上杉謙信の越中侵攻~城生城の戦いと富山城
元亀二年(1571年)3月18日、斎藤常丹の救援要請を受けた上杉謙信が越中へ侵攻し、富山城以下数か所の城を落としました。
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群雄割拠した戦国から、世が、まさに大きく変わろうとする時代・・・
戦国屈指の大物である越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市小島田町)(9月1日参照>>)でドンパチやってる間に、
海道一の弓取りと謳われた駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)を、永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市他)に倒した(5月19日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)したかと思うと、
美濃(みの=岐阜県南部)の斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子)の死をキッカケに、永禄十年(1567年)には斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)、この地を岐阜と改めます。
一方、かの桶狭間キッカケで今川の人質から解放(2008年5月19日参照>>)された後、信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、さらに三河一向一揆を治めて(1月11日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)を平常運転に戻した徳川家康(とくがわいえやす)が、永禄十一年(1568年)から遠江への侵攻を開始(12月13日参照>>)するのです。
おそらくは、この状況に、方向転換を決意したであろう謙信と信玄。。。
永禄七年(1564年)8月の第五次の合戦(8月3日参照>>)を最後に、結着つかぬまま、川中島で両者が戦う事はなかったのです。
なんせ、信玄から見ると、このまま家康が東へ東へと進むと、大黒柱を失った今川の領地を取られちゃうかも…なわけで、
そこで、永禄九年(1566年)には箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)の長野氏を倒し(9月30日参照>>)、翌永禄十年(1567年)には信濃一帯を手中に治めた(8月7日参照>>)信玄は、かつて結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田+今川+北条の同盟)(3月3日参照>>)の破棄に反対する息子を死に追いやってまで(10月19日参照>>)今川攻めに舵を切るのです。
一方の謙信・・・
信玄に攻められた村上義清(むらかみよしきよ)を加勢して始まった(4月22日参照>>)川中島に、北条氏康(ほうじょううじやす)に関東を追われた上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)(4月22日参照>>)を庇護した事で出張るハメになった関東遠征(6月26日参照>>)ですが、
もともと、祖父=長尾能景(ながおよしかげ)の時代から度々西へ向け出兵していて、越中(えっちゅう=富山県)西部の般若野(はんにゃの=富山県高岡市)は、その祖父が亡くなった地(9月19日参照>>)でもあるし、
これまで突出した戦国大名がいなかった越中は、度々睨みを効かせて、配下の武将を支援して間接的に関与して来た場所でもあるわけです。
●増山城&隠尾城の戦い>>
それが・・・ここに来て美濃=岐阜を制した信長に、これ以上北=飛騨(ひだ=岐阜県北部)へと来られては、当然、その越中も危うい。。。
そこで謙信・・・これまで味方だった松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)の椎名康胤(しいなやすたね)が離反し、逆に、かつて攻めた増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)の神保長職(じんぼうながもと)が寝返った事をキッカケに、コチラも信玄同様に方向転換・・・
永禄十一年(1568年)4月に松倉城攻略に向けて、自ら出陣したのです(4月13日参照>>)。
しかし、この時は、途中で、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)の本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗を翻したため(11月7日参照>>)、松倉城を落とせぬまま帰国するハメに・・・
ところが、こうして謙信がバタバタしてる間に、かの織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛(9月7日参照>>)してしまいます。
さらに、遠江に侵攻して来ていた家康(2019年12月13日参照>>)と共同戦線を組んだ信玄が、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)の本拠=今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を攻撃(2007年12月13日参照>>)した事で、
氏真はやむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃亡・・・それを受けた家康が、その掛川城を攻撃します(12月27日参照>>)。
しかし年が明けても、なお掛川城を攻めあぐねていた家康に声をかけたのが小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)の北条氏政(ほうじょううじまさ=氏康の息子)。。。
なんせ今川氏真の奧さんは北条氏政の妹(早川殿=氏康の娘)・・・仲睦まじい氏真夫婦は、信玄に今川館を攻撃された時、手に手を取って逃げたわけで、兄=氏政としては、何とか妹の力になりたい・・・
かくして家康は北条氏の仲介でようやく、翌永禄十二年(1569年)の5月に掛川城の開城に漕ぎつけ、これをキッカケに北条との同盟を結びます。
ところが、これに怒ったのが信玄・・・実は、北条氏政は、かつての同盟=甲相駿三国同盟を信玄が勝手に破棄した事にも怒り心頭なうえ、今川館を逃げる際に輿を用意できなかった妹が、徒歩で逃げるハメになった事にも激怒していて、ここのところ信玄相手にドンパチやりっぱなしだったわけで・・・
●第1次薩埵峠の戦い>>
●第2次薩埵峠の戦い>>
この家康と北条の同盟をキッカケに、信玄と家康の共同戦線も手切れとなり、それぞれ独自に、信玄は駿河の(【大宮城の戦い】参照>>)、家康は遠江の(【気賀堀川城一揆】参照>>)平定に向けて動き出します。
←松倉城攻防の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
一方、この同じ年に敵に敵は味方…
とばかりに北条との同盟を結んだ謙信は、再び、松倉城の攻略に乗り出しますが、またしても、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報が入り、やむなく永禄十二年(1569年)10月に兵を退く事になります。
(なんせ謙信は関東管領でもあるので…)
そんなこんなの元亀二年(1571年)3月、それまで織田信長と懇意にしていた城生城(じょうのうじょう=富山県富山市八尾町)の城主=斎藤常丹(さいとうじょうたん=利基・利常)が、なぜか上杉謙信に救援要請をして来たのです。
この城生城は、越中と飛騨の国境にあり、その領地を結ぶ飛騨街道沿いの要地に建つ城・・・
標高120mの高地に位置し東を神通川、北と西を土川に囲まれる天然の要害ではありましたが、上記の通り軍事や流通において重要な場所に位置している事から、度々狙われる場所でもあったのです。
今回、この城を狙ったのは古川城(ふるかわじょう=岐阜県飛騨市)城主=塩屋秋貞(しおやあきさだ)でした。
元亀二年(1571年)3月2日、飛騨より越中に進出した塩屋秋貞は、城生城の東側に栂尾城(とがのおじょう=富山県富山市朝日町)&猿倉城(さるくらじょう=同富山市舟倉)の二城を新築して陣を置き、瞬く間に、近隣にある福沢城(ふくざわじょう=富山市西福沢)と今泉城(いまいずみじょう=富山市太郎丸)を陥落させてしまったのです。
さらに城生城近くに砦を築いて城攻めを開始した事で、一刻の猶予も無くなった斎藤常丹が、切羽詰まって謙信に助けを求めたのでした。
(信長は3月4日に京都の東福寺で茶会を開いているので、急ぎ謙信を頼った?←記録が無いので、あくまで想像ですが)
これを受けた上杉謙信は、2万8千の兵を率いて即座に越中へ・・・
まずは、3度目の正直とばかりに松倉城を攻めると、今回は早々に水の手を断った事で、またたく間に椎名康胤を城から敗走させる事に成功・・・そこを河田長親(かわだながちか)に守らせた後、
元亀二年(1571年)3月18日、栂尾城を攻略して斎藤常丹を助けます。
あまりの猛攻に、やむなく塩屋秋貞が何の利もなく撤退すると、それを追撃する一方で、その足で謙信は、自ら富山城(とやまじょう=同富山市)へ向かい、その日のうちに陥落させ、さらに神通川を越えて守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)近くまで出張りましたが、
「さすがに、これ以上は…」
と思ったのか?4月1日に陣を解いて、春日山城へと引き揚げていきました。
…というのも、今回の謙信・・・おそらくは、ごくわずかの間に数か所?いや、ひょっとしたら、もっと多くの城を落城させていて、短時間にかなりの収穫があったように見受けられます。
なんせ、今回の越中戦線について書いてある4月11日付けの北条氏政の手紙には
「今回は越中統一が目的やったんでしょ?
神通川を越えられ富山城以下数か所の城を落とされ、大変おめでたい事ですね~
満足しました~」
絶賛の言葉が書かれているほか、
『謙信年譜』にも
「河田の守りに椎名康胤は手も足も出せず、富山城は落城し将士は皆討死…富山方面は完全に越後(謙信)に抑えられた」
とあり、
やはり、短期決戦の大勝利だった事がうかがえますね。
この後、今回の事で斎藤氏との間に芽生えた好を謙信が大事に思い、重要な場所にあるこの城生城を何かと気にかけ、支援し続ける事になります。
また、今回、敗れた側の塩屋秋貞は、これキッカケで上杉の傘下に入る一方で、椎名康胤は行方知れず・・・再び表舞台に登場する事はありませんでした。
そして、謙信の西への進出は本格的になって、
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆~日宮城攻防>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
●天正四年(1576年)3月=富山へ侵攻>>
●天正四年(1576年)8月=飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月=七尾城・攻防戦>>
と続き、
最終的には、織田信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との対決となる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)から能登平定へと続きますが、
そのお話は【上杉謙信の能登平定~松波城の戦い】>> でどうぞm(_ _)m
(合戦までへの経緯を紹介する部分で内容がカブッている箇所もありますが…お許しを)
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