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2023年4月30日 (日)

足利尊氏亡き室町幕府~第2代将軍・足利義詮の治世とは?

 

 正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍の足利尊氏が、54歳でこの世を去った日ですが、今回は、その死を受けて第2代将軍となる足利義詮の治世について…

・・・・・・・・

足利義詮(あしかがよしあきら)が、宣下を受けて正式に第2代室町幕府将軍となるのは、この年の12月の事ではありますが、父の尊氏(たかうじ)が亡くなっている以上、その後継者としての責務は、死後すぐに発生するわけで・・・。

父の尊氏は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)、その後の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)などて対立して、鎌倉にて挙兵・・・一旦は九州へ逃れるものの(3月2日参照>>)、再起して京都を制し(6月30日参照>>)、その京都で新たな幕府=室町幕府を樹立(11月7日参照>>)。。。

一方、敗れた後醍醐天皇は吉野(よしの=奈良県)にて南朝を立ち上げ(12月21日参照>>)、世は南北朝の動乱に突入しました。

南朝方との戦いは概ね有利に進め、弟=足利直義(ただよし)との兄弟対立(観応の擾乱=10月26日参照>>)という危機も乗り越え、室町幕府という新たな時代を切り開いた尊氏は、偉大な将軍でありましたが、一方で、かの後醍醐天皇が崩御(8月16日参照>>)しても、結局は南朝との戦いには決着がつかないまま正平十三年・延文三年(1358年)4月30日その死を迎える事になったわけです(2012年4月30日参照>>)

とは言え、後を継ぐ息子=足利義詮は、すでに29歳の男盛り・・・
Asikagayosiakira500ass 4歳の頃から父の名代として鎌倉の主となり(1月8日参照>>)、20歳の頃には上京してともに合戦にも参戦し、逆に父が都を留守にする時は、京都にて幕府を守る大役もこなしていた経験豊富な後継者でした。
 ●八幡合戦>>
 ●神南合戦>>
 ●東寺合戦>>

しかしながら、新将軍=義詮の前途は、なかなかに多難だったのです。

…というのも、先の南朝とのアレコレもさることながら、義詮の周りには、カリスマ父とともに戦火を潜り抜けて来た老臣がウジャウジャ・・・彼らを引き立てつつも、自らの将軍としての威厳と地位を保って行かねばならないわけです。

まず、これまでは将軍の右腕というべき執事(しつじ=後には管領とも:将軍の補佐役)についていたのは仁木頼章(にっきよりあき)でしたが尊氏の死をキッカケに出家して第一線から退いてしまいました。

そこで義詮は、新たな執事を任命する事になるのですが、かつて父の尊氏と弟=直義の内部分裂の時でも、一貫して尊氏に味方してくれた足利一門の三人が有力候補に・・・

上記の仁木頼章の弟=仁木義長(よしなが)か、
関東にいる畠山国清(はたけやまくにきよ) か、
重臣筆頭の細川和氏(ほそかわかずうじか)か、

…で、結局、義詮は、細川和氏の息子で、一時は尊氏とモメて阿波(あわ=徳島県)に逃れていた細川清氏(きようじ)を呼び戻して執事に抜擢したのでした。

とは言え、まだまだ新将軍=足利義詮の周りは問題山積みで落ち着きません。

なんせ、九州では懐良親王(かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)南朝勢力が健在(8月6日参照>>)、都とは一線を引く独立国家の様相を呈して来ていましたし、幕府の中心には、足利一門ではない外様の武将たちが食い込んでいましたから・・・

西国の大内(おおうち)山名(やまな)美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松(あかまつ)・・・
いずれも、鎌倉討幕時代から尊氏に従った大名たちの家柄で、なんなら最初の最初っからともに戦った佐々木道誉(ささきどうよ=高氏)なんかは、すでに62歳になった今でも、精力的に政務に関わる長老として大きな発言力を持っていましたから、

義詮は、そのあたりのオジサマたちに、かなり気をつかいながらの将軍職だったかも知れません。

そんな中で行われた新将軍としての一大事業が、正平十四年・延文四年(1359年)12月から翌年にかけての『足利義詮の南征』でした(くわしくは12月23日参照>>)

わざわざ関東の畠山国清を呼び寄せ、未だくすぶっている南朝方を叩きのめそうと決行された将軍自らの行軍で、南朝が拠点とする赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)を陥落させる事に成功して、一応の終結を見ますが、

その一方で、軍を出しながらも淀川を越える事が無かった仁木義長に
「日和見をしていたのでは?」
という諸将の不満が爆発し、諸将からの攻撃を恐れた仁木義長は伊勢へ逃亡・・・翌正平十六年・康安元年(1361年)、南朝に降る事になります。

こうして仁木義長失脚の後は、細川清氏が幕府内の一強となったわけですが、それがあまりに目に余る事態となったのか?徐々に足利義詮と細川清氏に溝が生じるように・・・

やがて清氏の謀反を疑うようになった義詮を恐れて、清氏は領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去し、彼もまた南朝の一員となったのでした(9月23日参照>>)

仁木追い落としから、わずか1年余りの事でした。

しかも、南朝に降った細川清氏は
「1日で京都を攻略してみせまっせ!」
といきまいて、兵を率いて北上・・・これを知った義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう=北朝4代)を伴ってあっさりと近江(おうみ=滋賀県)に逃れ、この年の12月に京都は南朝が制圧する事になりました(12月7日参照>>)

「将軍…弱っ!」
って、思っちゃいますが、

実は、このブログでも度々お話しているように、京都という町はメチャメチャ守り難いのです。

多くの兵法書で必ず、高地に陣を置いて駆け下って攻撃するよう説いているように、山に囲まれた盆地となっている京都は、敵からの攻撃を受けやすいのです。。。

なので、攻撃を受けたら、一旦退いて、態勢を整えて奪回するのが得策なのです。

もちろん、それは、今回制圧した南朝も同じ事・・・案の定、20日後の12月27日、北朝軍に囲まれた南朝側は、これまたあっさりと京都捨てて退散し、都は再び、将軍=足利義詮の物となったのです。

こうして…
南朝を都から排除し、かの細川清氏も逃亡先の讃岐(さぬき=香川県)で死に追いやった事から、都はしばしの平和を迎える事になりましたが、やはり細川清氏の抹殺は後味の悪い物で、彼の死後には怨霊騒ぎが頻繁に起こるようになったとか・・・

とは言え、ここに来て、かつて観応の擾乱以来、尊氏と対立した弟の直義の遺児(尊氏の子で直義の養子)足利直冬(ただふゆ)も姿を消し、直冬とつるんでいた山名時氏(やまなときうじ)幕府に投降・・・

不穏な動きを見せていた大内弘世(おおうちひろよ)幕府に帰順し、あの仁木義長も義詮に詫びを入れて幕府に帰服。。。

「一旦楯突いた者を、気にせずに再び登用する」
というのは、義詮の懐の深さと、力のある者を実用するという現実主義のなせるワザなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、一旦は、幕府内は穏やかとなり、空席となっていた執事の座には斯波義将(しばよしゆき)が任命される事に・・・とは言え、義将は、未だ13歳の少年で、

事実上は、幕府創建以来の重臣である斯波高経(たかつね=足利尾張家)が牛耳っていたわけですが、

ここで、これまた新たな問題が・・・それは、近隣の宗教勢力でした。

延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の衆徒が六角氏頼(ろっかくうじより=佐々木氏)の狼藉を訴えるべく神輿(みこし)を担いで洛中をデモして回ったり、
「夢のお告げがあった」
と言って佐々木道誉の邸宅に押し寄せたり、

また、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐ=京都府八幡市)の神官が、祇園社(ぎおんしゃ=京都市:八坂神社)とモメて殴り込みかけたり

など、ここに来て、宗教勢力による強訴(ごうそ=仏神の権威と武力を使った強引な訴えや要求)が続々と決行されたのです。

その中の一つが春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)の訴え・・・

越前(えちぜん=福井県東部)にあった春日大社の所領を
「斯波高経が横領した」
と訴えて御神木を担いで京都入りし、その御神木を六波羅(ろくはら=京都市東山区)に鎮座させ、
「処罰が下されるまで退き下がらんぞ」
と息巻きます。

春日大社は、あの藤原(ふじわら)一族の氏神様ですから、朝廷では藤原一族の公卿らがストライキを起こして、もはや政務も滞るあり様・・・

…で結局、斯波高経は、正平二十一年・貞治五年(1366年)の8月9日に、自宅に火を放って、父子ともども越前へ逃亡・・・斯波氏も失脚する事になります。

これで、またまた執事不在の状態となったわけですが、今度の義詮は、執事を置く事無く政務を開始するのです。

父の尊氏が亡くなって8年・・・自身も38歳になった義詮は、ようやく年配の重臣たちに気兼ねすることなく、自身の思うように政治を行える立場を得たとばかりに、あえて執事を置かなかったのです。

翌正平二十二年・貞治六年(1367年)の2月には、海の向こうの高麗(こうらい=朝鮮半島に存在した国家)から、
「倭寇(わこう=日本の海賊)を取り締まってほしい」
との牒状(ちょうじょう=皆で回覧する書状)を持った使者が、日本を訪れるのですが、

その書状の宛名が「皇帝」でも「天皇」でも「天子」でもなく、「国主(和王か国王だったとも)」だった事に憤慨した朝廷は、
「そもそも倭寇の本拠地は九州で、その九州の事なんか俺らの知らん(上記の通り南朝が牛耳ってるので)やんけ」
返事を出さない事を決定したのですが、

決定はしたものの、やって来た使者に、その事を伝えられず、奈良見物をさせて時間稼ぎをしていたところ、

ウジウジしている朝廷に代って、
義詮が、自らの名で返書を書き、高麗の使者たちを思いっきり接待して、金銀財宝を手土産にして、ご機嫌に帰国をさせて、事なきを得たという一件もありました。

そして…
そんな1ヶ月後の3月29日には、宮中は清涼殿(せいりょうでん=内裏にある殿舎)にて中殿御会(ちゅうでんごかい)という和歌の会が開かれます。

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中殿御会の様子(『太平記絵巻』より)

これは、一人前の将軍として自らの治世に平和をもたらした事を確信して、義詮自らが発案した自分へのご褒美・・・

もちろん、この平和の到来には天皇や公家たちも大喜びで、義詮の提案に賛成して、会は盛大な物になりました。

関白(かんぱく=天皇を補助する重職)以下、重責を担う公卿(くぎょう=太政官の最高幹部)が居並ぶ中、大勢の配下を連れて清涼殿に登場した義詮は、その公卿たちの列には入らず、天皇の前に進み出て、その対の位置に座します。

天皇に敬意は表するものの、公卿たちとは同列ではない特別な立場を見せつけました。

しかも、会の直前に、この日の御製(ぎょせい=天皇自らが書いた文書・歌)を詠みあげる役を、準備段階で決まっていた天皇が指名した御子左為遠(みこひだり ためとお)から、

自らの歌の師匠である冷泉為秀(れいぜいためひで)に変更させるという強気満々・・・まさに義詮は、第2代将軍として絶頂期を迎えたのでした。

しかし…
残念ながら義詮の絶頂は、このあたりまで・・・

この年の11月に体調を崩した義詮は、細川頼之(ほそかわよりゆき)を執事に任命し、側室の紀良子(きのりょうし)が産んだ、わずか10歳の嫡男を、この細川頼之に託したかと思うと、1ヶ月も経たない12月7日、この世を去ったのです。

わずか9年の治世でした。

この、後継者となった10歳の嫡男が、足利を全盛期へと導く事になる第3代将軍=足利義満(よしみつ)です(12月30日参照>>)

父の尊氏さんが有名で、息子の義満さんも有名人・・・

挟まれた形で、何となく目立たない義詮さんですが、なかなかに頑張ってバトンを渡したように思いますね。
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2023年4月21日 (金)

松永久秀の大和侵攻~筒井順慶の美濃庄城攻防戦

 

永禄九年(1566年)4月21日、筒井順慶の攻撃を受けていた美濃庄城が陥落した知らせを受け、援軍に向かっていた松永久秀が撤退を開始しました。

・・・・・・・・・

国衆が群雄割拠する戦国の大和(やまと=奈良県)にて、その大半を治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)(9月25日参照>>)の死を受けて、わずか2歳で後継者となった息子の筒井順慶(じゅんけい)は、一族や宿老に守られながら、更なる勢力拡大を狙っていました(9月21日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)に、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第14代室町幕府将軍)とも和睦して京都周辺を制圧し、事実上のトップとなった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)。。。(6月9日参照>>)

Matunagahisahide600atb その三好の配下である松永久秀(まつながひさひで)が、未だ三好勢手つかずだった大和に侵攻して来たのは永禄二年(1559年)の事でした。

侵攻後、ほどなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していき(7月24日参照>>)

永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、今度はここを拠点として更なる大和攻略をすすめる久秀。。。

しかし、その一方で松永久秀の主家である三好家が、病気がちになった長慶をはじめとする弟たちが次々に死亡(5月9日参照>>)・・・やむなく三好家では一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、長慶の甥である三好義継(よしつぐ)を当主に迎える中で、

三人衆は、永禄八年(1565年)5月に足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)新将軍に擁立しようとするのです。 

どうやら、このあたりで、松永久秀は三好との縁を切ったようで・・・

Tutuizyunkei600a この暗殺劇から半年後の永禄八年(1565年)11月16日、久秀の大和侵攻を抑えたい筒井順慶は三好三人衆と同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃します。 

これに即座に反応した松永久秀は、2日後の18日に、すぐさま順慶の本拠である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲・・・順慶はやむなく筒井方の布施(ふせ)の居城である布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと落ちていったのです(11月18日参照>>)

しかし順慶もさるもの・・・

これは、あくまで余力を残しての撤退で、案の定、1週間後の11月26日、これまたすぐに、ここに来て松永久秀になびいていた大和国衆=高田当次郎(たかだとうじろう)の大和高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)筒井&布施連合軍が攻撃・・・しかし高田城はなかなか落ちず、ここは長きに渡る籠城戦に入る事になります(11月26日参照>>)

その間の12月26日には、松永久秀が、三好三人衆が布陣している西ノ京(にしのきょう=奈良県奈良市西ノ京町)周辺を襲撃し、三人衆らを退散させています。

この時の筒井順慶には、配下の井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)に預けた手勢が未だ2000ほど残っておりましたが、結局は、松永勢にやられっぱなし状態で、筒井も三好も久秀に圧倒されるばかりだったのです。

この状況に、勢いに乗った松永久秀は、年が明けた永禄九年(1566年)正月4日、筒井配下の美濃庄(みのしょう)が守る美濃庄城(みのしょうじょう=奈良県大和郡山市美濃庄町)に攻撃を仕掛けたのです。

美濃庄氏は、興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の衆徒だった頃から筒井に臣従していた一派ですが、この頃の美濃庄城は、独立した…というよりは筒井城の支城(しじょう=本城を守る補助的な出城)のような役割を果たしていました。

何とか迎撃する美濃庄城の城兵でしたが、松永久秀自らが兵を率いての猛攻であった事もあり、残念ながら筒井勢は守り切れずに敗退・・・この時は城兵のほとんどが逃亡しました。

美濃庄城を陥落させた久秀は、ここに補強の軍兵を入れ、自身は本拠の多聞山城へと帰還して行きました。

その後、その年の4月に入ってからは、三好三人衆が久秀の多聞山城をけん制したり、三人衆&筒井連合軍が西ノ京をはじめとする奈良周辺へ押し寄せて気勢をあげるデモンストレーションを行って松永久秀を徴発しましたが、久秀は、それに乗っかる事無く、、、

さらに4月13日には、ここの最近、松永配下として息を吹き返した古市(ふるいち=古市澄胤参照>>の本拠である古市郷(ふるいちごう=奈良県奈良市古市町)を焼き払い、
「これでもか!」
と、筒井&三好は、さらに久秀を徴発・・・

それでも乗って来ない事を見切った筒井順慶が、ここに来て、守りの兵だけになっていた美濃庄城を攻めたのです。

実は・・・この頃、
上記の通り、古市や大和高田城をはじめ、戦場となってる場所は一ヶ所ではありません。

この少し前は、(さかい=大阪府堺市)上芝(うえのしば=堺市上野芝町付近)でも、三好&筒井連合軍と松永久秀は戦っており、そこでは手痛い負けを喰らっていたのです。

つまり、徴発されても、すぐには動けなかったわけで・・・

で、結局、多聞山城からの援軍が期待できずに孤立してしまった美濃庄城は、ついに降伏・・・筒井順慶に城を開け渡したのでした。

しかし、それを知らぬ松永勢は、この頃、ようやく木辻(きつじ=奈良県奈良市木辻町)までやって来ていましたが、美濃庄城の落城を知った永禄九年(1566年)4月21日、やむなく松永久秀は、救援を諦めて多聞山城へと引き返して行き、美濃庄城攻防戦は終結したのでした。

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美濃庄城攻防の位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

開始以来、怒涛の勢いで突き進んでした久秀の大和侵攻・・・

しかし、筒井順慶は、この美濃庄城の奪取で、ようやく一矢を報いた形となり、6月8日には、本拠の筒井城を奪回しています。

そして、
この翌年には、あの奈良の大仏を焼いちゃう事になる戦いに向かって行く事になりますが、そのお話は「大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井」のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2023年4月15日 (土)

【平安京ニュース】見物場所の取り合いが壮絶~万寿四年の賀茂祭

 

万寿四年(1027年)4月15日、この日開催された賀茂祭の運営責任者である藤原行成と、祭見物に来た藤原為資牛車が場所の取り合いでモメました。

・・・・・・・・・・

「賀茂祭(かもまつり)とは、京都にある賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)の例祭であり、平安時代から国家的行事として行われて来たお祭で、有名な『源氏物語』にも登場します。

動乱の世で一時的に中断されますが、以前、書かせていただいたように、江戸時代の元禄七年(1694年)に德川幕府がスポンサーについてからは、その名称を「葵祭(あおいまつり)と変えて(8月30日参照>>)、現在に至っています。

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現在の葵祭・路頭の儀=王朝行列

現在では5月1日の競馬会にはじまり、5月15日の王朝行列が最も人気ですが(くわしくは本家「京阪奈ぶらり歴史散歩」の歳時記ページで>>)、当然の事ながら、もともとのお祭りは、ちと雰囲気が違います。

そもそもは、国内の風雨が激しく、荒天続きのために作物が実らなかった原因を占ってみると、
「賀茂の神々の祟りであ~る」
と占い師が言った事から、4月の吉日に祭を行ったところ、好天に恵まれて五穀豊穣となった事から慣例になったお祭りとされ、

毎年、四月(陰暦)のうちの酉の日に、
「祭やるぞ~~」
との天皇の命を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が神社に向かう←この行列が、平安時代に大人気となり、それを見物しようという人々が、押し寄せて来ていたわけです。

そんなこんなの万寿四年(1027年)4月15日賀茂祭・・・
Fuziwaragyousei500as この時、祭の総指揮を任されたのが、権大納言(ごんのだいなごん)藤原行成(ふじわらのゆきなり)・・・御年57歳でした。

この行成さんは、
小野道風(おののみちかぜ)(12月27日参照>>)藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟(さんせき)の一人に数えられる書家で、その時は行成=コウゼイあるいはギョウセイと呼ばれたりします。

しかし、そんな行成さん・・・今年に入って体の調子が悪い。。。

なんたって、平安時代の57歳ですからね~左手が動かしヅラくなって、もはや馬にも乗れない状態だったところが、

ここに来て、上記の賀茂祭運営スタッフ総責任者に選ばれちゃったもんだから、祭の1ヶ月前には、
「禁忌(一定期間にやってはいけない事)に触れるかも」
と周りの目にビビリしつつお灸をして、なんとかしのいで祭当日を迎える事ができたのでした。

早速、朝から大路の一隅に牛車(ぎっしゃ)を据えて、通り過ぎる行列を監督する事にしたのですが、、、

なんと、直前になって、その視界を遮るように、どど~~ん!と目の前に1台の牛車が・・・しかも、かなりの数の従者を従えている。

どうやら、牛車の主は、単に見物に絶好だと睨んだその場所で見物しようと思ったようですが、そんな事されたら、当然、行成は責任者の総仕上げでである「行列の監督」という業務をできなくなるわけで、

そこで行成は、牛車の主に自身の業務の内容を伝え、速やかに立ち退いてくれるよう促したのです。

ところが、その牛車&団体は、行成の意向を完全無視!

まぁ、従者の数が多い…って事は、それだけ牛車内の主がエライ人だったって事なのかも知れませんが・・・

しかも、ただ無視しているだけならまだしも、いつしか件の横入り牛車の従者が行成の従者に暴言を吐き、悪口を言い出したうえ、着物を略奪するなどの暴力を振るい始め、最終的に刀を抜いた・・・と、

総監督の面目丸つぶれとなった行成が、その牛車の主を尋ねてみたところ、なんと、権大納言藤原頼宗(よりむね)執事(しつじ)藤原為資(ためすけ)である事がわかります。

確かに、藤原頼宗は、行成と同じ権大納言とは言え、今を時めく御堂関白(みどうかんぱく)藤原道長(みちなが)の息子(次男)ですが、
 Fuziwaranomitinagakakeizu20233★藤原道長・家系図→
  (クリックで大きく)
件の牛車の主は、本人ではなく、その執事ですから・・・

虎の威を借る狐どころか、虎の子の威を借る狐

従者の多さ」にちょっとは気をつかっていたのに、蓋を開ければ、完全に下のヤツにナメられてたわけで・・・これじゃ、責任者の面目丸つぶれが、更なる丸つぶれ・・・

しかし、それに対して、同じ暴力で対抗したなら、それこそ運営責任者の名がすたる~

行成ともあろうお方が低次元のヤツと同じレベルに落ちる必要はありません。。。

そこは大人の対応をしなければ!・・・と、行成は、応戦しようとるす自らの従者たちをなだめすかして、その間に、頼宗の兄であり、父=道長から関白の座を受け継いだ藤原頼通(よりみち=道長の長男)に連絡を取ります。

知らせを聞いた頼通は、慌てて自らの従者を現地に派遣して、なんとか事を治めようとしますが、主人がア●なら従者も●ホなのか?

なんと為資の従者たちは、頼通の従者にも暴力を奮う始末・・・

結局、運営責任者として事を無難に治め、祭の無事開催を願う行成は、とにかく、騒ぎを大きくせず済ます事を優先せざるを得ず、メンツ丸つぶれになりながらも、自身が退き下がるしかなかったようです。

もう・・・まさに、無理が通れば道理が引っ込む…行成がお気の毒な限りです。

ちなみに、この同じ日・・・

やはり、賀茂祭を見物しようと、弟を連れ立って牛車に乗り、いそいそと出かけた大納言藤原斉信(ただのぶ=道長の弟の息子)が、中納言源師房(みなもとのもろふさ)邸宅前を通った時に、そこにいた従者たちから石を投げられる…という事件も起きており、

もう~、楽しい祭の日に、平安貴族は何やってんだ!? って感じですよね~

ま、この後者の事件も、
「その家の前にいたからといって、その邸宅に務める従者かどうかわからない」
って事で、結局、ウヤムヤになってるんですけどね。。。

ま、令和の今でも、場所の取り合いでモメてる人、たまに見かけますが、刀まで抜いたり石投げたりして罰せられない=ウヤムヤになるという、、、やったもん勝ちの平安時代って、ある意味スゴイですよね~

来年の大河ドラマ「光る君へ」が楽しみだワww
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★関連【平安京ニュース】
●藤原能信の牛車暴行事件>>
●藤原兼隆の下女襲撃事件>>
●藤原頼行の従者殺害事件>>
●大江至孝の強姦未遂~の殺人>>
●藤原兼房の酒乱大暴れ事件>>
●源政職殺人事件>>
●藤原兄弟の家屋破壊事件>>
●藤原兼経の立て籠り事件>>
●藤原頼通の暴行事件>>
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2023年4月 8日 (土)

息子のために母ちゃん頑張る~阿仏尼と十六夜日記

 

弘安六年(1283年)4月8日 、鎌倉時代の女流歌人である阿仏尼が旅先の鎌倉にて死去しました。

・・・・・・・・・

安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または右衛門佐(うえもんのすけ)とも呼ばれる阿仏尼(あぶつに=阿佛尼)は、桓武平氏(かんむへいし)大掾氏流(だいじょうしりゅう=常陸=茨城県周辺の坂東平氏)平維茂(たいらのこれもち)の子孫である奥山度繁(おくやまのりしげ=平度繁)養女とされています。(異説あり)

Abutsuni600a 10代の頃に、守貞親王(もりさだ しんのう=第86代:後堀河天皇の父)の皇女である邦子内親王(くにこないしんのう=安嘉門院)女房として仕えるものの、

大失恋をしてしまった事で、失意のもとに出家・・・

しかし、その後、30歳頃に藤原為家(ふじわらのためいえ)の側室となって、冷泉為相(れいぜいためすけ)ら3人の子をもうけています。

この息子さんの冷泉為相が、歌道の宗匠家の内の一つとして有名な冷泉家(れいぜいけ)の祖となる人・・・

と、その事でもお察しのように、この阿仏尼は、歌人として多くの和歌を残し、

女性で初めての歌論書『夜の鶴』を著したほか、娘に宛てて書いた教訓的な手紙である『阿仏の文』は、宮廷女房としてどのように振舞えば良いのか?というような様々な心得を記した長い文章で、これは後世に女性の教訓書として広く知られる事になります。

とにもかくにも、この阿仏尼さんは、歌や日記など、文学の世界で名を馳せるアーティスト的存在なわけですが、何より有名なのは、自宅のある京都から鎌倉へ向かった際に記した紀行文『十六夜日記(いざよいにっき)ですね。

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十六夜日記(国文学研究資料館蔵)

この鎌倉への旅は弘安二年(1279年)の事と言いますから、おそらく彼女=阿仏尼は60歳近くの高齢であったと思われますが、そんな彼女が、そんな年齢で、なぜに鎌倉まで行く事になったのか?

実は、彼女は建治元年(1275年)に夫の 藤原為家が亡くしています。

その直後には
♪とまる身は ありて甲斐なき 別路(わかれじ)
 など先立たぬ 命なりけん ♪
(夫を失ったなら)生きてても甲斐がないのに、なんで私が先に逝かれへんかったんやろ」
てな、か弱い女心を詠んでいる阿仏尼でしたが、

夫の死後に、正妻の子である二条為氏(にじょうためうじ)との間に起こった泥沼の遺産相続争いが起こったのです。

夫の遺言によって、実子の為相に渡るはずだった荘園が、ここに来て正妻の子に取られそうに・・・

「貴族同士での曖昧な慣例では埒が明かない」=「息子に遺産が回って来ない」
と感じた阿仏尼が、武士の法律に乗っ取って鎌倉幕府にしっかりと裁いてもらおうと幕府のお膝元=鎌倉に向かったわけです。

なんせ、武士の世界では、この約50年ほど前に、あの北条泰時(やすとき=義時の長男)御成敗式目(ごせいばいしきもく)が制定されてますから・・・(8月10日参照>>)

まさに、
女は弱し、されど母は強し…お母ちゃん、息子のために頑張ります!

京都の粟田口(あわたぐち)を出た阿仏尼・・・途中の逢坂関(おうさかのせき=京都と滋賀を分ける関所:滋賀県大津市大谷町)にて
♪定めなき 命が知らぬ 旅なれど
 又逢坂と 頼めてぞ行く ♪
「人の命なんてワカラン物やから(都に戻って来れるかどうかわからんけど)、逢坂という名前を信じて(また都の人に会えると願って)行く事にするわ」
という一大決心の歌を詠み、一路、鎌倉へと向かったのでした。

Abutuninotabizi
阿仏尼の旅路 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

弘安二年(1279年)10月16日に京都を発って、美濃(みの=岐阜県南部)を経て尾張(おわり=愛知県西部)熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を参拝し、10月22日に遠江(とおとうみ=愛知県西部)引馬(ひくま=静岡県浜松市)に入りました。

この浜松は父の一族のゆかりの地であったため、阿仏尼は、ここまでは以前にも来た事があったようですが、ここから先は初めての体験となります。

なので大井川の河原の広さに驚いたり、宇津山(うつのやま=静岡県湖西市)で仲良くなった人に娘への手紙を託したり、富士山の美しさに感激したり・・・と、なんか、少女のようにはしゃいでます?

そして箱根を越えて10月29日に小田原から海沿いを通って鎌倉に入ったのです。

そんな十六夜日記では、感動した場面では和歌を詠み、風景や行き交う人々を適格に描写しつつ、その簡潔な文章には、この歳になってここまでやって来た強き母の信念のような物がうかがえると言います。

鎌倉に到着した阿仏尼は、極楽寺(ごくらくじ)の近くの月影ヶ谷(つきかげがやつ)の庵に滞在し、近隣の人々との交流もあり、日記も、もう少しだけ続いて鎌倉での生活の一部も書かれています。

その後、少し北東方向の亀ヶ谷(かめがやつ)に引っ越した後も、本来の目的である訴訟に尽力する一方で、地元の文化人らと交流して和歌や古典を関東に広めていた阿仏尼でしたが、

残念ながら遺産紛争の結果を見ないまま、弘安六年(1283年)4月8日 、鎌倉にて、この世を去る事になります。
(京都に戻って亡くなった説もあり)

訴訟の結果が出るのは、阿仏尼が亡くなってから30年後の事・・・見事、勝訴を勝ち取り、それは、この後の冷泉家の礎を築きました。

しかし、この、息子の訴訟のために老体に鞭打って女性が鎌倉まで出張った事には、後々、賛否両論が渦巻きます。

ある時は、息子の権利のために戦った賢女と言われ、
ある時は、出しゃばり過ぎのはしたない悪女と言われ、

その時代々々によって様々に語られる事に・・・

ただ・・・
紀行文の名作とされる十六夜日記は時空を超えて読み継がれているのですから、彼女の賢女or悪女論争が時空を超えて語り継がれたとて、そんな事は、阿仏尼にとって優れた文化人であるが故の有名税・・・くらいな物なのかも知れません。
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2023年4月 1日 (土)

田野城の戦い~羽石盛長と水谷蟠龍斎の一騎打ち

 

天正十三年(1585年)4月1日、結城晴朝に反旗を翻した羽石盛長田野城を水谷蟠龍斎が攻め落としました。

・・・・・・・・・

 永禄三年(1560年)に羽石時政(はねいしときまさ)によって築城されたと伝わる田野城(たのじょう=栃木県芳賀郡益子町)は、関東平野を北から南へと流れる小貝川(こかいがわ)下野(しもつけ=栃木県)付近の東岸台地の先端あたりにあった平城で、今も残る普門寺(ふもんじ)の南西に広がる複郭を持つ城でした。

やがて、戦国も天正に入る頃には、中央&西では織田信長(おだのぶなが)横死(「本能寺の変」参照>>)の後を継ぐように台頭して来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、かの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(「小牧長久手・講和」参照>>)で、敵に回った紀州(きしゅう=和歌山県)勢相手に、まさに天下への道を進み始めていました(「紀州征伐」参照>>)

関東では、未だ混沌とした時代・・・

もちろん、一歩飛び抜けているのは、北条早雲(ほうじょうそううん)に始まる、あの北条氏(「北条・五代の年表」参照>>)ですが、一方でまだ群雄割拠する場所でもあり、下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部など)結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)城主の結城晴朝(ゆうきはるとも)などは、

Yuukiharutomo600a 宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)宇都宮国綱(うつのみやくにつな)の弟=朝勝(ともかつ)を後継ぎとして養子に迎えたり、妹を常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)配下に嫁がせたりと、周辺諸将との間に婚姻関係や同盟関係を結んで、何とか北条に対抗しようとしていたのでした。

そんなこんなの天正十三年(1585年)、結城晴朝傘下だった田野城の時の城主=羽石盛長(もりなが)が、笠間綱家(かさまつないえ)の支援を受けて、晴朝に反旗をひるがえして来たのです。

笠間綱家の笠間氏は宇都宮氏の庶流の一族で、代々笠間城(かさまじょう=茨城県笠間市)周辺を領していたものの、ここのところ宇都宮&結城&佐竹の連合仲間たちとモメて離反状態にあったのです。

この一報を知った結城晴朝は、早速、同年3月20日、家臣の水谷蟠龍斎(みずのやはんりゅうさい)を城に呼び寄せ、羽石追討を命じます。

この水谷蟠龍斎は、元の名を水谷正村(まさむら=政村とも)と言い、剃髪して蟠龍斎と号し、すでに60歳近い=この時代なら老人の部類に入るかも知れないお年頃ですが、父の代からの生粋の結城派で、結城四天王の一人に数えられる猛将・・・晴朝が最も信頼する家臣だったのです。

「羽石は曲者らしいから、気をつけて…」
との言葉を受けて、入念に戦闘準備を整えた蟠龍斎は、3月27日夜に密かに出陣し、未だ夜が明けきらぬ翌3月28日の寅の刻(午前4時頃?)、いきなりの(とき)の声を挙げ、田野城への威嚇を開始したのです。

この時、未だ準備途中だった田野城内は大騒ぎに・・・

そんな中、
「早々に決着をつけねば、笠間の援軍がやって来るかも…」
の知らせを受けた現地=水谷蟠龍斎は、将兵に檄を飛ばして一気に攻め立てました。

しかし、さすがに羽石も名だたる武将の一人・・・懸命に防戦しているところに約3千ばかりの笠間の援軍がやって来ます。

この一報を受けて、結城晴朝も選りすぐりの200騎を現地に派遣。。。と、同時に、笠間と敵対する益子重綱(ましこしげつな)(または益子家宗だったかも)の軍勢も蟠龍斎の救援に駆け付けてくれました。

それでもまだ、数の上では多勢に無勢だった水谷蟠龍斎ですが、やって来た援軍に対し
「加勢に来てもろて、ホンマありがたいですが、敵は、数は多くても、皆、臆病者ですわ。
俺は、戦いとは数の多少やなくて、武将一人一人の心意気や思てますよって、
皆さんは向いの山に登って、見物しててください。

ほんで、もし笠間の新手が加勢にやって来たら、ソイツらをお願いします。
城のヤツらは、俺らに任せてください。

万が一、ヤバイって思たら、この団扇を振りまっさかいに、その時は、一気に攻撃お願いします」

と高らかに言い放って、父子ともども蟠龍斎勢が、一斉に城内に攻め込み、瞬く間に複数の木戸を破って城内に突っ込んで行くと、

その鬼のような攻撃に恐れをなした羽石側は、あれよあれよという間に、向かって来る者より、その場から逃げる者の方が多いという状況になってしまいました。

そんな戦いが、三日三晩続いた事で、3千いた羽石の兵は、わずか300までに・・・

やがて、攻撃開始から4日目。。。

「もはや!これまで」
を悟った羽石盛長は、蟠龍斎に向かって、
「おそらくは、これが最後の戦いになると思う。
けど、端武者(はむしゃ=とるに足らぬ武者・雑兵)の手にかかって首を取られたら無間地獄(むけんじごく=極限の苦しみを受ける地獄)に落ちると聞く。
願わくば隠れなき弓取りと謳われる蟠龍斎殿の手にかかり、極楽世界に向かいたい」
蟠龍斎との一騎打ちを所望して来ます。

その羽石盛長の覚悟を聞いた蟠龍斎・・・
「そのお気持ち察します。ならば、閻魔(えんま)に訴えられるよう正々堂々勝負しましょーや」
勝負を快諾します。

かくして互いに静かに馬を近づけ、両者、自慢の槍で以って、追いつき、交わし、また合わせ…と、約半時(約1時間)ほど、互いの運命を賭けて戦い抜きましたが、やはり老いたとは言え、蟠龍斎は結城四天王の一人・・・

やがて羽石盛長は力尽き天正十三年(1585年)4月1日未の刻(午後2時前後)蟠龍斎に討ち取られたのでした。

敵兵には、主君に続いて自害する者もいれば、何処へともなく逃げる者もいましたが、蟠龍斎は周辺6ヶ所に追撃隊をかける一方で、自身は羽石盛長の首をもって結城晴朝のもとへ・・・

 晴朝は大いに喜び、この田野城を蟠龍斎に与えますが、田野を治める事になった蟠龍斎が、今回の戦いで死傷した者たちの家族に兵糧を与え、自らのポケットマネーによって死者を弔ったりした事から、

味方はもちろん、田野城下の百姓たちも大いに感謝し、この後、蟠龍斎が合戦に出陣する時には、百姓や草履取りまでもが、進んで加勢したのだとか・・・

やがて、ご存知のように、天正十八年(1590年)3月からの豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)によって北条が滅び、

徳川家康に関八州(かんはっしゅう=関東の八か国=相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸)が与えられ(7月13日参照>>)関東の諸将たちの立ち位置も大きく変わりますが、

豊臣政権下での水谷蟠龍斎は、結城から独立した大名とみなされ、その領地は、後の下館藩(しもだてはん=茨城県筑西市)の基礎となりました。

水谷蟠龍斎自身は  慶長三年(1598年)6月20日70歳半ばで亡くなりますが、

自らの息子=秀康(ひでやす)を晴朝の養子にして結城を継がせた家康も、水谷蟠龍斎に関しては、
「その功名、関東に隠れなし」
と、その武勇を評価したと言いますから、水谷蟠龍斎という武将が、いかに大物だったかがうかがい知れますね。
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