【平安京ニュース】見物場所の取り合いが壮絶~万寿四年の賀茂祭
万寿四年(1027年)4月15日、この日開催された賀茂祭の運営責任者である藤原行成と、祭見物に来た藤原為資の牛車が場所の取り合いでモメました。
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「賀茂祭(かもまつり)」とは、京都にある賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)と賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)の例祭であり、平安時代から国家的行事として行われて来たお祭で、有名な『源氏物語』にも登場します。
動乱の世で一時的に中断されますが、以前、書かせていただいたように、江戸時代の元禄七年(1694年)に德川幕府がスポンサーについてからは、その名称を「葵祭(あおいまつり)」と変えて(8月30日参照>>)、現在に至っています。
現在では5月1日の競馬会にはじまり、5月15日の王朝行列が最も人気ですが(くわしくは本家「京阪奈ぶらり歴史散歩」の歳時記ページで>>)、当然の事ながら、もともとのお祭りは、ちと雰囲気が違います。
そもそもは、国内の風雨が激しく、荒天続きのために作物が実らなかった原因を占ってみると、
「賀茂の神々の祟りであ~る」
と占い師が言った事から、4月の吉日に祭を行ったところ、好天に恵まれて五穀豊穣となった事から慣例になったお祭りとされ、
毎年、四月(陰暦)のうちの酉の日に、
「祭やるぞ~~」
との天皇の命を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が神社に向かう←この行列が、平安時代に大人気となり、それを見物しようという人々が、押し寄せて来ていたわけです。
そんなこんなの万寿四年(1027年)4月15日の賀茂祭・・・ この時、祭の総指揮を任されたのが、権大納言(ごんのだいなごん)=藤原行成(ふじわらのゆきなり)・・・御年57歳でした。
この行成さんは、
小野道風(おののみちかぜ)(12月27日参照>>)&藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟(さんせき)の一人に数えられる書家で、その時は行成=コウゼイあるいはギョウセイと呼ばれたりします。
しかし、そんな行成さん・・・今年に入って体の調子が悪い。。。
なんたって、平安時代の57歳ですからね~左手が動かしヅラくなって、もはや馬にも乗れない状態だったところが、
ここに来て、上記の賀茂祭運営スタッフ総責任者に選ばれちゃったもんだから、祭の1ヶ月前には、
「禁忌(一定期間にやってはいけない事)に触れるかも」
と周りの目にビビリしつつお灸をして、なんとかしのいで祭当日を迎える事ができたのでした。
早速、朝から大路の一隅に牛車(ぎっしゃ)を据えて、通り過ぎる行列を監督する事にしたのですが、、、
なんと、直前になって、その視界を遮るように、どど~~ん!と目の前に1台の牛車が・・・しかも、かなりの数の従者を従えている。
どうやら、牛車の主は、単に見物に絶好だと睨んだその場所で見物しようと思ったようですが、そんな事されたら、当然、行成は責任者の総仕上げでである「行列の監督」という業務をできなくなるわけで、
そこで行成は、牛車の主に自身の業務の内容を伝え、速やかに立ち退いてくれるよう促したのです。
ところが、その牛車&団体は、行成の意向を完全無視!
まぁ、従者の数が多い…って事は、それだけ牛車内の主がエライ人だったって事なのかも知れませんが・・・
しかも、ただ無視しているだけならまだしも、いつしか件の横入り牛車の従者が行成の従者に暴言を吐き、悪口を言い出したうえ、着物を略奪するなどの暴力を振るい始め、最終的に刀を抜いた・・・と、
総監督の面目丸つぶれとなった行成が、その牛車の主を尋ねてみたところ、なんと、権大納言・藤原頼宗(よりむね)の執事(しつじ)=藤原為資(ためすけ)である事がわかります。
確かに、藤原頼宗は、行成と同じ権大納言とは言え、今を時めく御堂関白(みどうかんぱく)の藤原道長(みちなが)の息子(次男)ですが、
★藤原道長・家系図→
(クリックで大きく)
件の牛車の主は、本人ではなく、その執事ですから・・・
虎の威を借る狐どころか、虎の子の威を借る狐。
従者の多さ」にちょっとは気をつかっていたのに、蓋を開ければ、完全に下のヤツにナメられてたわけで・・・これじゃ、責任者の面目丸つぶれが、更なる丸つぶれ・・・
しかし、それに対して、同じ暴力で対抗したなら、それこそ運営責任者の名がすたる~
行成ともあろうお方が低次元のヤツと同じレベルに落ちる必要はありません。。。
そこは大人の対応をしなければ!・・・と、行成は、応戦しようとるす自らの従者たちをなだめすかして、その間に、頼宗の兄であり、父=道長から関白の座を受け継いだ藤原頼通(よりみち=道長の長男)に連絡を取ります。
知らせを聞いた頼通は、慌てて自らの従者を現地に派遣して、なんとか事を治めようとしますが、主人がア●なら従者も●ホなのか?
なんと為資の従者たちは、頼通の従者にも暴力を奮う始末・・・
結局、運営責任者として事を無難に治め、祭の無事開催を願う行成は、とにかく、騒ぎを大きくせず済ます事を優先せざるを得ず、メンツ丸つぶれになりながらも、自身が退き下がるしかなかったようです。
もう・・・まさに、無理が通れば道理が引っ込む…行成がお気の毒な限りです。
ちなみに、この同じ日・・・
やはり、賀茂祭を見物しようと、弟を連れ立って牛車に乗り、いそいそと出かけた大納言・藤原斉信(ただのぶ=道長の弟の息子)が、中納言・源師房(みなもとのもろふさ)の邸宅前を通った時に、そこにいた従者たちから石を投げられる…という事件も起きており、
もう~、楽しい祭の日に、平安貴族は何やってんだ!? って感じですよね~
ま、この後者の事件も、
「その家の前にいたからといって、その邸宅に務める従者かどうかわからない」
って事で、結局、ウヤムヤになってるんですけどね。。。
ま、令和の今でも、場所の取り合いでモメてる人、たまに見かけますが、刀まで抜いたり石投げたりして罰せられない=ウヤムヤになるという、、、やったもん勝ちの平安時代って、ある意味スゴイですよね~
来年の大河ドラマの「光る君へ」が楽しみだワww
★関連【平安京ニュース】
●藤原能信の牛車暴行事件>>
●藤原兼隆の下女襲撃事件>>
●藤原頼行の従者殺害事件>>
●大江至孝の強姦未遂~の殺人>>
●藤原兼房の酒乱大暴れ事件>>
●源政職殺人事件>>
●藤原兄弟の家屋破壊事件>>
●藤原兼経の立て籠り事件>>
●藤原頼通の暴行事件>>
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