北条氏政から城を守れ!簗田持助の第3次関宿城の戦い
天正二年(1574年)1月16日、足利藤政が、北条に狙われている関宿城への救援を太田資正に要請・・・第3次関宿城の戦いが勃発します。
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江戸川(茨城・埼玉・千葉県・東京を流れる利根川の分流)をさえぎるような形で構築された関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )は、南北朝時代か室町時代の初め頃に簗田(やなだ)氏によって築かれた城ですが、
場所的に、ここ周辺が利根川水系等の要地であり、関東の水運を抑えるに絶好の地であった事から、かねてより関東支配を目論む北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫・3代目)は「関宿を抑えるは、一国を獲ると同じ」と言ってはばからず、
おかげで、戦国時代には、何度も戦場となった城でした(3月2日「第1次関宿城の戦い」参照>>)。
…というのも…
そもそもは、関東に根を張る足利(あしかが)が、あの南北朝のゴタゴタで京都にて室町幕府開く事になったため、京都に居る将軍の代わりに、領地である関東を治めるべく派遣した鎌倉公方(かまくらくぼう)の後継である古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠としたので)が、
ここに来て、その5代目トップを巡って、足利義氏(よしうじ=4代・晴氏の息子)と足利藤政(ふじまさ=義氏の甥・藤氏はすでに死去?)の抗争が勃発・・・
しかも、義氏を北条氏政(うじまさ=氏康の息子・4代目)が推し、上杉家から関東管領職(かんとうかんれい=公方の補佐)を譲られた(6月26日参照>>)上杉謙信(うえすぎけんしん=この頃は長尾景虎→上杉政虎)が藤政を推す…という構図になってしまいます。
そんな中で、時の関宿城主=簗田持助(やなだもちすけ)は、かつてはその足利義氏の奉公人だった地位を、北条に取って代わられたこともあって、足利藤政を庇護する里見義弘(さとみよしひろ)とともに上杉派に立っていましたから、そりゃ北条に何度も狙われますわな。。。
そこで天正二年(1574年)1月16日、
足利藤政は、
「関宿 、日におって手詰り、是非なき次第」
と書状に綴り、
太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)(9月8日参照>>)に対し、ヤバさ満載となった関宿城への救援要請を発したのです。
そもそも太田資正のひぃ爺ちゃん=太田道灌(おおたどうかん)は関東管領の執事(しつじ=補佐)ですから、彼もまた、今回、関東管領になった謙信にベッタリ・・・これは、太田資正とともに上杉謙信や、そこに味方する佐竹義重(さたけよししげ)の出陣を願っての要請でもありました。
この救援要請を知ってか知らずか、この同時期に北条氏照(うじてる=氏政の弟)が栗橋城(くりはしじょう=茨城県猿島郡五霞町)を出発すると、すかさず北条氏繁(うじしげ=親戚)も玉縄城(たまなわじょう=神奈川県鎌倉市玉縄)を出て、関宿城はもちろん、簗田支城の水海城(みずみじょう=茨城県古河市)をもターゲットにし、進軍して来ます。
関宿城攻防の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
これを受けた上杉謙信は、3月17日に武蔵(むさし=東京・埼玉・神奈川の一部)の羽生(はにゅう=埼玉県羽生市)まで出張って来ますが、それに対抗するように北条氏政も出陣・・・5月には関宿城近くまでやって来て陣を置き、配下の者に「法度」を授けて周辺の取り締まりを強化し、怪しい者がいれば、すぐに捕縛するよう命じます。
7月22日から24日にかけては、下総(しもうさ=千葉北部・茨城南西部・東京&埼玉の東部)の幸嶋(さしま=茨城県坂東市周辺・猿島)あたりで北条VS上杉の両軍が合戦となり、北条が勝利しています。
そんな中で8月に入ると、北条軍の包囲の厳しさに疲弊し始めたのか?関宿城内の一部の者から、北条に内通する者が現れ始め、これに気づいた簗田持助が「家臣の何名かを処分する」という事態も起こり、それが11月になると、さらに状況が悪化して来ます。
「北条がぜんぜん退けへんで、もうムリ」by梁田
これを受けた謙信自らが利根川を越えて、上野(こうずけ=群馬県)の金山(かなやま=群馬県太田市)までやって来て、新田領(にったりょう=群馬県太田市周辺・旧新田郡)周辺に放火して回り、小山秀綱(おやまひでつな=祇園城主)や那須資胤(なすすけたね=那須衆当主)に、
「すぐにでも出陣せよ」
と救援要請をかけますが、
11月の終わりころには、関宿城から
「あと2~3日しか持たんかも知れません。
北条には後詰はおらんみたいですけど、それでもメッチャ攻めて来よるんです。
弾も火薬も無くなりそうやし…もう滅亡すんの待つだけですわ」
との悲痛な叫び・・・
これを聞いた上杉謙信は、未だ援軍を出さない佐竹義重に対し、再度の援軍要請・・・
…というのも、佐竹では家臣たちの中に謙信への不信感を抱く者が多く、反対意見の多さに主君の義重の動きも、少々遅くなっていたわけで。。。
そこで謙信、、、
「俺がなんぼアホでも、今の義重に対して悪意があるわけないやんけ!
せやのに、疑うなんて…お前らは鬼か?悪魔か?
そんなんでは簗田持助も滅んでまう。
そんな事を噂するヤツは、きっと敵の計略にハマッて残念な事になるぞ(上杉家文書)」
と、チンタラしてる佐竹に、かなり怒ってはります。
こうして、北条に行く手を阻まれた謙信が思うように動けない中、羽生城が落城・・・(11月20日参照>>)
やっとこさ佐竹が動き出すも、閏11月27日には、とうとう関宿城が陥落し、開城の運びとなってしまいました。
こうなった以上、せっかく出陣した佐竹義重も、北条との和睦を締結し、閏11月16日には帰国の途に。。。
また、かの3月の出陣から、約半年に渡って関宿にかかりっきりになっていた上杉謙信も、閏11月20日には、
「無敵や言うとった北条の奴らも、城外へは一騎たりとも乗り出して来よれへんかったよな~
俺の動きにはビビッとったんちゃうか~」
てな捨てゼリフを残して(蘆名氏への手紙)越後(えちご=新潟県)へと帰っていきました。
一方、自らの後ろ盾となっている北条氏政が勝利した事を受けて、意気揚々の足利義氏は、
「輝虎(謙信)のボケ、
佐竹まで引っ張り出したくせに、結局は退散してからに…負け確定やんけ。
これで静かになったわ~(関宿伝記)」
と、思う存分の勝利宣言。
こうして関宿は、北条氏が占領する場所となりました。
その後、古河公方の奉公人として出仕する事を許された簗田持助は水海城へと入りますが、重要な場所として認識されている関宿城は北条の手で大幅改修され、2度と持助の手に戻る事はなく、その後は北条の北関東進出の拠点の城となってしまったのでした。
とは言え、ご存知の、
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐(4月20日参照>>)で、北条氏が事実上の滅亡と相成った後は、関八州を束ねる事になった徳川家康(とくがわいえやす)が、異父弟(於大の方の再婚相手との息子)の松平康元(まつだいらやすもと)に、この城を任せる事となり、家康が天下を取った後に、康元は関宿藩の藩祖となっています。
とにもかくにも、家康が、ともに徳川の基盤を造る事になる血を分けた弟に、この城を守らせる~って事は、やはり位置的には重要な城だったんでしょうね~関宿は。。。
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