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2023年6月25日 (日)

天下間近の織田信長が最も愛した女性~興雲院お鍋の方

 

慶長十七年(1612年)6月25日、織田信長の寵愛を受けて3人の子供を残した側室=お鍋の方こと興雲院が死去しました。

・・・・・・・・

興雲院(きょううんいん)は、一般的にお鍋(おなべ=於鍋)の方と呼ばれる織田信長(おだのぶなが)側室です。

Odanobunaga400a あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)信長が自刃したと聞くや、
その4日後には、岐阜(ぎふ)にある崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市)信長の位牌所と定めて手紙を送り、

「そちらを、上様(信長)の位牌所と定めましたので、どのような者が乱入しても、一切お断りなさいますようお願いします」

と、毅然とした態度で申し入れ、葬儀後は信長と信忠(のぶただ=信長とともに討死した嫡男)の位牌や遺品をこの寺に集め、今後に菩提を弔う事のアレやコレやを、彼女が主導して決定したのです。

世は戦国・・・いつ何時迎えるとも知れなかったであろう夫の死にうろたえる事無く、信長という偉大なる武将の側室の筆頭という役目を、見事、果たしたわけです。

この時の手紙であろうとされる物に「おなへ」という署名がある事から、上記の通り、彼女はお鍋の方と呼ばれるのです。

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信長と興雲院のお墓がある総見院

お鍋の方と織田信長の出会いは、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃ではないか?とされます。

…というのも、それ以前のお鍋の方には旦那さんがおりました。

源氏の流れを汲むなかなかのお家柄で、近江愛知郡小椋庄(おうみえきぐんおぐらのしょう=滋賀県彦根市と東近江市付近)を本拠とし、小倉城(おぐらじょう=滋賀県東近江市小倉町)の城主を代々務める小倉実房(おぐらさねふさ=実澄とも賢治とも)という武将です。【小倉兵乱】も参照>>)

戦国時代には、その土地柄か?南近江(滋賀県南部)守護(しゅご=県知事)であった六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の家臣となっていましたが、

どうやら永禄六年(1563年)の観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)のゴタゴタ前後から、六角氏の先行きに不安を感じて見切りをつけていたようで・・・

とまぁ、時期は定かでは無いのですが、いつの間にか織田信長に近づいていたようです。

それは、
永禄五年(1562年)に、織田信賢(のぶかた)を追放して尾張(おわり=愛知県西部)統一(2011年11月1日参照>>)した信長が、初の上洛を果たして(2010年11月1日参照>>)将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍)に謁見した事があったのですが、

その帰路で、
未だ絶賛交戦中の美濃(みの=岐阜県南部)(4月21日参照>>)斎藤龍興(さいとうたつおき)からの攻撃を避けるため、かの小倉領から鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県伊勢市)へ抜ける道を通るのですが、この道を提案し、その水先案内人をやったのが小倉実房さんだったとか・・・

さらに元亀元年(1570年)、信長1番のピンチと言われるなんやかんやの金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)。。。

この時も、何とか京に戻った信長が、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へと戻る際に(5月13日参照>>)千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)道を提案し、守ったのも彼でした。

しかし、その事が六角側に発覚したため、六角義賢からの攻撃を受けた小倉実房は自刃し、小倉城も六角氏の手に落ちてしまったのです。

夫を亡くしたお鍋の方は、着の身着のまま城を落ち、幼き二人の息子を連れて織田信長のもとに走ったのです。

そうして、信長は初めて彼女に会います。

その身はやつれ、汚れ切った着物に身を包んで信長の前にやって来て、
「小倉実房の妻だ」
と名乗った彼女は、

「信長様の味方をしたため、夫は自刃し、城は落ちてしまいました。 どうか、お助けすださいませ」
と訴えたのです。

夫を思うがゆえ、とめどなく涙を流しながらも、ハッキリした口調に意思の強さを秘めた、その姿・・・

話すうち、信長も、自身の命を救ってくれた小倉実房の姿を思い出し、ともに涙を流しつつ、暖かい眼差しを投げかけたと言います。

おいおいおいwww
一目惚れしちゃいましたね信長さん。。。

そう・・・実は、
最愛の女性とされる 生駒の方(いこまのかた=吉乃)(9月13日参照>>)を、去る永禄九年(1566年)に亡くしていた信長さんが、その後に最も愛した女性が、このお鍋の方なのです。

信長は、ともにいた二人の男児=小倉甚五郎(じんごろう)小倉松寿(まつじゅ=松千代)ともども彼女を岐阜城に迎え入れ、
「お鍋」
と呼んで寵愛したのです。
(信長さんが名前ををつけたらしい)

やがて、南近江の六角を追い払い、北近江の浅井(あざい)を倒して、近江全域を完全制覇した信長は、成長した甚五郎&松寿兄弟を自らの家臣に加えて近江に本領を与え、以後、山上城(やまかみじょう=滋賀県東近江市)を居城とさせたのでした。

優しくて聡明だったお鍋の方は、信長に愛され、やがて信長にとっての七男=織田信高(のぶたか)と八男=織田信吉(のぶよし)と、後に水野忠胤(みずのただたね=徳川家康の従弟)に嫁ぐ事になる女の子=お振(おふり=於振)という二男一女をもうけました

やがて訪れた本能寺の変・・・

この時、お鍋の方の連れ子の一人である小倉松寿は、義父の信長を守って明智軍と戦い、壮絶な討死を遂げました。

そして、信長亡き後のお鍋の方は、未だ幼き信長との3人の子供たちとともに、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の庇護下に置かれ、

その化粧領(けしょうりょう=夫が亡くなった時に女性が相続すべき財産)として高野城(たかのじょう=滋賀県東近江市永源寺)500石、かつて小倉実房が治めていたであろう周辺を与えられました。

この頃のお鍋の方は、秀吉の正室であったおねさん、
もしくは松の丸殿(まつのまるどの=京極竜子)の側に仕え、長男の小倉甚五郎も松任城(まっとうじょう=石川県白山市)を与えられていた…との事なので、かなり豊臣家と親しかった雰囲気がうかがえますが、

そのためか?
秀吉亡き後の関ヶ原の戦い(参照>>)で織田信吉が西軍についてしまった事で、ご存知東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に、あの化粧領だった500石を取り上げられてしまって、日々の生活も困窮・・・

見かねた淀殿(よどどの=茶々:秀吉の側室で秀頼の母)やらおね(当時は高台院)さんやらが共同で支援してお鍋の方の生活を支えてくれたおかげで、なんとか京都にて静かに余生を送る事ができました。

聡明で文学に長けた事から公家とも親しく交流していたというお鍋の方は、こうして慎ましく大坂の陣の寸前まで生き、信長との間にもうけた3人の子供たちは、後々の世まで織田家の血脈をつないでいく事になります。

かくして慶長十七年(1612年)6月25日、静かに息を引き取ったお鍋の方は、
今、信長と同じ総見院(そうけんいん=京都市北区紫野大徳寺町)の、
それも、信長正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)の隣で眠っています。
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2023年6月17日 (土)

細川・三好・篠原・長宗我部~小少将の数奇な運命by勝瑞城

 

天文二十二年(1553年)6月17日、三好実休勝瑞城を攻められた細川持隆が自害し、持隆の愛妾であった小少将が実休の正室となりました。

・・・・・・

南北朝動乱の真っただ中であった正平十七年(貞治元年=1362年)に築城されたとされる勝瑞城(しょうずいじょう=徳島県板野郡)は、室町幕府草創期に初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)から、四国の経営を任された細川頼春(ほそかわよりはる)が拠点とし、

その息子の細川頼之(よりゆき)の時代には四国一円を支配下に治めるとともに、頼之は第3代将軍の足利義満(よしみつ)管領(かんれい=将軍の補佐:執事)にまで上りつめる中で、代々、阿波(あわ=徳島県)細川家の居城とされていたのでした(異説もあり)

そんな中、戦国時代に、この勝瑞城を納めていたのが、その細川を継ぐ9代当主の細川持隆(もちたか)。。。
(持隆の父は阿波守護8代の細川之持説と阿波細川家から政元の養子になった細川澄元説があります)

この細川持隆さんは、例の管領=細川政元(まさもと)亡き後(6月23日参照>>)に起こった3人の養子同士の後継者争いでは、阿波細川家から政元の養子となった細川澄元(すみもと=持隆の父?)の息子=晴元(はるもと=持隆の兄?か従兄弟)を支持し、ライバルの細川高国(たかくに=政元の養子)を倒す大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(6月8日参照>>)でも活躍しますが、

やがて、その晴元が腹心の三好元長(みよしもとなが)と対立するようになると(7月17日参照>>)持隆は両者から距離を置き、阿波に戻って来たりなんぞしています。

と、少々の前置きとなりましたが・・・

本日の主役は、この細川持隆さんの愛妾(あいしょう=愛人)として歴史上に登場し、戦国時代の真っただ中で城主がコロコロ変わる中、決して勝瑞城を動かなかった女性・・・

それ故、稀代の悪女とも妖婦とも言われる絶世の美女=小少将(こしょうしょう)と呼ばれる女性です。
(小少将は度々通称として使用されるため歴史上には複数の小少将がいます…今回の方は阿波国の小少将として区別されています)

彼女は、一説には西条城(さいじょうじょう=徳島県阿波市吉野町)の城主=岡本牧西(おかもとぼくさい)娘ともされますが、よくわからず・・・とにかく、勝瑞城に女中として勤めていたところを、

上記の通り、絶世の美女だったせいか?殿様の細川持隆の目に留まり、
「御寵愛浅カラズ」
の仲となり、
天文七年(1538年)、持隆との間に嫡男となる細川真之(さねゆき)をもうけました。

そんな持隆に仕えていたのが三好義賢(みよしよしかた=三好元長の次男:之康・之相・之虎)です。

彼は、阿波守護の細川家に仕えた守護代家の三好家・・・ご存知、三好長慶(ながよし)の弟。。。。

上記の通り、細川晴元と不仲になった父=三好元長は、そのせいで自刃に追い込まれ、言わば、晴元は三好長慶兄弟の仇でもあったわけですが、未だ若く力が無かった長慶は、その私恨を捨てて晴元に仕えていた中、

やがて天文十一年(1542年)に畿内で勢力を誇っていた木沢長政(きざわながまさ)を倒した(3月11日参照>>)三好長慶は、いよいよ頭角を現して細川晴元に反旗・・・ 

天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して細川晴元と、晴元とつるんでいた時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第12代将軍)京都から追い出したのです(6月24日参照>>)

先に書いた通り、細川晴元は阿波守護の細川家から管領の細川京兆家(けいちょうけ=嫡流)に養子に入った人・・・つまり、守護と守護代が逆転し、将軍や管領を追い出しちゃったわけです。。。なので三好長慶は事実上の初の天下人と言われたりします。

こうなると、阿波の領国においての守護と守護代の関係は???

…と、そこに、
足利義晴と細川晴元がくっついたおかげで、義晴と将軍の座を争っていた足利義維(よしつな=義晴の弟・堺公方)(【堺公方】参照>>)が夢破れ阿波に戻って来ていたのですが、

『阿州将裔記(あしゅうしょうえいき)によれば、、、
細川持隆は家臣を集め、
「足利義維さんを将軍に就かせたいんやけど…」
と言い出したのだとか。。。

今や畿内で飛ぶ鳥を落とす勢いの兄=長慶に対し、出身地である四国での力を維持するべく睨みを効かせていた弟=義賢・・・ここは、頼れるお兄ちゃんに相談したのか?否か?

そこは想像するしかありませんが、とにかく、三好義賢は、この細川持隆の「足利義維、将軍擁立案」に、真向から反対したのです。

それを恨みに思った細川持隆が、三好義賢の暗殺を計画・・・しかし、それを内通者の密告で知った三好義賢が、逆に細川持隆を呼びだして追及し、持隆を自刃に追い込んだのです。

それが、天文二十二年(1553年)6月17日の事でした。 

理由については上記の将軍擁立云々の他にも複数あり、結局はよくわからないのですが、とにかくここで細川持隆と三好義賢との間に何かがあり、その結果、細川持隆が死去した事は確かなのです。

ただし…なんやかんや言うても細川家は代々守護で三好は代々守護代・・・

さすがに、あからさまに取って代るワケにはいかないですから、細川持隆の遺児である細川真之が安房守護家を継ぎ、三好義賢は、
「恩ある主君を自刃させてしもてスンマセン!
 反省してます!」
とばかりに出家して、以後は、実休(じっきゅう)と号しました。
(三好実休を名乗り始めた時期については諸説あり)

もちろん、本日の主役=小少将の運命も変わります。

ただの愛妾だったのが、(実子が後継者になったので)阿波守護の生母に君臨・・・しかも、

「往(ゆく)サ来(くる)サノ言ノ葉ノ 色ニ乱ルル思ヒノ露」(『三好記』より)

Miyosizikkyuu500a そう・・・魅惑の小少将さん、今度は三好実休と恋仲になり、

アッと言う間に、三好長治(ながはる)十河存保(そごうまさやす=実休の弟で讃岐の十河家を継いだ十河一存の養子になった)という二人の男子をもうけ、正室に収まったのです。

妖婦の手練手管に実休が。。。

と思いきや、二人は、かなりの仲よし夫婦で、二人の男児の他に女の子ももうけ、小少将は、三好家の家臣たちからも「大形殿」という正室を敬う尊称で呼ばれていたとか・・・

守護と守護代の後継が二人ともが自分の産んだ息子って…
見事!勝瑞城の女主人の座を射止めたわけです。

しかし永禄五年(1562年)3月、またもや彼女の運命が変わります

畠山高政(はたけやまたかまさ)の奇襲を受けた久米田(くめだ=大阪府岸和田市)の戦いで、実休が戦死してしまったのです(3月5日参照>>)。 

この時、総大将が戦死して総崩れとなった三好軍は、周辺の諸城を明け渡しつつ(さかい=大阪府堺市)から阿波へと、次々に敗走して来ます。

息子がいるとは言え大きな後ろ盾をうしなってしまった小少将。。。

なんと、今度は三好実休の家臣で、亡き主君を弔うために剃髪して勝瑞城に戻って来ていた敗兵の一人=篠原自遁(しのはらじとん)という人をゲットし、ちゃっかり正室に納まります。

とは言え・・・
前回&前々回は小少将も若く、花が咲き誇るがごとき美女だったわけですが、さすがに今は女盛りも過ぎようかというお年頃・・・

それは小少将ご自身も重々承知のようで、今回の結婚は、かなり強引に小少将から誘いをかけまくっての成婚だったようで、

案の定、城下には
 ♪大形ノ 心ヲ空ニ 篠原ヤ
  ミダリニタチシ 名コソ惜シケレ ♪
てな落書が張り出されるほど有名に。。。

これに苦言を呈したのが同じく三好実休の家臣で篠原自遁の兄(とされる?)篠原長房(ながふさ)。。。

そりゃ、弟がえぇ歳のオバハンにハマって、忠誠誓った主君亡き後すぐに結婚したら…兄としても黙っていられません、

しかし、さすがは妖婦小少将・・・
「無礼千万!」
とばかりに篠原長房の顔を見るたびに嫌味グチュグチュ&難題ゴチャゴチャ・・・

耐えきれなくなった篠原長房は、自身の上桜城(うえざくらじょう=徳島県吉野川市川島町)に引き籠り、弟夫婦とは距離を置く事に・・・

そうこうしている間に、弟の実休を失った三好長慶が急激に衰え、それとともに畿内に勢力を誇った三好家も衰退の一途えぽ辿り始め(5月9日参照>>)中央の政情が大きく変わり始めます。

三好長慶亡き後、三好家は長慶甥っ子の三好義継(よしつぐ)を担ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)と、長慶の重臣だった松永久秀(まつながひさひで)がゴチャゴチャし始める中(10月10日参照>>)

永禄十一年(1568年)9月には、織田信長(おだのぶなが)が第15代将軍になるへく足利義昭(よしあき=義晴の息子) を奉じて上洛します(9月7日参照>>)

そんなこんなの元亀四年(1573年)、
小少将は、うっとぉしい義兄の篠原長房を、息子=三好長治に攻めさせて滅ぼすと、もはや誰に気を使う事も無く篠原自遁との愛を謳歌・・・

その頃には、勝瑞城は、傀儡(かいらい=操り人形)城主=細川真之に代わって、三好長治が事実上の城主のように振舞っていましたが、小少将にとっては、どちらも自分の息子なので無問題!

こうして、まだまだ勝瑞城に君臨する小少将・・・

しかし残念ながら、歴史上の彼女の記録は、ここらあたりから皆無となります。

やがて天正十年(1582年)、四国統一を目指していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に攻められ、勝瑞城は陥落(9月21日参照>>)・・・

亡き兄(三好長治は天正5年=1577年に戦死)に代って城を守っていた十河存保は、讃岐へと逃走していきました。

えっ?小少将は…?
Kosyousyouawa

ここからは、あくまで伝承の域を出ないお話ではありますが、
すでに篠原自遁にも先立たれていた小少将は、

なんと!長宗我部元親の側室になって、元親の五男にあたる長宗我部右近大夫(うこんたいふ)を産んだとか、産まなかったとか・・・(同名の別人説もあり)

いやはや…
ここまであからさまに「女」で勝負してくれたなら、かえって清々しいじゃ、あ~りませんか!

そして、
まるで妖艶で謎めいた猫のように…
後世の私たちに、その最期の姿を見せてくれないのも小少将らしいのかも知れません。
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2023年6月12日 (月)

徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局

 

元和七年(1621年)6月12日 、徳川家康に見初められて側室となった茶阿局が、この世を去りました。

・・・・・・・・

本名が(ひさ)であったとされるその人は、夫のある身と知りながら言い寄る男が数知れず、すれ違えば誰もが振り返るような美人だったとか・・・

なので、その理由は、
彼女に言い寄る男と口論になって殺されたとか、、、

あるいは、彼女を
「自分のモノにしたい」
と思った地元の代官に闇討ちにされたとか、、、

いずれにしても、彼女の奪い合いによって、遠江(とおとうみ=静岡県西部)金谷村(かなやむら=静岡県榛原郡付近)にて鋳物屋(いものや=金属製品の鋳造業者)を営んでいた彼女の夫が殺されてしまうのです。

そこで久は、未だ3歳の娘を連れて家を出、殺人犯から身を隠すようにしながらも、
「何とかその復讐をしたい!」
と思い、

Tokugawaieyasu600 たまたま近くに鷹狩に訪れた徳川家康(とくがわいえやす)の一行を見つけ、その前に飛び出して直訴したのだとか。。。

冒頭に書いた通り、
久は、誰もが振り向くほどの美人です。

ひと目見て、ハートを撃ち抜かれた家康は、すぐさま彼女を浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)に連れ帰り、くだんの男(代官?)を処罰した後、そのまま「奥」へと入れたのだそうです。

↑の「奥」は「城の奥向き」=つまり「側室にした」という事です。

これが、天正三年(1575年)~天正十年(1582年)頃までの間の出来事であろうとされているので、

天正三年(1575年)なら家康は30過ぎで、5月には、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)のあった年。。。

その後、天正七年(1579年)には、家康正室の築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(8月29日参照>>)と長男=信康(のぶやす)事件(9月15日参照>>)があり、

天正十年(1582年)には、3月の甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田を滅亡させる戦い)(4月4日参照>>)と、6月には、あの本能寺の変(6月2日参照>>)があるわけで・・・ 

久さんが家康の側室となった時期が、築山殿が亡くなった前か?後か?、まさかの亡くなった直後なのか?で、かなり印象が違う気がしますが、そこは史料が無いので致し方ないところです。

…にしても、呼ばれて飛び出て、すんなりと浜松城に入っちゃうって・・・
代官はアカンで殿様(=家康)ならOKなんかい!
というツッコミたいところではありますが、

とにもかくにも、
こうして久は、これ以降は茶阿局(ちゃあのつぼね)と呼ばれ、家康の寵愛を受ける事になります。
(ちなみに大坂の陣で和睦交渉する阿茶局=あちゃのつぼね→参照>>とは別人です…名前ややこしいゾ!

とは言え、茶阿局の出自については異説もあり、

もともと金谷の地侍(じざむらい)山田氏の娘だったとか、
夫に離縁されたバツ1女子だったのを地元の河村(かわむら)という有力武士が養女にして家康に嫁いだとか、

色々ありますが・・・とにかく、
「よくわからない出自の女性が、家康に見初められて側室になった」
という事は確かなようですので、

やはり、相当な美人だった事は確かでしょう。

その出自の曖昧さか身分の低さによってか?
始めのうちは側室でも下っ端扱いだったようですが、上記の通り、家康さんが彼女を寵愛し信頼する事から、徐々にその地位も上がって、

やがて天正二十年(1592年)、家康との間に辰千代(たつちよ=六男)、2年後の文禄三年(1594年)には松千代(まつちよ=七男)という二人の男児をもうけるのです。
(辰千代と松千代は双子だった説もあり)

Mtudairatadateru250as その後、松千代が、わずか6歳で早世してしまう中、慶長七年(1602年)に元服して長沢松平家(ながさわまつだいらけ=松平氏の庶流で長沢城を本拠とした)を継ぎ、

その名も辰千代から松平忠輝(まつだいらただてる)となった息子が、信濃川中島(かわなかじま=長野県長野市周辺)14万石を与えられた事により、
(長沢松平家の後継については先に松千代が継いでいたものの亡くなったので忠輝に…の説もあり)

茶阿局が亡き前夫との間にもうけた二人の息子は忠輝の小姓に、(直訴の時に連れてた)婿花井吉成(はないよしなり)家老に・・・

と、この時の忠輝の年齢を踏まえたなら(たぶん10歳くらい?)おそらくこれは茶阿局の差配による結果ですよね?

しかも、家康の近習だった花井吉成はともかく、身分が低いであろう前夫との二人の息子は、しかるべき武将の養子にしての出仕ですから、

この茶阿局さん、なかなかのやり手ですね~

地元=金谷村の寺には、寺同士の紛争を、茶阿局が見事に解決したとの記録もあるのだとか・・・

やがて慶長十一年(1606年)、忠輝は伊達政宗(だてまさむね)の長女=五郎八姫(いろはひめ)を正室として娶ります。

完全なる政略結婚なワリには忠輝と五郎八姫はなかなかに仲睦まじい夫婦だったようで(…て事は嫁姑もウマくいってた?)

そんなこんなの慶長十五年(1610年)には越後福島(ふくしま=新潟県上越市港町)30万石 が与えられ、川中島と合わせて45万石の大幅アップ大大名となる松平忠輝。。。

さらに慶長十九年(1614年)には、福島から高田に移って高田城(たかだじょう=新潟県上越市本城)を築城し、その領地も70万石に・・・

これは、未だ豊臣恩顧臭ただよう加賀(かが=石川県西南部)前田家=120万石を、六男の忠輝=70万石と次男の結城秀康(ゆうきひでやす)越前北の庄(きたのしょう=福井県東部)67万石で挟んでしまおうという家康の作戦でもあったわけですが、、、

そんな中、未だ高田城建設途中のさ中の慶長十九年(1614年)起こったのが、あの大坂の陣です(【大坂の陣の年表】参照>>)

しかし、残念ながら冬の陣では留守居役、翌年出陣した夏の陣でも目立った武功を残せなかった忠輝さん。。。

しかも、ここに来て、元和二年(1616年)4月、大御所=徳川家康が死去します(4月17日参照>>)

この時、死を悟った家康は、将軍職を譲った三男の秀忠(ひでただ)はじめ、義直(よしなお=九男)頼宣(よりのぶ=十男)頼房(よりふさ=十一男)ら息子たちを近くに呼んだものの、忠輝は呼ばれず、面会を望む忠輝に対し、かたくなに拒絶したとか・・・

しかし、その一方で茶阿局は、ずっと家康のそばにいて死に水を取ったとされます。

この不可思議な空気は、そのまま秀忠にも受け継がれ、家康の死から3ヶ月後の7月6日、
「家康の遺言であった」
として、忠輝は、秀忠から改易を命じられて伊勢朝熊(あさま=三重県伊勢市)流罪となって、金剛證寺(こんごうしょうじ=三重県伊勢市朝熊町)に入れられます。

家康の死を受けて髪を下ろし、朝覚院(ちょうかくいん)と号していた茶阿局は、何とかとりなしてもらおうと阿茶局や高台院(こうだいいん=豊臣秀吉の奧さん:おね)らに会って奔走しますが、聞き入れられず・・・

元和四年(1618年)には飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)金森重頼(かなもりしげより)預かりとなります。 

この時、忠輝は、
「こんな仕打ちされんねやったら、潔く死なせてくれ!」
と、死罪にされる事を望んだと言いますが、幕府の重臣たちに説得され、やむなく高山に向かったとか・・・

この忠輝の改易騒動については、一般的には乱暴者で素行が悪かった=つまり、ご乱行が原因とされますが、

私個人的には、以前も書かせていただいたように、舅=伊達政宗とともに企んだ、あの幕府転覆計画的な物の露見ではないか?と思っているのですが・・・(【松平忠輝の長い勘当】参照>>)

ただ、そのワリには、一方の伊達政宗は無傷で生き残ってるので、それも正解とは思えないですね~

ま、伊達政宗が支倉常長(はせくらつねなが)スペインに派遣した事は、ひた隠しに隠されて明治になるまで、日本人は誰も知らなかったわけですから(8月26日参照>>)、そこのところは老獪な政宗がウマく世渡りしたのかも知れませんが、、、

その後、忠輝は寛永三年(1626年)に、今度は信濃諏訪(すわ=長野県諏訪市)諏訪頼水(すわよりみず)に預けられる事になりますが、

それ以前の元和七年(1621年)6月12日 、朝覚院こと茶阿局は、72歳でその生涯を閉じました。

聡明で政治力もあったと言われる茶阿局ですから、おそらく晩年の息子の流罪には納得がいかず、無念もあったと思いますが、

一般人だった女性が、いきなりの殿様御側室・・・しかも嫁いだ相手が天下人になっちゃったわけですから、その人生の変貌ぶりも、他人にははかり知れない物だった事でしょう。
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2023年6月 5日 (月)

蘆名の執権と呼ばれた金上盛備~摺上原に散る

 

天正十七年(1589年)6月5日 、伊達政宗と蘆名義広による摺上原の戦いが勃発し、5代に渡って蘆名に仕えた功臣=金上盛備が討死しました。

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そもそも坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つの三浦氏(みうらし)鎌倉殿の13人のあの三浦です=和田合戦参照>>)の子孫である蘆名氏(あしなし)は、7代当主=蘆名直盛(あしななおもり)の時代に会津(あいづ=福島県の西部周辺)に根を下ろし、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市:後の若松城)を本拠としていました。

そんな中、戦国時代に入って会津から仙道(せんどう=仙台・信夫・安達・安積・岩瀬・白河を通る東北地方を縦断する道)へと勢力をのばして、伊達稙宗(だてたねむね)の娘を娶り、南奥州(おうしゅう=青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部など陸奥国・現在の東北地方周辺)で、その伊達家と並ぶ戦国大名にのし上がったのが、16代当主=蘆名盛氏(もりうじ)でした。

本日の主役=金上盛備(かながみもりはる)金上氏も、同じく三浦氏を祖に持つ庶流で代々蘆名の重臣を務めていた家柄でしたが、特に金上盛備は、

Asinamoriuzi500as 上記の通り、
戦国で一大勢力にのし上がった蘆名盛氏から↓
盛興(もりおき)
盛隆(もりたか)
亀王丸(かめおうまる=隆氏?)
義広(よしひろ=盛重とも)までの5代の当主に仕えた功臣で、

その稀なる政治手腕から蘆名の執権(しっけん=政治の中心となった鎌倉幕府での北条氏の呼称)と呼ばれた武将なのです。

天正六年(1578年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)養子同士による上杉家の後継者争い御館の乱(おたてのらん)(3月17日参照>>)の時には、上杉景虎(かげとら=北条からの養子)に味方した蘆名盛氏に従って、蒲原安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)を落城させるという功績を残しています。

その後、その御館の乱の恩賞に不満を持って天正九年(1581年)頃に上杉からの独立を測った新発田重家(しばたしげいえ)(10月26日参照>>)に味方した主君の意を受けて、上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子:景虎に勝利して家督を継ぐ)とも戦う中、

このころに上杉家のゴタゴタに乗じて北陸の奥深くへと侵攻して来た織田信長(おだのぶなが)(9月24日参照>>)金上盛備自らが出向いて謁見し、若き当主=蘆名盛隆(18代当主)を三浦介(みうらのすけ=三浦家の棟梁)と認めさせる事に成功しています。

実は、上記の盛氏の死後、息子の盛興が後を継いでいたものの、未だ子供が女子しかいないまま早世してしまったため、かつて岩瀬(いわせ=福島県白河市・須賀川市周辺)地方の二階堂盛義(にかいどうもりよし)と和睦する際に、人質として蘆名に送られて来た盛義の長男=盛隆を、亡き盛興の奧さんであった彦姫(ひこひめ=伊達晴宗の娘)と結婚させて蘆名の養子とし、第18代当主に据えていたのです。

つまり、もともと蘆名とは関係の無い盛隆を当主と仰ぐにあたって、その後ろ盾となる権威的な物を得たいと・・・このころの盛隆が、未だ10代半ばだった事を踏まえれば、これは盛隆が…というよりは金上盛備ら重臣による権威づけである事は想像に難くないわけで。。。

もちろん、そこには織田信長にとっても、絶賛合戦中の上杉景勝をけん制し、新発田重家をはじめとする東北諸大名を懐柔するべく良い作戦であった事は確かですが、蘆名にとっても、現当主が三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは、大変名誉な事だったはずですし、織田信長という中央政権に近づけた事も、この先の展開に有利となったはず。。。

やがて信長亡き後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が台頭して来ると、金上盛備は度々上洛して秀吉に謁見し、豊臣政権との接触を重ねて好を通じます。

ところがドッコイ、ここで事件が起こります。

天正十二年(1584年)10月、未だ24歳の若き当主=蘆名盛隆が、家臣によって殺され、残ったのは乳飲み子(生後1ヶ月)の亀王丸一人・・・(他は女の子3人) 

何とか、亀王丸を19代当主としますが、なんと、この亀王丸も、わずか3歳で天然痘にかかって亡くなってしまうのです。

後継者がいなくなった蘆名氏・・・しかも一族の中にもしかるべき男子がいなかったため、重臣たちで意見を出し合い、他家から新たな当主を迎える事になります。

この時、重臣たちの間では、伊達政宗(まさむね=稙宗の曾孫)の弟=小次郎(こじろう=政道)が有力候補に挙がりますが、金上盛備は、それに反対し、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の次男である義広を強く推し、結局は天正十五年(1587年)に、この蘆名義広を20代当主に据える事に成功します。

実は、伊達政宗はこれまでも度々、蘆名の領地である檜原 (ひばら=福島県の北西部)への侵入を試みており、それを危険視する金上盛備は、佐竹との関係を密にして伊達へのけん制としたかったのです。

しかし、この一件は蘆名の譜代家臣たちの間に溝を造る結果となり、外から来た若き当主には、当然、彼らを団結させる力は、まだ無いわけで・・・

そこを見逃さなかったのが伊達政宗。。。

早速、家臣の切崩しにかかり、太郎丸掃部 (たろうまるかもん)松本備中(まつもとびっちゅう=会津松本氏)をはじめ、一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに=12代蘆名盛詮の孫)までもが、次々と離反して伊達へと走ってしまうのです。

そうして起こったのが、天正十七年(1589年)6月5日摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦いです(6月5日参照>>)

伊達23000に蘆名16000という数的には不利な戦いであったにも関わらず、奮戦した蘆名勢ではありましたが、やはり最後には押され気味に…

もはや蘆名の敗退は火を見るよりも明らか…となる中、養子とは言え総大将としての気概を持つ蘆名義広は、
「この一戦を最期の戦い」
と決意し、手勢400名を率いて政宗の本陣へと迫りますが、従う将兵が次々と討たれ、わずか30騎ばかりになったところで、家臣に説得されてやむなく居城の黒川城へと引き揚げて行く事になります。

そう、
金上盛備は、味方が総崩れとなる中で最後まで踏みとどまり、壮絶な討死を遂げたのです。

享年63・・・当主がいかに代ろうとも、蘆名のために生き、蘆名のために戦った生涯でした。

こうして…結果的に当主の蘆名義広は生き残ったものの、残念ながら戦国大名としての蘆名は崩壊してしまう事になります。
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