父ちゃんキライ!義満全否定の4代将軍~足利義持
応永十五年(1408年)5月8日、後小松天皇が、 2日前に亡くなった足利義満に「太上法皇の尊号を与える」と表明しました。
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応永十五年(1408年)5月6日、足利を日本第一の隆盛に押し上げた室町幕府第3代将軍=足利義満(あしかがよしみつ)が51歳で死去しました。
すでに応永元年(1394年)の9歳の時に将軍職を譲られていた義満の息子で第4代将軍の足利義持(よしもち)ではありましたが、カリスマ的父が健在の時には、できる事は形式的な事ばかり・・・
なので、父の急逝によって、ようやく自らの腕を揮う事になった若き将軍は、この時23歳。。。
管領(かんれい=将軍の補佐)の斯波義将(しばよしゆき=義満の死後に管領に復帰)をはじめとする重臣たちに支えられながら、偉大な父の後を継ぐ事になります。
そんな中、義満の死後2日目の応永15年(1408年)5月8日(9日とも)、時の後小松天皇(ごこまつてんのう=第100代)は亡き義満に太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようとします。
実はコレ・・・生前の義満が希望していた事。。。
ご存知のように、晩年の義満の力は絶大で、死の直前の応永15年(1408年)4月25日には、最愛の息子である足利義嗣(よしつぐ=義持の弟)を親王の例にならって元服させ、周囲には「若宮」と呼ぶように指示していたのです。
上記の通り、義満はこの息子の元服の3日後に病となり、そのまま亡くなってしまうので、その思惑については諸説あるのですが、もし、息子が親王となり、その後に天皇になったなら、当然、父である自分は上皇(出家してるので法皇)になるわけです。
しかし、これを拒否したのが、将軍=足利義持であり、管領=斯波義将でした。
「昔から、こんな(皇族以外が天皇になるような)例はない」
と強く辞退した事で、この話が、これ以上進展する事はありませんでした。
どうやら…天皇や朝廷をも黙らせる権力を持っていた義満に対し、足利義持と斯波義将は、
「ちょっと、やり過ぎちゃうん?」
と思っていたようです。
ここから義持の父親否定が始まるのです。
翌年には、父=義満の邸宅であった豪華絢爛な花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区)を出て、お祖父ちゃんの足利義詮(よしあきら=2代将軍)が住んでいた三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)に引っ越します。
(ちなみに上記の花の御所が京都の室町通りに面していて「室町第(むろまちてい)」と呼ばれ、そこから、この足利氏の時代が室町時代と呼ばれるようになったらしい)
また、その後には父が造営した北山第(きたやまてい=京都市北区金閣寺町)を鹿苑寺(ろくおんじ)部分=金閣周辺以外を、すべて解体=取り壊しています。
応永十八年(1411年)には、明(みん=中国)からの使者が財宝を持ってやって来ますが、義持は、この使者と会う事を拒否・・・使者は上陸した兵庫(ひょうご=兵庫県)から、そのまま、移動する事無く帰国しました。
実は、父の義満が亡くなった直後にも、諜報を聞いた永楽帝(えいらくてい=明朝第3代皇帝)が、弔意を示して使者を送って来て、その時は、義持は北山第で明の使者と面会しているのですが、
後々、知り合いの僧への手紙の中で
「前将軍の弔いに来た…って言われたら断るわけにいかへんから、しかたなしに会うただけ」
と、その面会が本意では無かった事を語ったらしい・・・
どうやら、父の義満の行っていた「ペコペコ外交」が、義持には許せなかった。。。
以前、書かせていただいたように
(5月13日【ペコペコ外交でトクトク貿易…勘合貿易】参照>>)
南北朝の動乱の中で、未だ南朝勢力が強かった九州に明の使者が先に上陸してしまった事から、そこにいた南朝方の懐良親王(かねなが・かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)(3月27日参照>>)の事を「日本国王」と認めちゃったために、当時、将軍に就任したての義満は大慌て。。。
急いで、室町幕府(北朝)の征夷大将軍として、明に
「天皇さんがおる都があるのはコッチでっせ」
とばかりに使者を送りますが、まったく相手にされずに2度も突き返されていたのです。
その後、あの元中九年・明徳三年(1392年)の南北朝の合一(10月5日参照>>)を成し、晴れて日本代表として使者を送り、ようやく「日本国王源道義」の承認を得て、翌年に即位した永楽帝にもお祝いの使者を送って、日明貿易(にちみんぼうえき=勘合符を使った勘合貿易)に励んでいたわけですが、
しかし、これは…要は朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)。
ご存知のように、当時の中国は「世界の中心の国」・・・
世界に君臨する唯一の皇帝に周辺諸国が貢物を持って訪問し、皇帝側は、その使者に返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築く・・・もちろん、その他にも商人らが行き来する貿易なわけですが、基本は「朝貢」なわけで、、、
晩年、義満が病気になった時、占い師が、
「これは、古来より我が国は他国に臣と称した事が無いのに、日本国王の印を受け取って臣下の礼を取ってしまった事に拠る祟りであ~る」
との占い結果を出した事もあって、
後継者となった義持は、
「絶対に他国の臣下にはならないし、命令も聞かない!」
とキッパリと明国の使者を追い返し、以来、父が構築した日明貿易を中止したのでした。
花の御所を捨て、
北山第を解体し、
日明貿易も中止し・・・と、何やら、ことごとく父に反発する義持。。。
父の政治内容がどーのこーのではなく、ただ
「父のやった事を否定したい」
と、まるで思春期の少年の行動のようにも見えます。
とは言え、義持は、時の後小松天皇とも仲が良く、後小松天皇も、9歳年下の義持の事をそれなりに尊重し、両者は円満な関係でした。
応永十八年(1411年)に、後小松天皇の皇子=躬仁親王(みひとしんのう=実仁)が元服する時には、その儀式で義持が加冠(かかん=初めて冠をつける)役を務めました。
その翌年に躬仁親王が即位して称光天皇(しょうこうてんのう=第101代)となり、後小松天皇は上皇として院政を開始します。
こうして後小松上皇&称光天皇と、将軍=足利義持が並び立つ時代がやって来るのですが・・・
ご存知のように足利の全盛は、ここらあたりをピークに下り坂へと向かって行くのです。
もちろん、それは義持さん一人だけのせいではなく、
外国とのなんやかんや(応永の外寇>>)、
未だくすぶる南朝とのなんやかんや(後南朝>>)、
そして、東国のなんやかんや…が絡んで来るのですが、
そのお話は10月2日の【上杉禅秀の乱】>>でどうぞm(_ _)m
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