田野城の戦い~羽石盛長と水谷蟠龍斎の一騎打ち
天正十三年(1585年)4月1日、結城晴朝に反旗を翻した羽石盛長の田野城を水谷蟠龍斎が攻め落としました。
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永禄三年(1560年)に羽石時政(はねいしときまさ)によって築城されたと伝わる田野城(たのじょう=栃木県芳賀郡益子町)は、関東平野を北から南へと流れる小貝川(こかいがわ)の下野(しもつけ=栃木県)付近の東岸台地の先端あたりにあった平城で、今も残る普門寺(ふもんじ)の南西に広がる複郭を持つ城でした。
やがて、戦国も天正に入る頃には、中央&西では織田信長(おだのぶなが)横死(「本能寺の変」参照>>)の後を継ぐように台頭して来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、かの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(「小牧長久手・講和」参照>>)で、敵に回った紀州(きしゅう=和歌山県)勢相手に、まさに天下への道を進み始めていましたが(「紀州征伐」参照>>)、
関東では、未だ混沌とした時代・・・
もちろん、一歩飛び抜けているのは、北条早雲(ほうじょうそううん)に始まる、あの北条氏(「北条・五代の年表」参照>>)ですが、一方でまだ群雄割拠する場所でもあり、下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部など)結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)城主の結城晴朝(ゆうきはるとも)などは、
宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)の宇都宮国綱(うつのみやくにつな)の弟=朝勝(ともかつ)を後継ぎとして養子に迎えたり、妹を常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)配下に嫁がせたりと、周辺諸将との間に婚姻関係や同盟関係を結んで、何とか北条に対抗しようとしていたのでした。
そんなこんなの天正十三年(1585年)、結城晴朝傘下だった田野城の時の城主=羽石盛長(もりなが)が、笠間綱家(かさまつないえ)の支援を受けて、晴朝に反旗をひるがえして来たのです。
笠間綱家の笠間氏は宇都宮氏の庶流の一族で、代々笠間城(かさまじょう=茨城県笠間市)周辺を領していたものの、ここのところ宇都宮&結城&佐竹の連合仲間たちとモメて離反状態にあったのです。
この一報を知った結城晴朝は、早速、同年3月20日、家臣の水谷蟠龍斎(みずのやはんりゅうさい)を城に呼び寄せ、羽石追討を命じます。
この水谷蟠龍斎は、元の名を水谷正村(まさむら=政村とも)と言い、剃髪して蟠龍斎と号し、すでに60歳近い=この時代なら老人の部類に入るかも知れないお年頃ですが、父の代からの生粋の結城派で、結城四天王の一人に数えられる猛将・・・晴朝が最も信頼する家臣だったのです。
「羽石は曲者らしいから、気をつけて…」
との言葉を受けて、入念に戦闘準備を整えた蟠龍斎は、3月27日夜に密かに出陣し、未だ夜が明けきらぬ翌3月28日の寅の刻(午前4時頃?)、いきなりの鬨(とき)の声を挙げ、田野城への威嚇を開始したのです。
この時、未だ準備途中だった田野城内は大騒ぎに・・・
そんな中、
「早々に決着をつけねば、笠間の援軍がやって来るかも…」
の知らせを受けた現地=水谷蟠龍斎は、将兵に檄を飛ばして一気に攻め立てました。
しかし、さすがに羽石も名だたる武将の一人・・・懸命に防戦しているところに約3千ばかりの笠間の援軍がやって来ます。
この一報を受けて、結城晴朝も選りすぐりの200騎を現地に派遣。。。と、同時に、笠間と敵対する益子重綱(ましこしげつな)(または益子家宗だったかも)の軍勢も蟠龍斎の救援に駆け付けてくれました。
それでもまだ、数の上では多勢に無勢だった水谷蟠龍斎ですが、やって来た援軍に対し
「加勢に来てもろて、ホンマありがたいですが、敵は、数は多くても、皆、臆病者ですわ。
俺は、戦いとは数の多少やなくて、武将一人一人の心意気や思てますよって、
皆さんは向いの山に登って、見物しててください。
ほんで、もし笠間の新手が加勢にやって来たら、ソイツらをお願いします。
城のヤツらは、俺らに任せてください。
万が一、ヤバイって思たら、この団扇を振りまっさかいに、その時は、一気に攻撃お願いします」
と高らかに言い放って、父子ともども蟠龍斎勢が、一斉に城内に攻め込み、瞬く間に複数の木戸を破って城内に突っ込んで行くと、
その鬼のような攻撃に恐れをなした羽石側は、あれよあれよという間に、向かって来る者より、その場から逃げる者の方が多いという状況になってしまいました。
そんな戦いが、三日三晩続いた事で、3千いた羽石の兵は、わずか300までに・・・
やがて、攻撃開始から4日目。。。
「もはや!これまで」
を悟った羽石盛長は、蟠龍斎に向かって、
「おそらくは、これが最後の戦いになると思う。
けど、端武者(はむしゃ=とるに足らぬ武者・雑兵)の手にかかって首を取られたら無間地獄(むけんじごく=極限の苦しみを受ける地獄)に落ちると聞く。
願わくば隠れなき弓取りと謳われる蟠龍斎殿の手にかかり、極楽世界に向かいたい」
と蟠龍斎との一騎打ちを所望して来ます。
その羽石盛長の覚悟を聞いた蟠龍斎・・・
「そのお気持ち察します。ならば、閻魔(えんま)に訴えられるよう正々堂々勝負しましょーや」
と勝負を快諾します。
かくして互いに静かに馬を近づけ、両者、自慢の槍で以って、追いつき、交わし、また合わせ…と、約半時(約1時間)ほど、互いの運命を賭けて戦い抜きましたが、やはり老いたとは言え、蟠龍斎は結城四天王の一人・・・
やがて羽石盛長は力尽き、天正十三年(1585年)4月1日未の刻(午後2時前後)、蟠龍斎に討ち取られたのでした。
敵兵には、主君に続いて自害する者もいれば、何処へともなく逃げる者もいましたが、蟠龍斎は周辺6ヶ所に追撃隊をかける一方で、自身は羽石盛長の首をもって結城晴朝のもとへ・・・
晴朝は大いに喜び、この田野城を蟠龍斎に与えますが、田野を治める事になった蟠龍斎が、今回の戦いで死傷した者たちの家族に兵糧を与え、自らのポケットマネーによって死者を弔ったりした事から、
味方はもちろん、田野城下の百姓たちも大いに感謝し、この後、蟠龍斎が合戦に出陣する時には、百姓や草履取りまでもが、進んで加勢したのだとか・・・
やがて、ご存知のように、天正十八年(1590年)3月からの豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)によって北条が滅び、
徳川家康に関八州(かんはっしゅう=関東の八か国=相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸)が与えられ(7月13日参照>>)、関東の諸将たちの立ち位置も大きく変わりますが、
豊臣政権下での水谷蟠龍斎は、結城から独立した大名とみなされ、その領地は、後の下館藩(しもだてはん=茨城県筑西市)の基礎となりました。
水谷蟠龍斎自身は 慶長三年(1598年)6月20日に70歳半ばで亡くなりますが、
自らの息子=秀康(ひでやす)を晴朝の養子にして結城を継がせた家康も、水谷蟠龍斎に関しては、
「その功名、関東に隠れなし」
と、その武勇を評価したと言いますから、水谷蟠龍斎という武将が、いかに大物だったかがうかがい知れますね。
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