白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む
天正十八年(1590年)5月15日、小田原征伐の豊臣北陸隊=上杉景勝・前田利家・真田昌幸の攻撃を受けたいた長尾景広が、白井城を開城しました。
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白井城(しろいじょう=群馬県渋川市 )は、南北朝時代に、関東管領(かんとうかんれい=関東公方・足利家の補佐役)山内上杉氏(やまのうちうえすぎし=管領家)の被官(ひかん=家臣)であった長尾景忠(ながおかげただ)によって築かれたとされる城で、
利根川(とねがわ)と吾妻川(あずまがわ)の合流地点の北側から突き出たような台地に建ち、西の吾妻川に面した側は断崖絶壁、南や東は空堀に囲まれ北へと向かって城郭が並ぶ形となった堅固な城でした。
築城以来、長尾景忠の子孫の白井長尾家が代々城主を務めながら戦国を迎えていました。
永禄年間(1558年~1570年)には、一時、武田配下の真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)の攻撃を受けて城を奪われるものの、ほどなく奪回し、天正の頃には、白井長尾家を継ぐ長尾憲景(ながおのりかげ)が城主を務めています。
その後、憲景の息子の長尾輝景(てるかげ)が後を継ぎますが、天正十七年(1589年)、親北条派の重臣たちの支援を受けた弟の長尾景広(かげひろ)が、病気がちな兄を隠居に追い込んで、当主の座を奪取。。。
実は、この長尾景広は、10代前半頃の3年間を、北条氏との同盟の証として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)で過ごしており、その頃は、北条氏政(ほうじょううじまさ)から一字を貰って長尾政景(まさかげ)と名乗っていた時期もあった人です。
…で、北条派一色だった家臣団に推された形で、兄に代って白井長尾家当主となっていたわけです。
そんなこんなの天正十八年(1590年)・・・そう、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)です。
本能寺(ほんのうじ)に散った織田信長(おだのぶなが)の後を継ぐように台頭して来た秀吉が、天正十四年(1586)に、政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)(2月23日参照>>)を京都に建てる一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)、
さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)し、天下人へまっしぐら~だった中で発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)』。。。
そんな中で、天正十七年(1589年)10月に、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田昌幸(まさゆき=幸隆の息子)の名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を「力づくで奪った(10月23日参照>>)行為が、
この「関東惣無事令』に違反する」として、秀吉にとっての最期の大物=北条氏を倒す事になる小田原征伐が開始されるのです。
合戦に先立って行われた天正十七年(1589年)12月10日の軍議によって(12月10日参照>>)、東海道を東に向かって攻め上る徳川家康(とくがわいえやす)隊と、秀吉本隊の計17万に対し、
途中で合流して、東山道から上野(こうずけ=群馬県)→武蔵(むさし=ほぼ東京都)へと南下していくチームとなったのが、越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と北陸の前田利家(まえだとしいえ)と信州にて独立大名になりたてだった真田昌幸…の計3万5千でした。
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:白井城版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
明けて天正十八年(1590年)の3月半ばに、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠(うすいとうげ=群馬県安中市&長野県北佐久郡)に集結した豊臣北陸隊の大軍は、
すぐさま松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)を囲みつつ、周辺の安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)や西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)などを陥落させて城を孤立させたうえ、
長期戦に持ち込んだ事で、城の守りを任されていた北条家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)も観念し、4月20日、松井田城は開城となりました(4月20日参照>>)。
そして松井田城を落とした北陸隊が、次に向かったのが白井城でした。
城では、すでに1月28日の段階で、北条家の評定衆(ひょうじょうしゅう=政務機関)で上野の目付役であった垪和康忠(はがやすただ)が白井城へと入り、垪和康忠の差配によって大量の鉄砲や玉薬などが搬入されていて、着々と防備を固めていたのです。
もちろん、城主の長尾景広も決死の防衛体制を敷き、必死の抵抗を試みます。
しかし、相手は3万を超える前田+上杉+真田の北陸隊・・・
渋川(しぶかわ=群馬県渋川市)周辺の家々をぶち壊し、その木材を材料に船を造った彼らは、吾妻川を押し渡って城の間際に迫ります。
さらに、大砲を撃ち込んで白井城内の兵がひるんだ隙に、城の北側から火を放って城郭の北部分を焼き払い、城主の長尾景広に開城を迫りました。
多勢に無勢ながら決死の覚悟で約半月耐えた白井城でしたが、やがて北陸隊に城郭の北半分を占領された天正十八年(1590年)5月15日、
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた長尾景広は、北陸隊総大将の前田利家に白井城を明け渡したのでした。
こうして、大名としての地位を失った長尾景広は、一旦は前田利家に仕えたものの、その後、兄とともに同族の上杉景勝(景勝は上田長尾家)に仕え、上杉配下として大坂の陣にも参戦したとか・・・
一方、このあと豊臣北陸隊は、
6月14日の鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)(6月14日参照>>)、
6月23日の八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)へと続き、
ご存知のように、7月5日に本城である小田原城が陥落し(7月5日参照>>)、小田原征伐は終了します。
一方、長尾家による支配が終わった白井城には、小田原征伐終了後に、その恩賞として、秀吉から関東支配を任された家康(7月13日参照>>)の物となり、德川家臣である本多康重(ほんだやすしげ)が白井城に入る事になりますが、
その後も、目まぐるしく城主が代る中で、最終的に本多康重の後を継いだ次男の本多紀貞(のりさだ)でしたが、彼が後継ぎが無いまま死去したため、白井城は元和九年(1623年)に廃城となったと言います。
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