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2023年4月21日 (金)

松永久秀の大和侵攻~筒井順慶の美濃庄城攻防戦

 

永禄九年(1566年)4月21日、筒井順慶の攻撃を受けていた美濃庄城が陥落した知らせを受け、援軍に向かっていた松永久秀が撤退を開始しました。

・・・・・・・・・

国衆が群雄割拠する戦国の大和(やまと=奈良県)にて、その大半を治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)(9月25日参照>>)の死を受けて、わずか2歳で後継者となった息子の筒井順慶(じゅんけい)は、一族や宿老に守られながら、更なる勢力拡大を狙っていました(9月21日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)に、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第14代室町幕府将軍)とも和睦して京都周辺を制圧し、事実上のトップとなった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)。。。(6月9日参照>>)

Matunagahisahide600atb その三好の配下である松永久秀(まつながひさひで)が、未だ三好勢手つかずだった大和に侵攻して来たのは永禄二年(1559年)の事でした。

侵攻後、ほどなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していき(7月24日参照>>)

永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、今度はここを拠点として更なる大和攻略をすすめる久秀。。。

しかし、その一方で松永久秀の主家である三好家が、病気がちになった長慶をはじめとする弟たちが次々に死亡(5月9日参照>>)・・・やむなく三好家では一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、長慶の甥である三好義継(よしつぐ)を当主に迎える中で、

三人衆は、永禄八年(1565年)5月に足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)新将軍に擁立しようとするのです。 

どうやら、このあたりで、松永久秀は三好との縁を切ったようで・・・

Tutuizyunkei600a この暗殺劇から半年後の永禄八年(1565年)11月16日、久秀の大和侵攻を抑えたい筒井順慶は三好三人衆と同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃します。 

これに即座に反応した松永久秀は、2日後の18日に、すぐさま順慶の本拠である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲・・・順慶はやむなく筒井方の布施(ふせ)の居城である布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと落ちていったのです(11月18日参照>>)

しかし順慶もさるもの・・・

これは、あくまで余力を残しての撤退で、案の定、1週間後の11月26日、これまたすぐに、ここに来て松永久秀になびいていた大和国衆=高田当次郎(たかだとうじろう)の大和高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)筒井&布施連合軍が攻撃・・・しかし高田城はなかなか落ちず、ここは長きに渡る籠城戦に入る事になります(11月26日参照>>)

その間の12月26日には、松永久秀が、三好三人衆が布陣している西ノ京(にしのきょう=奈良県奈良市西ノ京町)周辺を襲撃し、三人衆らを退散させています。

この時の筒井順慶には、配下の井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)に預けた手勢が未だ2000ほど残っておりましたが、結局は、松永勢にやられっぱなし状態で、筒井も三好も久秀に圧倒されるばかりだったのです。

この状況に、勢いに乗った松永久秀は、年が明けた永禄九年(1566年)正月4日、筒井配下の美濃庄(みのしょう)が守る美濃庄城(みのしょうじょう=奈良県大和郡山市美濃庄町)に攻撃を仕掛けたのです。

美濃庄氏は、興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の衆徒だった頃から筒井に臣従していた一派ですが、この頃の美濃庄城は、独立した…というよりは筒井城の支城(しじょう=本城を守る補助的な出城)のような役割を果たしていました。

何とか迎撃する美濃庄城の城兵でしたが、松永久秀自らが兵を率いての猛攻であった事もあり、残念ながら筒井勢は守り切れずに敗退・・・この時は城兵のほとんどが逃亡しました。

美濃庄城を陥落させた久秀は、ここに補強の軍兵を入れ、自身は本拠の多聞山城へと帰還して行きました。

その後、その年の4月に入ってからは、三好三人衆が久秀の多聞山城をけん制したり、三人衆&筒井連合軍が西ノ京をはじめとする奈良周辺へ押し寄せて気勢をあげるデモンストレーションを行って松永久秀を徴発しましたが、久秀は、それに乗っかる事無く、、、

さらに4月13日には、ここの最近、松永配下として息を吹き返した古市(ふるいち=古市澄胤参照>>の本拠である古市郷(ふるいちごう=奈良県奈良市古市町)を焼き払い、
「これでもか!」
と、筒井&三好は、さらに久秀を徴発・・・

それでも乗って来ない事を見切った筒井順慶が、ここに来て、守りの兵だけになっていた美濃庄城を攻めたのです。

実は・・・この頃、
上記の通り、古市や大和高田城をはじめ、戦場となってる場所は一ヶ所ではありません。

この少し前は、(さかい=大阪府堺市)上芝(うえのしば=堺市上野芝町付近)でも、三好&筒井連合軍と松永久秀は戦っており、そこでは手痛い負けを喰らっていたのです。

つまり、徴発されても、すぐには動けなかったわけで・・・

で、結局、多聞山城からの援軍が期待できずに孤立してしまった美濃庄城は、ついに降伏・・・筒井順慶に城を開け渡したのでした。

しかし、それを知らぬ松永勢は、この頃、ようやく木辻(きつじ=奈良県奈良市木辻町)までやって来ていましたが、美濃庄城の落城を知った永禄九年(1566年)4月21日、やむなく松永久秀は、救援を諦めて多聞山城へと引き返して行き、美濃庄城攻防戦は終結したのでした。

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美濃庄城攻防の位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

開始以来、怒涛の勢いで突き進んでした久秀の大和侵攻・・・

しかし、筒井順慶は、この美濃庄城の奪取で、ようやく一矢を報いた形となり、6月8日には、本拠の筒井城を奪回しています。

そして、
この翌年には、あの奈良の大仏を焼いちゃう事になる戦いに向かって行く事になりますが、そのお話は「大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井」のページ>>でどうぞm(_ _)m
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コメント

「麒麟がくる」でこのあたりの抗争を取り挙げていましたね。
松永久秀は今回の大河ドラマにも出るかな?
さて、今日は姉川の戦いの回ですね。
姉川の戦いが大河ドラマである程度の時間を割いて、取り上げられるとなると12年ぶりですね。

投稿: えびすこ | 2023年4月23日 (日) 13時13分

えびすこさん、こんばんは~

「どう家」での戦いは「なんやかんや」で終わりましたね~

金ヶ崎で朝倉義景が出ないんですから、松永久秀は出ないんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2023年4月24日 (月) 02時07分

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