徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局
元和七年(1621年)6月12日 、徳川家康に見初められて側室となった茶阿局が、この世を去りました。
・・・・・・・・
本名が久(ひさ)であったとされるその人は、夫のある身と知りながら言い寄る男が数知れず、すれ違えば誰もが振り返るような美人だったとか・・・
なので、その理由は、
彼女に言い寄る男と口論になって殺されたとか、、、
あるいは、彼女を
「自分のモノにしたい」
と思った地元の代官に闇討ちにされたとか、、、
いずれにしても、彼女の奪い合いによって、遠江(とおとうみ=静岡県西部)は金谷村(かなやむら=静岡県榛原郡付近)にて鋳物屋(いものや=金属製品の鋳造業者)を営んでいた彼女の夫が殺されてしまうのです。
そこで久は、未だ3歳の娘を連れて家を出、殺人犯から身を隠すようにしながらも、
「何とかその復讐をしたい!」
と思い、
たまたま近くに鷹狩に訪れた徳川家康(とくがわいえやす)の一行を見つけ、その前に飛び出して直訴したのだとか。。。
冒頭に書いた通り、
久は、誰もが振り向くほどの美人です。
ひと目見て、ハートを撃ち抜かれた家康は、すぐさま彼女を浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)に連れ帰り、くだんの男(代官?)を処罰した後、そのまま「奥」へと入れたのだそうです。
↑の「奥」は「城の奥向き」=つまり「側室にした」という事です。
これが、天正三年(1575年)~天正十年(1582年)頃までの間の出来事であろうとされているので、
天正三年(1575年)なら家康は30過ぎで、5月には、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)のあった年。。。
その後、天正七年(1579年)には、家康正室の築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(8月29日参照>>)と長男=信康(のぶやす)事件(9月15日参照>>)があり、
天正十年(1582年)には、3月の甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田を滅亡させる戦い)(4月4日参照>>)と、6月には、あの本能寺の変(6月2日参照>>)があるわけで・・・
久さんが家康の側室となった時期が、築山殿が亡くなった前か?後か?、まさかの亡くなった直後なのか?で、かなり印象が違う気がしますが、そこは史料が無いので致し方ないところです。
…にしても、呼ばれて飛び出て、すんなりと浜松城に入っちゃうって・・・
代官はアカンで殿様(=家康)ならOKなんかい!
というツッコミたいところではありますが、
とにもかくにも、
こうして久は、これ以降は茶阿局(ちゃあのつぼね)と呼ばれ、家康の寵愛を受ける事になります。
(ちなみに大坂の陣で和睦交渉する阿茶局=あちゃのつぼね→参照>>とは別人です…名前ややこしいゾ!)
とは言え、茶阿局の出自については異説もあり、
もともと金谷の地侍(じざむらい)=山田氏の娘だったとか、
夫に離縁されたバツ1女子だったのを地元の河村(かわむら)という有力武士が養女にして家康に嫁いだとか、
色々ありますが・・・とにかく、
「よくわからない出自の女性が、家康に見初められて側室になった」
という事は確かなようですので、
やはり、相当な美人だった事は確かでしょう。
その出自の曖昧さか身分の低さによってか?
始めのうちは側室でも下っ端扱いだったようですが、上記の通り、家康さんが彼女を寵愛し信頼する事から、徐々にその地位も上がって、
やがて天正二十年(1592年)、家康との間に辰千代(たつちよ=六男)、2年後の文禄三年(1594年)には松千代(まつちよ=七男)という二人の男児をもうけるのです。
(辰千代と松千代は双子だった説もあり)
その後、松千代が、わずか6歳で早世してしまう中、慶長七年(1602年)に元服して長沢松平家(ながさわまつだいらけ=松平氏の庶流で長沢城を本拠とした)を継ぎ、
その名も辰千代から松平忠輝(まつだいらただてる)となった息子が、信濃川中島(かわなかじま=長野県長野市周辺)14万石を与えられた事により、
(長沢松平家の後継については先に松千代が継いでいたものの亡くなったので忠輝に…の説もあり)
茶阿局が亡き前夫との間にもうけた二人の息子は忠輝の小姓に、娘(直訴の時に連れてた)婿の花井吉成(はないよしなり)は家老に・・・
と、この時の忠輝の年齢を踏まえたなら(たぶん10歳くらい?)、おそらくこれは茶阿局の差配による結果ですよね?
しかも、家康の近習だった花井吉成はともかく、身分が低いであろう前夫との二人の息子は、しかるべき武将の養子にしての出仕ですから、
この茶阿局さん、なかなかのやり手ですね~
地元=金谷村の寺には、寺同士の紛争を、茶阿局が見事に解決したとの記録もあるのだとか・・・
やがて慶長十一年(1606年)、忠輝は伊達政宗(だてまさむね)の長女=五郎八姫(いろはひめ)を正室として娶ります。
完全なる政略結婚なワリには忠輝と五郎八姫はなかなかに仲睦まじい夫婦だったようで(…て事は嫁姑もウマくいってた?)
そんなこんなの慶長十五年(1610年)には越後福島(ふくしま=新潟県上越市港町)30万石 が与えられ、川中島と合わせて45万石の大幅アップ大大名となる松平忠輝。。。
さらに慶長十九年(1614年)には、福島から高田に移って高田城(たかだじょう=新潟県上越市本城)を築城し、その領地も70万石に・・・
これは、未だ豊臣恩顧臭ただよう加賀(かが=石川県西南部)の前田家=120万石を、六男の忠輝=70万石と次男の結城秀康(ゆうきひでやす)の越前北の庄(きたのしょう=福井県東部)67万石で挟んでしまおうという家康の作戦でもあったわけですが、、、
そんな中、未だ高田城建設途中のさ中の慶長十九年(1614年)起こったのが、あの大坂の陣です(【大坂の陣の年表】参照>>)。
しかし、残念ながら冬の陣では留守居役、翌年出陣した夏の陣でも目立った武功を残せなかった忠輝さん。。。
しかも、ここに来て、元和二年(1616年)4月、大御所=徳川家康が死去します(4月17日参照>>)。
この時、死を悟った家康は、将軍職を譲った三男の秀忠(ひでただ)はじめ、義直(よしなお=九男)・頼宣(よりのぶ=十男)・頼房(よりふさ=十一男)ら息子たちを近くに呼んだものの、忠輝は呼ばれず、面会を望む忠輝に対し、かたくなに拒絶したとか・・・
しかし、その一方で茶阿局は、ずっと家康のそばにいて死に水を取ったとされます。
この不可思議な空気は、そのまま秀忠にも受け継がれ、家康の死から3ヶ月後の7月6日、
「家康の遺言であった」
として、忠輝は、秀忠から改易を命じられて、伊勢の朝熊(あさま=三重県伊勢市)に流罪となって、金剛證寺(こんごうしょうじ=三重県伊勢市朝熊町)に入れられます。
家康の死を受けて髪を下ろし、朝覚院(ちょうかくいん)と号していた茶阿局は、何とかとりなしてもらおうと阿茶局や高台院(こうだいいん=豊臣秀吉の奧さん:おね)らに会って奔走しますが、聞き入れられず・・・
元和四年(1618年)には飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)の金森重頼(かなもりしげより)の預かりとなります。
この時、忠輝は、
「こんな仕打ちされんねやったら、潔く死なせてくれ!」
と、死罪にされる事を望んだと言いますが、幕府の重臣たちに説得され、やむなく高山に向かったとか・・・
この忠輝の改易騒動については、一般的には乱暴者で素行が悪かった=つまり、ご乱行が原因とされますが、
私個人的には、以前も書かせていただいたように、舅=伊達政宗とともに企んだ、あの幕府転覆計画的な物の露見ではないか?と思っているのですが・・・(【松平忠輝の長い勘当】参照>>)
ただ、そのワリには、一方の伊達政宗は無傷で生き残ってるので、それも正解とは思えないですね~
ま、伊達政宗が支倉常長(はせくらつねなが)をスペインに派遣した事は、ひた隠しに隠されて明治になるまで、日本人は誰も知らなかったわけですから(8月26日参照>>)、そこのところは老獪な政宗がウマく世渡りしたのかも知れませんが、、、
その後、忠輝は寛永三年(1626年)に、今度は信濃諏訪(すわ=長野県諏訪市)の諏訪頼水(すわよりみず)に預けられる事になりますが、
それ以前の元和七年(1621年)6月12日 、朝覚院こと茶阿局は、72歳でその生涯を閉じました。
聡明で政治力もあったと言われる茶阿局ですから、おそらく晩年の息子の流罪には納得がいかず、無念もあったと思いますが、
一般人だった女性が、いきなりの殿様御側室・・・しかも嫁いだ相手が天下人になっちゃったわけですから、その人生の変貌ぶりも、他人にははかり知れない物だった事でしょう。
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