600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語
明治三十年(1897年)1月31日、 幕末には徳川慶喜の側近として、維新後も新政府の一員として活躍した哲学者=西周が、この世を去りました。
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文政十二年(1829年)に、石見津和野藩(いわみつわのはん=島根県津和野町)の御典医の家に、嫡男として生まれた西周(にしあまね=西周助とも)は、
(ちなみに作家で陸軍軍医だった森鷗外は従兄弟の子=親戚です)
あまりの勉強好きに、一代還俗(いちだいげんぞく=嫡男だけど家業を継がなくても良い)を許され、11歳で藩校に入学して蘭学を学んでいたところ、あのペリー来航(6月3日参照>>)をキッカケに、藩命にて江戸に派遣され、
その後、蕃書調所( ばんしょしらべしょ=江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)に所属して教授並みになる一方で、哲学をはじめとする西洋の学問の研究に励みました。
おかげで文久二年(1862年)には、幕命で榎本武揚(えのもとたけあき)らとともにオランダに留学し、ライデン大学にて法学や経済学や国際法…もちろん、哲学も大いに学び、
慶応元年(1865年)に帰国してからは、目付け役として徳川慶喜(とくがわよしのぶ=江戸幕府15代将軍)に重用され、さらに、その2年後には徳川家が設立した沼津兵学校(ぬまづへいがっこう)の初代校長にも就任します。
この頃には、大名クラスを上院に、藩主クラスを下院に据え、德川幕府を中心に、今で言う三権分立を実現した議会政治の草案を記したり、幕末の四侯会議(しこうかいぎ=島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城からなる諮詢機関)の時には徳川慶喜の傍らに座って、その意見交換の指導をしたとも言われます。
こうして、幕末期は幕府側の一員として活躍していたにも関わらず、維新が成った後の明治新政府からも、その手腕を乞われて出仕の要請を受け、兵部省や文部省の官僚として働き、『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ=陸海軍軍人の心得などを明治天皇の言葉として記した)の草案を考えて軍政の整備に尽力しました。
…と言っても、西周の本領…というか、目指す場所というのは、軍人でも軍略家でもなく、もともと留学中に熱心に学んでいた西洋哲学であったわけで、
そこで、明治六年(1873年)に福沢諭吉(ふくざわゆきち)らとともに学術団体・明六社(めいろくしゃ)を結成し、『明六雑誌』(めいろくざっし)という機関紙を発行して、西洋哲学誌を翻訳して紹介し、日本における哲学の基礎を築こうと奮闘します。
そう・・・この西周が、なにげにスゴイのは、この外国語の翻訳。。。
外国語の音を、そのままカナや漢字で置き換えるのではなく、漢字が持つ本来の意味を考慮して造られた造語で、これは和製漢語(わせいかんご)と呼ばれます。
もちろん、この明治期だけではなく、以前、ご紹介させていただいた
杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』や(3月4日参照>>)、
宇田川玄随(うだがわげんずい)父子率いる宇田川一門の『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』(12月18日参照>>)でも、この手法が使われ、
『解体新書』では「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」など、
『西説内科撰要』では「細胞」「酸化」「還元」「繊維」「金属」「珈琲」
などなどの和製漢語を造って難解な洋書を翻訳しています。
同じ明治期でも、先の福沢諭吉をはじめ、福地源一郎(ふくちげんいちろう)や中江兆民(なかえちょうみん)、作家として有名な森鷗外(もり おうがい)や夏目漱石(なつめそうせき)なんかも、造語=和製漢語を造っていますが、
西周のソレは、造った数がハンパない・・・一般的に知られているだけで約600ほどあるとされ、しかも、それが現在でもバリバリ使われている現役の単語なのです。
ご本人一押しのphilo sophyの「哲学」をはじめとして、
skillを「技術」、
activeを「能動」、
willを「意識」、
mentalを「心理」、
moralを「道徳」
さらに、
「芸術」「本能」「断言」「属性」「抽象」「単元」「定義」「理性」「主観」「客観」「実在」「刺激」
…などなど、キリがありません。
もう、西周の造った単語なしでは日常会話ができないくらいww
おかげで、日本では外国語をほとんど知らなくても一流の高等教育を受ける事ができるww
おそらくは、日本に漢字や漢文が伝えられた飛鳥&奈良時代以降、多くの新語&造語が造られたであろう中で、比較的近代の明治期とは言え、西周の造った造語が、ここまであまねく全国民に行き渡っているなんて!
しかも、オモシロイのは、西周作含むこれらの和製漢語の多くが逆輸入されて、現在の中国の若者の間でも普通に使われているところ・・
(ちなみに中華人民共和国の人民共和国は和製漢語)
それは、やはり漢字の意味を知る民族にとって、それだけ誰もが納得するウマイ訳し方だったという事でしょう。
そんな中、明治十七年(1884年)頃から体調を崩し始めた西周は、公職を辞職して大磯の別邸にて静養をしながらも、学問は怠らず、西洋の心理学と東洋の仏教思想との融合などについて研究していたと言いますが、
やがて明治三十年(1897年)1月31日、帰らぬ人となりました。
幕臣でありながらも、新政府において貴族議員に任じられたところをみると相当優秀な人だったと思われる西周ですが、実際にところ、福沢諭吉ほどは知られていませんよね~
実は、若き日に起草した『軍人勅諭』、、、
これが、戦後、軍国主義に走ったおおもとではないか?と考えられ、一時、西周を語る事がタブー視されていた事も確かなのです。
しかし、最近の『軍人勅諭』の研究では、西周が草案したソレと、実際に発布されたソレは、別人によって書き換えられた部分があるうえ、戦時中のプロパガンダによって、さらに歪められて伝わった感もある事が指摘されていて、
徐々に、「もっと評価されるべき偉人」として注目されて来ているようです。
もっともっと知りたいし、多くの人に知ってほしい人物ですよね。
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