤政(ふじまさ=義氏の甥・藤氏はすでに死去?)の抗争が勃発・・・

しかも、義氏を北条氏政(うじまさ=氏康の息子・4代目)が推し、上杉家から関東管領職(かんとうかんれい=公方の補佐)を譲られた(6月26日参照>>)上杉謙信(うえすぎけんしん=この頃は長尾景虎→上杉政虎)が藤政を推す…という構図になってしまいます。

そんな中で、時の関宿城主=簗田持助(やなだもちすけ)は、かつてはその足利義氏の奉公人だった地位を、北条に取って代わられたこともあって、足利藤政を庇護する里見義弘(さとみよしひろ)とともに上杉派に立っていましたから、そりゃ北条に何度も狙われますわな。。。

そこで天正二年(1574年)1月16日
足利藤政は、
「関宿 、日におって手詰り、是非なき次第」
と書状に綴り、
太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)(9月8日参照>>)に対し、ヤバさ満載となった関宿城への救援要請を発したのです。

そもそも太田資正のひぃ爺ちゃん=太田道灌(おおたどうかん)は関東管領の執事(しつじ=補佐)ですから、彼もまた、今回、関東管領になった謙信にベッタリ・・・これは、太田資正とともに上杉謙信や、そこに味方する佐竹義重(さたけよししげ)の出陣を願っての要請でもありました。

この救援要請を知ってか知らずか、この同時期に北条氏照(うじてる=氏政の弟)栗橋城(くりはしじょう=茨城県猿島郡五霞町)を出発すると、すかさず北条氏繁(うじしげ=親戚)玉縄城(たまなわじょう=神奈川県鎌倉市玉縄)を出て、関宿城はもちろん、簗田支城の水海城(みずみじょう=茨城県古河市)をもターゲットにし、進軍して来ます。

Sekiyadozyoukoubou
関宿城攻防の関係図 ↑クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

これを受けた上杉謙信は、3月17日に武蔵(むさし=東京・埼玉・神奈川の一部)羽生(はにゅう=埼玉県羽生市)まで出張って来ますが、それに対抗するように北条氏政も出陣・・・5月には関宿城近くまでやって来て陣を置き、配下の者に「法度」を授けて周辺の取り締まりを強化し、怪しい者がいれば、すぐに捕縛するよう命じます。

7月22日から24日にかけては、下総(しもうさ=千葉北部・茨城南西部・東京&埼玉の東部)幸嶋(さしま=茨城県坂東市周辺・猿島)あたりで北条VS上杉の両軍が合戦となり、北条が勝利しています。

そんな中で8月に入ると、北条軍の包囲の厳しさに疲弊し始めたのか?関宿城内の一部の者から、北条に内通する者が現れ始め、これに気づいた簗田持助が「家臣の何名かを処分する」という事態も起こり、それが11月になると、さらに状況が悪化して来ます。

「北条がぜんぜん退けへんで、もうムリ」by梁田

これを受けた謙信自らが利根川を越えて、上野(こうずけ=群馬県)金山(かなやま=群馬県太田市)までやって来て、新田領(にったりょう=群馬県太田市周辺・旧新田郡)周辺に放火して回り、小山秀綱(おやまひでつな=祇園城主)那須資胤(なすすけたね=那須衆当主)に、
「すぐにでも出陣せよ」
と救援要請をかけますが、

11月の終わりころには、関宿城から
「あと2~3日しか持たんかも知れません。
北条には後詰はおらんみたいですけど、それでもメッチャ攻めて来よるんです。
弾も火薬も無くなりそうやし…もう滅亡すんの待つだけですわ」
との悲痛な叫び・・・

これを聞いた上杉謙信は、未だ援軍を出さない佐竹義重に対し、再度の援軍要請・・・

…というのも、佐竹では家臣たちの中に謙信への不信感を抱く者が多く、反対意見の多さに主君の義重の動きも、少々遅くなっていたわけで。。。

そこで謙信、、、
「俺がなんぼアホでも、今の義重に対して悪意があるわけないやんけ!
せやのに、疑うなんて…お前らは鬼か?悪魔か?
そんなんでは簗田持助も滅んでまう。
そんな事を噂するヤツは、きっと敵の計略にハマッて残念な事になるぞ(上杉家文書)
と、チンタラしてる佐竹に、かなり怒ってはります。

こうして、北条に行く手を阻まれた謙信が思うように動けない中、羽生城が落城・・・(11月20日参照>>)

やっとこさ佐竹が動き出すも、閏11月27日には、とうとう関宿城が陥落し、開城の運びとなってしまいました。

こうなった以上、せっかく出陣した佐竹義重も、北条との和睦を締結し、閏11月16日には帰国の途に。。。

また、かの3月の出陣から、約半年に渡って関宿にかかりっきりになっていた上杉謙信も、閏11月20日には、
「無敵や言うとった北条の奴らも、城外へは一騎たりとも乗り出して来よれへんかったよな~
俺の動きにはビビッとったんちゃうか~」
てな捨てゼリフを残して(蘆名氏への手紙)越後(えちご=新潟県)へと帰っていきました。

一方、自らの後ろ盾となっている北条氏政が勝利した事を受けて、意気揚々の足利義氏は
「輝虎(謙信)のボケ、
佐竹まで引っ張り出したくせに、結局は退散してからに…負け確定やんけ。
これで静かになったわ~(関宿伝記)
と、思う存分の勝利宣言。

こうして関宿は、北条氏が占領する場所となりました。

その後、古河公方の奉公人として出仕する事を許された簗田持助は水海城へと入りますが、重要な場所として認識されている関宿城は北条の手で大幅改修され、2度と持助の手に戻る事はなく、その後は北条の北関東進出の拠点の城となってしまったのでした。

とは言え、ご存知の、
豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(4月20日参照>>)で、北条氏が事実上の滅亡と相成った後は、関八州を束ねる事になった徳川家康(とくがわいえやす)が、異父弟(於大の方の再婚相手との息子)松平康元(まつだいらやすもと)に、この城を任せる事となり、家康が天下を取った後に、康元は関宿藩の藩祖となっています。

とにもかくにも、家康が、ともに徳川の基盤を造る事になる血を分けた弟に、この城を守らせる~って事は、やはり位置的には重要な城だったんでしょうね~関宿は。。。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年1月11日 (水)

三好長慶VS伊丹親興~伊丹城の戦い

 

天文十八年(1549年)1月11日、三好長慶が敵対する伊丹親興の居城=伊丹城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・

伊丹親興(いたみちかおき)伊丹氏摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)有力国人(こくじん=土地に根付く侍)で、代々細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=管領を輩出する細川家の嫡流)に仕えていましたが、その後継者争いである天王寺(てんのうじ=大阪市天王寺区)の戦い=大物崩れ(だいもつくずれ)(6月8日参照>>)にて、当時、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)の城主だった伊丹国扶(くにすけ)が、負け組である細川高国(ほそかわたかくに)に味方して自身も討死した事から、伊丹国扶の従兄弟であった伊丹親興が、その後を継いで伊丹城主を務めていたのでした。

その後は、かの大物崩れで細川高国に勝利した細川晴元(はるもと)が、事実上細川京兆家トップとなった事から、伊丹親興も、その傘下に収まるのですが、

Miyosinagayosi500a 大物崩れから10年経った天文十年(1541年)に、細川晴元が故郷の阿波(あわ=徳島県)から連れて来た配下=三好長慶(みよしながよし)が、旧高国派の一庫城(ひとくらじょう=兵庫県川西市・山下城とも)塩川政年(しおかわまさとし)を攻めた事を不満に思った伊丹親興が、

時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第11代室町幕府将軍)に、その不当性を訴えて、幕府実力者=木沢長政(きざわながまさ)とともに、自ら一庫城の救援に駆け付けた事から、再び、伊丹氏は三好長慶と敵対関係となったのでした。

この時の一庫城の戦いは引き分けに終わりましたが、両者の関係悪化は治まらず、翌天文十一年(1542年)には、三好長慶が木沢長政を倒す太平寺(たいへいじ=大阪府柏原市)の戦い(3月17日参照>>)に発展しました。

とは言え、この戦いの時は難を逃れた伊丹親興は、その3ヶ月後に上洛して許しを乞い、細川晴元の傘下に収まった事からしばらくは三好長慶と協力して、反発する亡き細川高国の遺児(養子)細川氏綱(うじつな)との戦い(9月14日の前半部分参照>>)に奔走するのですけどね。

ところがドッコイ、天文十七年(1548年)、もともと三好家の本流である自分よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟を厚遇する細川晴元の行動に不満を持っていた三好長慶が、

弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)に、三好政長の榎並城(えなみじょう=大阪府大阪市城東区野江)を攻撃させたのです。

この状況に主君細川晴元は榎並城への救援命令を発令・・・それを受けた伊丹親興は、またもや三好長慶と敵対する事になったのです。

しかも、この状況を受けた三好長慶は細川氏綱派に鞍替えし、主君の細川晴元と徹底抗戦する構え・・・(9月14日の後半部分参照>>)

かくして天文十八年(1549年)1月11日、居城の越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を出撃した三好長慶軍は、晴元派の伊丹城下へと押し寄せ、周辺を放火して回るという軍事行動に出ます。

翌2月には伊丹城を完全包囲して、またもや周辺に放火・・・これを受けた細川晴元が、4月に入って(さかい=大阪府堺市)から塩川の城(一庫城?)に移動して戦闘準備に取り掛かると、三好政長も、城を撃って出た伊丹親興と協力して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)周辺に放火して回ります。

5月には三好政長軍が長慶方の富松城(とみまつじょう=兵庫県尼崎市富松町)への攻撃を開始しますが、これがなかなか堅固で落とす事ができずに攻めあぐねていたところ、あの江口の戦いが勃発・・・(6月12日参照>>)

この戦いで三好政長は討死し、江口城(えぐちじょう=大阪市東淀川区)は陥落し、果ては細川晴元が将軍=義晴とともに近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)逃げざるを得ない敗北となってしまったのです。

一方、この間、囲まれ状態ながらも、未だ持ちこたえていた伊丹城でしたが、あまりの見事な勝利の三好長慶軍によって、8月24日からは本格的な包囲戦に持ち込まれ・・・

しかし、それでも守りを固めて籠城する伊丹城に対し、さすがの三好長慶も、あまりの力攻めは戦況に響くと感じたのか、和睦を提案・・・

翌天文十九年(1550年)3月28日に両者の間に和議が成立し、1年2ヶ月に渡る伊丹城の戦いは、幕を閉じたのでした。

三好長慶亡き(5月9日参照>>)後の伊丹親興は、長慶の家臣であった松永久秀(まつながひさひで)と三好一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康石成友通)の抗争(10月10日参照>>)に巻き込まれつつも、

あの足利義昭(よしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して来た織田信長(おだのぶなが)に、いち早く降ったおかげで、所領は安堵・・・織田家傘下として生き残る事になります。

しかし、
やがて、摂津一帯に台頭して来た荒木村重(あらきむらしげ)によって伊丹城は落とされ、伊丹親興は自害したとも、あるいは逃げ延びて関ヶ原の戦いに従軍したとも言われますが(何歳やねん!)、その後の消息は歴史の彼方に・・・

Itamiyouato31100a
有岡城=伊丹城跡(兵庫県伊丹市)

かの伊丹城は、その後、有岡城(ありおかじょう・在岡城)と名を変え、荒木村重の本拠となる(10月16日参照>>)のは、皆さまご存知の通りです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年1月 4日 (水)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2022年総まとめ

 

🎍謹んで新春のお慶びを🎍
🎌     申し上げます🎌

皆様、あけましておめでとうございますm(_ _)m
本年も、「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします。

2023c4

・・・てな事で、新年、1発めの今日は、昨年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 ホテル建設のため解体中の元新道小(京都市東山区)講堂で、講堂正面の舞台と背後の壁を取り壊したところ、鉄製の扉とコンクリート造りの空間が現れ、戦前に天皇の写真を安置していた「奉安殿(ほうあんでん)」跡が見つかりました。
終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の奉安殿廃止の方針に従い、壁で扉を覆ったとみられ「当時、奉安殿がどのように処理されたかの史料は少なく、貴重な事例」との事。
  桜井市西之宮の県営住宅の建て替えに伴う調査で、見つかった水洗トイレの調査・研究から、藤原京(参照>>)の時代に、京内に外国人が住んでいた可能性があることがわかりました。
京内の水洗トイレ遺構としては8例目だそうです。
Zitoutennouyamatosanzancc
2月 群馬県高崎市多胡碑(参照>>)周辺で行っている発掘調査で、裏面の文様が鳥頭のように尖った口先を持つ獣像が4つ配され、かつ国内で製造された「鳥頭四獣鏡系(ちょうとうしじゅうきょうけい)と呼ばれる古墳時代前期(4世紀)の銅鏡1面が出土しました。
学術的な発掘調査では、群馬県内初の発見だそうです。
  青森県南部町で室町の戦国期に三戸南部氏が居館としていた「聖寿(しょうじゅ)寺館(じたて)跡」で、装飾品に使ったとみられる穴の開いたクマの犬歯が見つかりました。
動物の骨や角などでできた穴のある装飾品は北海道で発展したアイヌ民族文化の特徴とされ、実態が分かっていない本州と中世アイヌの関係を解明する手掛かりになりそうとの事。
3月 滋賀県文化財保護協会が、古墳時代の集落跡だった出庭遺跡(滋賀県栗東市)で、4世紀ごろの鍛冶工房とみられる建物跡が4棟見つかったと発表…集落遺跡から鉄製品が出土することは珍しく、小型の道具の製作や農耕具の修理が行われていたと考えられるとの事。
  「九尾の狐」伝説「殺生石」が真っ二つに割れました。
殺生石は那須岳の斜面にある巨大な溶岩で、平安末期に九尾の狐が美女に化けて鳥羽上皇を殺害しようとしたところ、 陰陽師に見破られ、その後、退治されて石になったという伝説がある石で、松尾芭蕉が訪れて詠んだ句もあり、町の観光名所となっていました。
  大阪府藤井寺市津堂遺跡で、古墳時代前期末から中期初頭(4世紀後半)掘っ立て柱建物跡7棟が整然と並んだ状態で見つかりました。
場所は、世界遺産百舌鳥・古市古墳群で最初の大王墓とされる津堂城山古墳の北西約1kmで時期も同じである事から、「存続したのは短期間であるため古墳造営時に資材や食料を保管した倉庫群ではないか」と推定されています。
4月 富山県高岡市の寺で近藤勇(参照>>)が着用したといわれる“幻の甲冑(かっちゅう)”が発見されていたことが分かりました。
兜は非常に重厚なデザインで、頭を守る部分は鉄製で重く、黒色の漆が塗られ紺色の糸で結ばれた鎧の背中の部分には、旗を立てる「旗通し」も見られ、およそ150年が経過しているとは思えないほど、きれいな状態だそうです。
  平安末期から鎌倉期にかけ活躍した歌人=藤原定家(参照>>)による源氏物語の注釈書「定家筆源氏物語奥入」(国宝)の欠損部分の一部が東京都内で見つかり、書体の特徴などから本物と確認されました。
「奥入」は、定家が所持していた源氏物語(全54帖)の各巻末に記した注釈の部分だけを切り取って集め、1冊にまとめたもので、国宝の奥入には10ページ以上の欠損があるとみられていますが、今回見つかったのは24帖「胡蝶」に注釈を付けた1ページ。
  高知県内3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代の方形板石硯(ほうけいいたいしすずり)とみられることが分かりました。
四国で初めての確認で、弥生時代に県内で文字が使われた可能性を示す貴重な資料となります。
発見された硯は、現在の硯とは異なり平たく、長方形や台形に近い形をしています。
5月 仙台藩祖伊達政宗(参照>>)が描いたとされ、1928年に仙台市で開かれた東北遺物展覧会に出品後に行方不明となっていた「達磨図」が、約90年ぶりに市内で見つかりました。
政宗作とみられる絵が見つかったのは、2015に宮城県塩釜市の旧家に保存されていることが分かった「梅ニ雀」に続き2例目だそうです。
6月 忍者の里として知られる滋賀県甲賀市で、これまでに知られていた忍術書の原典とされる「間林清陽(かんりんせいよう)」の写本が新たに見つかり、専門家は「当時の忍者の姿を知る上で、大変意義のある発見だ」と話しています。
「間林清陽」は、これまで忍者の手引き書として世に出回っていた「万川集海(ばんせんしゅうかい)(参照>>)とよばれる忍術書の基になるものとされ、その存在や内容が確認されたのは初めてです。
  岡山大は、約1500~1600年前の人骨に残っていた歯石を特殊な顕微鏡で観察し、デンプンの粒子を見つけた事で、「古墳時代の人は炊飯した米を主食にしていたかもしれない」と発表しました。
当時の人が、炊いた米を食べていたことを科学的に裏付けた結果となります。
  本堂である国宝「根本中堂」で大規模な改修工事が進められている大津市比叡山延暦寺で、根本中堂に安置されていた十二神将と梵天、帝釈天の14体の仏像を詳しく調べたところ、内部から制作した時期などを記した文章が見つかった事から、江戸時代に再建される以前=おそらく織田信長による焼き打ち(参照>>)を逃れたであろう貴重なものだったことがわかりました。
7月 京都府京丹後市にある奈良時代の靏尾(つるお)遺跡で、かけ算の九九が表裏に書かれた木簡1点が出土しました。
遺跡には当時の役所があったとみられていて、記載の個数が最多で、計算間違いや誤字も見当たらないため、役人が徴税の際の早見表に使っていた可能性があるとの事。
九九の木簡はこれまでに新潟長野などで、約80点が見つかっており、今回の木簡は、片面に「九九八十一」「八九七十二」など九と八の段、もう片面には七~五の段が記されており、両面で計35個の九九が書いてあるそうです。
8月 滋賀県長浜市長浜城歴史博物館で、戦国武将の浅井長政が、近くにあった「大浦黒山寺」に宛てた1570年11月27日付の書状が見つかりました。
課税を免除して領地を保証する内容で、寺は長政と朝倉義景の連合軍が、同年6月の姉川の戦い(参照>>)織田信長徳川家康の軍勢に敗れた後に陣を張った経路にあり、兵や食料を運ぶ道を確保する意図があったとみられいます。
専門家によると「寺社を味方につけて信長に対抗しようとしていたことが分かる貴重な史料だ」との事です。
Dscf1753pa1000
姉川の戦い古戦場
  古墳時代初期(3世紀末)に築造されたとみられる前方後円墳神奈川県小田原市内の住宅地で発見されました。
同市内で前方後円墳の発見は初めてで、県内でも海老名市の秋葉山3号古墳に次ぐ2番目の古さです。
専門家は「ヤマト王権成立直後の3世紀末の時点で、その勢力圏が神奈川まで及んでいたことを示す重要な証拠」と解説…文献史料がないため、具体的な埋葬者は不明なものの、ヤマト政権とつながりの強い地元の有力者とみられています。
9月 豊臣秀吉が建てたと伝わる国宝「妙法院庫裏」(庫裏は寺の台所=京都市東山区)の地中から、16世紀末ごろのものとみられるかまどの跡が見つかりました。
秀吉が1595年に近くの方広寺で大規模な先祖供養の行事を催した際、妙法院庫裏で僧侶約800人分の食事を用意したとされ、その時に、このかまどを使わせた可能性が高いとの事。
庫裏と秀吉の関わりはこれまで伝承のみで、正確な史料はありませんでしたが、両者の関わりを解明していくための手掛かりが発見された事になります。
10月 奈良時代の女帝・称徳天皇と僧の道鏡(参照>>)が建立したとされる大阪府八尾市由義寺(ゆげでら )で、塔跡の下層から別の建物の基壇(土台)跡が見つかり、称徳天皇が一帯に平城宮の副都「由義宮( 西京=にしのきょう )を造営した際に、塔を大規模に建て替えた可能性がある事が分かりました。
長きに渡って、史書「 続日本紀 」に登場する由義寺は「幻の寺」とされていましたが、前回の発掘調査で七重塔の基壇跡が発見され、今回の基壇跡は規模は小さいものの、塔か金堂の可能性があるとの事に加え、周囲に焼けた土が確認されていないことから、建物は火災で焼失したのではなく、解体されたと考えられます。
  一休さん(参照>>)ゆかりのゆかりの寺としても知られる京都の大徳寺で、国宝の建物の屋根裏から、大工道具の一つである「ノミ」が見つかりました
現代で一般的な「片刃」ではなく左右両方に刃がある「両刃」で、400年前の創建当時の「宮大工の“忘れ物”では?」と考えられています。
  江戸時代の俳人=松尾芭蕉(参照>>)が、江戸から京都や近江などに1年弱かけて旅した行程を直筆で記した初めての紀行文「野ざらし紀行」のうち行方が分からなくなっていた1巻が半世紀ぶりに見つかりました。
専門家によれば「長い紀行文に絵をつけた作品は大変珍しく、芭蕉は文字も絵もうまい」との事。
11月 奈良市大宮町4丁目平城京跡で、奈良時代の大型建物跡が見つかりました。
過去の調査成果と合わせて、東西15m以上の建物が南北に2棟並んでいたと推定され、高位の貴族が住んでいた邸宅跡の可能性が高く、日本書紀の編さん責任者、舎人(とねり)親王(参照>>)の邸宅跡とも推定されています。
  吉野ヶ里遺跡「権(けん)」と呼ばれる青銅製の重りが出土しました。
出土したのは円柱に傘をかぶったような形で、形状などから使われていたのは8世紀の奈良時代頃で、行政機関などでモノを測るための重りとして使われていたとみられるとの事。
この一帯では過去にも奈良時代の建物の跡などが見つかっていて、当時の行政の拠点である郡衙(ぐんが)があったのではないかと指摘されてきましたが、今回の発見によって、弥生時代が中心の吉野ヶ里遺跡は、奈良時代もこの地域の中心だったという可能性が高まっています。
  三重県鈴鹿市徳田町水深(みずぶか)遺跡で、6世紀中期の古墳の周溝や奈良時代の建物跡、鎌倉から室町時代にかけての火葬墓などが発見されました。
古墳時代には直径約14mの円墳があったと推測されるほか、奈良時代の掘立柱建物の遺構や各時代の土器や陶器も見つかり、鎌倉から室町時代にかけての火葬墓約40基のなかには、人骨や炭化した木が残っているもの、「開元通宝」など中国製の銅銭が発見されたものもあります。
  津藩初代藩主の藤堂高虎(参照>>)が築いたとみられる江戸時代の津城(三重県津市)に、これまで「ない」とされていた天守があったことを示す絵図が発見されました。
書き込まれた情報の豊富さから、幕府に出すための下図とみられ、天守が存在した可能性が高まりました。
絵図は三重県川越町の個人がインターネットを介して古書店から入手し、三重大学教育学部の藤田達生教授の研究室に9月末に分析の依頼されたものだとの事。
12月 広島県福山市入船町2丁目市道工事現場で、江戸初期に福山城の外堀と海をつなぐ運河の役割を果たしていた入川の石垣が新たに見つかりました。
  大阪府羽曳野市にある世界遺産の百舌鳥・古市古墳群のひとつ、峯ケ塚古墳(みねがづかこふん=5世紀末ごろ)で、「石見(いわみ)型」と呼ばれる巨大な木製品が出土しました。
これは、祭祀の際に墳丘の周囲に立てた「木製はにわ」とみられ、国内で出土した同型の木製品の中で最大との事。
被葬者は判明していないものの、その大きさから王級の人物の可能性が高いとか…

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありましたね~

個人的に気になるのは、6月の…
比叡山延暦寺の根本中堂に安置されていた十二神将と梵天&帝釈天の14体の仏像を調べたところ、江戸時代に再建される以前のものであった事が分かり、織田信長の焼き討ちを免れた…云々のニュースですね。

私…個人的には、
以前に書かせていただいた通り、信長の比叡山焼き討ちは、伝えられるほど大規模な物では無かったんじゃないか?
(【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>)
と思っている派なので、

「焼き討ちの業火の中て奇跡的に…」
というよりは、むしろ
焼き討ちが
「そんなに大規模じゃなかった」
事を裏付けてるような?…ま、あくまで信長推しに染まってる個人の考えですが、、、

また、弥生時代の硯も気になりますね~

日本に漢字を伝えたとされる王仁(わに)博士が渡来した(2月15日参照>>)のが応神天皇の時代(推定=西暦300年くらい?)とされていますので、果たして、それ以前の硯なら、どんな文字を書いていたのか?

ワクワクドキドキ…
でも、よくよく考えれば、
「文字が伝わったからこそ硯も伝わった」
と見た方が妥当ですかねwww

・・・にしても、またしてもありましたね~

ネットで見つけて買ったモノが、メッチャ貴重な絵図だったという11月の津城の話。。

あるんですね~こんな事。

私も、ネット見てるとアレやコレやと時間を忘れてドップリ浸かるタイプですが、気概のある方は、やはり違いますよね~

貴重な物をズバッと見つけはるんでしょう・・・つくづく尊敬しますですww

・‥…━━━☆

てな事で、そろそろ、本気の「悪疫退散!」を願いつつ

本年も、我がブログに、チョコチョコ遊びに来てくださいませ。
よろしくお願いしますm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4)

« 2022年12月 | トップページ | 2023年2月 »