三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い
享禄二年(1529年)5月28日、松平清康が攻撃した吉田城が陥落し、牧野信成が討死しました。
(天文元年(1532年)5月28日説もあり)
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隣国である三河(みかわ=愛知県中東部)を警戒する目的で、駿河(するが=静岡県中東部)と遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川氏親(いまがわうじちか)の命により永正二年(1505年)に築城されたという吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)は、もとの名を今橋城(いまはしじょう)と言い、
築城後まもなくの永正三年(1506年)に一旦奪われた物を、大永年間(1521年~28年)の初めに亡き父(牧野古白=↑の戦いで討死)の後を継いだ牧野信成(まきののぶしげ)が奪回して、
大永二年(1522年)に、その名を吉田城に改めたと言います。
もちろん、城の名前は変わっても城主は牧野信成・・・
そこにやって来たのが、三河統一を目指す岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)の松平清康(まつだいらきよやす)でした。
この頃、すでに西三河の実質的な支配権を握っていた松平清康は、かつての三河支配者だった三河吉良氏(きらし=清和源氏:足利の流れ)に対抗すべく、
自身も、清和源氏のひとつである新田氏(にったし=八幡太郎義家の子孫)の一門である徳川氏(とくがわし)の末裔であると主張し、
その庶流である世良田(せらた)姓に改名して世良田次郎三郎(せらたじろうさぶろう)と名乗るようになり、
(これ↑が後に、清康の孫が松平元康から徳川家康に改名する根拠となっています=5月12日参照>>)
東三河への侵攻を考えたのです。
かくして享禄二年(1529年)5月27日(冒頭に書いた通り天文元年(1532年)説もあり)、
松平清康は吉田城を攻めるべく岡崎城を出陣しました。
その日のうちに赤坂(あかさか=愛知県豊川市)までやって来た松平軍は、そこに陣を張り一泊・・・
翌28日に小坂井(こざかい=同豊川市)に旗を立てて周辺に放火して回り、ここに事実上の開戦となりました。
とは言え、この戦いは、降ってわいた唐突な物ではなく、西三河を制した松平清康の様子を見て取っていた牧野信成側も、
「次は、ウチに来よるな…」
と察知しており、
「小国の三河を二人仲良く統治…てな事やってられへん!アイツか俺か」
「それやったら、先にコッチからヤッたろかい!」
とばかりに、一族の牧野成勝(しげかつ)や伝次成高(でんじ?しげたか)らと一味徒党を結んで松平を攻める相談をしていたのですが、
それを聞きつけた松平清康が先手を取っての侵攻だったのです。
●吉田城の戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして享禄二年(1529年)5月28日、吉田城の北を流れる豊川の北岸に布陣した松平軍・・・
対する牧野軍は、果敢にも籠城策を捨てて、撃って出る作戦・・・牧野信成以下一軍は船で豊川を渡って対岸にて布陣し、堤を挟んで両軍が対陣する形となります。
様子を伺う両者は、半日ほど、にらみ合いを続けたものの、やがて松平勢が前へと進み、戦闘が開始されます。
『今橋物語』によれば…
この時、大将である松平清康と、その右腕の松平信定(のぶさだ=清康の叔父)が、
「討死するは、この時なり!」
と言って、真っ先に敵陣に駆け込んて采配を振った事から、
これを見た松平勢が、
「大将を見殺しにするな~!」
と、怒涛の如く攻めかかったのだとか。。。
その勢いもあってか?
結局は、牧野信成をはじめとする一族&家臣=70余人が討たれ、多くの兵も失い、
ここに吉田城は落城し、当主を失った牧野氏は急速に衰える事となってしまい、
これは戸田城(とだじょう=愛知県田原市・田原城)や作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城)など東三河の諸城が、ことごとく松平に降るキッカケとなりました。
そして、この勢いのまま、半年後の享禄二年(1529年)11月、松平清康は念願の三河統一を果たしたのです。
勢いづく清康は、年が明けた享禄三年(1530年)には隣国の尾張(おわり=愛知県西部)への侵攻を開始しますが、
その5年後の天文四年(1535年)、織田信光(おだのぶみつ=織田信長の叔父)の守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻撃中の陣中にて、松平清康は家臣に斬殺されてしまいます。(【森山崩れ】参照>>)
大黒柱の死によって、一気に衰え始めた松平は、やがて駿河の今川義元(いまがわよしもと=氏親の息子)の支配下に置かれ、ご存知のように清康孫の徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代)が今川の人質となって(8月2日参照>>)今川に守ってもらわねばならない事になるわけですが・・・
一方、この松平清康の横死によって、一時、吉田城に城番だった一族の牧野成敏(しげとし)が入ったりするものの、結局は、今川の支配下に置かれる事になるのですが、
これまたご存知のように、今川義元の死をキッカケに岡崎城主となった徳川家康(5月19日参照>>)が奪い返し、
永禄八年(1565年)には、德川四天王の一人=酒井忠次(さかいただつぐ)が、この吉田城に入って東三河を指揮する事になり、その後も吉田城は江戸時代を通じて東海道の重要な場所に位置する城として維新を迎える事になります。
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