三好長慶VS伊丹親興~伊丹城の戦い
天文十八年(1549年)1月11日、三好長慶が敵対する伊丹親興の居城=伊丹城への攻撃を開始しました。
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伊丹親興(いたみちかおき)の伊丹氏は摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)の有力国人(こくじん=土地に根付く侍)で、代々細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=管領を輩出する細川家の嫡流)に仕えていましたが、その後継者争いである天王寺(てんのうじ=大阪市天王寺区)の戦い=大物崩れ(だいもつくずれ)(6月8日参照>>)にて、当時、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)の城主だった伊丹国扶(くにすけ)が、負け組である細川高国(ほそかわたかくに)に味方して自身も討死した事から、伊丹国扶の従兄弟であった伊丹親興が、その後を継いで伊丹城主を務めていたのでした。
その後は、かの大物崩れで細川高国に勝利した細川晴元(はるもと)が、事実上細川京兆家トップとなった事から、伊丹親興も、その傘下に収まるのですが、
大物崩れから10年経った天文十年(1541年)に、細川晴元が故郷の阿波(あわ=徳島県)から連れて来た配下=三好長慶(みよしながよし)が、旧高国派の一庫城(ひとくらじょう=兵庫県川西市・山下城とも)の塩川政年(しおかわまさとし)を攻めた事を不満に思った伊丹親興が、
時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第11代室町幕府将軍)に、その不当性を訴えて、幕府実力者=木沢長政(きざわながまさ)とともに、自ら一庫城の救援に駆け付けた事から、再び、伊丹氏は三好長慶と敵対関係となったのでした。
この時の一庫城の戦いは引き分けに終わりましたが、両者の関係悪化は治まらず、翌天文十一年(1542年)には、三好長慶が木沢長政を倒す太平寺(たいへいじ=大阪府柏原市)の戦い(3月17日参照>>)に発展しました。
とは言え、この戦いの時は難を逃れた伊丹親興は、その3ヶ月後に上洛して許しを乞い、細川晴元の傘下に収まった事から、しばらくは三好長慶と協力して、反発する亡き細川高国の遺児(養子)=細川氏綱(うじつな)との戦い(9月14日の前半部分参照>>)に奔走するのですけどね。
ところがドッコイ、天文十七年(1548年)、もともと三好家の本流である自分よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟を厚遇する細川晴元の行動に不満を持っていた三好長慶が、
弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)に、三好政長の榎並城(えなみじょう=大阪府大阪市城東区野江)を攻撃させたのです。
この状況に主君細川晴元は榎並城への救援命令を発令・・・それを受けた伊丹親興は、またもや三好長慶と敵対する事になったのです。
しかも、この状況を受けた三好長慶は細川氏綱派に鞍替えし、主君の細川晴元と徹底抗戦する構え・・・(9月14日の後半部分参照>>)
かくして天文十八年(1549年)1月11日、居城の越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を出撃した三好長慶軍は、晴元派の伊丹城下へと押し寄せ、周辺を放火して回るという軍事行動に出ます。
翌2月には伊丹城を完全包囲して、またもや周辺に放火・・・これを受けた細川晴元が、4月に入って堺(さかい=大阪府堺市)から塩川の城(一庫城?)に移動して戦闘準備に取り掛かると、三好政長も、城を撃って出た伊丹親興と協力して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)周辺に放火して回ります。
5月には三好政長軍が長慶方の富松城(とみまつじょう=兵庫県尼崎市富松町)への攻撃を開始しますが、これがなかなか堅固で落とす事ができずに攻めあぐねていたところ、あの江口の戦いが勃発・・・(6月12日参照>>)
この戦いで三好政長は討死し、江口城(えぐちじょう=大阪市東淀川区)は陥落し、果ては細川晴元が将軍=義晴とともに、近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ逃げざるを得ない敗北となってしまったのです。
一方、この間、囲まれ状態ながらも、未だ持ちこたえていた伊丹城でしたが、あまりの見事な勝利の三好長慶軍によって、8月24日からは本格的な包囲戦に持ち込まれ・・・
しかし、それでも守りを固めて籠城する伊丹城に対し、さすがの三好長慶も、あまりの力攻めは戦況に響くと感じたのか、和睦を提案・・・
翌天文十九年(1550年)3月28日に両者の間に和議が成立し、1年2ヶ月に渡る伊丹城の戦いは、幕を閉じたのでした。
三好長慶亡き(5月9日参照>>)後の伊丹親興は、長慶の家臣であった松永久秀(まつながひさひで)と三好一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康石成友通)の抗争(10月10日参照>>)に巻き込まれつつも、
あの足利義昭(よしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して来た織田信長(おだのぶなが)に、いち早く降ったおかげで、所領は安堵・・・織田家傘下として生き残る事になります。
しかし、
やがて、摂津一帯に台頭して来た荒木村重(あらきむらしげ)によって伊丹城は落とされ、伊丹親興は自害したとも、あるいは逃げ延びて関ヶ原の戦いに従軍したとも言われますが(何歳やねん!)、その後の消息は歴史の彼方に・・・
かの伊丹城は、その後、有岡城(ありおかじょう・在岡城)と名を変え、荒木村重の本拠となる(10月16日参照>>)のは、皆さまご存知の通りです。
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