【平安京ニュース】セレブ一家~藤原能信&教通兄弟…兄弟ゲンカで家壊す
治安二年(1022年)3月23日、藤原教通が、兄の藤原能信に仕える従者の家を、徹底的に壊しました。
・・・・・・・
これまた平安セレブ家族の大規模兄弟ゲンカの一つです。
そもそもの発端は、この2日前、平安セレブの頂点に立つ藤原道長(ふじわらのみちなが)の息子・・・
四男の藤原能信(よしのぶ)が、弟の藤原教通(のりみち=五男)の従者を拉致&監禁して暴行を加えた事に始まります。
藤原実資(さねすけ) の日記では、
拉致&監禁を「召し籠め」、暴行を「凌礫(りょうれき)」と表現しているので、一方的に、かなりひどい暴行を加えたようです。
それも下っ端の従者ではなく厩舎人長(うまやとねりちょう)・・・つまり、馬の管理をする中でも、けっこう地位の高い人のようなのですが、
そんな事はおかまいなく、殴る蹴るのボコボコにされたらしい。。。
もちろん、えぇとこのぼんぼんが直接手を下すなんて、お下品な事はなさらないので、殴る蹴るした方も従者なわけですが、当然、上の方が命令を出さない限り、従者が勝手にやるワケはないので・・・
ほんで以って、結局は、その厩舎人長のその後=生き死にや怪我の具合がウヤムヤで記録に残ってないのは平安の常識なわけですが、
…で、
この事件の報復として、従者をボコボコにされた藤原教通が、
治安二年(1022年)3月23日、今度は藤原能信の従者の屋敷に行って、その家を壊したのです。
この時代、家を破壊する前には、そこにある品々を略奪するのも定番なので、もちろん、その泥棒行為もあり、
しかも、家を壊したと言っても、
ドアをブチ破ったとか、
壁に穴開けたとか、
ていうケチな壊し方ではなく、跡形もなく破壊・・・もう、建て替えのために業者に頼んだ家屋解体作業レベルの破壊ぶりだったようです。
しかも、平安時代のソレは、中の物だけではなく、建築材料の類も略奪して持ち去ったらしいので、もう、残ったのは瓦礫の山くらいだったんでしょうね~
嫌や~仕事帰ったら、家壊されとったら、もう泣くわ~
けど、お互いがお互いの屋敷や人…やなくて、お互いの従者に…ってとこがミソですね。
コレ、お互いの…やったら、それこそ、合戦や何やらって大ごとになって、何かしらのお咎めを受ける所ですが、従者なんで、やっぱ、泣き寝入りなんでしょうね~
もちろん、その上司であるぼんぼんたちが、自分らでサポートするんでしょうが、、、
(いや、平安やったらしない可能性もあるな)
とにもかくにも、この事件の引き金が引かれたキッカケは、どうやら能信&能通兄弟の間でくすぶっていた土地問題のイザコザだったようなのですが、
ただ・・・この事件のおおもとは、もっと深いところに・・・
暴行好きの暴れん坊貴族=藤原能信には、これまでに溜まった鬱憤のような物があったようです。
そもそも、この兄弟の父である藤原道長には6人の奧さんがいたとされますが、
そのうち、特に高貴な出自のお嬢様と言えるのが、正室の源倫子(みなもとのりんし・みちこ)と、妻の源明子(めいし・あきらけいこ)の二人・・・(残り4人の女性は妾)
まず、
正室の源倫子さんは 左大臣・源雅信(まさざね)の娘。
そして、
妻の源明子さんは、同じく左大臣の源高明(たかあきら)の娘で盛明親王(もりあきらしんのう=第60代醍醐天皇の18皇子)の養女。
どちらも高貴な血筋で出世頭のお嬢様ですし、どちらとも、ほぼ同時期に結婚した事もあって、道長も、両方ともに隔たりなく愛情を注いでいたようですが、
悲しいかな、倫子さんの父の源雅信は現役バリバリの大臣なれど、明子さんのお父さんはかつての大臣ですでに故人・・・養父の盛明親王も結婚前に亡くなっています。
そこに、やはり差が出て来る・・・
特に、夫と妻の関係はまだしも、産んだ子供の扱いとなると、どうしても、今現在生きてる方に良い顔見せちゃう=現役寄りの判断をしちゃうわけです。
まず、道長が自身の後継者とみなしたのが、倫子の子で長男の藤原頼通(よりみち)。。。
ま、なんだかんだで長男ですから、頼通が道長から摂政(せっしょう)の座を譲られて、その後に関白(かんぱく)になったとしても、ここは他の兄弟たちも納得でしょうけど、
なんと、その次に関白になるのは、明子が産んだ
次男の藤原頼宗(よりむね)でも、
三男の藤原顕信(あきのぶ)でも、
四男の藤原能信でもなく、
倫子が産んだ五男の藤原教通なのです。
もちろん、事件当時は、まだ頼通がに関白になったばかり(寛仁三年=1020年に就任)の頃なので、教通が関白になるのは治暦四年(1068年)と、もっと後の事ですが、すでに、この流れは完全に見えていたのです。
なんせ、事件当時、四男の能信が28歳で権大納言(ごんだいなごん=四等官の次官(仮))なのに対して、五男の教通は一つ年下の27歳なのに、すでに内大臣(ないだいじん=左大臣・右大臣に次ぐ官職)だったのです。
それは娘に対しても同じ事・・・
倫子が産んだ
長女=彰子(あきこ・しょうし)は第66代一条天皇(いちじょうてんのう)の皇后、
次女=妍子(けんし・きよこ)は第67代三条天皇(さんじょうてんのう)の皇后、
四女=威子(いし・たけこ)は第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう)、
六女=嬉子(きし・よしこ)は第69代後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の東宮妃(とうぐうひ=天皇が皇太子時代に薨去なので)
と、次々に入代して、その子がまた天皇になったりしてるのに対し、
明子が産んだ
三女=寛子(かんし)は、次の天皇を道長の孫=三条天皇にするために皇太子の座を譲った敦明親王(あつあきらしんのう)に、
五女=尊子(そんし・たかこ)は太政大臣=源師房(もろふさ)に、
もちろん、女性個人の幸せが夫の地位で決まるわけではないので、女性として幸せな日々を過ごしたかどうかは別として、
いわゆる、この時代の「親が決める嫁ぎ先」としては、明らかに差があります。
ここまであからさまに差をつけられちゃぁ、そりゃ、血気盛んな性格の男子なら腹たちますわな。。。
現に、血気盛んではない=おとなしめで心優しき人と思われる三男の藤原顕信(あきのぶ)は、とっとと出家して道長のもとを離れています(1月16日参照>>)。
これまで、このブログでもご紹介して来た藤原能信さんの暴れん坊経歴の数々・・・
●藤原能信の牛車暴行>>
●藤原頼行が藤原能信の従者を殺害>>
●大江至孝の強姦未遂が殺人に>>
それもこれも、父の対応に抗う、お坊ちゃまなりの行動なのかも知れません。
一方、それに対して従者の家を破壊しちゃう恵まれた次期関白はどーやねん!
と、ちょっと能信の味方をしてしまう自分がいます・・・暴力はアカンねんけど。
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