細川・三好・篠原・長宗我部~小少将の数奇な運命by勝瑞城
天文二十二年(1553年)6月17日、三好実休に勝瑞城を攻められた細川持隆が自害し、持隆の愛妾であった小少将が実休の正室となりました。
・・・・・・
南北朝動乱の真っただ中であった正平十七年(貞治元年=1362年)に築城されたとされる勝瑞城(しょうずいじょう=徳島県板野郡)は、室町幕府草創期に初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)から、四国の経営を任された細川頼春(ほそかわよりはる)が拠点とし、
その息子の細川頼之(よりゆき)の時代には四国一円を支配下に治めるとともに、頼之は第3代将軍の足利義満(よしみつ)の管領(かんれい=将軍の補佐:執事)にまで上りつめる中で、代々、阿波(あわ=徳島県)細川家の居城とされていたのでした(異説もあり)。
そんな中、戦国時代に、この勝瑞城を納めていたのが、その細川を継ぐ9代当主の細川持隆(もちたか)。。。
(持隆の父は阿波守護8代の細川之持説と阿波細川家から政元の養子になった細川澄元説があります)
この細川持隆さんは、例の管領=細川政元(まさもと)亡き後(6月23日参照>>)に起こった3人の養子同士の後継者争いでは、阿波細川家から政元の養子となった細川澄元(すみもと=持隆の父?)の息子=晴元(はるもと=持隆の兄?か従兄弟)を支持し、ライバルの細川高国(たかくに=政元の養子)を倒す大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(6月8日参照>>)でも活躍しますが、
やがて、その晴元が腹心の三好元長(みよしもとなが)と対立するようになると(7月17日参照>>)、持隆は両者から距離を置き、阿波に戻って来たりなんぞしています。
と、少々の前置きとなりましたが・・・
本日の主役は、この細川持隆さんの愛妾(あいしょう=愛人)として歴史上に登場し、戦国時代の真っただ中で城主がコロコロ変わる中、決して勝瑞城を動かなかった女性・・・
それ故、稀代の悪女とも妖婦とも言われる絶世の美女=小少将(こしょうしょう)と呼ばれる女性です。
(小少将は度々通称として使用されるため歴史上には複数の小少将がいます…今回の方は阿波国の小少将として区別されています)
彼女は、一説には西条城(さいじょうじょう=徳島県阿波市吉野町)の城主=岡本牧西(おかもとぼくさい)の娘ともされますが、よくわからず・・・とにかく、勝瑞城に女中として勤めていたところを、
上記の通り、絶世の美女だったせいか?殿様の細川持隆の目に留まり、
「御寵愛浅カラズ」
の仲となり、
天文七年(1538年)、持隆との間に嫡男となる細川真之(さねゆき)をもうけました。
そんな持隆に仕えていたのが三好義賢(みよしよしかた=三好元長の次男:之康・之相・之虎)です。
彼は、阿波守護の細川家に仕えた守護代家の三好家・・・ご存知、三好長慶(ながよし)の弟。。。。
上記の通り、細川晴元と不仲になった父=三好元長は、そのせいで自刃に追い込まれ、言わば、晴元は三好長慶兄弟の仇でもあったわけですが、未だ若く力が無かった長慶は、その私恨を捨てて晴元に仕えていた中、
やがて天文十一年(1542年)に畿内で勢力を誇っていた木沢長政(きざわながまさ)を倒した(3月11日参照>>)三好長慶は、いよいよ頭角を現して細川晴元に反旗・・・
天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して細川晴元と、晴元とつるんでいた時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第12代将軍)を京都から追い出したのです(6月24日参照>>)。
先に書いた通り、細川晴元は阿波守護の細川家から管領の細川京兆家(けいちょうけ=嫡流)に養子に入った人・・・つまり、守護と守護代が逆転し、将軍や管領を追い出しちゃったわけです。。。なので三好長慶は事実上の初の天下人と言われたりします。
こうなると、阿波の領国においての守護と守護代の関係は???
…と、そこに、
足利義晴と細川晴元がくっついたおかげで、義晴と将軍の座を争っていた足利義維(よしつな=義晴の弟・堺公方)(【堺公方】参照>>)が夢破れ阿波に戻って来ていたのですが、
『阿州将裔記(あしゅうしょうえいき)』によれば、、、
細川持隆は家臣を集め、
「足利義維さんを将軍に就かせたいんやけど…」
と言い出したのだとか。。。
今や畿内で飛ぶ鳥を落とす勢いの兄=長慶に対し、出身地である四国での力を維持するべく睨みを効かせていた弟=義賢・・・ここは、頼れるお兄ちゃんに相談したのか?否か?
そこは想像するしかありませんが、とにかく、三好義賢は、この細川持隆の「足利義維、将軍擁立案」に、真向から反対したのです。
それを恨みに思った細川持隆が、三好義賢の暗殺を計画・・・しかし、それを内通者の密告で知った三好義賢が、逆に細川持隆を呼びだして追及し、持隆を自刃に追い込んだのです。
それが、天文二十二年(1553年)6月17日の事でした。
理由については上記の将軍擁立云々の他にも複数あり、結局はよくわからないのですが、とにかくここで細川持隆と三好義賢との間に何かがあり、その結果、細川持隆が死去した事は確かなのです。
ただし…なんやかんや言うても細川家は代々守護で三好は代々守護代・・・
さすがに、あからさまに取って代るワケにはいかないですから、細川持隆の遺児である細川真之が安房守護家を継ぎ、三好義賢は、
「恩ある主君を自刃させてしもてスンマセン!
反省してます!」
とばかりに出家して、以後は、実休(じっきゅう)と号しました。
(三好実休を名乗り始めた時期については諸説あり)
もちろん、本日の主役=小少将の運命も変わります。
ただの愛妾だったのが、(実子が後継者になったので)阿波守護の生母に君臨・・・しかも、
「往(ゆく)サ来(くる)サノ言ノ葉ノ 色ニ乱ルル思ヒノ露」(『三好記』より)
アッと言う間に、三好長治(ながはる)と十河存保(そごうまさやす=実休の弟で讃岐の十河家を継いだ十河一存の養子になった)という二人の男子をもうけ、正室に収まったのです。
妖婦の手練手管に実休が。。。
と思いきや、二人は、かなりの仲よし夫婦で、二人の男児の他に女の子ももうけ、小少将は、三好家の家臣たちからも「大形殿」という正室を敬う尊称で呼ばれていたとか・・・
守護と守護代の後継が二人ともが自分の産んだ息子って…
見事!勝瑞城の女主人の座を射止めたわけです。
しかし永禄五年(1562年)3月、またもや彼女の運命が変わります。
畠山高政(はたけやまたかまさ)の奇襲を受けた久米田(くめだ=大阪府岸和田市)の戦いで、実休が戦死してしまったのです(3月5日参照>>)。
この時、総大将が戦死して総崩れとなった三好軍は、周辺の諸城を明け渡しつつ堺(さかい=大阪府堺市)から阿波へと、次々に敗走して来ます。
息子がいるとは言え大きな後ろ盾をうしなってしまった小少将。。。
なんと、今度は三好実休の家臣で、亡き主君を弔うために剃髪して勝瑞城に戻って来ていた敗兵の一人=篠原自遁(しのはらじとん)という人をゲットし、ちゃっかり正室に納まります。
とは言え・・・
前回&前々回は小少将も若く、花が咲き誇るがごとき美女だったわけですが、さすがに今は女盛りも過ぎようかというお年頃・・・
それは小少将ご自身も重々承知のようで、今回の結婚は、かなり強引に小少将から誘いをかけまくっての成婚だったようで、
案の定、城下には
♪大形ノ 心ヲ空ニ 篠原ヤ
ミダリニタチシ 名コソ惜シケレ ♪
てな落書が張り出されるほど有名に。。。
これに苦言を呈したのが同じく三好実休の家臣で篠原自遁の兄(とされる?)篠原長房(ながふさ)。。。
そりゃ、弟がえぇ歳のオバハンにハマって、忠誠誓った主君亡き後すぐに結婚したら…兄としても黙っていられません、
しかし、さすがは妖婦小少将・・・
「無礼千万!」
とばかりに篠原長房の顔を見るたびに嫌味グチュグチュ&難題ゴチャゴチャ・・・
耐えきれなくなった篠原長房は、自身の上桜城(うえざくらじょう=徳島県吉野川市川島町)に引き籠り、弟夫婦とは距離を置く事に・・・
そうこうしている間に、弟の実休を失った三好長慶が急激に衰え、それとともに畿内に勢力を誇った三好家も衰退の一途えぽ辿り始め(5月9日参照>>)、中央の政情が大きく変わり始めます。
三好長慶亡き後、三好家は長慶甥っ子の三好義継(よしつぐ)を担ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)と、長慶の重臣だった松永久秀(まつながひさひで)がゴチャゴチャし始める中(10月10日参照>>)、
永禄十一年(1568年)9月には、織田信長(おだのぶなが)が第15代将軍になるへく足利義昭(よしあき=義晴の息子) を奉じて上洛します(9月7日参照>>)。
そんなこんなの元亀四年(1573年)、
小少将は、うっとぉしい義兄の篠原長房を、息子=三好長治に攻めさせて滅ぼすと、もはや誰に気を使う事も無く篠原自遁との愛を謳歌・・・
その頃には、勝瑞城は、傀儡(かいらい=操り人形)城主=細川真之に代わって、三好長治が事実上の城主のように振舞っていましたが、小少将にとっては、どちらも自分の息子なので無問題!
こうして、まだまだ勝瑞城に君臨する小少将・・・
しかし残念ながら、歴史上の彼女の記録は、ここらあたりから皆無となります。
やがて天正十年(1582年)、四国統一を目指していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に攻められ、勝瑞城は陥落(9月21日参照>>)・・・
亡き兄(三好長治は天正5年=1577年に戦死)に代って城を守っていた十河存保は、讃岐へと逃走していきました。
ここからは、あくまで伝承の域を出ないお話ではありますが、
すでに篠原自遁にも先立たれていた小少将は、
なんと!長宗我部元親の側室になって、元親の五男にあたる長宗我部右近大夫(うこんたいふ)を産んだとか、産まなかったとか・・・(同名の別人説もあり)
いやはや…
ここまであからさまに「女」で勝負してくれたなら、かえって清々しいじゃ、あ~りませんか!
そして、
まるで妖艶で謎めいた猫のように…
後世の私たちに、その最期の姿を見せてくれないのも小少将らしいのかも知れません。
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コメント
かの「源氏物語」も驚きの記事の内容ですね。
ところで小少将さんは最初に子供を産んだ時は何歳だったんでしょうか?
投稿: えびすこ | 2023年7月 5日 (水) 14時30分
えびすこさん、こんばんは~
残念ながら、生年も没年も不明ですね~
なんせ、名前も残ってないくらいですから…
投稿: 茶々 | 2023年7月 6日 (木) 04時40分