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2023年5月28日 (日)

三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い

 

享禄二年(1529年)5月28日、松平清康が攻撃した吉田城が陥落し、牧野信成が討死しました。
(天文元年(1532年)5月28日説もあり)

・・・・・・・・・・

隣国である三河(みかわ=愛知県中東部)を警戒する目的で、駿河(するが=静岡県中東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川氏親(いまがわうじちか)の命により永正二年(1505年)に築城されたという吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)は、もとの名を今橋城(いまはしじょう)と言い、

築城後まもなくの永正三年(1506年)に一旦奪われた物を、大永年間(1521年~28年)の初めに亡き父牧野古白=↑の戦いで討死)の後を継いだ牧野信成(まきののぶしげ)が奪回して、

大永二年(1522年)に、その名を吉田城に改めたと言います。

もちろん、城の名前は変わっても城主は牧野信成・・・

そこにやって来たのが、三河統一を目指す岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)松平清康(まつだいらきよやす)でした。

Matudairakiyoyasu700a この頃、すでに西三河の実質的な支配権を握っていた松平清康は、かつての三河支配者だった三河吉良氏(きらし=清和源氏:足利の流れ)に対抗すべく、

自身も、清和源氏のひとつである新田氏(にったし=八幡太郎義家の子孫)の一門である徳川氏(とくがわし)の末裔であると主張し、

その庶流である世良田(せらた)姓に改名して世良田次郎三郎(せらたじろうさぶろう)と名乗るようになり、
(これ↑が後に、清康の孫が松平元康から徳川家康に改名する根拠となっています=5月12日参照>>
東三河への侵攻を考えたのです。

かくして享禄二年(1529年)5月27日(冒頭に書いた通り天文元年(1532年)説もあり)
松平清康は吉田城を攻めるべく岡崎城を出陣しました。

その日のうちに赤坂(あかさか=愛知県豊川市)までやって来た松平軍は、そこに陣を張り一泊・・・

翌28日に小坂井(こざかい=同豊川市)に旗を立てて周辺に放火して回り、ここに事実上の開戦となりました。

とは言え、この戦いは、降ってわいた唐突な物ではなく、西三河を制した松平清康の様子を見て取っていた牧野信成側も、
「次は、ウチに来よるな…」
察知しており

「小国の三河を二人仲良く統治…てな事やってられへん!アイツか俺か」
「それやったら、先にコッチからヤッたろかい!」
とばかりに、一族の牧野成勝(しげかつ)伝次成高(でんじ?しげたか)らと一味徒党を結んで松平を攻める相談をしていたのですが、

それを聞きつけた松平清康が先手を取っての侵攻だったのです。

Yosidazyoumatudairakiyoyasu
●吉田城の戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして享禄二年(1529年)5月28日、吉田城の北を流れる豊川の北岸に布陣した松平軍・・・

対する牧野軍は、果敢にも籠城策を捨てて、撃って出る作戦・・・牧野信成以下一軍は船で豊川を渡って対岸にて布陣し、堤を挟んで両軍が対陣する形となります。

様子を伺う両者は、半日ほど、にらみ合いを続けたものの、やがて松平勢が前へと進み、戦闘が開始されます。

『今橋物語』によれば…
この時、大将である松平清康と、その右腕の松平信定(のぶさだ=清康の叔父)が、
「討死するは、この時なり!」
と言って、真っ先に敵陣に駆け込んて采配を振った事から、

これを見た松平勢が、
「大将を見殺しにするな~!」
と、怒涛の如く攻めかかったのだとか。。。

その勢いもあってか?
結局は、牧野信成をはじめとする一族&家臣=70余人が討たれ、多くの兵も失い、

ここに吉田城は落城し、当主を失った牧野氏は急速に衰える事となってしまい、

これは戸田城(とだじょう=愛知県田原市・田原城)作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城)など東三河の諸城が、ことごとく松平に降るキッカケとなりました。

そして、この勢いのまま、半年後の享禄二年(1529年)11月、松平清康は念願の三河統一を果たしたのです。

勢いづく清康は、年が明けた享禄三年(1530年)には隣国の尾張(おわり=愛知県西部)への侵攻を開始しますが、

その5年後の天文四年(1535年)、織田信光(おだのぶみつ=織田信長の叔父)守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻撃中の陣中にて、松平清康は家臣に斬殺されてしまいます。(【森山崩れ】参照>>)

大黒柱の死によって、一気に衰え始めた松平は、やがて駿河の今川義元(いまがわよしもと=氏親の息子)の支配下に置かれ、ご存知のように清康孫の徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代)が今川の人質となって(8月2日参照>>)今川に守ってもらわねばならない事になるわけですが・・・

一方、この松平清康の横死によって、一時、吉田城に城番だった一族の牧野成敏(しげとし)が入ったりするものの、結局は、今川の支配下に置かれる事になるのですが、

これまたご存知のように、今川義元の死をキッカケに岡崎城主となった徳川家康(5月19日参照>>)が奪い返し

永禄八年(1565年)には、德川四天王の一人=酒井忠次(さかいただつぐ)が、この吉田城に入って東三河を指揮する事になり、その後も吉田城は江戸時代を通じて東海道の重要な場所に位置する城として維新を迎える事になります。
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2023年5月21日 (日)

赤松正則の播磨奪回作戦~応仁の乱に合わせて

 

応仁元年(1467年)5月21日、大名に復帰した赤松正則が、応仁の乱の勃発に合わせて旧領の播磨を奪回しました。

・・・・・・・

赤松政則(あかまつまさのり)は、赤松家の8代当主で、あの嘉吉の乱(かきつのらん)を決行した赤松満祐(みつすけ)の弟=赤松義雅(よしまさ)にあたります。

ご存知のように、かの嘉吉の乱は、第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)(2016年6月24日参照>>)を自宅に招いて酒宴を催した赤松満祐が、出席者全員の目の前で、その将軍を騙し討ちしてしまう…という前代未聞の暗殺事件(2009年6月24日参照>>)。。。

事件後に、赤松満祐&赤松義雅ら一族が、自宅に火を放って逃亡した事で、細川持常(ほそかわもちつね)山名持豊(やまなもちとよ=宗全)らの幕府討伐軍が組織され、戦闘の末に、赤松満祐は一族69名とともに自害して果てました。

戦後の論功行賞にて、乱以前に赤松氏が所領していた播磨(はりま=兵庫県西南部)守護職は討伐戦で活躍した山名持豊に、
その播磨のうちの東三郡(明石・美嚢・印南)は赤松一族の中でも討伐軍に加わっていた赤松満政(みつまさ=大河内赤松家)に、
美作(みまさか=岡山県東北部)守護職は山名教清 (のりきよ)に、
備前(びぜん=岡山県東南部)山名教之(のりゆき)に・・・と、その遺領のほとんどが山名一族の物となりました。

ただ、上記の通り赤松満政が討伐軍に加わり、戦後に尽力してくれた事で、未だ9歳だった赤松義雅の息子(つまり政則の父)赤松時勝(ときかつ)の命は何とか助かり、建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)天隠龍沢(てんいんりゅうたく)の庇護を受け、近江(おうみ=滋賀県)の寺で養育される事になりました。

Akamatumasanori600 その後、赤松時勝は23歳の若さで死去してしまいますが、その死の前後に赤松政則が生まれ、彼もまた建仁寺にて育ちます。

そんなこんなで赤松政則は、その母が誰かもわからず、しかも、その母親も早くに亡くなってしまったようで・・・おそらくは、没落した家の者として孤独な幼児期を送ったと思われますが、

唯一の救いは、赤松家家臣の浦上則宗(うらがみのりむね)が、主家を見限る事無く、赤松政則と苦楽を共にして何かと世話してくれるとともに、赤松家再興の夢を捨てずにいてくれた事・・・

やがて赤松家復興のチャンスがやって来ます。

それは長禄元年(1457年)12月・・・かつて、南朝勢力の復興を訴える勢力=後南朝(4月12日の末尾参照>>)に奪われたままになっていた三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)旧赤松家の遺臣たちが奪い返したのです。

長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれるこの一件・・・実は、後南朝の本拠である吉野(よしの=奈良県)に攻め込む前に、すでに赤松の旧臣たちは、時の後花園天皇(ごはなぞのてんのう=102代)足利義政(よしまさ=8代将軍・足利義教の次男)から、
「神器奪回の暁には次郎法師丸(後の赤松政則)に赤松家の家督を継承させるとともに家の再興を認めてもらう」
という約束を取り付けていたのです。
(↑諸説ありますが、おそらく事前の約束があったであろうとの見方が有力です)

こうして、無事、神器が朝廷に変換された事を受けて、その勲功として、赤松政則を当主に迎えて再興された赤松家には加賀(かが=石川県南部)北半国の守護職と備前の新田(しんでん=岡山県倉敷市)伊勢(いせ=三重県中北部)高宮保(たかみやほ=三重県津市)が与えられる事になったのです。

この赤松の大名復帰と領地配分に尽力したのが、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)であった細川勝元(ほそかわかつもと)でした。

これには、かの嘉吉の乱での功績以来、その時に得た播磨をはじめ但馬(たじま=兵庫県北部)備後(びんご=広島県東部)安芸(あき=広島県西部)伊賀(いが=三重県西部)の守護職という、膨大な領地を手にし、絶大な力を得ていた山名持豊へのけん制の意味もあったとか・・・

そう・・・この10年後の応仁元年(1467年)に勃発するのが、あの応仁の乱(おうにんのらん)

将軍の後継者争い(義視×義尚)に、
畠山(はたけやま)の後継者争い(政長×義就)、と
斯波(しば)の後継者争い(義敏×義廉)

そこに、時の大物同士=細川勝元と山名持豊が味方し、

さらに、それぞれに後継者争いを抱える、あるいは自身が日頃つながりがある者に味方する全国の武将たちが東西に分かれて戦った大乱です。
(上記の名前の並びは、左=東軍で、右=西軍)

その前哨戦である応仁元年(1467年)1月17日の畠山同士の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)にて、
「他家の後継者争いには関与しない」
の姿勢で、仲良しの畠山政長(はたけやままさなが)援軍要請を断った細川勝元に対し、

対立する畠山義就(よしなり=政長とは従兄弟)には、ちゃっかりと仲良し山名の山名政豊(まさとよ=持豊の孫)関与していた(そして勝利した)事を知った細川勝元が、

応仁元年(1467年)5月20日、
「将軍様を戦火から守る」
として将軍=義政&日野富子(ひのとみこ)の住まう花の御所(はなのごしょ)を占拠して、そこを自身が率いる本陣とした事から(なので東軍)

ここに応仁の乱が勃発(5月20日参照>>)・・・なので上記の5月20日が、応仁の乱勃発の日とされます。

一方、機を逃がして御所を占拠されてしまった山名持豊は、やむなく、御所から500mほど西にある自身の邸宅に本陣を構え(なので西軍=西陣織で有名な西陣の地名の元)、戦闘態勢に入るのです。

さてさて、本日主役の赤松正則さん、
この時、未だ13歳の若さでしたが、上記の通り、立派な赤松家の当主。。。

当然、お家再興の時に力になってくれた細川勝元の東軍に・・・まして、西軍総大将の山名持豊は、かつての赤松家の所領=播磨の現在の守護なのですから、東軍に味方しない手はありません。

これまでも、家臣の浦上則宗ら赤松家の旧臣とともに、一揆の鎮圧などに参加しつつ、現守護に不満を持つ播磨の住人などを抱え込んだりして、水面下でこの機を狙っていたのです。

かくして応仁の乱が勃発する直前の5月10日、おそらく細川勝元の命を受けたであろう赤松正則は、密かに播磨に下向して旧一族に奮起を呼びかけたのです。

もちろん、現支配者は山名ですから、そこはすんなりとはいかなかったでしょうが、少なくとも、同族の宇野政秀(うのまさひで=赤松政秀)即座に決起したほか、旧主人に心を寄せる面々が次々と集結するのです。

それは
「本国ノ事ナレバ百姓土民ニ心ヲ合
 事故ナク国中ヲ手ニ入レケル」『重編応仁記』より)
と、破竹の勢いだった事がうかがえますが、

一方で、『備前軍記』では、
赤松政則は、自身の兵を二手に分け、播磨各地で山名の者を追い払って…
と、あちこちで戦闘があった模様も記録されています。

とは言え、やはり、その勢いは凄まじかった見え、開戦から11日後=京都での応仁の乱勃発の翌日である
応仁元年(1467年)5月21日、さほどの抵抗を受ける事無く、赤松正則は旧領の播磨を奪回したのでした。

ただし、上記の通り、本来応仁の乱の主戦場は京都・・・なので、赤松正則は主に京都にて東軍として従軍するため、

ここしばらくは旧勢力の抵抗に合い、この後も、数度に渡って山名勢の播磨侵入を許していますが、現地に残った宇野政秀や浦上一族の協力によって、この年の12月頃までには、完璧な奪回に成功したようです。

こうして播磨の地を奪回した赤松正則さん・・・
この後も、内紛や領地拡大に踏ん張りながら山名に打ち勝ち、かの細川勝元の娘さん=洞松院(とうしょういん=めし殿)を嫁にもらい、赤松家を再興した中興の英主と呼ばれる事になるのですが、

それらの活躍ぶりは、下記関連ページでご覧あれ
  ●応仁の乱~兵庫津の争奪戦>>
  ●赤松政則VS山名政豊>>
  ●福井小次郎の福岡合戦>>
  ●足利義材による六角征討>>
  ●真弓峠の戦い>>
  ●英賀坂本城の戦い>>
  ●洞松院と結婚>>
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2023年5月15日 (月)

白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む

 

天正十八年(1590年)5月15日、小田原征伐豊臣北陸隊=上杉景勝・前田利家・真田昌の攻撃を受けたいた長尾景広が、白井城を開城しました。

・・・・・・・・

白井城(しろいじょう=群馬県渋川市 )は、南北朝時代に、関東管領(かんとうかんれい=関東公方・足利家の補佐役)山内上杉氏(やまのうちうえすぎし=管領家)被官(ひかん=家臣)であった長尾景忠(ながおかげただ)によって築かれたとされる城で、

利根川(とねがわ)吾妻川(あずまがわ)の合流地点の北側から突き出たような台地に建ち、西の吾妻川に面した側は断崖絶壁、南や東は空堀に囲まれ北へと向かって城郭が並ぶ形となった堅固な城でした。

築城以来、長尾景忠の子孫の白井長尾家が代々城主を務めながら戦国を迎えていました。

永禄年間(1558年~1570年)には、一時、武田配下の真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)の攻撃を受けて城を奪われるものの、ほどなく奪回し、天正の頃には、白井長尾家を継ぐ長尾憲景(ながおのりかげ)が城主を務めています。

その後、憲景の息子の長尾輝景(てるかげ)が後を継ぎますが、天正十七年(1589年)、親北条派の重臣たちの支援を受けた弟の長尾景広(かげひろ)が、病気がちな兄を隠居に追い込んで、当主の座を奪取。。。

実は、この長尾景広は、10代前半頃の3年間を、北条氏との同盟の証として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)で過ごしており、その頃は、北条氏政(ほうじょううじまさ)から一字を貰って長尾政景(まさかげ)と名乗っていた時期もあった人です。

…で、北条派一色だった家臣団に推された形で、兄に代って白井長尾家当主となっていたわけです。

そんなこんなの天正十八年(1590年)・・・そう、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)です。

本能寺(ほんのうじ)に散った織田信長(おだのぶなが)の後を継ぐように台頭して来た秀吉が、天正十四年(1586)に、政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)(2月23日参照>>)京都に建てる一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)

さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)し、天下人へまっしぐら~だった中で発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)。。。

そんな中で、天正十七年(1589年)10月に、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田昌幸(まさゆき=幸隆の息子)名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)力づくで奪った(10月23日参照>>)行為が、

この「関東惣無事令』に違反する」として、秀吉にとっての最期の大物=北条氏を倒す事になる小田原征伐が開始されるのです。

合戦に先立って行われた天正十七年(1589年)12月10日の軍議によって(12月10日参照>>)、東海道を東に向かって攻め上る徳川家康(とくがわいえやす)隊と、秀吉本隊の計17万に対し、

途中で合流して、東山道から上野(こうずけ=群馬県)武蔵(むさし=ほぼ東京都)へと南下していくチームとなったのが、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)北陸前田利家(まえだとしいえ)信州にて独立大名になりたてだった真田昌幸…の計3万5千でした。

Odawaraseibatukougunsiroizyou
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:白井城版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

明けて天正十八年(1590年)の3月半ばに、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠(うすいとうげ=群馬県安中市&長野県北佐久郡)に集結した豊臣北陸隊の大軍は、

すぐさま松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)を囲みつつ、周辺の安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)などを陥落させて城を孤立させたうえ、

長期戦に持ち込んだ事で、城の守りを任されていた北条家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)も観念し、4月20日、松井田城は開城となりました(4月20日参照>>)

そして松井田城を落とした北陸隊が、次に向かったのが白井城でした。

城では、すでに1月28日の段階で、北条家の評定衆(ひょうじょうしゅう=政務機関)で上野の目付役であった垪和康忠(はがやすただ)白井城へと入り、垪和康忠の差配によって大量の鉄砲や玉薬などが搬入されていて、着々と防備を固めていたのです。

もちろん、城主の長尾景広も決死の防衛体制を敷き、必死の抵抗を試みます。

しかし、相手は3万を超える前田+上杉+真田の北陸隊・・・

渋川(しぶかわ=群馬県渋川市)周辺の家々をぶち壊し、その木材を材料に船を造った彼らは、吾妻川を押し渡って城の間際に迫ります

さらに、大砲を撃ち込んで白井城内の兵がひるんだ隙に、城の北側から火を放って城郭の北部分を焼き払い、城主の長尾景広に開城を迫りました。

多勢に無勢ながら決死の覚悟で約半月耐えた白井城でしたが、やがて北陸隊に城郭の北半分を占領された天正十八年(1590年)5月15日
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた長尾景広は、北陸隊総大将の前田利家に白井城を明け渡したのでした。

こうして、大名としての地位を失った長尾景広は、一旦は前田利家に仕えたものの、その後、兄とともに同族の上杉景勝(景勝は上田長尾家)に仕え、上杉配下として大坂の陣にも参戦したとか・・・

一方、このあと豊臣北陸隊は、
6月14日の鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)(6月14日参照>>)
6月23日の八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)へと続き、

ご存知のように、7月5日に本城である小田原城が陥落(7月5日参照>>)小田原征伐は終了します。

一方、長尾家による支配が終わった白井城には、小田原征伐終了後に、その恩賞として、秀吉から関東支配を任された家康(7月13日参照>>)の物となり、德川家臣である本多康重(ほんだやすしげ)が白井城に入る事になりますが、

その後も、目まぐるしく城主が代る中で、最終的に本多康重の後を継いだ次男の本多紀貞(のりさだ)でしたが、彼が後継ぎが無いまま死去したため、白井城は元和九年(1623年)に廃城となったと言います。
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2023年5月 8日 (月)

父ちゃんキライ!義満全否定の4代将軍~足利義持

 

応永十五年(1408年)5月8日、後小松天皇が、 2日前に亡くなった足利義満に「太上法皇の尊号を与える」と表明しました。

・・・・・・・・

応永十五年(1408年)5月6日、足利を日本第一の隆盛に押し上げた室町幕府第3代将軍=足利義満(あしかがよしみつ)51歳で死去しました。

Asikagayosimoti600a すでに応永元年(1394年)の9歳の時に将軍職を譲られていた義満の息子で第4代将軍の足利義持(よしもち)ではありましたが、カリスマ的父が健在の時には、できる事は形式的な事ばかり・・・

なので、父の急逝によって、ようやく自らの腕を揮う事になった若き将軍は、この時23歳。。。

管領(かんれい=将軍の補佐)斯波義将(しばよしゆき=義満の死後に管領に復帰)をはじめとする重臣たちに支えられながら、偉大な父の後を継ぐ事になります。 

そんな中、義満の死後2日目の応永15年(1408年)5月8日(9日とも)、時の後小松天皇(ごこまつてんのう=第100代)は亡き義満に太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようとします。

実はコレ・・・生前の義満が希望していた事。。。

ご存知のように、晩年の義満の力は絶大で、死の直前の応永15年(1408年)4月25日には、最愛の息子である足利義嗣(よしつぐ=義持の弟)親王の例にならって元服させ、周囲には「若宮」と呼ぶように指示していたのです。

上記の通り、義満はこの息子の元服の3日後に病となり、そのまま亡くなってしまうので、その思惑については諸説あるのですが、もし、息子が親王となり、その後に天皇になったなら、当然、父である自分は上皇(出家してるので法皇)になるわけです。

しかし、これを拒否したのが、将軍=足利義持であり、管領=斯波義将でした。

「昔から、こんな(皇族以外が天皇になるような)例はない」
強く辞退した事で、この話が、これ以上進展する事はありませんでした。

どうやら…天皇や朝廷をも黙らせる権力を持っていた義満に対し、足利義持と斯波義将は、
「ちょっと、やり過ぎちゃうん?」
と思っていたようです。

ここから義持の父親否定が始まるのです。

翌年には、父=義満の邸宅であった豪華絢爛な花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区)を出て、お祖父ちゃんの足利義詮(よしあきら=2代将軍)が住んでいた三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)に引っ越します。

(ちなみに上記の花の御所が京都の室町通りに面していて「室町第(むろまちてい)と呼ばれ、そこから、この足利氏の時代が室町時代と呼ばれるようになったらしい)

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また、その後には父が造営した北山第(きたやまてい=京都市北区金閣寺町)鹿苑寺(ろくおんじ)部分=金閣周辺以外を、すべて解体=取り壊しています。

応永十八年(1411年)には、(みん=中国)からの使者が財宝を持ってやって来ますが、義持は、この使者と会う事を拒否・・・使者は上陸した兵庫(ひょうご=兵庫県)から、そのまま、移動する事無く帰国しました。

実は、父の義満が亡くなった直後にも、諜報を聞いた永楽帝(えいらくてい=明朝第3代皇帝)が、弔意を示して使者を送って来て、その時は、義持は北山第で明の使者と面会しているのですが、

後々、知り合いの僧への手紙の中で
「前将軍の弔いに来た…って言われたら断るわけにいかへんから、しかたなしに会うただけ」
と、その面会が本意では無かった事を語ったらしい・・・

どうやら、父の義満の行っていた「ペコペコ外交」が、義持には許せなかった。。。

以前、書かせていただいたように
(5月13日【ペコペコ外交でトクトク貿易…勘合貿易】参照>>)

南北朝の動乱の中で、未だ南朝勢力が強かった九州に明の使者が先に上陸してしまった事から、そこにいた南朝方の懐良親王(かねなが・かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)(3月27日参照>>)の事を「日本国王」と認めちゃったために、当時、将軍に就任したての義満は大慌て。。。

急いで、室町幕府(北朝)の征夷大将軍として、明に
「天皇さんがおる都があるのはコッチでっせ」
とばかりに使者を送りますが、まったく相手にされずに2度も突き返されていたのです。

その後、あの元中九年・明徳三年(1392年)の南北朝の合一(10月5日参照>>)を成し、晴れて日本代表として使者を送り、ようやく「日本国王源道義」の承認を得て、翌年に即位した永楽帝にもお祝いの使者を送って、日明貿易(にちみんぼうえき=勘合符を使った勘合貿易)に励んでいたわけですが、

しかし、これは…要は朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)

ご存知のように、当時の中国は「世界の中心の国」・・・

世界に君臨する唯一の皇帝に周辺諸国が貢物を持って訪問し、皇帝側は、その使者に返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築く・・・もちろん、その他にも商人らが行き来する貿易なわけですが、基本は「朝貢」なわけで、、、

晩年、義満が病気になった時、占い師が、
「これは、古来より我が国は他国に臣と称した事が無いのに、日本国王の印を受け取って臣下の礼を取ってしまった事に拠る祟りであ~る」
との占い結果を出した事もあって、

後継者となった義持は、
「絶対に他国の臣下にはならないし、命令も聞かない!」
キッパリと明国の使者を追い返し、以来、父が構築した日明貿易を中止したのでした。

花の御所を捨て、
北山第を解体し、
日明貿易も中止し・・・と、何やら、ことごとく父に反発する義持。。。

父の政治内容がどーのこーのではなく、ただ
「父のやった事を否定したい」
と、まるで思春期の少年の行動のようにも見えます。

とは言え、義持は、時の後小松天皇とも仲が良く、後小松天皇も、9歳年下の義持の事をそれなりに尊重し、両者は円満な関係でした。

応永十八年(1411年)に、後小松天皇の皇子=躬仁親王(みひとしんのう=実仁)が元服する時には、その儀式で義持が加冠(かかん=初めて冠をつける)役を務めました。

その翌年に躬仁親王が即位して称光天皇(しょうこうてんのう=第101代)となり、後小松天皇は上皇として院政を開始します。

こうして後小松上皇&称光天皇と、将軍=足利義持が並び立つ時代がやって来るのですが・・・

ご存知のように足利の全盛は、ここらあたりをピークに下り坂へと向かって行くのです。

もちろん、それは義持さん一人だけのせいではなく
外国とのなんやかんや(応永の外寇>>)
未だくすぶる南朝とのなんやかんや(後南朝>>)

そして、東国のなんやかんや
(↑コレはまだ書いてませんm(_ _)m)…が絡んで来るのですが、

まだブログに書いていない出来事は、その日付けにておいおい書かせていただく事にさせていただきますので、今しばらくお待ちくださいませ。
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