足利尊氏亡き室町幕府~第2代将軍・足利義詮の治世とは?
正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍の足利尊氏が、54歳でこの世を去った日ですが、今回は、その死を受けて第2代将軍となる足利義詮の治世について…
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足利義詮(あしかがよしあきら)が、宣下を受けて正式に第2代室町幕府将軍となるのは、この年の12月の事ではありますが、父の尊氏(たかうじ)が亡くなっている以上、その後継者としての責務は、死後すぐに発生するわけで・・・。
父の尊氏は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)、その後の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)などて対立して、鎌倉にて挙兵・・・一旦は九州へ逃れるものの(3月2日参照>>)、再起して京都を制し(6月30日参照>>)、その京都で新たな幕府=室町幕府を樹立(11月7日参照>>)。。。
一方、敗れた後醍醐天皇は吉野(よしの=奈良県)にて南朝を立ち上げ(12月21日参照>>)、世は南北朝の動乱に突入しました。
南朝方との戦いは概ね有利に進め、弟=足利直義(ただよし)との兄弟対立(観応の擾乱=10月26日参照>>)という危機も乗り越え、室町幕府という新たな時代を切り開いた尊氏は、偉大な将軍でありましたが、一方で、かの後醍醐天皇が崩御(8月16日参照>>)しても、結局は南朝との戦いには決着がつかないまま、正平十三年・延文三年(1358年)4月30日、その死を迎える事になったわけです(2012年4月30日参照>>)。
とは言え、後を継ぐ息子=足利義詮は、すでに29歳の男盛り・・・ 4歳の頃から父の名代として鎌倉の主となり(1月8日参照>>)、20歳の頃には上京してともに合戦にも参戦し、逆に父が都を留守にする時は、京都にて幕府を守る大役もこなしていた経験豊富な後継者でした。
●八幡合戦>>
●神南合戦>>
●東寺合戦>>
しかしながら、新将軍=義詮の前途は、なかなかに多難だったのです。
…というのも、先の南朝とのアレコレもさることながら、義詮の周りには、カリスマ父とともに戦火を潜り抜けて来た老臣がウジャウジャ・・・彼らを引き立てつつも、自らの将軍としての威厳と地位を保って行かねばならないわけです。
まず、これまでは将軍の右腕というべき執事(しつじ=後には管領とも:将軍の補佐役)についていたのは仁木頼章(にっきよりあき)でしたが尊氏の死をキッカケに出家して第一線から退いてしまいました。
そこで義詮は、新たな執事を任命する事になるのですが、かつて父の尊氏と弟=直義の内部分裂の時でも、一貫して尊氏に味方してくれた足利一門の三人が有力候補に・・・
上記の仁木頼章の弟=仁木義長(よしなが)か、
関東にいる畠山国清(はたけやまくにきよ) か、
重臣筆頭の細川和氏(ほそかわかずうじか)か、
…で、結局、義詮は、細川和氏の息子で、一時は尊氏とモメて阿波(あわ=徳島県)に逃れていた細川清氏(きようじ)を呼び戻して執事に抜擢したのでした。
とは言え、まだまだ新将軍=足利義詮の周りは問題山積みで落ち着きません。
なんせ、九州では懐良親王(かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)の南朝勢力が健在で(8月6日参照>>)、都とは一線を引く独立国家の様相を呈して来ていましたし、幕府の中心には、足利一門ではない外様の武将たちが食い込んでいましたから・・・
西国の大内(おおうち)や山名(やまな)、美濃(みの=岐阜県南部)の土岐(とき)に播磨(はりま=兵庫県南西部)の赤松(あかまつ)・・・
いずれも、鎌倉討幕時代から尊氏に従った大名たちの家柄で、なんなら最初の最初っからともに戦った佐々木道誉(ささきどうよ=高氏)なんかは、すでに62歳になった今でも、精力的に政務に関わる長老として大きな発言力を持っていましたから、
義詮は、そのあたりのオジサマたちに、かなり気をつかいながらの将軍職だったかも知れません。
そんな中で行われた新将軍としての一大事業が、正平十四年・延文四年(1359年)12月から翌年にかけての『足利義詮の南征』でした(くわしくは12月23日参照>>)。
わざわざ関東の畠山国清を呼び寄せ、未だくすぶっている南朝方を叩きのめそうと決行された将軍自らの行軍で、南朝が拠点とする赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)を陥落させる事に成功して、一応の終結を見ますが、
その一方で、軍を出しながらも淀川を越える事が無かった仁木義長に
「日和見をしていたのでは?」
という諸将の不満が爆発し、諸将からの攻撃を恐れた仁木義長は伊勢へ逃亡・・・翌正平十六年・康安元年(1361年)、南朝に降る事になります。
こうして仁木義長失脚の後は、細川清氏が幕府内の一強となったわけですが、それがあまりに目に余る事態となったのか?徐々に足利義詮と細川清氏に溝が生じるように・・・
やがて清氏の謀反を疑うようになった義詮を恐れて、清氏は領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去し、彼もまた南朝の一員となったのでした(9月23日参照>>)。
仁木追い落としから、わずか1年余りの事でした。
しかも、南朝に降った細川清氏は
「1日で京都を攻略してみせまっせ!」
といきまいて、兵を率いて北上・・・これを知った義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう=北朝4代)を伴ってあっさりと近江(おうみ=滋賀県)に逃れ、この年の12月に京都は南朝が制圧する事になりました(12月7日参照>>)。
「将軍…弱っ!」
って、思っちゃいますが、
実は、このブログでも度々お話しているように、京都という町はメチャメチャ守り難いのです。
多くの兵法書で必ず、高地に陣を置いて駆け下って攻撃するよう説いているように、山に囲まれた盆地となっている京都は、敵からの攻撃を受けやすいのです。。。
なので、攻撃を受けたら、一旦退いて、態勢を整えて奪回するのが得策なのです。
もちろん、それは、今回制圧した南朝も同じ事・・・案の定、20日後の12月27日、北朝軍に囲まれた南朝側は、これまたあっさりと京都捨てて退散し、都は再び、将軍=足利義詮の物となったのです。
こうして…
南朝を都から排除し、かの細川清氏も逃亡先の讃岐(さぬき=香川県)で死に追いやった事から、都はしばしの平和を迎える事になりましたが、やはり細川清氏の抹殺は後味の悪い物で、彼の死後には怨霊騒ぎが頻繁に起こるようになったとか・・・
とは言え、ここに来て、かつて観応の擾乱以来、尊氏と対立した弟の直義の遺児(尊氏の子で直義の養子)=足利直冬(ただふゆ)も姿を消し、直冬とつるんでいた山名時氏(やまなときうじ)が幕府に投降・・・
不穏な動きを見せていた大内弘世(おおうちひろよ)も幕府に帰順し、あの仁木義長も義詮に詫びを入れて幕府に帰服。。。
「一旦楯突いた者を、気にせずに再び登用する」
というのは、義詮の懐の深さと、力のある者を実用するという現実主義のなせるワザなのかも知れませんが・・・
とにもかくにも、一旦は、幕府内は穏やかとなり、空席となっていた執事の座には斯波義将(しばよしゆき)が任命される事に・・・とは言え、義将は、未だ13歳の少年で、
事実上は、幕府創建以来の重臣である斯波高経(たかつね=足利尾張家)が牛耳っていたわけですが、
ここで、これまた新たな問題が・・・それは、近隣の宗教勢力でした。
延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の衆徒が六角氏頼(ろっかくうじより=佐々木氏)の狼藉を訴えるべく神輿(みこし)を担いで洛中をデモして回ったり、
「夢のお告げがあった」
と言って佐々木道誉の邸宅に押し寄せたり、
また、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐ=京都府八幡市)の神官が、祇園社(ぎおんしゃ=京都市:八坂神社)とモメて殴り込みかけたり…
など、ここに来て、宗教勢力による強訴(ごうそ=仏神の権威と武力を使った強引な訴えや要求)が続々と決行されたのです。
その中の一つが春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)の訴え・・・
越前(えちぜん=福井県東部)にあった春日大社の所領を
「斯波高経が横領した」
と訴えて御神木を担いで京都入りし、その御神木を六波羅(ろくはら=京都市東山区)に鎮座させ、
「処罰が下されるまで退き下がらんぞ」
と息巻きます。
春日大社は、あの藤原(ふじわら)一族の氏神様ですから、朝廷では藤原一族の公卿らがストライキを起こして、もはや政務も滞るあり様・・・
…で結局、斯波高経は、正平二十一年・貞治五年(1366年)の8月9日に、自宅に火を放って、父子ともども越前へ逃亡・・・斯波氏も失脚する事になります。
これで、またまた執事不在の状態となったわけですが、今度の義詮は、執事を置く事無く政務を開始するのです。
父の尊氏が亡くなって8年・・・自身も38歳になった義詮は、ようやく年配の重臣たちに気兼ねすることなく、自身の思うように政治を行える立場を得たとばかりに、あえて執事を置かなかったのです。
翌正平二十二年・貞治六年(1367年)の2月には、海の向こうの高麗(こうらい=朝鮮半島に存在した国家)から、
「倭寇(わこう=日本の海賊)を取り締まってほしい」
との牒状(ちょうじょう=皆で回覧する書状)を持った使者が、日本を訪れるのですが、
その書状の宛名が「皇帝」でも「天皇」でも「天子」でもなく、「国主(和王か国王だったとも)」だった事に憤慨した朝廷は、
「そもそも倭寇の本拠地は九州で、その九州の事なんか俺らの知らん(上記の通り南朝が牛耳ってるので)やんけ」
と返事を出さない事を決定したのですが、
決定はしたものの、やって来た使者に、その事を伝えられず、奈良見物をさせて時間稼ぎをしていたところ、
ウジウジしている朝廷に代って、
義詮が、自らの名で返書を書き、高麗の使者たちを思いっきり接待して、金銀財宝を手土産にして、ご機嫌に帰国をさせて、事なきを得たという一件もありました。
そして…
そんな1ヶ月後の3月29日には、宮中は清涼殿(せいりょうでん=内裏にある殿舎)にて中殿御会(ちゅうでんごかい)という和歌の会が開かれます。
これは、一人前の将軍として自らの治世に平和をもたらした事を確信して、義詮自らが発案した自分へのご褒美・・・
もちろん、この平和の到来には天皇や公家たちも大喜びで、義詮の提案に賛成して、会は盛大な物になりました。
関白(かんぱく=天皇を補助する重職)以下、重責を担う公卿(くぎょう=太政官の最高幹部)が居並ぶ中、大勢の配下を連れて清涼殿に登場した義詮は、その公卿たちの列には入らず、天皇の前に進み出て、その対の位置に座します。
天皇に敬意は表するものの、公卿たちとは同列ではない特別な立場を見せつけました。
しかも、会の直前に、この日の御製(ぎょせい=天皇自らが書いた文書・歌)を詠みあげる役を、準備段階で決まっていた天皇が指名した御子左為遠(みこひだり ためとお)から、
自らの歌の師匠である冷泉為秀(れいぜいためひで)に変更させるという強気満々・・・まさに義詮は、第2代将軍として絶頂期を迎えたのでした。
しかし…
残念ながら義詮の絶頂は、このあたりまで・・・
この年の11月に体調を崩した義詮は、細川頼之(ほそかわよりゆき)を執事に任命し、側室の紀良子(きのりょうし)が産んだ、わずか10歳の嫡男を、この細川頼之に託したかと思うと、1ヶ月も経たない12月7日、この世を去ったのです。
わずか9年の治世でした。
この、後継者となった10歳の嫡男が、足利を全盛期へと導く事になる第3代将軍=足利義満(よしみつ)です(12月30日参照>>)。
父の尊氏さんが有名で、息子の義満さんも有名人・・・
挟まれた形で、何となく目立たない義詮さんですが、なかなかに頑張ってバトンを渡したように思いますね。
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