甲相駿三国同盟~善得寺の会盟
天文二十三年(1554年)3月3日、太原雪斎の仲介により、武田信玄と北条氏康と今川義元が伊豆善得寺に集結して甲相駿三国同盟を結んだ善得寺の会盟がありました。
・・・・・・・・
甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)は、
甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と、
相模(さがみ=神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす)と、
駿河(するが=静岡県東部)の 今川義元(いまがわよしもと)の、
3名の戦国大名の間で結ばれた同盟です。
…と言っても、実のところ、この三者による同盟があった事は確かなんですが、仲介役の太原雪斎(たいげんせっさい=今川義元の教育係の僧)ゆかり(修行したとされる)の善徳寺(ぜんとくじ=静岡県富士市今泉)にて、3人が一堂に会して同盟を締結したという、
今回の善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)については、(場所も含め)後世の創作の可能性が高いとされ、
ならば、上記の天文二十三年(1554年)3月3日という日付も怪しいことになりますが、一応、北条氏の記録には登場するようなので、今回のところは、この日付にて同盟が結ばれた背景など、お話させていただきたいと思います。
・‥…━━━☆
そもそもは、未だ群雄が割拠する戦国時代真っ只中の時代。。。
武田信玄の甲斐では・・・
もともと甲斐の守護(しゅご=室町幕府公認の統治者=県知事)であった武田家が家中の内輪モメ状態で没落した事により、一時は守護不在状態だった(【勝山城の戦い】参照>>)ところを、信玄の父である武田信虎(のぶとら)が甲斐一国を統一したのが大永元年(1521年)でした(【飯田河原の戦い】参照>>)。
この信虎は、これまでは再三にわたって隣国の今川や北条とドンパチやっていたのですが、
駿河の今川義元が花倉の乱(はなくらのらん=今川家内の家督争い)(【花倉の乱】参照>>)で今川家当主となった事をキッカケに北条とモメはじめた(河東の乱)事で、
天文六年(1537年)、信虎は娘の定恵院(じょうけいいん)を義元の正室として嫁がせて、今川との同盟に踏み切ったのでした。
しかし、その4年後の天文十年(1541年)に嫁いだ娘の顔見に駿河に行ってる間に、息子の信玄(当時は晴信)が突如としてクーデターを起こしたため、信虎はそのまま駿河に留まり、武田家の当主は信玄に交代します(【信秀追放】参照>>)。
一方、北条は・・・
もともとは幕府奉公衆だった北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が、
自身の姉(もしくは妹)の北川殿(きたがわどの)の夫だった今川義忠(よしただ=今川義元の祖父)が戦死した(【塩貝坂の戦い】参照>>)事で起こった今川家の後継者争いで、
甥っ子の今川氏親(うじちか=義元の父)を次期当主にすべく尽力した(【今川館の戦い】参照>>)事をキッカケに、拠点を伊豆へと移して、
延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に堀越公方(ほりこしくぼう=幕府公認の関東支配者)の足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒した(【伊豆討ち入り】参照>>)後、
小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)(【小田原奪取】参照>>)を拠点に関東支配に乗り出します(【立河原の戦い】参照>>)。
その後を継いだ早雲息子の北条氏綱(うじつな)が、やがて江戸(えど=東京)に進出(【江戸高輪原の戦い】参照>>)して関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)の上杉朝定(うえすぎともさだ)を追い込み(【河越城の戦い】参照>>)、
天文七年(1538年)には小弓公方(おゆみくぼう=自称かんとうくぼう)の足利義明(よしあき)を倒して(【国府台合戦】参照>>)、もう一つの古河公方(こがくぼう=自称かんとうくぼう)を継ぐ足利晴氏(はるうじ)に接近するものの(【晴氏と氏綱の蜜月】参照>>)、
氏綱の死を受けて息子の北条氏康が当主となった事で、足利晴氏が上杉と組んで北条に敵対し始めたため、
氏康は、天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)にて公方と関東管領を壊滅状態に追い込みます(【河越夜戦】参照>>)。
なんせ、実力で関東支配したい北条にとっては、幕府公認の公方や管領は邪魔でしかないわけで・・・
追われた関東管領=上杉憲政(のりまさ)が頼ったのが越後(えちご=新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)・・・後の上杉謙信(けんしん)でした。
(上記の上杉憲政から関東管領職と名跡を譲られて上杉謙信になります)
実は、父を追放して武田家を継いだ信玄は、その翌年の天文十一年(1542年)から信濃(しなの=長野県)攻略を開始していて(【信濃攻略】参照>>)、天文十七年(1548年)には上田原(うえだはら~長野県上田市)の村上義清(むらかみよしきよ)(【上田原の戦い】参照>>)や、塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)での小笠原長時(おがさわらながとき)(【塩尻峠の戦い】参照>>)など、
何度か合戦を繰り広げていたのですが、やがて劣勢になった彼らが逃げ込んだのも謙信のところだったのです(【更科八幡の戦い】参照>>)。
こうして逃げ込んで来た彼らを庇護する上杉謙信と迫る武田信玄の間で天文二十二年(1553年)に始まったのが有名な川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いです(【布施の戦い】参照>>)。
つまり、北条氏康と武田信玄の共通の敵が上杉謙信…という事になったわけです。
そこに目をつけたのが今川義元・・・
武田とは、父ちゃん追放の一件のあとも、義元は嫁さんとは離縁せず、なんなら、後を継いだ息子とも同盟関係を維持したいと考え、
奥さんの定恵院が亡くなった後の天文二十一年(1552年)には、自身の娘の嶺松院(れいしょういん)を、信玄の長男=武田義信(よしのぶ)に嫁がせて武田との同盟関係を続けていたのです。
一方の北条とも、家督継承の時点ではチョイとゴタゴタあったものの、もともと今川と北条は、かの早雲の時からの親戚ですから、何とか仲良く。。。
…というのも、実は、駿河とともに遠江(とうとうみ=静岡県西部)も領し、さらに三河(みかわ=愛知県東部)も間接支配(松平元康=徳川家康を庇護)していた義元は、
その三河の先にある尾張(おわり=愛知県西部)の織田信秀(おだのぶひで)と度々衝突していた(【小豆坂の戦い】参照>>)のですが、
その信秀が美濃(みの=岐阜県南部)の斎藤道三(さいとうどうさん)と同盟を結んで(【信長と濃姫の結婚】参照>>)北方の憂いを解いた上に、
その後を継いだ息子の織田信長(のぶなが)が、三河との国境線を脅かし始めていた(【村木砦の戦い】参照>>)わけで、
西の織田に全力を注ぐためには、北の武田や東の北条との関係を良い感じに保っていたい・・・
だから両者には仲良くしといてもらいたい・・・
ならば、武田と北条の敵が同じな今が大チャンス!
…てな事で今川義元は、自らのブレーンでもあり、僧という身分でもある太原雪斎を仲介役にして、
すでに婚姻関係を結んでいる今川と武田に加える形で、
天文二十二年(1553年)には武田信玄の娘の黄梅院(おうばいいん)が 北条氏康の息子北条氏政(うじまさ)に嫁ぎ、
翌天文二十三年(1554年)には北条氏康の娘の早川殿(はやかわどの)が今川義元の息子の今川氏真(うじざね)に嫁ぐ
というトライアングル三すくみ方式の婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟に漕ぎつけたのでした。
ただし、北条の姫の早川殿が、未だ幼かった(生年不明)故か?氏康の四男である北条氏規(ほうじょううじのり)も共に今川へと向かっています。(2月8日参照>>)
ちなみに、今回、ほぼ同時に結婚するそれぞれの息子たちは皆、天文七年(1538年)生まれの同級生とされるので、
もし、本当に善得寺の会盟があったとしたら、さながら父親参観日にやって来た取引関係にある社長同士のように、お茶飲みながら名刺交換してたかもwww
もちろん、この同盟は、声をかけた今川義元だけではなく、武田信玄にとっても北条氏康にとっても、背後の憂いなく目の前の敵に集注する事ができるわけで、、、北条には関東平定という一大目標もありますからね。
とは言え、この同盟が揺らぐのは、わずか6年後・・・
永禄三年(1560年)の5月・・・今川義元が織田信長に撃たれる桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市または同名古屋市緑区)の戦い(5月19日参照>>)です。
この戦いの後、謙信との川中島に見切りをつけた信玄が、桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(【桶狭間の家康】参照>>)して織田信長と同盟を結んだ(【清須同盟】参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)と連携し、
永禄十一年(1568年)には今川の旧領を狙って、今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市・後の駿府城)を攻撃・・・(12月13日参照>>)
この時、輿(こし)を用意できなかった今川氏真と嫁の早川殿が、手に手を取って裸足で館を脱出するという屈辱を味わった事で、妹の身を案じた北条氏政が激怒して、
同盟は、あっけなく崩壊してしまうのでした。
ちなみに、この後、今川氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を落とすのに苦労していた(12月27日参照>>)徳川家康に、北条氏政が助け船を出して開城させた事により、今度は北条と徳川が同盟関係になって武田信玄と敵対する事になり(7月2日参照>>)、後々、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)へとつながって行く事になります。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 斎藤道三VS織田信秀の狭間で鷹司が滅びる~大桑城牧野合戦(2024.12.04)
- 松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い(2024.11.27)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 奈良の戦国~筒井順賢と古市澄胤の白毫寺の戦い(2024.11.14)
コメント
こんにちわ、茶々様。
>父親参観日にやって来た取引関係にある社長同士
この件、笑ってしまいました(^o^)
話の途中で出てきた上杉謙信。養子とした上杉景勝の正室が菊姫(武田信玄の五女)という事は披露宴で祖父同士で武田信玄と上杉謙信が同席している姿も想像してしまいます。
(^^)/
投稿: ダイ | 2023年3月 6日 (月) 07時42分
ダイさん、こんばんは~
確かに…結婚披露宴もオモシロイですね~
以前、豊臣秀頼と千姫の結婚のページ>>
で、
「つなげたら皆、親戚」という系図をupしましたが、こういうの、想像すると楽しいですね~
まさに、
「ランドセルは誰が買うてくれんねん」
状態です。
投稿: 茶々 | 2023年3月 7日 (火) 05時08分