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2023年3月23日 (木)

【平安京ニュース】セレブ一家~藤原能信&教通兄弟…兄弟ゲンカで家壊す

 

治安二年(1022年)3月23日、藤原教通が、兄の藤原能信に仕える従者の家を、徹底的に壊しました。

・・・・・・・

これまた平安セレブ家族の大規模兄弟ゲンカの一つです。

そもそもの発端は、この2日前、平安セレブの頂点に立つ藤原道長(ふじわらのみちなが)の息子・・・

四男の藤原能信(よしのぶ)が、弟の藤原教通(のりみち=五男)従者を拉致&監禁して暴行を加えた事に始まります。

藤原実資(さねすけ) の日記では、
拉致&監禁を「召し籠め」、暴行を「凌礫(りょうれき)と表現しているので、一方的に、かなりひどい暴行を加えたようです。

それも下っ端の従者ではなく厩舎人長(うまやとねりちょう)・・・つまり、馬の管理をする中でも、けっこう地位の高い人のようなのですが、

そんな事はおかまいなく、殴る蹴るのボコボコにされたらしい。。。

もちろん、えぇとこのぼんぼんが直接手を下すなんて、お下品な事はなさらないので、殴る蹴るした方も従者なわけですが、当然、上の方が命令を出さない限り、従者が勝手にやるワケはないので・・・

ほんで以って、結局は、その厩舎人長のその後=生き死にや怪我の具合がウヤムヤで記録に残ってないのは平安の常識なわけですが、

…で、
この事件の報復として、従者をボコボコにされた藤原教通が、
治安二年(1022年)3月23日、今度は藤原能信の従者の屋敷に行って、その家を壊したのです。

この時代、家を破壊する前には、そこにある品々を略奪するのも定番なので、もちろん、その泥棒行為もあり、

しかも、家を壊したと言っても、
ドアをブチ破ったとか、
壁に穴開けたとか、
ていうケチな壊し方ではなく、跡形もなく破壊・・・もう、建て替えのために業者に頼んだ家屋解体作業レベルの破壊ぶりだったようです。

しかも、平安時代のソレは、中の物だけではなく、建築材料の類も略奪して持ち去ったらしいので、もう、残ったのは瓦礫の山くらいだったんでしょうね~

嫌や~仕事帰ったら、家壊されとったら、もう泣くわ~

けど、お互いがお互いの屋敷や人…やなくて、お互いの従者に…ってとこがミソですね。

コレ、お互いの…やったら、それこそ、合戦や何やらって大ごとになって、何かしらのお咎めを受ける所ですが、従者なんで、やっぱ、泣き寝入りなんでしょうね~

もちろん、その上司であるぼんぼんたちが、自分らでサポートするんでしょうが、、、
(いや、平安やったらしない可能性もあるな)

とにもかくにも、この事件の引き金が引かれたキッカケは、どうやら能信&能通兄弟の間でくすぶっていた土地問題のイザコザだったようなのですが、

ただ・・・この事件のおおもとは、もっと深いところに・・・

暴行好きの暴れん坊貴族=藤原能信には、これまでに溜まった鬱憤のような物があったようです。

Fuziwaranomitinagakakeizu20233藤原道長・家系図→
(クリックで大きく)

そもそも、この兄弟の父である藤原道長には6人の奧さんがいたとされますが、

そのうち、特に高貴な出自のお嬢様と言えるのが、正室源倫子(みなもとのりんし・みちこ)と、源明子(めいし・あきらけいこ)の二人・・・(残り4人の女性は妾)

まず、
正室の源倫子さんは 左大臣源雅信(まさざね)の娘。
そして、
妻の源明子さんは、同じく左大臣源高明(たかあきら)の娘で盛明親王(もりあきらしんのう=第60代醍醐天皇の18皇子)の養女。

どちらも高貴な血筋で出世頭のお嬢様ですし、どちらとも、ほぼ同時期に結婚した事もあって、道長も、両方ともに隔たりなく愛情を注いでいたようですが、

悲しいかな、倫子さんの父の源雅信は現役バリバリの大臣なれど、明子さんのお父さんはかつての大臣ですでに故人・・・養父の盛明親王も結婚前に亡くなっています。

そこに、やはり差が出て来る・・・

特に、夫と妻の関係はまだしも、産んだ子供の扱いとなると、どうしても、今現在生きてる方に良い顔見せちゃう=現役寄りの判断をしちゃうわけです。

まず、道長が自身の後継者とみなしたのが、倫子の子で長男の藤原頼通(よりみち)。。。

ま、なんだかんだで長男ですから、頼通が道長から摂政(せっしょう)の座を譲られて、その後に関白(かんぱく)になったとしても、ここは他の兄弟たちも納得でしょうけど、

なんと、その次に関白になるのは、明子が産んだ
次男の藤原頼宗(よりむね)でも、
三男の藤原顕信(あきのぶ)でも、
四男の藤原能信でもなく、

倫子が産んだ五男の藤原教通なのです。

もちろん、事件当時は、まだ頼通がに関白になったばかり(寛仁三年=1020年に就任)の頃なので、教通が関白になるのは治暦四年(1068年)と、もっと後の事ですが、すでに、この流れは完全に見えていたのです。

なんせ、事件当時、四男の能信が28歳で権大納言(ごんだいなごん=四等官の次官(仮))なのに対して、五男の教通は一つ年下の27歳なのに、すでに内大臣(ないだいじん=左大臣・右大臣に次ぐ官職)だったのです。

それは娘に対しても同じ事・・・

倫子が産んだ
長女=彰子(あきこ・しょうし)は第66代一条天皇(いちじょうてんのう)の皇后、
次女=妍子(けんし・きよこ)は第67代三条天皇(さんじょうてんのう)の皇后、
四女=威子(いし・たけこ)は第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう)
六女=嬉子(きし・よしこ)は第69代後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の東宮妃(とうぐうひ=天皇が皇太子時代に薨去なので)
と、次々に入代して、その子がまた天皇になったりしてるのに対し、

明子が産んだ
三女=寛子(かんし)は、次の天皇を道長の孫=三条天皇にするために皇太子の座を譲った敦明親王(あつあきらしんのう)に、
五女=尊子(そんし・たかこ)は太政大臣=源師房(もろふさ)に、

もちろん、女性個人の幸せが夫の地位で決まるわけではないので、女性として幸せな日々を過ごしたかどうかは別として、

いわゆる、この時代の「親が決める嫁ぎ先」としては、明らかに差があります。

ここまであからさまに差をつけられちゃぁ、そりゃ、血気盛んな性格の男子なら腹たちますわな。。。

現に、血気盛んではない=おとなしめで心優しき人と思われる三男の藤原顕信(あきのぶ)は、とっとと出家して道長のもとを離れています(1月16日参照>>)
Misuc3a330
これまで、このブログでもご紹介して来た藤原能信さんの暴れん坊経歴の数々・・・
 ●藤原能信の牛車暴行>>
 ●藤原頼行が藤原能信の従者を殺害>>
 ●大江至孝の強姦未遂が殺人に>>

それもこれも、父の対応に抗う、お坊ちゃまなりの行動なのかも知れません。

一方、それに対して従者の家を破壊しちゃう恵まれた次期関白はどーやねん!
と、ちょっと能信の味方をしてしまう自分がいます・・・暴力はアカンねんけど。
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2023年3月18日 (土)

上杉謙信の越中侵攻~城生城の戦いと富山城

 

元亀二年(1571年)3月18日、斎藤常丹の救援要請を受けた上杉謙信が越中へ侵攻し、富山城以下数か所の城を落としました。

・・・・・・・・

群雄割拠した戦国から、世が、まさに大きく変わろうとする時代・・・

戦国屈指の大物である越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市小島田町)(9月1日参照>>)ドンパチやってる間に

海道一の弓取りと謳われた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)を、永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市他)に倒した(5月19日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)したかと思うと、

美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子)の死をキッカケに、永禄十年(1567年)には斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)この地を岐阜と改めます。

一方、かの桶狭間キッカケで今川の人質から解放(2008年5月19日参照>>)された後、信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、さらに三河一向一揆を治めて(1月11日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)を平常運転に戻した徳川家康(とくがわいえやす)が、永禄十一年(1568年)から遠江への侵攻を開始(12月13日参照>>)するのです。

おそらくは、この状況に、方向転換を決意したであろう謙信と信玄。。。

永禄七年(1564年)8月の第五次の合戦(8月3日参照>>)を最後に、結着つかぬまま、川中島で両者が戦う事はなかったのです。

Sengokutizutyuubu3650 元亀二年頃の位置関係図→
(クリックで大きく)

なんせ、信玄から見ると、このまま家康が東へ東へと進むと、大黒柱を失った今川の領地を取られちゃうかも…なわけで、

そこで、永禄九年(1566年)には箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)長野氏を倒し(9月30日参照>>)、翌永禄十年(1567年)には信濃一帯を手中に治めた(8月7日参照>>)信玄は、かつて結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田+今川+北条の同盟)(3月3日参照>>)の破棄に反対する息子を死に追いやってまで(10月19日参照>>)今川攻めに舵を切るのです。

一方の謙信・・・
信玄に攻められた村上義清(むらかみよしきよ)を加勢して始まった(4月22日参照>>)川中島に、北条氏康(ほうじょううじやす)に関東を追われた上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)(4月22日参照>>)を庇護した事で出張るハメになった関東遠征(6月26日参照>>)ですが、

もともと、祖父=長尾能景(ながおよしかげ)の時代から度々西へ向け出兵していて、越中(えっちゅう=富山県)西部の般若野(はんにゃの=富山県高岡市)は、その祖父が亡くなった地(9月19日参照>>)でもあるし、

これまで突出した戦国大名がいなかった越中は、度々睨みを効かせて、配下の武将を支援して間接的に関与して来た場所でもあるわけです。
●増山城&隠尾城の戦い>>

それが・・・ここに来て美濃=岐阜を制した信長に、これ以上北=飛騨(ひだ=岐阜県北部)へと来られては、当然、その越中も危うい。。。

そこで謙信・・・これまで味方だった松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)が離反し、逆に、かつて攻めた増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)が寝返った事をキッカケに、コチラも信玄同様に方向転換・・・

永禄十一年(1568年)4月に松倉城攻略に向けて、自ら出陣したのです(4月13日参照>>)。 

しかし、この時は、途中で、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗を翻したため(11月7日参照>>)松倉城を落とせぬまま帰国するハメに・・・

ところが、こうして謙信がバタバタしてる間に、かの織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛(9月7日参照>>)してしまいます。

さらに、遠江に侵攻して来ていた家康(2019年12月13日参照>>)と共同戦線を組んだ信玄が、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)の本拠=今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を攻撃(2007年12月13日参照>>)した事で、

氏真はやむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃亡・・・それを受けた家康が、その掛川城を攻撃します(12月27日参照>>)

しかし年が明けても、なお掛川城を攻めあぐねていた家康に声をかけたのが小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏政(ほうじょううじまさ=氏康の息子)。。。

なんせ今川氏真の奧さんは北条氏政の妹(早川殿=氏康の娘)・・・仲睦まじい氏真夫婦は、信玄に今川館を攻撃された時、手に手を取って逃げたわけで、兄=氏政としては、何とか妹の力になりたい・・・

かくして家康は北条氏の仲介でようやく、翌永禄十二年(1569年)の5月に掛川城の開城に漕ぎつけ、これをキッカケに北条との同盟を結びます。

ところが、これに怒ったのが信玄・・・実は、北条氏政は、かつての同盟=甲相駿三国同盟を信玄が勝手に破棄した事にも怒り心頭なうえ、今川館を逃げる際に輿を用意できなかった妹が、徒歩で逃げるハメになった事にも激怒していて、ここのところ信玄相手にドンパチやりっぱなしだったわけで・・・
●第1次薩埵峠の戦い>>
●第2次薩埵峠の戦い>>

この家康と北条の同盟をキッカケに、信玄と家康の共同戦線も手切れとなり、それぞれ独自に、信玄は駿河の(【大宮城の戦い】参照>>)、家康は遠江の(【気賀堀川城一揆】参照>>)平定に向けて動き出します。

Matukurazyoukoubousenkankeizu←松倉城攻防の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方、この同じ年に敵に敵は味方…

とばかりに北条との同盟を結んだ謙信は、再び、松倉城の攻略に乗り出しますが、またしても、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報が入り、やむなく永禄十二年(1569年)10月に兵を退く事になります。
(なんせ謙信は関東管領でもあるので…)

そんなこんなの元亀二年(1571年)3月、それまで織田信長と懇意にしていた城生城(じょうのうじょう=富山県富山市八尾町)の城主=斎藤常丹(さいとうじょうたん=利基・利常)が、なぜか上杉謙信に救援要請をして来たのです。

この城生城は、越中と飛騨の国境にあり、その領地を結ぶ飛騨街道沿いの要地に建つ城・・・

標高120mの高地に位置し東を神通川、北と西を土川に囲まれる天然の要害ではありましたが、上記の通り軍事や流通において重要な場所に位置している事から、度々狙われる場所でもあったのです。

今回、この城を狙ったのは古川城(ふるかわじょう=岐阜県飛騨市)城主=塩屋秋貞(しおやあきさだ)でした。

元亀二年(1571年)3月2日、飛騨より越中に進出した塩屋秋貞は、城生城の東側に栂尾城(とがのおじょう=富山県富山市朝日町)猿倉城(さるくらじょう=同富山市舟倉)二城を新築して陣を置き、瞬く間に、近隣にある福沢城(ふくざわじょう=富山市西福沢)今泉城(いまいずみじょう=富山市太郎丸)陥落させてしまったのです。

さらに城生城近くに砦を築いて城攻めを開始した事で、一刻の猶予も無くなった斎藤常丹が、切羽詰まって謙信に助けを求めたのでした。
(信長は3月4日に京都の東福寺で茶会を開いているので、急ぎ謙信を頼った?←記録が無いので、あくまで想像ですが)

これを受けた上杉謙信は、2万8千の兵を率いて即座に越中へ・・・

まずは、3度目の正直とばかりに松倉城を攻めると、今回は早々に水の手を断った事で、またたく間に椎名康胤を城から敗走させる事に成功・・・そこを河田長親(かわだながちか)に守らせた後、

元亀二年(1571年)3月18日栂尾城を攻略して斎藤常丹を助けます。

あまりの猛攻に、やむなく塩屋秋貞が何の利もなく撤退すると、それを追撃する一方で、その足で謙信は、自ら富山城(とやまじょう=同富山市)へ向かい、その日のうちに陥落させ、さらに神通川を越えて守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)近くまで出張りましたが、

「さすがに、これ以上は…」
と思ったのか?4月1日に陣を解いて、春日山城へと引き揚げていきました。

…というのも、今回の謙信・・・おそらくは、ごくわずかの間に数か所?いや、ひょっとしたら、もっと多くの城を落城させていて、短時間にかなりの収穫があったように見受けられます。

なんせ、今回の越中戦線について書いてある4月11日付けの北条氏政の手紙には
「今回は越中統一が目的やったんでしょ?
 神通川を越えられ富山城以下数か所の城を落とされ、大変おめでたい事ですね~
 満足しました~」
絶賛の言葉が書かれているほか、

『謙信年譜』にも
「河田の守りに椎名康胤は手も足も出せず、富山城は落城し将士は皆討死…富山方面は完全に越後(謙信)に抑えられた」
とあり、

やはり、短期決戦の大勝利だった事がうかがえますね。

この後、今回の事で斎藤氏との間に芽生えた好を謙信が大事に思い、重要な場所にあるこの城生城を何かと気にかけ、支援し続ける事になります。

また、今回、敗れた側の塩屋秋貞は、これキッカケで上杉の傘下に入る一方で、椎名康胤は行方知れず・・・再び表舞台に登場する事はありませんでした。

そして、謙信の西への進出は本格的になって
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆~日宮城攻防>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
●天正四年(1576年)3月=富山へ侵攻>>
●天正四年(1576年)8月=飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月=七尾城・攻防戦>>
と続き、

最終的には、織田信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との対決となる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)から能登平定へと続きますが、

そのお話は【上杉謙信の能登平定~松波城の戦い】>> でどうぞm(_ _)m
(合戦までへの経緯を紹介する部分で内容がカブッている箇所もありますが…お許しを)
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2023年3月 9日 (木)

北条氏照VS三田綱秀の辛垣城の戦い

 

永禄六年(1563年)3月9日、北条氏照上杉謙信側についた三田綱秀辛垣城を攻めました。

・・・・・・・

北条早雲(そううん)に始まる関東後北条氏の3代目である北条氏康(うじやす)三男として生まれた北条氏照(ほうじょううじてる)は、

おそらく10代後半の年齢であったと思しき永禄二年(1559年)に、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府から関東支配を任された鎌倉公方の補佐役)上杉(うえすぎ)重臣であった大石定久(おおいしさだひさ)の娘=比左(ひさ)結婚して婿養子に入りました。

それを機に大石定久は、大石の本拠である滝山城(たきやまじょう=東京都八王子市)城主武蔵(むさし=東京都)守護代(しゅごだい=副知事)の座を氏照に譲って出家して隠居・・・氏照も、その名を大石源三氏照と改め、以後は大石の当主となります。
(↑大石綱周の養子になった説もあり)

Uziterukun500b つまり、婿養子が大石家を乗っ取った形になるわけですが、これは、北条が力づくで…というよりは、大石定久の目論見もあったのではないか?と…

というのも、天文六年(1537年)の河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)の戦い(7月15日参照>>) からの

天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)で、古河公方(こがくぼう=自称関東公方)足利晴氏(あしかがはるうじ)と、時の関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)北条にコテンパンにやられた事を受けて、

すでに大石定久は上杉に見切りをつけて北条に臣従していたようで、そうなれば、これは、家名と血筋を残すための一つの策です。

それこそ、この後、その河越夜戦の負けを受けて越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)のもとに逃げ込んだ上杉憲政が、その景虎に上杉氏の名跡と関東管領職を譲って隠居して、景虎が上杉謙信(うえすぎけんしん)と名を改めて関東管領に就任する(6月26日参照>>)わけですが、

これも、謙信が腕づくで奪ったというよりは、上杉憲政の生き残り作戦だったわけですから・・・

こうして大石氏の当主として領国支配に励む氏照でしたが、実は、この頃の関東の土豪(どごう=地侍)諸将たちの立ち位置が、非常に難しい・・・

と言うのも、上記の通り、力をつけた北条氏がどんどん支配地域を広めていく中で、弱小が生き残るためには北条と仲良くする方が良いわけですが、

一方で、関東管領に就任した謙信が、上杉憲政を擁して定期的に関東に遠征して来る・・・となると、本来、コッチが幕府公認の正統な支配者なわけだし、謙信もメッチャ強いわけだし、

…で
小田城(おだじょう=茨城県つくば市)小田氏治(おだうじはる)(11月13日参照>>)や、
忍城(おしじょう=埼玉県行田市)成田長泰(なりたながやす)(7月27日参照>>)
唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)佐野昌綱(まさつな)(10月23日参照>>)
小山城(おやまじょう=栃木県小山市:祇園城とも)小山秀綱(おやまひでつな)(6月26日参照>>)
などなど、

これまでも、本ブログで謙信と北条の間で揺れ動く諸将をご紹介して参りましたが・・・

そんな中の一人が、青梅谷(おうめだに)勝沼城(かつぬまじょう=東京都青梅市)城主=三田綱秀(みたつなひで)でした。

自称・平将門(たいらにまさかど)(2月14日参照>>)の末裔としていた 三田氏は、室町時代には関東管領家である山内上杉家(やまのうつうえすぎけ)に属し、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)との同族同士の争いなどにも参戦し、文化の華開く全盛期を迎えていましたが、

やはり、ご多分に漏れず・・・生き残りのためにいち時は北条に属した事もありました。

しかし永禄三年(1560年)の謙信の遠征の時には、再び上杉に従い、同四年(1561年)の謙信の小田原城攻めにも参戦・・・その後は、上記のように、多くの武将が遠征を終えた謙信が越後に戻ってしまうとまたまた北条へとなびく中でも、今回ばかりは上杉派を貫いていたようです。

そこで、
永禄年間の初め頃に、勝沼城の西方に、新しく辛垣城(からかいじょう=東京都青梅市)を築城していた三田綱秀は、ここに来て、いよいよ北条と敵対する決意を固めたのか?、大石を継いだ氏照を警戒し、更なる堅固な城にすべく、急ぎ防備を固めていたのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)、辛垣城を攻略すべく滝山城を進発した氏照の軍は、多摩川右岸を北上し、柚木(ゆぎ=青梅市柚木町)付近で二手に分かれ、一手は辛垣城の西方の軍畑(いくさばた)から平溝川(ひらみぞがわ)を渡って西の木戸口から…

Karakaizyounotatakai
辛垣城の戦いの関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

もう一手は、多摩川を下って黒沢(くろさわ)方面から辛垣城に攻め込んだのです。

この時、氏照は、このあたりの地理に詳しい員野半四郎(いんのはんしろう)なる者を案内人に立て、先鋒を賜った半四郎は勢いよく、真っ先に攻めかかりますが、残念ながら三田綱秀側の兵の放った鉄砲にて命を落とします。

もちろん三田綱秀も必死の抵抗を見せますが、そんな中で辛垣城中にいた侍塚又八(さむらいづかまたはち)が北条側に寝返って、城に火を放った事から辛垣城は落城・・・

「もはや、これまで!」
を悟った三田綱秀は、二人の息子を家臣に預け、自身は岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)太田資正(おおたすけまさ=関東管領執事:太田道灌の孫)を頼って落ち延びて行ったのです。

この時、三田綱秀は、
♪からかいの 南の山の 玉手箱
 あけてくやしい 我身なりけり ♪
という歌を詠んだとか・・・

どうやら三田綱秀は南からやって来る援軍(誰やろ?)を期待していたみたいですが、残念ながら、その加勢は無かったようで…

ただ・・・
この辛垣城の戦いについての記録には、いつ落城したかの記述が無いため、一説には辛垣城の落城は永禄四年もしくは永禄五年の説もあるのですが、

三田氏の菩提寺である海禅寺(かいぜんじ=東京都青梅市)過去帳原嶋善六郎(はらしまぜんろくろう)など三田氏家臣死去の記述があり、その日付が3月9日となっている事から、

おそらくは永禄六年(1563年)3月9日辛垣城の攻防戦があり、翌10日に落城した物と思われ、今回はこの日付にて書かせていただきました。

そして・・・
その後、岩槻城に落ちた三田綱秀は、しばらくは城の奪還を模索していたようですが、
「叶わぬ!」
と思ったのか?約半年後の10月に、その岩槻城にて自刃。。。

家臣に託された息子たちも永禄六年(1563年)と永禄七年(1564年)に亡くなったとされ、三田氏は事実上の滅亡を迎えます。

ただ、一族の中に北条に仕えた後、徳川家康(とくがわいえやす)に召し出されて旗本になった人がいるようなので、何とか、その血脈は残された事になります。

一方の氏照は北条のもとで、更なる関東支配に助力(【三船山の戦い】参照>>)

最終的には、豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(3月29日参照>>)で、最も悲惨だったとされる、あの八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)城主(6月23日参照>>)となっています。
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2023年3月 3日 (金)

甲相駿三国同盟~善得寺の会盟

 

天文二十三年(1554年)3月3日、太原雪斎の仲介により、武田信玄北条氏康今川義元伊豆善得寺に集結して甲相駿三国同盟を結んだ善得寺の会盟がありました。

・・・・・・・・

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)は、
甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、
相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)と、
駿河(するが=静岡県東部)の 今川義元(いまがわよしもと)の、
3名の戦国大名の間で結ばれた同盟です。

…と言っても、実のところ、この三者による同盟があった事は確かなんですが、仲介役の太原雪斎(たいげんせっさい=今川義元の教育係の僧)ゆかり(修行したとされる)善徳寺(ぜんとくじ=静岡県富士市今泉)にて、3人が一堂に会して同盟を締結したという、
今回の善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)については、(場所も含め)後世の創作の可能性が高いとされ、

ならば、上記の天文二十三年(1554年)3月3日という日付も怪しいことになりますが、一応、北条氏の記録には登場するようなので、今回のところは、この日付にて同盟が結ばれた背景など、お話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

そもそもは、未だ群雄が割拠する戦国時代真っ只中の時代。。。

武田信玄の甲斐では・・・
もともと甲斐の守護(しゅご=室町幕府公認の統治者=県知事)であった武田家が家中の内輪モメ状態で没落した事により、一時は守護不在状態だった(【勝山城の戦い】参照>>)ところを、信玄の父である武田信虎(のぶとら)甲斐一国を統一したのが大永元年(1521年)でした(【飯田河原の戦い】参照>>)

この信虎は、これまでは再三にわたって隣国の今川や北条とドンパチやっていたのですが、

駿河の今川義元が花倉の乱(はなくらのらん=今川家内の家督争い)(【花倉の乱】参照>>)今川家当主となった事をキッカケに北条とモメはじめた(河東の乱)事で、

天文六年(1537年)、信虎は娘の定恵院(じょうけいいん)義元の正室として嫁がせて、今川との同盟に踏み切ったのでした。

しかし、その4年後の天文十年(1541年)に嫁いだ娘の顔見に駿河に行ってる間に、息子の信玄(当時は晴信)が突如としてクーデターを起こしたため、信虎はそのまま駿河に留まり、武田家の当主は信玄に交代します(【信秀追放】参照>>)

一方、北条は・・・
もともとは幕府奉公衆だった北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が、

自身の姉(もしくは妹)北川殿(きたがわどの)の夫だった今川義忠(よしただ=今川義元の祖父)が戦死した(【塩貝坂の戦い】参照>>)事で起こった今川家の後継者争いで、

甥っ子の今川氏親(うじちか=義元の父)次期当主にすべく尽力した(【今川館の戦い】参照>>)事をキッカケに、拠点を伊豆へと移して

延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に堀越公方(ほりこしくぼう=幕府公認の関東支配者)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒した(【伊豆討ち入り】参照>>)後、

小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)(【小田原奪取】参照>>)を拠点に関東支配に乗り出します(【立河原の戦い】参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

その後を継いだ早雲息子の北条氏綱(うじつな)が、やがて江戸(えど=東京)に進出(【江戸高輪原の戦い】参照>>)して関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)上杉朝定(うえすぎともさだ)追い込み(【河越城の戦い】参照>>)

天文七年(1538年)には小弓公方(おゆみくぼう=自称かんとうくぼう)足利義明(よしあき)を倒して(【国府台合戦】参照>>)、もう一つの古河公方(こがくぼう=自称かんとうくぼう)を継ぐ足利晴氏(はるうじ)接近するものの(【晴氏と氏綱の蜜月】参照>>)

氏綱の死を受けて息子の北条氏康が当主となった事で、足利晴氏が上杉と組んで北条に敵対し始めたため、

氏康は、天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)にて公方と関東管領を壊滅状態に追い込みます(【河越夜戦】参照>>)

なんせ、実力で関東支配したい北条にとっては、幕府公認の公方や管領は邪魔でしかないわけで・・・

追われた関東管領=上杉憲政(のりまさ)が頼ったのが越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)・・・後の上杉謙信(けんしん)でした。
(上記の上杉憲政から関東管領職と名跡を譲られて上杉謙信になります)

実は、父を追放して武田家を継いだ信玄は、その翌年の天文十一年(1542年)から信濃(しなの=長野県)攻略を開始していて(【信濃攻略】参照>>)、天文十七年(1548年)には上田原(うえだはら~長野県上田市)村上義清(むらかみよしきよ)(【上田原の戦い】参照>>)や、塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)での小笠原長時(おがさわらながとき)(【塩尻峠の戦い】参照>>)など、

何度か合戦を繰り広げていたのですが、やがて劣勢になった彼らが逃げ込んだのも謙信のところだったのです(【更科八幡の戦い】参照>>)

こうして逃げ込んで来た彼らを庇護する上杉謙信と迫る武田信玄の間で天文二十二年(1553年)に始まったのが有名な川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いです(【布施の戦い】参照>>)

つまり、北条氏康と武田信玄の共通の敵が上杉謙信…という事になったわけです。

そこに目をつけたのが今川義元・・・

武田とは、父ちゃん追放の一件のあとも、義元は嫁さんとは離縁せず、なんなら、後を継いだ息子とも同盟関係を維持したいと考え、

奥さんの定恵院が亡くなった後の天文二十一年(1552年)には、自身の娘の嶺松院(れいしょういん)を、信玄の長男=武田義信(よしのぶ)に嫁がせて武田との同盟関係を続けていたのです。

一方の北条とも、家督継承の時点ではチョイとゴタゴタあったものの、もともと今川と北条は、かの早雲の時からの親戚ですから、何とか仲良く。。。

…というのも、実は、駿河とともに遠江(とうとうみ=静岡県西部)も領し、さらに三河(みかわ=愛知県東部)間接支配(松平元康=徳川家康を庇護)していた義元は、

その三河の先にある尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)度々衝突していた(【小豆坂の戦い】参照>>)のですが、

その信秀が美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん)と同盟を結んで(【信長と濃姫の結婚】参照>>)北方の憂いを解いた上に、

その後を継いだ息子の織田信長(のぶなが)が、三河との国境線を脅かし始めていた(【村木砦の戦い】参照>>)わけで、

西の織田に全力を注ぐためには、北の武田や東の北条との関係を良い感じに保っていたい・・・
だから両者には仲良くしといてもらいたい・・・
ならば、武田と北条の敵が同じな今が大チャンス!

…てな事で今川義元は、自らのブレーンでもあり、僧という身分でもある太原雪斎を仲介役にして、

すでに婚姻関係を結んでいる今川と武田に加える形で、

天文二十二年(1553年)には武田信玄の娘の黄梅院(おうばいいん)が 北条氏康の息子北条氏政(うじまさ)に嫁ぎ、

翌天文二十三年(1554年)には北条氏康の娘の早川殿(はやかわどの)が今川義元の息子の今川氏真(うじざね)に嫁ぐ

というトライアングル三すくみ方式の婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟に漕ぎつけたのでした。

Kousousyunsanngokudoumeizu

ただし、北条の姫の早川殿が、未だ幼かった(生年不明)故か?氏康の四男である北条氏規(ほうじょううじのり)も共に今川へと向かっています。(2月8日参照>>)

ちなみに、今回、ほぼ同時に結婚するそれぞれの息子たちは皆、天文七年(1538年)生まれの同級生とされるので、

もし、本当に善得寺の会盟があったとしたら、さながら父親参観日にやって来た取引関係にある社長同士のように、お茶飲みながら名刺交換してたかもwww

もちろん、この同盟は、声をかけた今川義元だけではなく、武田信玄にとっても北条氏康にとっても、背後の憂いなく目の前の敵に集注する事ができるわけで、、、北条には関東平定という一大目標もありますからね。

とは言え、この同盟が揺らぐのは、わずか6年後・・・

永禄三年(1560年)の5月・・・今川義元が織田信長に撃たれる桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市または同名古屋市緑区)の戦い(5月19日参照>>)です。

この戦いの後、謙信との川中島に見切りをつけた信玄が、桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(【桶狭間の家康】参照>>)して織田信長と同盟を結んだ(【清須同盟】参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)と連携し、

永禄十一年(1568年)には今川の旧領を狙って今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市・後の駿府城)を攻撃・・・(12月13日参照>>)

この時、輿(こし)を用意できなかった今川氏真と嫁の早川殿が、手に手を取って裸足で館を脱出するという屈辱を味わった事で、妹の身を案じた北条氏政が激怒して、

同盟は、あっけなく崩壊してしまうのでした。

ちなみに、この後、今川氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を落とすのに苦労していた(12月27日参照>>)徳川家康に、北条氏政が助け船を出して開城させた事により、今度は北条と徳川が同盟関係になって武田信玄と敵対する事になり(7月2日参照>>)、後々、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)へとつながって行く事になります。
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