蘆名の執権と呼ばれた金上盛備~摺上原に散る
天正十七年(1589年)6月5日 、伊達政宗と蘆名義広による摺上原の戦いが勃発し、5代に渡って蘆名に仕えた功臣=金上盛備が討死しました。
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そもそも坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つの三浦氏(みうらし)(鎌倉殿の13人のあの三浦です=和田合戦参照>>)の子孫である蘆名氏(あしなし)は、7代当主=蘆名直盛(あしななおもり)の時代に会津(あいづ=福島県の西部周辺)に根を下ろし、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市:後の若松城)を本拠としていました。
そんな中、戦国時代に入って会津から仙道(せんどう=仙台・信夫・安達・安積・岩瀬・白河を通る東北地方を縦断する道)へと勢力をのばして、伊達稙宗(だてたねむね)の娘を娶り、南奥州(おうしゅう=青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部など陸奥国・現在の東北地方周辺)で、その伊達家と並ぶ戦国大名にのし上がったのが、16代当主=蘆名盛氏(もりうじ)でした。
本日の主役=金上盛備(かながみもりはる)の金上氏も、同じく三浦氏を祖に持つ庶流で代々蘆名の重臣を務めていた家柄でしたが、特に金上盛備は、
上記の通り、
戦国で一大勢力にのし上がった蘆名盛氏から↓
盛興(もりおき)↓
盛隆(もりたか)↓
亀王丸(かめおうまる=隆氏?)↓
義広(よしひろ=盛重とも)までの5代の当主に仕えた功臣で、
その稀なる政治手腕から蘆名の執権(しっけん=政治の中心となった鎌倉幕府での北条氏の呼称)と呼ばれた武将なのです。
天正六年(1578年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)の養子同士による上杉家の後継者争い=御館の乱(おたてのらん)(3月17日参照>>)の時には、上杉景虎(かげとら=北条からの養子)に味方した蘆名盛氏に従って、蒲原安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)を落城させるという功績を残しています。
その後、その御館の乱の恩賞に不満を持って天正九年(1581年)頃に上杉からの独立を測った新発田重家(しばたしげいえ)(10月26日参照>>)に味方した主君の意を受けて、上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子:景虎に勝利して家督を継ぐ)とも戦う中、
このころに上杉家のゴタゴタに乗じて北陸の奥深くへと侵攻して来た織田信長(おだのぶなが)(9月24日参照>>)に金上盛備自らが出向いて謁見し、若き当主=蘆名盛隆(18代当主)を三浦介(みうらのすけ=三浦家の棟梁)と認めさせる事に成功しています。
実は、上記の盛氏の死後、息子の盛興が後を継いでいたものの、未だ子供が女子しかいないまま早世してしまったため、かつて岩瀬(いわせ=福島県白河市・須賀川市周辺)地方の二階堂盛義(にかいどうもりよし)と和睦する際に、人質として蘆名に送られて来た盛義の長男=盛隆を、亡き盛興の奧さんであった彦姫(ひこひめ=伊達晴宗の娘)と結婚させて蘆名の養子とし、第18代当主に据えていたのです。
つまり、もともと蘆名とは関係の無い盛隆を当主と仰ぐにあたって、その後ろ盾となる権威的な物を得たいと・・・このころの盛隆が、未だ10代半ばだった事を踏まえれば、これは盛隆が…というよりは金上盛備ら重臣による権威づけである事は想像に難くないわけで。。。
もちろん、そこには織田信長にとっても、絶賛合戦中の上杉景勝をけん制し、新発田重家をはじめとする東北諸大名を懐柔するべく良い作戦であった事は確かですが、蘆名にとっても、現当主が三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは、大変名誉な事だったはずですし、織田信長という中央政権に近づけた事も、この先の展開に有利となったはず。。。
やがて信長亡き後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が台頭して来ると、金上盛備は度々上洛して秀吉に謁見し、豊臣政権との接触を重ねて好を通じます。
ところがドッコイ、ここで事件が起こります。
天正十二年(1584年)10月、未だ24歳の若き当主=蘆名盛隆が、家臣によって殺され、残ったのは乳飲み子(生後1ヶ月)の亀王丸一人・・・(他は女の子3人)
何とか、亀王丸を19代当主としますが、なんと、この亀王丸も、わずか3歳で天然痘にかかって亡くなってしまうのです。
後継者がいなくなった蘆名氏・・・しかも一族の中にもしかるべき男子がいなかったため、重臣たちで意見を出し合い、他家から新たな当主を迎える事になります。
この時、重臣たちの間では、伊達政宗(まさむね=稙宗の曾孫)の弟=小次郎(こじろう=政道)が有力候補に挙がりますが、金上盛備は、それに反対し、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)の次男である義広を強く推し、結局は天正十五年(1587年)に、この蘆名義広を20代当主に据える事に成功します。
実は、伊達政宗はこれまでも度々、蘆名の領地である檜原 (ひばら=福島県の北西部)への侵入を試みており、それを危険視する金上盛備は、佐竹との関係を密にして伊達へのけん制としたかったのです。
しかし、この一件は蘆名の譜代家臣たちの間に溝を造る結果となり、外から来た若き当主には、当然、彼らを団結させる力は、まだ無いわけで・・・
そこを見逃さなかったのが伊達政宗。。。
早速、家臣の切崩しにかかり、太郎丸掃部 (たろうまるかもん)、松本備中(まつもとびっちゅう=会津松本氏)をはじめ、一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに=12代蘆名盛詮の孫)までもが、次々と離反して伊達へと走ってしまうのです。
そうして起こったのが、天正十七年(1589年)6月5日の摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦いです(6月5日参照>>)。
伊達23000に蘆名16000という数的には不利な戦いであったにも関わらず、奮戦した蘆名勢ではありましたが、やはり最後には押され気味に…
もはや蘆名の敗退は火を見るよりも明らか…となる中、養子とは言え総大将としての気概を持つ蘆名義広は、
「この一戦を最期の戦い」
と決意し、手勢400名を率いて政宗の本陣へと迫りますが、従う将兵が次々と討たれ、わずか30騎ばかりになったところで、家臣に説得されてやむなく居城の黒川城へと引き揚げて行く事になります。
そう、
金上盛備は、味方が総崩れとなる中で最後まで踏みとどまり、壮絶な討死を遂げたのです。
享年63・・・当主がいかに代ろうとも、蘆名のために生き、蘆名のために戦った生涯でした。
こうして…結果的に当主の蘆名義広は生き残ったものの、残念ながら戦国大名としての蘆名は崩壊してしまう事になります。
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コメント
ご無沙汰です。摺上原の戦いといえば、元自衛隊戦術教官の家村和幸さんが著した「真実の日本戦史」(宝島社P165)の記述が忘れられません。蘆名とともに伊達を潰したい佐竹軍が北上するととともに相馬岩城両軍も包囲網をかけようと西進したところ、伊達軍は素早く東進して相馬岩城本領を脅かしたため両軍がUターン、すると伊達軍は深入りせず会津若松方面へ南進。すでに佐竹蘆名軍は須賀川に集結していたものの、伊達が調略で猪苗代盛国を寝返らせて侵攻すると、盛国の裏切りに驚いた蘆名軍が黒川城に入った…、政宗は見事な「内線作戦」で包囲網から蘆名軍だけを戦場に引き摺りだすことに成功したのである、と。囲まれても頭目だけを潰すとはと感心致しました。
投稿: 通りすがり | 2023年6月14日 (水) 09時54分
猪苗代盛国が先鋒として参戦する事を、開戦の直前まで蘆名と佐竹は知らなかった…って事ですか?
どうなんでしょうねえ~悩みますね~
あと、申し上げ難いのですが、コメントの投稿はステハンではなく、なるべくコテハンでお願いできませんでしょうか?
「通りすがり」は、その名の通り、誤字脱字の指摘や、1回こっきりの言いっぱなしコメントに使用する「捨てる用のハンドルネーム」なので、
常連さんで、いつもコメント下さる方でも、誤字脱字の指摘用に「通りすがり」のステハンで教えてくださる事があります。
ネット上での、この場合のステハンコメントは、一般的に「これは誤字脱字の指摘なので公開しなくていいですよ」という意味で使います。
このように、ネット上では多くの方が「通りすがり」というステハンを使用されていますので、せっかくのコメントは、同一人物とわかるようにコテハンで投稿していただけるとわかりやすいと思います。
よろしくお願いします。
【ごあいさつ】>>
投稿: 茶々 | 2023年6月15日 (木) 03時40分
了解です!
投稿: 通りすがり | 2023年6月15日 (木) 12時23分
ありがとうございますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2023年6月16日 (金) 05時01分