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2023年2月 8日 (水)

織田信長と雑賀孫一VS土橋重治の粟村城攻防~雑賀の内紛その1

 

天正十年(1582年)2月8日、土橋重治と鈴木重秀による雑賀衆のトップ争いで土橋が籠る粟村城が攻撃されました。

・・・・・・・・・

応仁の乱以降に紀州(きしゅう=和歌山県)守護(しゅご=県知事みたいな?)となった畠山(はたけやま)権力争い(7月12日参照>>)に見えるように、

この紀州という地は、守護や守護代(しゅごだい=副知事)の影響を受けながらも、一方で高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)など、宗教勢力も強い土地柄であった事から、

他所とは違う独特の歴史を歩んで来た中で、紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民雑賀(さいが・さいか)でした。

石山合戦(9月14日【春日井堤の攻防】参照>>)石山本願寺に味方して織田信長(おだのぶなが)相手に大暴れした事から、雑賀衆は信長の敵、、、

Saigamagoiti400a そして戦国ゲームに登場して人気になった事から、雑賀といえば鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)・・・

との印象を受ける方も多かろうと思いますが、実のところ、もともとが地元の烏合の衆の集まりで、それが、さらに大きくなった感のある雑賀衆ですので、当然、一枚岩ではなく、常に複数のグループがついたり離れたりの集合体のような形で維持されていました。

そんな中で、かの石山合戦の頃に頭角を現していたのが土橋(どばし・つちばし)氏で、その土橋が一貫して本願寺派であった事から本願寺に味方して信長からの攻撃を受ける事にもなり、信長側についていた雑賀衆が報復を受ける…てな事になっていたわけですが、、、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
●【信長派への報復】参照>>

そんなこんなの、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦し、約10年に渡る石山合戦が終結してしまったのです(8月2日参照>>)

これをチャンスと見たのが鈴木重秀・・・

一説には土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫・胤継)娘婿とされる鈴木重秀は、これまでは強い嫁の強い父ちゃんとして、チョイと気を使っていたのかも…だけど、この本願寺と信長の和睦という好機を見逃さず、動き始めたのです。

この一件・・・『信長公記』に、
「内々上意を経…」
とある事から、おそらくは信長からの「OK」を取ったうえで、天正十年(1582年)1月23日、鈴木重秀は、

当時、雑賀荘の鷺ノ森に移り住んでいた本願寺顕如(けんにょ=11代法主)のもとに向かっていた舅の土橋守重を、宇治(うじ=和歌山県和歌山市宇治袋町付近)橋の上に竹を並べて、騎乗する土橋守重の動きを止めたところに、前方から近づいた2名の刺客が襲いかかるという方法で殺害(『紀伊国旧家地士覚書』による)し、雑賀衆のトップを取るべく雑賀の内紛に踏み切ったのです。

これを受けた土橋守重の息子たち・・・

長男の土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)を中心に、本拠である粟村城(あわむらじょう=和歌山県和歌山市栗)立て籠もります。

この粟村城は、現在でも紀伊土橋氏屋敷とも呼ばれる場所である事から、おそらくは城と言っても、さほど堅固な物では無かったと思われますが、一方で、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)をする際に陣をを置き、拠点の一つとした事を踏まえると、それなりの備えができる要衝であったと思われます。

そんな粟村城に、土橋派の土豪(どごう=地侍)や根来寺の泉識坊威福院(いふくいん)などの衆が加わって、大人数で防戦準備に入ります。

泉識坊は、根来寺四坊の一つに数えられる有力寺院で、土橋氏が建立し、その門主も代々土橋氏から出している坊ですから、まさに一族総出での防戦・・・

しかし、対する鈴木重秀側は、何たって天下に1番近い男=信長の支援を得ており、その信長からは、援軍として同族の織田信張(のぶはる)が派遣されて来ていて、そこには天下一の鉄砲隊もついて来てます。

何日にも渡る鉄砲戦は、2月に入っても続けられ、見かねた鷺ノ森の顕如が鈴木&土橋の両者それぞれに、
「停戦をするように」
との説得をするのですが、

「孫一のアホが言う事きかんのや」by土橋
「信長さんの兵がまだ残ってくれてはるんで…」by鈴木

と、両者ともに聞き入れず・・・

やがて土橋側の有力土豪であった小倉監物(おぐらけんもつ)信長の兵によって殺害された事で、形勢不利を見て取った土橋重治らは、密かに城を脱出し、何処ともなく行方をくらませました。

その後、根来衆の面々も約30騎の手勢で以って夜中の脱走を計り、威福院の衆も何とか逃げ切りに成功したものの、ともに脱出した泉識坊の衆らが発見され、残念ながら討ち取られてしまいました。

かくして天正十年(1582年)2月8日、この時の粟村城内には、まだ若干の兵が残っていたものの、そこに顕如の仲介が入った事で、彼らは無事に退城する事と相成り、

その後、空となった粟村城は鈴木重秀らの手によって焼き払われ、雑賀の内紛の第1の戦いは終結したのでした。

ただし、その後も織田信張&鈴木派連合軍が周辺を威嚇して回っていたようなので、しばらくは不穏な空気が漂っていたようですが、それも治まった2月23日には、織田信張も兵を退き、安土城へと戻って行きました。

そして安土にて、討ち取られた泉識坊衆徒らの首を検分した信長は、これを安土城下に晒し、大将格の首を取った斎藤六大夫(さいとうろくだゆう)なる者には、森蘭丸(もりらんまる=成利)を通じて小袖と馬が与えられたとの事・・・

これにて土橋派の力が衰え、雑賀衆におけるトップ座は鈴木重秀=雑賀孫一となったわけです。

とまぁ、終わってみれば、一地域の土豪同士のトップ争いに過ぎないこの戦い・・・

しかし、
オモシロイのは、この戦いの勃発直前の1月27日に日付にて、正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の嫡皇子)による
「さいくわにてけんくわのよし」(雑賀で喧嘩してるお)
などという女房奉書(にょうぼうほうしょ=天皇の命にて宮中の女官が仮名文字で作成する文書)が出されている事。。。

たかが地方の、
それも土豪のモメ事を?
天皇や親王が?

何やら、ただのモメ事ではない雰囲気がしますが・・・その裏情報もわからないまま、歴史は急展開を迎えるのです。

そう…年号を見れば、お解りですね。。。

あの1582年=いちごパンツで本能寺です!(6月2日参照>>)

この4ヶ月後に天下に一番近い男=信長が横死した事で、この雑賀に再びの嵐が吹くのです。

なんせ土橋重治は死んでない=逃げたわけですから。。。

それが起こるのは、本能寺の変からわずか2日後・・・もちろん土橋重治が連絡を取るのは、あの明智光秀(あけちみつひで)・・・

て、事になるのですが、
そのお話は、すでに書かせていただいているので…
6月4日のページ>>でよろしですくm(_ _)m
(同じ雑賀の内紛なので内容がカブッてる部分が多々ありますがご了承のほど…)
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