享保の大飢饉からの享保の打ちこわし~
享保十八年(1733年)1月25日、江戸の町人1700人余り米問屋の高間伝兵衛宅を襲撃しました。
これは、江戸で起こった初めての打ちこわしで「享保の打ちこわし」と呼ばれます。
・・・・・・
「打ちこわし」とよく似た感じで「一揆(いっき)」というのもありますが、
そもそも正長元年(1428年)9月に、日本で初めて起こった「正長の土一揆」(9月18日参照>>)を皮切りに、有名どころでは、
借金を棒引きにする徳政令(3月6日参照>>)を要求する「徳政一揆」、
自治や独立を要求する「国一揆」(【山城の国一揆の終焉】参照>>)、
宗教絡みの「一向一揆」(【加賀一向一揆】参照>>)、
などなどありますが、
基本は、飢饉のあとなどの生活の苦しみに堪えかねた地方の農民などが年貢の減免やエラそうな役人の交代を領主や役人に訴えて起こす暴動です。
もちろん、戦国時代には上記の通りの宗教絡みや国人(こくじん=土地に根付いた半士半農の侍)絡みのもありますが、江戸時代になってからは、ほぼ農民たちによる土一揆が主流な感じです。
一方、「打ちこわし」は、
主に江戸や大阪など都市部に住む貧しい人たちが、飢饉などで米が不足しているにもかかわらず、米を買い占めてさらに値上げを画策する米商人をはじめとする豪商を「米出せや!」とばかりに襲撃するものです。
(なので「打ちこわし」は主に江戸時代に入ってから…)
ただし、たまに一揆と打ちこわしが連動して起こる事もあるので、ピッシリ線引きできるわけではありませんが、基本はそんな感じで、原因は、どちらも飢饉のあとの米不足や苦しい生活の改善にあるようです。
そんな中、今回、江戸という大都市で起こった初めての「打ちこわし」。。。
そもそもの原因は、前年の享保十七年(1732年)に起こった享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)でした。
それ以前、かの暴れん坊こと8代将軍の德川吉宗(とくがわよしむね)が、享保元年(1716年)~享保七年(1722年)くらいにかけて実行した享保の改革。。。(6月18日参照>>)
- 「足高の制」・・・幕府官僚体制の整備
- 「目安箱」・・・庶民の意見を聞くために設置
- 「新田開発」・・・新作物作りも奨励
- 「株仲間結成」・・・商業の統制を図る
- 「上米(あげまい)の制」・・・武士の財政難救済
- 「定免法(じょうめんほう)」・・・年貢の定額徴収
てな、感じが次々行われたわけですが、とにかくは、
「幕府の財政を立て直して困窮する武士たちに給料を支払うために新田開発して米をたくさん作ろう」
というのが主たる目的だったわけです。
それから約10余年・・・おかげで多くの米が採れるようになりましたが、「米が十分にに行き渡る」となると・・・そう、米の値段は当然安くなって来ます。
これまた当然ですが、この頃は幕府お抱えの武士の給料も「米」ですから、米の値下がりは給料のベースダウンになってしまう。。。
しかも、米が安くなったからとて、他の物の値段が全部安くなるわけではありませんから、逆に、他の物の物価は高く感じるわけで。。。
そこで幕府首脳陣は、手っ取り早く米価を調節すべく、各天領に
「米を生産地に留め置き代官所等に貯蔵しておくように」
との命令を出します。
もちろん、江戸や大阪の米商人にも
「やたらに米を売り出さずに規制せよ」
との命が下ります。
ところがドッコイ、そんなこんなしていた享保十七年(1732年)、瀬戸内海沿岸にてイナゴが大量発生・・・近畿地方から西の稲がイナゴたちに喰い荒されてしまい、たちまち西日本が飢饉に陥るのです。
一説によれば、近畿から九州を含む西国にて1万数千人が餓死したと言われます。
これが江戸にも影響を及ぼす事態によって、幕府首脳陣も慌てて米商人たちに
「米を放出せよ」
との命を出しますが、そこは商人・・・お役人の自分勝手で出したり出さなかったりの手のひら返し・・・
「素直に言う事ばっかり聞いておられんわい」
(もうチョイ引っ張れば値段も上がるしね)
とばかりに、出し惜しみするのです。
かくして享保十八年(1733年)1月25日、事件は起こります。
江戸は日本橋に店を構える幕府出入りの米商人=高間伝兵衛(たかまでんべえ)は、米商人の中では比較的幕府に忠実で、なんだかんだで命令通り、米の放出に協力していた人なのですが、一般庶民から見れば、米商人は皆同じ・・・
いつしか
「高間は米をいっぱい持ってるのに売り惜しみをして値段を吊り上げる気だ」
との噂がたち、店頭に1700人余りの町人が押し寄せたのです。
慌てて店側は、家の蔵に貯蔵していた2万石の米を放出し
「今までのままの値段で売るから静まって~~」
と頼みますが、もはや1700人の勢いは止まらず・・・
ここに江戸初の「打ちこわし」が決行されたのです。
巷には
♪大岡(多くは)食わない
たった越前(一膳) ♪
てな歌が大ハヤリ。。。
そう、実は、幕府首脳陣の中には、時の老中らとともに、町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)も、その力量を買われて加わっていたのです。
しかも町奉行の本分は「江戸の町の治安を守る事」・・・原因を作ったのも大岡様なら、騒動を止められなっかったのも大岡様。。。
てな具合で、どうやら、誰が主導権を握っていたかは、一般庶民の皆さまもお解りのようで・・・
とは言え、大岡様は、このあとに寺社奉行にもなってるので、責任をなすりつけられる事も無く、まぁ大丈夫かな?
あと、襲撃された高間伝兵衛さんも、本人は当日は店を留守にしていたし、その後も米価の安定に務めたので無事・・・
上記の通り、噂では1700余人いた襲撃組も、中心人物となった数名が流刑にされただけで、多くは無罪だったようです。
ま、幕府首脳陣も自分たちの「やりようのマズさ」感もあったりなんかして、穏便に治めようとしたのかも・・・
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