北条氏照VS三田綱秀の辛垣城の戦い
永禄六年(1563年)3月9日、北条氏照が上杉謙信側についた三田綱秀の辛垣城を攻めました。
・・・・・・・
北条早雲(そううん)に始まる関東の後北条氏の3代目である北条氏康(うじやす)の三男として生まれた北条氏照(ほうじょううじてる)は、
おそらく10代後半の年齢であったと思しき永禄二年(1559年)に、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府から関東支配を任された鎌倉公方の補佐役)の上杉(うえすぎ)氏の重臣であった大石定久(おおいしさだひさ)の娘=比左(ひさ)と結婚して婿養子に入りました。
それを機に大石定久は、大石の本拠である滝山城(たきやまじょう=東京都八王子市)城主と武蔵(むさし=東京都)守護代(しゅごだい=副知事)の座を氏照に譲って出家して隠居・・・氏照も、その名を大石源三氏照と改め、以後は大石の当主となります。
(↑大石綱周の養子になった説もあり)
つまり、婿養子が大石家を乗っ取った形になるわけですが、これは、北条が力づくで…というよりは、大石定久の目論見もあったのではないか?と…
というのも、天文六年(1537年)の河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)の戦い(7月15日参照>>) からの
天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)で、古河公方(こがくぼう=自称関東公方)足利晴氏(あしかがはるうじ)と、時の関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)が北条にコテンパンにやられた事を受けて、
すでに大石定久は上杉に見切りをつけて北条に臣従していたようで、そうなれば、これは、家名と血筋を残すための一つの策です。
それこそ、この後、その河越夜戦の負けを受けて越後(えちご=新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)のもとに逃げ込んだ上杉憲政が、その景虎に上杉氏の名跡と関東管領職を譲って隠居して、景虎が上杉謙信(うえすぎけんしん)と名を改めて関東管領に就任する(6月26日参照>>)わけですが、
これも、謙信が腕づくで奪ったというよりは、上杉憲政の生き残り作戦だったわけですから・・・
こうして大石氏の当主として領国支配に励む氏照でしたが、実は、この頃の関東の土豪(どごう=地侍)諸将たちの立ち位置が、非常に難しい・・・
と言うのも、上記の通り、力をつけた北条氏がどんどん支配地域を広めていく中で、弱小が生き残るためには北条と仲良くする方が良いわけですが、
一方で、関東管領に就任した謙信が、上杉憲政を擁して定期的に関東に遠征して来る・・・となると、本来、コッチが幕府公認の正統な支配者なわけだし、謙信もメッチャ強いわけだし、
…で
小田城(おだじょう=茨城県つくば市)の小田氏治(おだうじはる)(11月13日参照>>)や、
忍城(おしじょう=埼玉県行田市)の成田長泰(なりたながやす)(7月27日参照>>)、
唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)の佐野昌綱(まさつな)(10月23日参照>>)、
小山城(おやまじょう=栃木県小山市:祇園城とも)の小山秀綱(おやまひでつな)(6月26日参照>>)、
などなど、
これまでも、本ブログで謙信と北条の間で揺れ動く諸将をご紹介して参りましたが・・・
そんな中の一人が、青梅谷(おうめだに)の勝沼城(かつぬまじょう=東京都青梅市)城主=三田綱秀(みたつなひで)でした。
自称・平将門(たいらにまさかど)(2月14日参照>>)の末裔としていた 三田氏は、室町時代には関東管領家である山内上杉家(やまのうつうえすぎけ)に属し、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)との同族同士の争いなどにも参戦し、文化の華開く全盛期を迎えていましたが、
やはり、ご多分に漏れず・・・生き残りのためにいち時は北条に属した事もありました。
しかし永禄三年(1560年)の謙信の遠征の時には、再び上杉に従い、同四年(1561年)の謙信の小田原城攻めにも参戦・・・その後は、上記のように、多くの武将が遠征を終えた謙信が越後に戻ってしまうとまたまた北条へとなびく中でも、今回ばかりは上杉派を貫いていたようです。
そこで、
永禄年間の初め頃に、勝沼城の西方に、新しく辛垣城(からかいじょう=東京都青梅市)を築城していた三田綱秀は、ここに来て、いよいよ北条と敵対する決意を固めたのか?、大石を継いだ氏照を警戒し、更なる堅固な城にすべく、急ぎ防備を固めていたのです。
そんなこんなの永禄六年(1563年)、辛垣城を攻略すべく滝山城を進発した氏照の軍は、多摩川右岸を北上し、柚木(ゆぎ=青梅市柚木町)付近で二手に分かれ、一手は辛垣城の西方の軍畑(いくさばた)から平溝川(ひらみぞがわ)を渡って西の木戸口から…
辛垣城の戦いの関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
もう一手は、多摩川を下って黒沢(くろさわ)方面から辛垣城に攻め込んだのです。
この時、氏照は、このあたりの地理に詳しい員野半四郎(いんのはんしろう)なる者を案内人に立て、先鋒を賜った半四郎は勢いよく、真っ先に攻めかかりますが、残念ながら三田綱秀側の兵の放った鉄砲にて命を落とします。
もちろん三田綱秀も必死の抵抗を見せますが、そんな中で辛垣城中にいた侍塚又八(さむらいづかまたはち)が北条側に寝返って、城に火を放った事から辛垣城は落城・・・
「もはや、これまで!」
を悟った三田綱秀は、二人の息子を家臣に預け、自身は岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)の太田資正(おおたすけまさ=関東管領執事:太田道灌の孫)を頼って落ち延びて行ったのです。
この時、三田綱秀は、
♪からかいの 南の山の 玉手箱
あけてくやしい 我身なりけり ♪
という歌を詠んだとか・・・
どうやら三田綱秀は南からやって来る援軍(誰やろ?)を期待していたみたいですが、残念ながら、その加勢は無かったようで…
ただ・・・
この辛垣城の戦いについての記録には、いつ落城したかの記述が無いため、一説には辛垣城の落城は永禄四年もしくは永禄五年の説もあるのですが、
三田氏の菩提寺である海禅寺(かいぜんじ=東京都青梅市)の過去帳に原嶋善六郎(はらしまぜんろくろう)など三田氏家臣死去の記述があり、その日付が3月9日となっている事から、
おそらくは永禄六年(1563年)3月9日に辛垣城の攻防戦があり、翌10日に落城した物と思われ、今回はこの日付にて書かせていただきました。
そして・・・
その後、岩槻城に落ちた三田綱秀は、しばらくは城の奪還を模索していたようですが、
「叶わぬ!」
と思ったのか?約半年後の10月に、その岩槻城にて自刃。。。
家臣に託された息子たちも永禄六年(1563年)と永禄七年(1564年)に亡くなったとされ、三田氏は事実上の滅亡を迎えます。
ただ、一族の中に北条に仕えた後、徳川家康(とくがわいえやす)に召し出されて旗本になった人がいるようなので、何とか、その血脈は残された事になります。
一方の氏照は北条のもとで、更なる関東支配に助力し(【三船山の戦い】参照>>)、
最終的には、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐(3月29日参照>>)で、最も悲惨だったとされる、あの八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)の城主(6月23日参照>>)となっています。
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