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2023年2月24日 (金)

「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠

 

文治五年(1189年)2月24日、平家全盛時代を生きた平時忠が、配流先の能登にて死去しました。

・・・・・・・・・

平時忠(たいらのときただ)桓武平氏高棟流(堂上平氏)の公家=平時信(ときのぶ)令子内親王(れいしないしんのう=第72代白河天皇の皇女)に仕えていた女房との間に生まれた男子・・・

と言うより、あの平清盛(きよもり)の奧さん=平時子(ときこ)と言った方がわかりやすいですね。

Kanmuheisikeizu_2 *桓武平氏の系図はコチラ→

ご存知のように、平氏は、第50代桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫(もしくは孫)だった高棟王(たかむねおう)臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗って(7月6日参照>>)、その子や孫が公卿に昇進して貴族としての道を歩んだ・・・この家系が高棟流です。

一方、高棟王の弟の高見王の子供の高望王(たかもちおう)が臣籍降下して平高望(たいらのたかもち)と名乗って上総介(かずさのすけ=千葉県知事みたいな)に任ぜられ、実際に上総国(かずさのくに=千葉県の中部)に下って関東の治安維持のため武装化して(5月13日参照>>)・・・と、コチラの家系が清盛たち伊勢平氏

つまり同じ平氏でも、清盛さんちと時子さんちは少々雰囲気が違っていたわけですが・・・

そんな中で、久安元年(1145年)頃に姉の時子が、勢いのある平清盛の後妻となり、応保元年(1161年)に後白河院(ごしらかわいん=第77代天皇)の寵愛を受けていた妹の平滋子(しげこ)(7月8日参照>>)第七皇子(憲仁=後の高倉天皇)を生んだ縁もあって、平時忠はとんとん拍子の出世街道となります。

とは言え、やはり平時忠は高棟流の人・・・

平治の乱に勝利して(12月25日参照>>)検非違使別当(けびいしべっとう=警察の長)となった平清盛の下で、その補佐官となり都の治安維持などに尽力するものの、立ち位置的には少し距離を置いていた感もチラホラ・・・

応保二年(1162年)には、妹の滋子が産んだ皇子を皇太子にすべく動き、時の天皇である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)呪詛(じゅそ=呪いをかける)したとして職を解任され出雲(いずも=島根県)へと配流されるのですが、

 永万元年(1165年)に二条天皇が崩御されると、見事!復帰・・・仁安二年(1167年)には検非違使別当となります。

この頃に太政大臣に就任し、我が世の春となる清盛と、後白河院の仲が徐々に険悪ムードになって行く中でも、どちらにつくという事も無く、ウマく立ち回る時忠。。。

嘉応元年(1169年)には延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)との問題で、一旦、解官されるも、すぐさま翌年に返り咲きし、清盛×時子の娘である平徳子(とくこ)が、成長した後白河院×滋子の皇子=高倉天皇(たかくらてんのう=第80代)入内(にゅうだい=中宮として宮中に入る)(2月10日参照>>)した承安元年(1171年)には子の中宮権大夫に就任し、建春門院(滋子)の側近として政界に君臨。

治承二年(1178年)に徳子が安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)を生むと、時忠の奧さん=藤原領子(ふじわらのむねこ=帥局)が、その乳母となり、 まさに時忠全盛期・・・となりますが、

一方で、それと前後して、治承元年(1177年)には鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)、治承三年(1179年)には治承三年の政変(11月17日参照>>)と、後白河院と清盛の対立が益々エスカレートしていく中で。。。

いよいよ翌年の治承四年(1180年)・・・この年の4月に以仁王(もちひとおう=後白河院の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の命令書)を発し(4月9日参照>>)、5月には源頼政(みなもとのよしまさ)とともに挙兵(5月26日参照>>)・・・

この挙兵は鎮圧したものの、この動きを受けて、8月には伊豆源頼朝(よりとも)が挙兵し(8月17日参照>>)、9月には北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)も挙兵し(9月7日参照>>)、10月には富士川の戦い平家が頼朝に敗退してしまいます(10月20日参照>>)

さらに翌年=治承五年(1181年)の2月には御大の清盛が病死(2月4日参照>>)したうえに、ここらあたりから北陸の木曽義仲の快進撃がはじまり
 ●【横田河原の戦い】>>
 ●【倶利伽羅峠の戦い】>>

義仲軍が京都のすぐそばまで来た事を受けて、清盛の後を継いだ平宗盛(むねもり=清盛の三男)率いる平家一門は、寿永二年(1183年)7月、安徳天皇を奉じて都を落ち、
 ●【維盛の都落ち】>>
 ●【忠度の都落ち】>>
 ●【経正の都落ち】>>
西国へと向かったのです。
(後白河院は平家から逃げて京都に留まりました)

この時は、もちろん時忠も平家一門とともに都落ちしています。

その後は、ご存知のように、木曽義仲を倒した(1月21日参照>>)源義経(よしつね=頼朝の弟)が大将となって平家を西へ西へと追い込み
 ●【一の谷~生田の森】>>
 ●【屋島の戦い~扇の的】>>
 ●【壇ノ浦の戦い】>>

こうして寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡し、時忠は、この壇ノ浦にて生け捕られ、捕虜となってしまったのです。

ご存知のように、姉である時子(二位尼)は、幼き安徳天皇を胸に抱き、三種の神器(天皇家に伝わる宝物)の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)とともに海中に身を投じました(【先帝の身投げ】参照>>)

実は、この時、もう一つの神器=八咫鏡(やたのかがみ)を守っていたのが時忠だったのです。

4月に入って捕虜として京都に護送された時忠は、鏡を守った功績により減刑の交渉を行うとともに、美人との誉れ高かった娘=蕨姫(わらびひめ)義経に嫁がせて姻戚関係となり、自らの保身を模索します。

ズルイっちゃぁズルイですが、戦国と同じく、戦って敗者となった側の者としては、名門の血脈を守る事は大事です。

何たって時忠は桓武平氏高棟流ですから・・・

こうして、しばらくは義経の庇護のもと京都に滞在していた時忠でしたが、例の如く、義経が兄の頼朝と不和になった(5月24日参照>>)事で、9月23日、能登(のと=石川県北部)への配流が決行され、時忠は都を離れたのでした。

とは言え、時忠の様々な画策が功を奏したのか?
都に残った縁者たちも頼朝からの圧力は受ける事無く住む場所も与えられ、長女(帥典侍尼=蕨姫の姉)などは、安徳天皇の次の天皇である後鳥羽天皇(ごとばてんの=第82代)女官として出仕しています。
(ただし長男の時実は義経と行動を共にしていたため、捕縛され上総に配流)

能登に移った時忠は、静かに余生を・・・と言いたいところですが、それから、わずか4年後の文治五年(1189年)2月24日、おそらく60歳くらいでこの世を去りました。

とは言え、たぶん彼が必死のパッチで守ったであろう血脈は見事に受け継がれ石川県輪島市の観光スポット=時国家(ときくにけ=同輪島市町野町)として今に伝わります。

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平家物語絵巻の一場面(国立国会図書館蔵)

公家からは「狂乱の人」と言われ、
都の治安維持に熱心ゆえに「悪別当」と呼ばれた平時忠・・・

また、よく平家の横暴ぶりを表す時に出される
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉・・・

実は、この言葉を言ったのは清盛ではなく時忠さんなんです。

もとの言い回しは
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」

この「人非人」「人にあらず」って事で、清盛を悪人に描く『平家物語』の影響もあり、
なんだか
「平家以外は人ではない」
みたいな風に捉えがちですが、

実のところ、この「人非人」は「人ではない」ではなく(出世しない)ダメな人」みたいな意味で言ったらしい・・

なるほど…
公家なれど武門より猛々しく、検非違使別当として都の治安維持に厳しく当たっていた時忠さんなら、ヘナヘナして仕事デキない人間に向かって「人非人」って言っちゃうかも知れないなぁ~と、

なんだか、少し、時忠さんに対するイメージが変わった気がします。
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