« 2023年1月 | トップページ | 2023年3月 »

2023年2月24日 (金)

「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠

 

文治五年(1189年)2月24日、平家全盛時代を生きた平時忠が、配流先の能登にて死去しました。

・・・・・・・・・

平時忠(たいらのときただ)桓武平氏高棟流(堂上平氏)の公家=平時信(ときのぶ)令子内親王(れいしないしんのう=第72代白河天皇の皇女)に仕えていた女房との間に生まれた男子・・・

と言うより、あの平清盛(きよもり)の奧さん=平時子(ときこ)と言った方がわかりやすいですね。

Kanmuheisikeizu_2 *桓武平氏の系図はコチラ→

ご存知のように、平氏は、第50代桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫(もしくは孫)だった高棟王(たかむねおう)臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗って(7月6日参照>>)、その子や孫が公卿に昇進して貴族としての道を歩んだ・・・この家系が高棟流です。

一方、高棟王の弟の高見王の子供の高望王(たかもちおう)が臣籍降下して平高望(たいらのたかもち)と名乗って上総介(かずさのすけ=千葉県知事みたいな)に任ぜられ、実際に上総国(かずさのくに=千葉県の中部)に下って関東の治安維持のため武装化して(5月13日参照>>)・・・と、コチラの家系が清盛たち伊勢平氏

つまり同じ平氏でも、清盛さんちと時子さんちは少々雰囲気が違っていたわけですが・・・

そんな中で、久安元年(1145年)頃に姉の時子が、勢いのある平清盛の後妻となり、応保元年(1161年)に後白河院(ごしらかわいん=第77代天皇)の寵愛を受けていた妹の平滋子(しげこ)(7月8日参照>>)第七皇子(憲仁=後の高倉天皇)を生んだ縁もあって、平時忠はとんとん拍子の出世街道となります。

とは言え、やはり平時忠は高棟流の人・・・

平治の乱に勝利して(12月25日参照>>)検非違使別当(けびいしべっとう=警察の長)となった平清盛の下で、その補佐官となり都の治安維持などに尽力するものの、立ち位置的には少し距離を置いていた感もチラホラ・・・

応保二年(1162年)には、妹の滋子が産んだ皇子を皇太子にすべく動き、時の天皇である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)呪詛(じゅそ=呪いをかける)したとして職を解任され出雲(いずも=島根県)へと配流されるのですが、

 永万元年(1165年)に二条天皇が崩御されると、見事!復帰・・・仁安二年(1167年)には検非違使別当となります。

この頃に太政大臣に就任し、我が世の春となる清盛と、後白河院の仲が徐々に険悪ムードになって行く中でも、どちらにつくという事も無く、ウマく立ち回る時忠。。。

嘉応元年(1169年)には延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)との問題で、一旦、解官されるも、すぐさま翌年に返り咲きし、清盛×時子の娘である平徳子(とくこ)が、成長した後白河院×滋子の皇子=高倉天皇(たかくらてんのう=第80代)入内(にゅうだい=中宮として宮中に入る)(2月10日参照>>)した承安元年(1171年)には子の中宮権大夫に就任し、建春門院(滋子)の側近として政界に君臨。

治承二年(1178年)に徳子が安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)を生むと、時忠の奧さん=藤原領子(ふじわらのむねこ=帥局)が、その乳母となり、 まさに時忠全盛期・・・となりますが、

一方で、それと前後して、治承元年(1177年)には鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)、治承三年(1179年)には治承三年の政変(11月17日参照>>)と、後白河院と清盛の対立が益々エスカレートしていく中で。。。

いよいよ翌年の治承四年(1180年)・・・この年の4月に以仁王(もちひとおう=後白河院の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の命令書)を発し(4月9日参照>>)、5月には源頼政(みなもとのよしまさ)とともに挙兵(5月26日参照>>)・・・

この挙兵は鎮圧したものの、この動きを受けて、8月には伊豆源頼朝(よりとも)が挙兵し(8月17日参照>>)、9月には北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)も挙兵し(9月7日参照>>)、10月には富士川の戦い平家が頼朝に敗退してしまいます(10月20日参照>>)

さらに翌年=治承五年(1181年)の2月には御大の清盛が病死(2月4日参照>>)したうえに、ここらあたりから北陸の木曽義仲の快進撃がはじまり
 ●【横田河原の戦い】>>
 ●【倶利伽羅峠の戦い】>>

義仲軍が京都のすぐそばまで来た事を受けて、清盛の後を継いだ平宗盛(むねもり=清盛の三男)率いる平家一門は、寿永二年(1183年)7月、安徳天皇を奉じて都を落ち、
 ●【維盛の都落ち】>>
 ●【忠度の都落ち】>>
 ●【経正の都落ち】>>
西国へと向かったのです。
(後白河院は平家から逃げて京都に留まりました)

この時は、もちろん時忠も平家一門とともに都落ちしています。

その後は、ご存知のように、木曽義仲を倒した(1月21日参照>>)源義経(よしつね=頼朝の弟)が大将となって平家を西へ西へと追い込み
 ●【一の谷~生田の森】>>
 ●【屋島の戦い~扇の的】>>
 ●【壇ノ浦の戦い】>>

こうして寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡し、時忠は、この壇ノ浦にて生け捕られ、捕虜となってしまったのです。

ご存知のように、姉である時子(二位尼)は、幼き安徳天皇を胸に抱き、三種の神器(天皇家に伝わる宝物)の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)とともに海中に身を投じました(【先帝の身投げ】参照>>)

実は、この時、もう一つの神器=八咫鏡(やたのかがみ)を守っていたのが時忠だったのです。

4月に入って捕虜として京都に護送された時忠は、鏡を守った功績により減刑の交渉を行うとともに、美人との誉れ高かった娘=蕨姫(わらびひめ)義経に嫁がせて姻戚関係となり、自らの保身を模索します。

ズルイっちゃぁズルイですが、戦国と同じく、戦って敗者となった側の者としては、名門の血脈を守る事は大事です。

何たって時忠は桓武平氏高棟流ですから・・・

こうして、しばらくは義経の庇護のもと京都に滞在していた時忠でしたが、例の如く、義経が兄の頼朝と不和になった(5月24日参照>>)事で、9月23日、能登(のと=石川県北部)への配流が決行され、時忠は都を離れたのでした。

とは言え、時忠の様々な画策が功を奏したのか?
都に残った縁者たちも頼朝からの圧力は受ける事無く住む場所も与えられ、長女(帥典侍尼=蕨姫の姉)などは、安徳天皇の次の天皇である後鳥羽天皇(ごとばてんの=第82代)女官として出仕しています。
(ただし長男の時実は義経と行動を共にしていたため、捕縛され上総に配流)

能登に移った時忠は、静かに余生を・・・と言いたいところですが、それから、わずか4年後の文治五年(1189年)2月24日、おそらく60歳くらいでこの世を去りました。

とは言え、たぶん彼が必死のパッチで守ったであろう血脈は見事に受け継がれ石川県輪島市の観光スポット=時国家(ときくにけ=同輪島市町野町)として今に伝わります。

Heikemonogatariemaki1as1300
平家物語絵巻の一場面(国立国会図書館蔵)

公家からは「狂乱の人」と言われ、
都の治安維持に熱心ゆえに「悪別当」と呼ばれた平時忠・・・

また、よく平家の横暴ぶりを表す時に出される
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉・・・

実は、この言葉を言ったのは清盛ではなく時忠さんなんです。

もとの言い回しは
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」

この「人非人」「人にあらず」って事で、清盛を悪人に描く『平家物語』の影響もあり、
なんだか
「平家以外は人ではない」
みたいな風に捉えがちですが、

実のところ、この「人非人」は「人ではない」ではなく(出世しない)ダメな人」みたいな意味で言ったらしい・・

なるほど…
公家なれど武門より猛々しく、検非違使別当として都の治安維持に厳しく当たっていた時忠さんなら、ヘナヘナして仕事デキない人間に向かって「人非人」って言っちゃうかも知れないなぁ~と、

なんだか、少し、時忠さんに対するイメージが変わった気がします。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年2月15日 (水)

上杉謙信の姉で景勝の母~おかげで人生波乱万丈の仙桃院

 

慶長十四年(1609年)2月15日、上杉謙信の姉で上杉景勝の母である仙桃院が、その生涯を終えました。

・・・・・・・・・

仙桃院(せんとういん)は、ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉で、俗名は綾姫(あやひめ)と伝えられますが、定かではなく、実は、この仙桃院という法名も、

墓所に残る法名が仙洞院(せんとういん)の表記である事から、現在では「仙洞院が正しい」との専門家の見解を得ているのですが、ドラマ等では仙桃院の名で登場する事が多く、コチラが有名なので、このページでは仙桃院さんというお名前で統一させていただきます。

・‥…━━━☆

本日の主役=仙桃院は、大永四年(1524年)または享禄元年(1528年)頃に、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)だった長尾為景(ながおためかげ)の娘として誕生しました。

父の為景が…↓
  ●守護を倒して戦国大名への第一歩>>
  ●上杉顕定に勝利~長森原の戦い>>
  ●永正の乱~越後・上杉定実VS>>
と、守護の上杉家に勝利して、事実上の越後トップとなる下剋上を果たした事から、

その居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)が、南北朝時代の小さな山城から、戦国覇者特有の大要塞へと変貌を遂げて行く・・・おそらくは、そんな時期に、幼女から娘時代を過ごしたであろう仙桃院。

父の死後に、ひ弱な兄=長尾晴景(はるかげ)に代わって長尾の家督を継ぎ、混乱する越後を統一した腹違いの弟長尾景虎(かげとら=後の謙信)が、

その当主交代劇に反抗する一門の坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)主=長尾政景(まさかげ=上田長尾家)に勝利した天文二十年(1551年)に、政景を自らの配下に収めるべく、その証として自身の姉である仙桃院を政景のもとに嫁がせたのでした(8月1日参照>>)

Sentouin600ak …て事は、この時、仙桃院は、すでに20代半ば~後半?
10代半ばで嫁ぐのが一般的な戦国時代では、かなりの晩婚ですが、

それよりも
勝利した相手に?姉を嫁に?
って事で、一説には、もっと以前に結婚の話が決まっていたのではないか?
との見方もあるようですが、

一方で、この上田長尾家という勢力を、謙信(まだ景虎ですがややこしいのでここから謙信で統一します)が、どうしても味方に取り込んでおきたかったのでは?
と考えると、
「この和睦の機会に親戚関係になっておこう」
というのもアリだった気がします。

とにもかくにも、こうして政景と結婚した仙桃院は、夫との間に2男2女をもうける事になります。

10歳で早世してしまう長男長尾義景(よしかげ)
後に上杉景虎(かげとら=謙信の養子:北条三郎)の正室となる長女清円院(せいえんいん=華渓院:華姫とも)
後に謙信の養子となって上杉景勝(かげかつ)を名乗る事になる次男長尾顕景(あきかげ=ややこしいので景勝で統一します)
後に畠山義春(はたけやまよしはる)の正室となる次女。。。

政略結婚とは言え、なかなかに睦まじい夫婦であった事でしょう。

なんせ、
この頃、身分の低い家臣の息子の中に非凡な才能を見出した仙桃院の意見によって、その子を景勝の近習に推挙する…という一件が『北越軍談(ほくえつぐんだん)の中に登場します。

この逸話を見る限り、政景という旦那さんは、奥さんの意見を聞く耳を持っていたという事になりますから、奥様としては、それなりに幸せだった物と想像できます。

ちなみに、その仙桃院が推挙した男の子が、後に直江兼続(なおえかねつぐ)という見事なサポート役に成長するわけですから、なかなかの先見の明があったかと…

夫の政景は政景で、謙信の右腕となって忠誠を尽くし、一時、謙信がヤル気を失くして家出した時には、1番に行動を起こして、無事に連れ戻しています(6月28日参照>>)

こうして順風満帆に見えた二人・・・しかし、そんな幸せは長くは続きませんでした。

永禄七年(1564年)7月 、琵琶島城(びわじまじょう=新潟県柏崎市)主の宇佐美定満(うさみさだみつ)野尻池での舟遊び中だった政景が、ともに池に落ちて溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

今以って、
事故なのか?
故意=暗殺なのか?
が取り沙汰される謎多き死なのですが、亡くなった事は確かで、これにて未亡人となってしまった仙桃院は、自身の思いとはうらはらに、長尾家=上杉家の行く末というの大きな流れの変化に呑み込まれていく事になるのです。

夫を失った事で家運が傾く事を恐れた仙桃院が、
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
と謙信に懇願した…と『北越耆談(ほくえつきだん)にあります。

『北越耆談』は少々信ぴょう性の薄い文献なので、そのままを鵜呑みにする事はできませんが、この時の仙桃院が、父を失った我が子たちを守ろうと奮闘した事は、おそらく間違いないところでしょう。

それを受けてか、
すでに上杉家の名跡を継ぎ、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなりながらも後継ぎがいなかった謙信から(6月26日参照>>)未だ幼き景勝を「後継者として育成すべく、養子として手元に置き、文武の教育を行いたいとの事で、まずは次男の景勝が仙桃院のもとを離れて春日山城へと移ります。

その後、
長女は、北条との同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎のもとに、
次女は、天正五年(1577年)に謙信が落とした七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)(9月13日参照>>)を継いだ畠山義春のもとに、
それぞれ嫁いで行ったのです。

息子&娘が旅立ち、一人になった仙桃院は、これを機に坂戸城を出て春日山城へと移ります

この頃は、すでに元服して立派になった景勝は、春日山城の本丸=実城(みじょう)から南に一段下がった中城に居を構えていましたが、仙桃院が入ったのは、実城から東に一段下がった二の曲輪(にのくるわ)でした。

実は、この二の曲輪に住んでしたのが、景虎夫婦・・・つまり仙桃院は、娘夫婦と同居する事になったわけです『景勝公御年譜』による)

なんせ、この頃の景勝は、未だ独身でバリバリ軍役をこなし、軍の一翼を担う若き将軍として頭角を現しつつあった事で何かと留守にしがち。。。

一方の景虎は、結婚して腰を落ち着けであまり軍役には出ずにいたし、さらに夫婦の間には元亀二年(1571年)に生まれた道満丸(どうまんまる)という男の子がいて、お婆ちゃん=仙桃院としてはカワイイ孫と過ごすのも楽しいひと時なわけで・・・

ひょっとしたら、夫の死後に味わった、久々の幸せな日々だったかも知れません。

ところが、これまた、そんな幸せは長く続かなかったのです。

そう・・・天正六年(1578年)3月、大黒柱の謙信が突然倒れ(脳卒中?)て目覚めぬまま、その4日後に亡くなったのです(3月13日参照>>)

もちろん、人はいつか死にますが、問題だったのは、この時、謙信が誰を後継者にするか?を明言していなかった事・・・

謙信が倒れた事をいち早く知った景勝は、即座に、未だ生きている謙信の居る実城と金蔵(きんぞう)と武器庫を占拠して、内外に
「自身が後継者である」
事のアピールを開始・・・

それを聞きつけた景虎が慌てて実城にやって来ますが、中に入れてもらえず、やむなく景虎は、自身の二の曲輪に立て籠もります。

ご存知、御館の乱(おたてのらん)です。

仙桃院は、この時、おそらくは娘夫婦とともに二の曲輪に居たと思われますが、このまま2ヶ月に渡る戦闘の中で、景勝は自身の居る実城から、下の二の曲輪に向かって大鉄砲を、雨アラレの如く何度も撃ちかけたとか・・・

戦国とは言え、自身の母と妹や甥っ子のいる場所に鉄砲を射かけるとは、、、ちょっと複雑~

5月に入ると、戦闘は城外へと移ってますます激しくなった事から、景虎は、妻子をともなって春日山城を脱出・・・前関東管領(つまり謙信に上杉の名跡と関東管領を譲った人)上杉憲政(のりまさ)が住む屋敷(ここが御館と呼ばれる場所)に入ります。

つまり、謙信の武力と金を占拠した景勝に対抗するため、景虎は謙信の名跡と関東管領職を掌握しようとしたわけです。

この時の仙桃院は・・・
記録が無いので何とも言えませんが、この状況で自分だけ春日山城に残る事は考え難いので、やはり娘夫婦と行動をともにしつつも、母として告肉の争いを避ける手段を模索していたのかも知れませんが、

とにもかくにも、彼女がどんな行動を取ろうが、もはや燃え始めた業火に対しては焼け石に水なわけで・・・

そんな中、交渉の末に甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)を味方につけた景勝に対し、頼みの綱の実家=北条の援軍が遅れる景虎は、どんどん劣勢に立たされて行き

開始から約1年経った天正七年(1579年)3月17日、御館は落城・・・何とか脱出して和議を結ぶべく幼き道満丸を抱えて春日山城へ向かった上杉憲政は、残念ながら、その途中で景勝配下の兵に道満丸もろとも殺害されてしまいました。

その1週間後の3月24日には、御館を脱出して鮫ヶ尾城(さめがおじょう=新潟県妙高市)に拠った景虎と清円院も死亡(3月17日参照>>)・・・残された仙桃院は、失意のまま春日山城で暮らす事になります。

そんな家内でゴタゴタしてる間に、間近にまで迫って来た織田信長(おだのぶなが)を前にして、しばし窮地に立たされるも(9月24日参照>>)、あの本能寺の変(6月2日参照>>)おかげで、何とか無事に(6月3日参照>>)乗り切った景勝

その後、信長の後にトップに立った豊臣秀吉(とよとみひでよし)臣従を強いられるも、甥っ子(畠山義春と妹の息子=畠山義真)を人質に差し出して素直に従った事で、

豊臣政権下での景勝は、越後&佐渡はもちろん、北信濃(長野県北部)四郡から出羽(でわ=秋田周辺)庄内(しょうない=山形県の庄内平野)にまたがる大大名となる事ができたのです。

やっとこさ安定したか~~と思いきや、

ここに来て畠山義春の養父である上条政繁(じょうじょうまさしげ)が、いきなり出奔して、秀吉の下に走ったのです。(6月15日参照>>)

この上条政繁は、かの御館の乱の時に、いち早く実城を占拠した功労者で景勝と同じく謙信の養子だった人(乱の時はすでに上条家を継いでいたので景勝に味方した)で、言わば右腕として活躍していたはずなのですが、、、

おそらくは、景勝との統治をめぐる対立か?もしくは景勝の側近として幅を利かせる直江兼続を嫌ったか?・・・しかも、その後、畠山義春まで出奔・・・

とにもかくにも、この事件のおかげで、景勝は妹である義春夫人とその子供たち全員を捕縛して10年近くも座敷牢に幽閉したとか・・・(←あくまで「一説」です)

そんな中で、慶長三年(1598年)の会津(あいづ=福島県の西部)転封(1月10日参照>>)にも従い、豊臣五大老の一人となった景勝とともにいた仙桃院さん。。。

一説には、
「生涯、笑顔を見せなかった」
と噂されるほど、冷酷さ満載な景勝の側にいて、間近に告肉の争いを見続けて来たような人生だった仙桃院も、もはや70近いお婆ちゃんで、その心中もいかばかりか…と察しますが、

一方で、この後、秀吉の死後に起こる関ヶ原の戦いでは、景勝は、あの徳川家康(とくがわいえやす)を敵に回し(4月1日参照>>)堂々の反発をしました(4月14日参照>>)

ご存知のように、この時、同じように家康から謀反の疑いを掛けられた豊臣五大老の一人=加賀(かが=石川県南部)前田利長(まえだとしなが)は、母の芳春院(ほうしゅんいん=まつ)江戸への人質に差し出して(5月11日参照>>)恭順姿勢を見せ、家康からの攻撃を防ぎました

しかし、おそらく、この時の景勝には「母を人質に差し出す」という選択肢はなかったように見受けられます。

もちろん、本チャンの関ヶ原ではなく、この時の景勝は東北での戦い(10月1日参照>>)に力を注いでいたわけで、単に母親への愛情云々では片づけられないし、結果的に、関ヶ原で西軍が負けてしまった(9月15日参照>>)事で、東北で戦っていた景勝も負け組となり、慌てて家康に謝りに行って(8月24日参照>>)、結果、米沢(よねざわ=山形県米沢市)30万石の大幅減封となってしまう(11月28日参照>>)わけですが、

恭順姿勢を見せた一方の前田家は、ご存知のように加賀百万石の隆盛を極めるわけですから、どちらが良い悪いという意味ではありません。

何はともあれ、こうして米沢にまでついて行った仙桃院は、その9年後の慶長十四年(1609年)2月15日、80歳を超える長寿を全うして米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)二の丸で死去したのでした。

思えば、弟によって長尾家の全盛を見、息子によって戦国の辛さを見た仙桃院さん。。。

一説に、景勝は、この頃、江戸にいて母の死に目には会えなかったとか・・・

しかしその後、もはや、ただ一人の兄妹となったかの畠山義春の妻の彼女を、景勝は米沢城にて大切に扱い、元和八年(1622年)には、その最期を看取ったと言います。

そして、その妹に母と同じ仙洞院という法名を送った景勝さん。。。

そこには、戦国という厳しい世の中で、肉親への愛情とはうらはらに、骨肉の争いをしなければならなかった悲しみが込められている気がするのです。

私が、かの関ヶ原の時の景勝に「母を人質に差し出すという選択肢はなかった 」と感じるのは、この妹である仙洞院さんの最期のお話を耳にしたからなのです。

あくまで、心の内は想像するしかない事ではありますが、
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年2月13日 (月)

大河ドラマ「どうする家康」の3~6回の感想

 

先日、1~2回の感想を書いたので、本日は、その続きの感想を…
(前回の感想はこちら>>からどうぞ)

なぜ?
あの「麒麟がくる」の時のように、毎回の感想を書かないのか?ってww

いやいやww 毎回悩んじゃうんですよね~

歴史好きの歴史ブログとしては、どうしても、
「ここが史実と違う」
てな事を書いちゃうんですが、それを言い出すと

「歴史ガー 歴史ガー」ってウルサイ
ドラマは創作物なんだから史実と違って当たり前!
って言われちゃう(ToT)

いや、わかってますよ~そんな事。

私としては、
別に「史実と違うからダメ」と言ってるわけじゃぁないんです。

ただ、大河ドラマは
「それが史実だ」
と思っちゃう人が大勢いるドラマ枠だと思うんです。

歴史が好きだと、ドラマで見た後に
「本当はどうだったんだろう?」
「歴史としてはどう伝えられているんだろう?」
と、色々文献を調べたりするわけですが、
★現に、私も、歴史好きの第一歩は時代劇からです

けれど、世の中の大多数の人は歴史に興味が無いわけで、
歴史に興味が無い方が視聴されたら、
「家康さんってこんな人なんだ」
「戦国時代って、こんな感じなんだ」
と思っちゃうんじゃないか?と…

大河ドラマというのは、そういうドラマだと思うんです。

もちろん、
見る側が勝手にそう見ておいて文句言うな…という意見もおありでしょうが、
それこそ、NHK様が長年培ってこられた大河ドラマ枠の土壌という物が、そうさせるわけです。

私は、今回の
脚本家様の「コンフィデンスマンJP」「三丁目の夕日」も大好きです。
演出家様たちの「透明なゆりかご」「トクサツガガガ」も大好きです。

なので「どうする家康」が大河ドラマ枠でなかったら、素直に楽しんでると思います。

紫禁城みたいな清須城でも、
合戦場所が中国の大草原に見えても、
メリーゴーランドな動きのCG馬たちも、

なんかヒラヒラした衣装での立ち回り、
溺れてるとこ助けてくれた主人公に恋する、
高いとこから落ちて死ぬ~からの実は死んでない、
なんていう中国ドラマあるあるを展開されても、

中国史劇も好きな私は、むしろグイグイ喰い気味に見てただろうし、
それこそ、史実には無い「大どんでん返し」があるかも…とワクワクしてるかも知れません。
(中国時代劇はけっこう史実無視なので…)

しかし、悲しいかな、日曜8時は大河ドラマ枠。。。

おそらく、NHK様は、そんな「大河ドラマの土壌を払拭したい」と思っておられる?
ひょっとして、それが「新しい大河」のコンセプトなのかも?

てな事で、私としては今年一年は大河…ではなく、娯楽時代劇として楽しもうと考えております。

Ieysunagarebata とは言え、ここは歴史ブログ。。。

ドラマのストーリーがどうのこうのではなく、ここは押さえておきたい!というポイントを一つ二つ・・・

一つめは溝端淳平さん演じる今川氏真キャラですね~

もちろん、歴史人物の性格なんてわかりませんのでアレですが、少なくとも、あそこまで瀬名ちゃんLOVEではないと思いますww

ドラマには(今のところ)出て来てませんが、この頃の氏真さんには甲相駿三国同盟(今川と北条と武田の同盟)の時に婚姻した北条氏の姫=早川殿という正室がいます(3月3日参照>>)

上記の通り、同盟の証としての政略結婚ではありますが、これがなかなか仲睦まじく、本拠の今川館を攻撃された時にゃ、手に手を取って裸足で逃げるというラブラブ感満載で、その後、今川はもちろん北条が滅亡しても、江戸から京都に移っても、夫婦はともに行動して仲良くやってますので、おそらく瀬名ちゃんに手を出す事は無いと思われます。
(主役の敵だからと、あまりに悪人に描かれてるので擁護しときますww)

二つ目は、第6回「続・瀬名奪回作戦」で野間口徹さん演じる鵜殿長照が放った
「忍びを使うとは卑怯な」
というセリフ。。。

戦国時代で忍びを使わない武将はいたのでしょうか?
ってくらい、皆、忍びは使ってます。
(あんな黒装束の忍者丸出しや、仕事人みたいなくノ一はいませんが…)

しかも、今回は「敵の生け捕り」という卑怯にはほど遠い作戦のように思います。

そもそも城攻めの常とう手段として使われた作戦が、
「水の手を断つ」事。。。

これに、よく忍び的な人(単に雇われてるだけの場合もあるので)を雇い、
まずは、城に忍び込んでもらって
「井戸に毒をまく」
というのが、よくある作戦…いや、毒なんて(高価な物)もったいない。

井戸に動物の死骸をほぉり込んだら、もう、それだけで水は飲めませんから、
まず、最初にソレやります。

個人的には、こっちの方が、よっぽど卑怯なんじゃないか?と思いますが、
これが、戦国の常とう手段ですからね。

とにもかくにも、
あの黒ずくめで「影の軍団」のような、いかにも忍者らしいハットリくんが出て来た第5回の、ドラマの後の「紀行潤礼」のコーナーで、
「現在のような忍者のイメージが造られたのは江戸時代」
ってナレーションで言っちゃう時点で、

「あぁ、コレは、解ってやってはるんやな」
という事を理解しましたので、今年の「どうする家康」はエンターテイメントとして楽しませていただこうと思っています。

★このブログでの「瀬名奪回作戦」は
【今川から妻子を取り戻せ!~徳川家康と鵜殿長照の上ノ郷城の戦い】のページ>>でどうぞ
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4)

2023年2月 8日 (水)

織田信長と雑賀孫一VS土橋重治の粟村城攻防~雑賀の内紛その1

 

天正十年(1582年)2月8日、土橋重治と鈴木重秀による雑賀衆のトップ争いで土橋が籠る粟村城が攻撃されました。

・・・・・・・・・

応仁の乱以降に紀州(きしゅう=和歌山県)守護(しゅご=県知事みたいな?)となった畠山(はたけやま)権力争い(7月12日参照>>)に見えるように、

この紀州という地は、守護や守護代(しゅごだい=副知事)の影響を受けながらも、一方で高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)など、宗教勢力も強い土地柄であった事から、

他所とは違う独特の歴史を歩んで来た中で、紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民雑賀(さいが・さいか)でした。

石山合戦(9月14日【春日井堤の攻防】参照>>)石山本願寺に味方して織田信長(おだのぶなが)相手に大暴れした事から、雑賀衆は信長の敵、、、

Saigamagoiti400a そして戦国ゲームに登場して人気になった事から、雑賀といえば鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)・・・

との印象を受ける方も多かろうと思いますが、実のところ、もともとが地元の烏合の衆の集まりで、それが、さらに大きくなった感のある雑賀衆ですので、当然、一枚岩ではなく、常に複数のグループがついたり離れたりの集合体のような形で維持されていました。

そんな中で、かの石山合戦の頃に頭角を現していたのが土橋(どばし・つちばし)氏で、その土橋が一貫して本願寺派であった事から本願寺に味方して信長からの攻撃を受ける事にもなり、信長側についていた雑賀衆が報復を受ける…てな事になっていたわけですが、、、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
●【信長派への報復】参照>>

そんなこんなの、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦し、約10年に渡る石山合戦が終結してしまったのです(8月2日参照>>)

これをチャンスと見たのが鈴木重秀・・・

一説には土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫・胤継)娘婿とされる鈴木重秀は、これまでは強い嫁の強い父ちゃんとして、チョイと気を使っていたのかも…だけど、この本願寺と信長の和睦という好機を見逃さず、動き始めたのです。

この一件・・・『信長公記』に、
「内々上意を経…」
とある事から、おそらくは信長からの「OK」を取ったうえで、天正十年(1582年)1月23日、鈴木重秀は、

当時、雑賀荘の鷺ノ森に移り住んでいた本願寺顕如(けんにょ=11代法主)のもとに向かっていた舅の土橋守重を、宇治(うじ=和歌山県和歌山市宇治袋町付近)橋の上に竹を並べて、騎乗する土橋守重の動きを止めたところに、前方から近づいた2名の刺客が襲いかかるという方法で殺害(『紀伊国旧家地士覚書』による)し、雑賀衆のトップを取るべく雑賀の内紛に踏み切ったのです。

これを受けた土橋守重の息子たち・・・

長男の土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)を中心に、本拠である粟村城(あわむらじょう=和歌山県和歌山市栗)立て籠もります。

この粟村城は、現在でも紀伊土橋氏屋敷とも呼ばれる場所である事から、おそらくは城と言っても、さほど堅固な物では無かったと思われますが、一方で、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)をする際に陣をを置き、拠点の一つとした事を踏まえると、それなりの備えができる要衝であったと思われます。

そんな粟村城に、土橋派の土豪(どごう=地侍)や根来寺の泉識坊威福院(いふくいん)などの衆が加わって、大人数で防戦準備に入ります。

泉識坊は、根来寺四坊の一つに数えられる有力寺院で、土橋氏が建立し、その門主も代々土橋氏から出している坊ですから、まさに一族総出での防戦・・・

しかし、対する鈴木重秀側は、何たって天下に1番近い男=信長の支援を得ており、その信長からは、援軍として同族の織田信張(のぶはる)が派遣されて来ていて、そこには天下一の鉄砲隊もついて来てます。

何日にも渡る鉄砲戦は、2月に入っても続けられ、見かねた鷺ノ森の顕如が鈴木&土橋の両者それぞれに、
「停戦をするように」
との説得をするのですが、

「孫一のアホが言う事きかんのや」by土橋
「信長さんの兵がまだ残ってくれてはるんで…」by鈴木

と、両者ともに聞き入れず・・・

やがて土橋側の有力土豪であった小倉監物(おぐらけんもつ)信長の兵によって殺害された事で、形勢不利を見て取った土橋重治らは、密かに城を脱出し、何処ともなく行方をくらませました。

その後、根来衆の面々も約30騎の手勢で以って夜中の脱走を計り、威福院の衆も何とか逃げ切りに成功したものの、ともに脱出した泉識坊の衆らが発見され、残念ながら討ち取られてしまいました。

かくして天正十年(1582年)2月8日、この時の粟村城内には、まだ若干の兵が残っていたものの、そこに顕如の仲介が入った事で、彼らは無事に退城する事と相成り、

その後、空となった粟村城は鈴木重秀らの手によって焼き払われ、雑賀の内紛の第1の戦いは終結したのでした。

ただし、その後も織田信張&鈴木派連合軍が周辺を威嚇して回っていたようなので、しばらくは不穏な空気が漂っていたようですが、それも治まった2月23日には、織田信張も兵を退き、安土城へと戻って行きました。

そして安土にて、討ち取られた泉識坊衆徒らの首を検分した信長は、これを安土城下に晒し、大将格の首を取った斎藤六大夫(さいとうろくだゆう)なる者には、森蘭丸(もりらんまる=成利)を通じて小袖と馬が与えられたとの事・・・

これにて土橋派の力が衰え、雑賀衆におけるトップ座は鈴木重秀=雑賀孫一となったわけです。

とまぁ、終わってみれば、一地域の土豪同士のトップ争いに過ぎないこの戦い・・・

しかし、
オモシロイのは、この戦いの勃発直前の1月27日に日付にて、正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の嫡皇子)による
「さいくわにてけんくわのよし」(雑賀で喧嘩してるお)
などという女房奉書(にょうぼうほうしょ=天皇の命にて宮中の女官が仮名文字で作成する文書)が出されている事。。。

たかが地方の、
それも土豪のモメ事を?
天皇や親王が?

何やら、ただのモメ事ではない雰囲気がしますが・・・その裏情報もわからないまま、歴史は急展開を迎えるのです。

そう…年号を見れば、お解りですね。。。

あの1582年=いちごパンツで本能寺です!(6月2日参照>>)

この4ヶ月後に天下に一番近い男=信長が横死した事で、この雑賀に再びの嵐が吹くのです。

なんせ土橋重治は死んでない=逃げたわけですから。。。

それが起こるのは、本能寺の変からわずか2日後・・・もちろん土橋重治が連絡を取るのは、あの明智光秀(あけちみつひで)・・・

て、事になるのですが、
そのお話は、すでに書かせていただいているので…
6月4日のページ>>でよろしですくm(_ _)m
(同じ雑賀の内紛なので内容がカブッてる部分が多々ありますがご了承のほど…)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

« 2023年1月 | トップページ | 2023年3月 »