« 白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む | トップページ | 三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い »

2023年5月21日 (日)

赤松正則の播磨奪回作戦~応仁の乱に合わせて

 

応仁元年(1467年)5月21日、大名に復帰した赤松正則が、応仁の乱の勃発に合わせて旧領の播磨を奪回しました。

・・・・・・・

赤松政則(あかまつまさのり)は、赤松家の8代当主で、あの嘉吉の乱(かきつのらん)を決行した赤松満祐(みつすけ)の弟=赤松義雅(よしまさ)にあたります。

ご存知のように、かの嘉吉の乱は、第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)(2016年6月24日参照>>)を自宅に招いて酒宴を催した赤松満祐が、出席者全員の目の前で、その将軍を騙し討ちしてしまう…という前代未聞の暗殺事件(2009年6月24日参照>>)。。。

事件後に、赤松満祐&赤松義雅ら一族が、自宅に火を放って逃亡した事で、細川持常(ほそかわもちつね)山名持豊(やまなもちとよ=宗全)らの幕府討伐軍が組織され、戦闘の末に、赤松満祐は一族69名とともに自害して果てました。

戦後の論功行賞にて、乱以前に赤松氏が所領していた播磨(はりま=兵庫県西南部)守護職は討伐戦で活躍した山名持豊に、
その播磨のうちの東三郡(明石・美嚢・印南)は赤松一族の中でも討伐軍に加わっていた赤松満政(みつまさ=大河内赤松家)に、
美作(みまさか=岡山県東北部)守護職は山名教清 (のりきよ)に、
備前(びぜん=岡山県東南部)山名教之(のりゆき)に・・・と、その遺領のほとんどが山名一族の物となりました。

ただ、上記の通り赤松満政が討伐軍に加わり、戦後に尽力してくれた事で、未だ9歳だった赤松義雅の息子(つまり政則の父)赤松時勝(ときかつ)の命は何とか助かり、建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)天隠龍沢(てんいんりゅうたく)の庇護を受け、近江(おうみ=滋賀県)の寺で養育される事になりました。

Akamatumasanori600 その後、赤松時勝は23歳の若さで死去してしまいますが、その死の前後に赤松政則が生まれ、彼もまた建仁寺にて育ちます。

そんなこんなで赤松政則は、その母が誰かもわからず、しかも、その母親も早くに亡くなってしまったようで・・・おそらくは、没落した家の者として孤独な幼児期を送ったと思われますが、

唯一の救いは、赤松家家臣の浦上則宗(うらがみのりむね)が、主家を見限る事無く、赤松政則と苦楽を共にして何かと世話してくれるとともに、赤松家再興の夢を捨てずにいてくれた事・・・

やがて赤松家復興のチャンスがやって来ます。

それは長禄元年(1457年)12月・・・かつて、南朝勢力の復興を訴える勢力=後南朝(4月12日の末尾参照>>)に奪われたままになっていた三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)旧赤松家の遺臣たちが奪い返したのです。

長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれるこの一件・・・実は、後南朝の本拠である吉野(よしの=奈良県)に攻め込む前に、すでに赤松の旧臣たちは、時の後花園天皇(ごはなぞのてんのう=102代)足利義政(よしまさ=8代将軍・足利義教の次男)から、
「神器奪回の暁には次郎法師丸(後の赤松政則)に赤松家の家督を継承させるとともに家の再興を認めてもらう」
という約束を取り付けていたのです。
(↑諸説ありますが、おそらく事前の約束があったであろうとの見方が有力です)

こうして、無事、神器が朝廷に変換された事を受けて、その勲功として、赤松政則を当主に迎えて再興された赤松家には加賀(かが=石川県南部)北半国の守護職と備前の新田(しんでん=岡山県倉敷市)伊勢(いせ=三重県中北部)高宮保(たかみやほ=三重県津市)が与えられる事になったのです。

この赤松の大名復帰と領地配分に尽力したのが、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)であった細川勝元(ほそかわかつもと)でした。

これには、かの嘉吉の乱での功績以来、その時に得た播磨をはじめ但馬(たじま=兵庫県北部)備後(びんご=広島県東部)安芸(あき=広島県西部)伊賀(いが=三重県西部)の守護職という、膨大な領地を手にし、絶大な力を得ていた山名持豊へのけん制の意味もあったとか・・・

そう・・・この10年後の応仁元年(1467年)に勃発するのが、あの応仁の乱(おうにんのらん)

将軍の後継者争い(義視×義尚)に、
畠山(はたけやま)の後継者争い(政長×義就)、と
斯波(しば)の後継者争い(義敏×義廉)

そこに、時の大物同士=細川勝元と山名持豊が味方し、

さらに、それぞれに後継者争いを抱える、あるいは自身が日頃つながりがある者に味方する全国の武将たちが東西に分かれて戦った大乱です。
(上記の名前の並びは、左=東軍で、右=西軍)

その前哨戦である応仁元年(1467年)1月17日の畠山同士の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)にて、
「他家の後継者争いには関与しない」
の姿勢で、仲良しの畠山政長(はたけやままさなが)援軍要請を断った細川勝元に対し、

対立する畠山義就(よしなり=政長とは従兄弟)には、ちゃっかりと仲良し山名の山名政豊(まさとよ=持豊の孫)関与していた(そして勝利した)事を知った細川勝元が、

応仁元年(1467年)5月20日、
「将軍様を戦火から守る」
として将軍=義政&日野富子(ひのとみこ)の住まう花の御所(はなのごしょ)を占拠して、そこを自身が率いる本陣とした事から(なので東軍)

ここに応仁の乱が勃発(5月20日参照>>)・・・なので上記の5月20日が、応仁の乱勃発の日とされます。

一方、機を逃がして御所を占拠されてしまった山名持豊は、やむなく、御所から500mほど西にある自身の邸宅に本陣を構え(なので西軍=西陣織で有名な西陣の地名の元)、戦闘態勢に入るのです。

さてさて、本日主役の赤松正則さん、
この時、未だ13歳の若さでしたが、上記の通り、立派な赤松家の当主。。。

当然、お家再興の時に力になってくれた細川勝元の東軍に・・・まして、西軍総大将の山名持豊は、かつての赤松家の所領=播磨の現在の守護なのですから、東軍に味方しない手はありません。

これまでも、家臣の浦上則宗ら赤松家の旧臣とともに、一揆の鎮圧などに参加しつつ、現守護に不満を持つ播磨の住人などを抱え込んだりして、水面下でこの機を狙っていたのです。

かくして応仁の乱が勃発する直前の5月10日、おそらく細川勝元の命を受けたであろう赤松正則は、密かに播磨に下向して旧一族に奮起を呼びかけたのです。

もちろん、現支配者は山名ですから、そこはすんなりとはいかなかったでしょうが、少なくとも、同族の宇野政秀(うのまさひで=赤松政秀)即座に決起したほか、旧主人に心を寄せる面々が次々と集結するのです。

それは
「本国ノ事ナレバ百姓土民ニ心ヲ合
 事故ナク国中ヲ手ニ入レケル」『重編応仁記』より)
と、破竹の勢いだった事がうかがえますが、

一方で、『備前軍記』では、
赤松政則は、自身の兵を二手に分け、播磨各地で山名の者を追い払って…
と、あちこちで戦闘があった模様も記録されています。

とは言え、やはり、その勢いは凄まじかった見え、開戦から11日後=京都での応仁の乱勃発の翌日である
応仁元年(1467年)5月21日、さほどの抵抗を受ける事無く、赤松正則は旧領の播磨を奪回したのでした。

ただし、上記の通り、本来応仁の乱の主戦場は京都・・・なので、赤松正則は主に京都にて東軍として従軍するため、

ここしばらくは旧勢力の抵抗に合い、この後も、数度に渡って山名勢の播磨侵入を許していますが、現地に残った宇野政秀や浦上一族の協力によって、この年の12月頃までには、完璧な奪回に成功したようです。

こうして播磨の地を奪回した赤松正則さん・・・
この後も、内紛や領地拡大に踏ん張りながら山名に打ち勝ち、かの細川勝元の娘さん=洞松院(とうしょういん=めし殿)を嫁にもらい、赤松家を再興した中興の英主と呼ばれる事になるのですが、

それらの活躍ぶりは、下記関連ページでご覧あれ
  ●応仁の乱~兵庫津の争奪戦>>
  ●赤松政則VS山名政豊>>
  ●福井小次郎の福岡合戦>>
  ●足利義材による六角征討>>
  ●真弓峠の戦い>>
  ●英賀坂本城の戦い>>
  ●洞松院と結婚>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む | トップページ | 三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い »

南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む | トップページ | 三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い »