上杉謙信の姉で景勝の母~おかげで人生波乱万丈の仙桃院
慶長十四年(1609年)2月15日、上杉謙信の姉で上杉景勝の母である仙桃院が、その生涯を終えました。
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仙桃院(せんとういん)は、ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)の異母姉で、俗名は綾姫(あやひめ)と伝えられますが、定かではなく、実は、この仙桃院という法名も、
墓所に残る法名が仙洞院(せんとういん)の表記である事から、現在では「仙洞院が正しい」との専門家の見解を得ているのですが、ドラマ等では仙桃院の名で登場する事が多く、コチラが有名なので、このページでは仙桃院さんというお名前で統一させていただきます。
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本日の主役=仙桃院は、大永四年(1524年)または享禄元年(1528年)頃に、越後(えちご=新潟県)の守護代(しゅごだい=副知事)だった長尾為景(ながおためかげ)の娘として誕生しました。
父の為景が…↓
●守護を倒して戦国大名への第一歩>>
●上杉顕定に勝利~長森原の戦い>>
●永正の乱~越後・上杉定実VS>>
と、守護の上杉家に勝利して、事実上の越後トップとなる下剋上を果たした事から、
その居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)が、南北朝時代の小さな山城から、戦国覇者特有の大要塞へと変貌を遂げて行く・・・おそらくは、そんな時期に、幼女から娘時代を過ごしたであろう仙桃院。
父の死後に、ひ弱な兄=長尾晴景(はるかげ)に代わって長尾の家督を継ぎ、混乱する越後を統一した腹違いの弟の長尾景虎(かげとら=後の謙信)が、
その当主交代劇に反抗する一門の坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)主=長尾政景(まさかげ=上田長尾家)に勝利した天文二十年(1551年)に、政景を自らの配下に収めるべく、その証として自身の姉である仙桃院を政景のもとに嫁がせたのでした(8月1日参照>>)。
…て事は、この時、仙桃院は、すでに20代半ば~後半?
10代半ばで嫁ぐのが一般的な戦国時代では、かなりの晩婚ですが、
それよりも
勝利した相手に?姉を嫁に?
って事で、一説には、もっと以前に結婚の話が決まっていたのではないか?
との見方もあるようですが、
一方で、この上田長尾家という勢力を、謙信(まだ景虎ですがややこしいのでここから謙信で統一します)が、どうしても味方に取り込んでおきたかったのでは?
と考えると、
「この和睦の機会に親戚関係になっておこう」
というのもアリだった気がします。
とにもかくにも、こうして政景と結婚した仙桃院は、夫との間に2男2女をもうける事になります。
10歳で早世してしまう長男の長尾義景(よしかげ)、
後に上杉景虎(かげとら=謙信の養子:北条三郎)の正室となる長女=清円院(せいえんいん=華渓院:華姫とも)、
後に謙信の養子となって上杉景勝(かげかつ)を名乗る事になる次男の長尾顕景(あきかげ=ややこしいので景勝で統一します)、
後に畠山義春(はたけやまよしはる)の正室となる次女。。。
政略結婚とは言え、なかなかに睦まじい夫婦であった事でしょう。
なんせ、
この頃、身分の低い家臣の息子の中に非凡な才能を見出した仙桃院の意見によって、その子を景勝の近習に推挙する…という一件が『北越軍談(ほくえつぐんだん)』の中に登場します。
この逸話を見る限り、政景という旦那さんは、奥さんの意見を聞く耳を持っていたという事になりますから、奥様としては、それなりに幸せだった物と想像できます。
ちなみに、その仙桃院が推挙した男の子が、後に直江兼続(なおえかねつぐ)という見事なサポート役に成長するわけですから、なかなかの先見の明があったかと…
夫の政景は政景で、謙信の右腕となって忠誠を尽くし、一時、謙信がヤル気を失くして家出した時には、1番に行動を起こして、無事に連れ戻しています(6月28日参照>>)。
こうして順風満帆に見えた二人・・・しかし、そんな幸せは長くは続きませんでした。
永禄七年(1564年)7月 、琵琶島城(びわじまじょう=新潟県柏崎市)主の宇佐美定満(うさみさだみつ)と野尻池での舟遊び中だった政景が、ともに池に落ちて溺死してしまうのです(7月5日参照>>)。
今以って、
事故なのか?
故意=暗殺なのか?
が取り沙汰される謎多き死なのですが、亡くなった事は確かで、これにて未亡人となってしまった仙桃院は、自身の思いとはうらはらに、長尾家=上杉家の行く末というの大きな流れの変化に呑み込まれていく事になるのです。
夫を失った事で家運が傾く事を恐れた仙桃院が、
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
と謙信に懇願した…と『北越耆談(ほくえつきだん)』にあります。
『北越耆談』は少々信ぴょう性の薄い文献なので、そのままを鵜呑みにする事はできませんが、この時の仙桃院が、父を失った我が子たちを守ろうと奮闘した事は、おそらく間違いないところでしょう。
それを受けてか、
すでに上杉家の名跡を継ぎ、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなりながらも後継ぎがいなかった謙信から(6月26日参照>>)、未だ幼き景勝を「後継者として育成すべく、養子として手元に置き、文武の教育を行いたい」との事で、まずは次男の景勝が仙桃院のもとを離れて春日山城へと移ります。
その後、
長女は、北条との同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎のもとに、
次女は、天正五年(1577年)に謙信が落とした七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)(9月13日参照>>)を継いだ畠山義春のもとに、
それぞれ嫁いで行ったのです。
息子&娘が旅立ち、一人になった仙桃院は、これを機に坂戸城を出て春日山城へと移ります。
この頃は、すでに元服して立派になった景勝は、春日山城の本丸=実城(みじょう)から南に一段下がった中城に居を構えていましたが、仙桃院が入ったのは、実城から東に一段下がった二の曲輪(にのくるわ)でした。
実は、この二の曲輪に住んでしたのが、景虎夫婦・・・つまり仙桃院は、娘夫婦と同居する事になったわけです(『景勝公御年譜』による)。
なんせ、この頃の景勝は、未だ独身でバリバリ軍役をこなし、軍の一翼を担う若き将軍として頭角を現しつつあった事で何かと留守にしがち。。。
一方の景虎は、結婚して腰を落ち着けであまり軍役には出ずにいたし、さらに夫婦の間には元亀二年(1571年)に生まれた道満丸(どうまんまる)という男の子がいて、お婆ちゃん=仙桃院としてはカワイイ孫と過ごすのも楽しいひと時なわけで・・・
ひょっとしたら、夫の死後に味わった、久々の幸せな日々だったかも知れません。
ところが、これまた、そんな幸せは長く続かなかったのです。
そう・・・天正六年(1578年)3月、大黒柱の謙信が突然倒れ(脳卒中?)て目覚めぬまま、その4日後に亡くなったのです(3月13日参照>>)。
もちろん、人はいつか死にますが、問題だったのは、この時、謙信が誰を後継者にするか?を明言していなかった事・・・
謙信が倒れた事をいち早く知った景勝は、即座に、未だ生きている謙信の居る実城と金蔵(きんぞう)と武器庫を占拠して、内外に
「自身が後継者である」
事のアピールを開始・・・
それを聞きつけた景虎が慌てて実城にやって来ますが、中に入れてもらえず、やむなく景虎は、自身の二の曲輪に立て籠もります。
ご存知、御館の乱(おたてのらん)です。
仙桃院は、この時、おそらくは娘夫婦とともに二の曲輪に居たと思われますが、このまま2ヶ月に渡る戦闘の中で、景勝は自身の居る実城から、下の二の曲輪に向かって大鉄砲を、雨アラレの如く何度も撃ちかけたとか・・・
戦国とは言え、自身の母と妹や甥っ子のいる場所に鉄砲を射かけるとは、、、ちょっと複雑~
5月に入ると、戦闘は城外へと移ってますます激しくなった事から、景虎は、妻子をともなって春日山城を脱出・・・前関東管領(つまり謙信に上杉の名跡と関東管領を譲った人)の上杉憲政(のりまさ)が住む屋敷(ここが御館と呼ばれる場所)に入ります。
つまり、謙信の武力と金を占拠した景勝に対抗するため、景虎は謙信の名跡と関東管領職を掌握しようとしたわけです。
この時の仙桃院は・・・
記録が無いので何とも言えませんが、この状況で自分だけ春日山城に残る事は考え難いので、やはり娘夫婦と行動をともにしつつも、母として告肉の争いを避ける手段を模索していたのかも知れませんが、
とにもかくにも、彼女がどんな行動を取ろうが、もはや燃え始めた業火に対しては焼け石に水なわけで・・・
そんな中、交渉の末に甲斐(かい=山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)を味方につけた景勝に対し、頼みの綱の実家=北条の援軍が遅れる景虎は、どんどん劣勢に立たされて行き、
開始から約1年経った天正七年(1579年)3月17日、御館は落城・・・何とか脱出して和議を結ぶべく幼き道満丸を抱えて春日山城へ向かった上杉憲政は、残念ながら、その途中で景勝配下の兵に道満丸もろとも殺害されてしまいました。
その1週間後の3月24日には、御館を脱出して鮫ヶ尾城(さめがおじょう=新潟県妙高市)に拠った景虎と清円院も死亡(3月17日参照>>)・・・残された仙桃院は、失意のまま春日山城で暮らす事になります。
そんな家内でゴタゴタしてる間に、間近にまで迫って来た織田信長(おだのぶなが)を前にして、しばし窮地に立たされるも(9月24日参照>>)、あの本能寺の変(6月2日参照>>)のおかげで、何とか無事に(6月3日参照>>)乗り切った景勝。
その後、信長の後にトップに立った豊臣秀吉(とよとみひでよし)に臣従を強いられるも、甥っ子(畠山義春と妹の息子=畠山義真)を人質に差し出して素直に従った事で、
豊臣政権下での景勝は、越後&佐渡はもちろん、北信濃(長野県北部)四郡から出羽(でわ=秋田周辺)庄内(しょうない=山形県の庄内平野)にまたがる大大名となる事ができたのです。
やっとこさ安定したか~~と思いきや、
ここに来て畠山義春の養父である上条政繁(じょうじょうまさしげ)が、いきなり出奔して、秀吉の下に走ったのです。(6月15日参照>>)
この上条政繁は、かの御館の乱の時に、いち早く実城を占拠した功労者で景勝と同じく謙信の養子だった人(乱の時はすでに上条家を継いでいたので景勝に味方した)で、言わば右腕として活躍していたはずなのですが、、、
おそらくは、景勝との統治をめぐる対立か?もしくは景勝の側近として幅を利かせる直江兼続を嫌ったか?・・・しかも、その後、畠山義春まで出奔・・・
とにもかくにも、この事件のおかげで、景勝は妹である義春夫人とその子供たち全員を捕縛して10年近くも座敷牢に幽閉したとか・・・(←あくまで「一説」です)
そんな中で、慶長三年(1598年)の会津(あいづ=福島県の西部)転封(1月10日参照>>)にも従い、豊臣五大老の一人となった景勝とともにいた仙桃院さん。。。
一説には、
「生涯、笑顔を見せなかった」
と噂されるほど、冷酷さ満載な景勝の側にいて、間近に告肉の争いを見続けて来たような人生だった仙桃院も、もはや70近いお婆ちゃんで、その心中もいかばかりか…と察しますが、
一方で、この後、秀吉の死後に起こる関ヶ原の戦いでは、景勝は、あの徳川家康(とくがわいえやす)を敵に回し(4月1日参照>>)、堂々の反発をしました(4月14日参照>>)。
ご存知のように、この時、同じように家康から謀反の疑いを掛けられた豊臣五大老の一人=加賀(かが=石川県南部)の前田利長(まえだとしなが)は、母の芳春院(ほうしゅんいん=まつ)を江戸への人質に差し出して(5月11日参照>>)恭順姿勢を見せ、家康からの攻撃を防ぎました。
しかし、おそらく、この時の景勝には「母を人質に差し出す」という選択肢はなかったように見受けられます。
もちろん、本チャンの関ヶ原ではなく、この時の景勝は東北での戦い(10月1日参照>>)に力を注いでいたわけで、単に母親への愛情云々では片づけられないし、結果的に、関ヶ原で西軍が負けてしまった(9月15日参照>>)事で、東北で戦っていた景勝も負け組となり、慌てて家康に謝りに行って(8月24日参照>>)、結果、米沢(よねざわ=山形県米沢市)30万石の大幅減封となってしまう(11月28日参照>>)わけですが、
恭順姿勢を見せた一方の前田家は、ご存知のように加賀百万石の隆盛を極めるわけですから、どちらが良い悪いという意味ではありません。
何はともあれ、こうして米沢にまでついて行った仙桃院は、その9年後の慶長十四年(1609年)2月15日、80歳を超える長寿を全うして米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)二の丸で死去したのでした。
思えば、弟によって長尾家の全盛を見、息子によって戦国の辛さを見た仙桃院さん。。。
一説に、景勝は、この頃、江戸にいて母の死に目には会えなかったとか・・・
しかしその後、もはや、ただ一人の兄妹となったかの畠山義春の妻の彼女を、景勝は米沢城にて大切に扱い、元和八年(1622年)には、その最期を看取ったと言います。
そして、その妹に母と同じ仙洞院という法名を送った景勝さん。。。
そこには、戦国という厳しい世の中で、肉親への愛情とはうらはらに、骨肉の争いをしなければならなかった悲しみが込められている気がするのです。
私が、かの関ヶ原の時の景勝に「母を人質に差し出すという選択肢はなかった 」と感じるのは、この妹である仙洞院さんの最期のお話を耳にしたからなのです。
あくまで、心の内は想像するしかない事ではありますが、
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