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2023年7月24日 (月)

関白の後継者を巡って藤原道長VS藤原伊周の争い~七条大路の合戦

 

長徳元年(995年)7月24日、藤原道長と甥っ子の藤原伊周が公の場で殴り合い寸前の口論・・・これが、3日後の七条大路の合戦を引き起こします

・・・・・・・・・

永祚二年(990年)7月、朝廷内の権力争いに打ち勝ち、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する家柄)嫡流としての地位を確立し、摂政(せっしょう=幼少または女性天皇の補佐役)関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)太政大臣(だいじょうだいじん=行政機関のトップ)などを務めた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が亡くなります。

すでに病を得ていた2ヶ月前に、父から関白、次いで摂政の座を譲られていた兼家の長男=藤原道隆(みちたか)は、これにより当然、藤原家トップの座も受け継ぐ事になるわけですが、

その事で、チョイと調子に乗り過ぎたのか?
第66代一条天皇(いちじょうてんのう)女御(にょうご=奥さんの一人)になっていた娘の定子(さだこ・ていし)(1月24日参照>>)を、父の喪中にも関わらず立后(りっこう=正式に皇后に定める事)させて中宮(ちゅうぐう=皇后・皇太后・太皇太后の総称)を号したのです。

これにはさすがに公卿(くぎょう=政治家)たちも
「ちょっとイキリ過ぎなんちゃうん?」
と、しかめ面だったようですが、

そんなしかめ面程度で収められられなかったのが、道隆の弟である藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)・・・

この時、道長が中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ=后妃に関わる役所の長)に任ぜられたにも関わらず、定子のもとには参上せず、ちょっとしたストライキを決行したところ、朝廷内の公卿たちからは拍手喝采だったとか・・・

そんな中、道長は翌正暦二年(991年)に大納言(だいなごん=行政機関の次官)に任ぜられますが、

一方で、道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)である藤原伊周(これちか)は、その翌年に同じ大納言に昇進したかと思うと、2年後の正暦五年(994年)のには道長を追い越し内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)になっちゃいます。

Fusiwaranokoretika500a もちろん、伊周は叔父である道長より、10歳くらい年下・・・それは、完全に我が世の春となった道隆の七光りであり、なんなら、
「次の関白&摂政は、ウチの息子=伊周でヨロシクね」
的な未来の道筋のアピール含みで、もう道隆一家はノリノリの頂点だったのです。

「なんか…調子乗り過ぎて腹立つなぁ」
と、道長がモヤモヤしていた長徳元年(995年)春・・・

なんと!都にて赤斑瘡(あかもがさ)なる病が大ハヤリ・・・

今で言う麻疹(ましん=はしか)だそうですが、当然、現在のような予防接種もなければ、医療の発達も無いわけで、その致死率がハンパなく、流行病にかかった道隆は、長徳元年4月10日に亡くなってしまったのです。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

死に際には、当然
「関白の座は息子の伊周…」
と願いますが、許されず、

道隆の死を受けて関白の座についたのは弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)でしたが、

なんと、その後ほどなく道兼も同じ病に倒れ、1ヶ月後の5月8日に亡くなってしまうのです。。。。在位は、わずか7日間でした。

こうなれば、当然、伊周が関白の座を狙います。

伊周は、妹の定子が一条天皇の寵愛を受けている事にかこつけて一条天皇を抱き込みます。

もちろん一条天皇も、ただ単に伊周の口車に乗せられているわけではなく、愛する定子が、関白の父という大きな後ろ盾を失った事への助け舟でもあったわけですが、、、

ただ、当然ながら道長も、
「オイオイ、三男の次は四男(?)の俺ちゃうんかい!」
と、このチャンスを見逃すわけにはいきません。

それを察してくれていたのは、一条天皇の母である藤原詮子(せんし・あきこ=東三条院・64代円融天皇の女御)でした。

かねてより道長推しな詮子は、自ら一条天皇のもとへはせ参じ、
「伊周はアカンて」
「道長クンの方がえぇ子やねん」
涙ながらに訴えたりしたのです。

もはや一触即発の両者の関係・・・そんな二人は公卿会議などの公の場で激しく口論する事もありました。

そんなこんなの長徳元年(995年)7月24日

陣座(じんのざ=重要事項の議定の場所)…と言いますから、今で言えば国会議事堂の、あの国会中継される本会議の場所みたいな所でしょうか?

そんな公の場所で始まった道長VS伊周による口論・・・

内容は、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)所領帳(しょりょうちょう=今で言えば土地の権利書?)の所有を巡っての言い争い・・・って、

完全に泥沼の遺産相続のアレですがな(@o@)

それが、そのうち
「宛(あたか)も闘乱(とうらん)の如(ごと)し」by藤原実資の日記
つまり、殴り合いのようになってしまったとか。。。

とは言え、さすがに公けの場、、、ここは、周囲が両者を引きはがしたと見え、それ以上の事は無かったのですが、

その3日後の7月27日・・・

平安京の七条大路にて、道長の従者たちと伊周の弟である藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)の従者たちがやらかしてしまうのです。

なんせ、この隆家は伊周の1番の味方であり、道長が伊周の次に敵視していた人物ですから・・・

記録によれば、どうやら先に手を出したのは道長の従者たち・・・

七条通という天下の往来にて遭遇した両者の従者たちですが、隆家の従者の中に武装した者が数多くいるのを見て取った道長の従者が、
「お前ら、なに武装しとんねん!」
と、その者らを捕縛しようとした事から、

両団体の間で乱闘が始まり、やがて、それが矢を射かける合戦状態になったのです。

合戦って大げさな~っと思ってしまいますが、実際に、この出来事は「七条大路の合戦」と呼ばれ、検非違使(けびいし=警察)の発動案件となっています。

しかも、この一件で検非違使に逮捕されたのが隆家の従者だけだった事を不満に思ったのか?この2日後にも両者の間で暴力事件が発生したとか・・・

さらに、強気の道長は、
「罪人となる従者を引き渡せへんねやったら、隆家クン本人が謹慎処分受けてもらう事になるで~」
と、まだまだヤル気満々だったとか・・・

とは言え、この合戦事件は、その後の9月に道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者になった事で、何となく下火になったようですが、

だからと言って、伊周が関白の座をあきらめたわけでは無かったのですが。。。

ドッコイ、
この翌年、伊周がとんでもない事件を起こして没落のキッカケを作ってしまうのです。

長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれる花山院との闘乱事件ですが、 事件の内容は2020年1月16日のページ>>で見ていただくとして…

本来なら、関わったどちらもがが他人に知られたくないような秘め事スッパ抜いたのは、誰あろう道長。。。

つまり…事件を公にする事で、伊周をドン底に突き落とす道長砲が炸裂したわけですな。

かくして、ご存知の道長全盛への時代へと向かっていく(10月16日参照>>)事になるのです。
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2023年7月17日 (月)

窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦

 

永正三年(1506年)7月17日、筒井氏に攻められた窪城氏窪之庄城が落城する窪之庄の戦いがありました。

・・・・・・・・・

窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市窪之庄町)は、かつては興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)系の寺院=窪転経院(くぼのてんきょういん)があったとされる場所で、

窪之庄環濠集落(かんごうしゅうらく=周囲に堀をめぐらせた集落)の北に位置する小高い丘の上に、興福寺衆徒の窪城(くぼき・くぼしろ)が構築した城です。

Kubonosyouzyou800s3
窪之庄城跡(奈良県奈良市窪之庄町)

これまで何度か書かせていただいているように、ここ奈良=大和(やまと)という場所は、昔から、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強く、鎌倉時代や室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)を置く事ができなかった中で、

戦国乱世に入った頃には、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始め、興福寺に属する『衆徒』筒井(つつい=興福寺に属す)氏や、春日大社に属する『国民』越智(おち=春日大社に属す)十市(とおち=同春日大社)・・・そこに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称される国衆たち が台頭して来るのです。
(このあたりの事は【大和国衆と赤沢長経の戦い】のページ>>で書いております)

そんな大和四家には力及ばぬ窪城氏は、何とか、この乱世の荒波を乗り越えるべく窪城当主が、あの山城の国一揆(やましろのくにいっき)を鎮圧してノリノリの古市澄胤(ふるいちちょういん)(9月17日参照>>)に近づいたかと思うと、

窪城嫡男が、古市と絶賛合戦中の筒井順賢(つついじゅんけん)(9月21日参照>>)に合力する・・・という風に、どちらが倒れても窪城という名跡を残せるように動いていたのです。

古市や筒井はもちろん十市などとも縁組を模索し、何とか好を通じようと試みていたようなのですが、

ところが、いつのほどからか、窪城氏は古市に傾いていき、やがて家内は古市一色に・・・そうなると、もちろん筒井とは敵対関係になるわけで。。。

そんなこんなの永正三年(1506年)、実は窪城衆は、窪之庄の東に位置する高樋城(たかひじょう=奈良県奈良市高樋町)を治める高樋(たかひ・たかとい)と、度々境界線を巡って争っていたのですが、

その高樋氏が筒井傘下であった事もあり、ここに来て一気に攻め取らんと鼻息荒く、7月12日に周辺の峡谷に放火して気勢を挙げ、高樋城に迫ったのです。

しかし、この時は、高樋城の城兵の決死の奮戦により兵糧の補給路を断たれたため、やむなく窪城衆は撤退する事に・・・

ところが、その報復戦として、今度は筒井軍が窪之庄城に攻撃を仕掛けて来たのです。

迎え撃つ窪城衆ではありましたが、やはり筒井は大所帯・・・善戦はしたものの、多勢に無勢では如何ともし難く、永正三年(1506年)7月17日窪之庄城は落城したのでした。

Kubonosyousyouzyoukoubou
窪之庄城の戦い・位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後の筒井氏が、
順賢から筒井順興(じゅんこう=順賢の弟)→さらに筒井順昭(じゅんしょう=順興の息子)と代替わりする中で、古市や越智を押しのけて、もはや破竹の勢いで大和国内に勢力を広げていくようになるため、窪城衆は、その筒井氏の与力として生き残るしかありませんでした。
 筒井VS古市~井戸城・古市城の戦い>>
 ●天文法華の乱~大和一向一揆>>
 ●筒井順昭の柳生城攻防戦>>
 ●越智党と貝吹山城攻防戦>>

やがて、大和全域を押さえんが勢いの全盛期を築いた筒井順昭が亡くなり、わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が後を継ぐ事になった永禄二年(1559年)前後、大和平定にやって来たのが、畿内を制覇して事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

大幅改修した信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を拠点に奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城した松永久秀は、

永禄八年(1565年)には筒井順慶の本拠である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町 )を奪います(11月13日参照>>)

やむなく筒井傘下の布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと逃亡する順慶・・・

それでも、窪城衆は筒井の与力を続けていた事から、永禄十一年(1568年)10月には、窪之庄城は松永久秀からの攻撃にさらされてしまいます。

松永軍に囲まれた窪之庄城では、劣勢を跳ね返すように城兵が何度も撃って出て、松永勢に痛手を喰らわせましたが、さすがに、圧倒的な兵の数を誇る松永軍を挽回する事はできず、永禄十一年(1568年)10月10日窪之庄城は2度目の落城をしたのでした。

とは言え、この永禄十一年(1568年)という年・・・しかも10月って。。。

そう、、皆様ご存知の織田信長(おだのぶなが)上洛です。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この先、第15代室町幕府将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、9月7日に岐阜(ぎふ)を出発した信長は、9月の終わりに京都に入り、そこから10月半ばにかけて敵対する三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らの城を次々と落としていくわけですが(9月7日参照>>)

その三好三人衆とも絶賛交戦中(10月10日参照>>)の松永久秀は、この時、三好長逸(みよしながやす)から奪い取った芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に14日間滞在して畿内を平定していた信長にいち早く会いに行き、名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して織田傘下に入り、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「大和の地は自力で勝ち取っちゃってイイヨ」との信長の許可を得ちゃいます。

おそらくは、今回主役の窪城衆も、今やその主君となった筒井順慶も、信長本人に敵対する気は無かったでしょうが、今回ばかりは松永久秀に先を越されてしまった感じでしょうか?

ただ、この大物登場のおかげで、どうやら窪城衆は、ほどなく窪之庄城を奪い返し、短期の間にもとの姿に復興させる事ができていたのです。

この窪之庄城は、筒井城を奪われたままになっている筒井順慶にとって、北方に点在する松永方の諸城を攻める一つの拠点でもあり、指折りの戦略的要衝であったわけですから、

この頃、十市氏の内紛(12月9日参照>>)に乗じて、いつの間にか十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)を占拠したりして、徐々に力を蓄えていく筒井順慶を見て、すでに大和を平定したつもりでいた松永久秀も、なかなかの脅威に感じて来るわけで・・・、

元亀二年(1571年)5月9日松永久秀は再び窪之庄城を攻めたのです

しかし、この時の松永久秀は、窪城衆の繰り出すゲリラ戦に翻弄され、翌10日、長期戦になるのを恐れて、早々に兵を退いたのでした。

今回の勝利は、窪城衆に、そして彼らを配下に置く筒井順慶に、大きな自信を与えたのです。

なんせ、
このわずか半月後の8月4日、筒井順慶と窪城衆は、辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)の戦いにて松永久秀相手に大勝利を治め(8月4日参照>>)、その勢いのまま筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取る(11月26日参照>>)事になるのですから・・・

そして…さらにさらに…
やがては、松永久秀が信長と敵対(10月3日参照>>)筒井順慶こそが信長の傘下となる(10月7日参照>>)のは、皆様ご存じの通りです。
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2023年7月11日 (火)

北条早雲、相模へ進出~上杉朝良と上田政盛の権現山城の戦い

 

永正七年(1510年)7月11日、北条早雲に寝返った上田政盛権現山城を上杉朝良&上杉憲房連合軍が攻撃しました。

・・・・・・・

南北朝の動乱から、京都にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)が、本領である関東10ヶ国を統治すべく四男の足利基氏(もとうじ)を派遣した事に始まる鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)。。。(9月19日参照>>)

その補佐役として設置された関東管領(かんとうかんれい=関東執事)に代々従事していたのが上杉氏(うえすぎし)だったわけですが、それが、事実上の宗家である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)ほぼ独占状態であった事もあり、

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

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関東のゴタゴタが頂点に達した享徳四年(1455年)頃に、公方自体が幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市の堀越付近を本拠とた)と、自称の古河公方(こがくぼう=茨城県古河市付近を本拠とした)に分かれる中で、

堀越公方推す山内上杉家に対し、諸家の一つである扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)古河公方を推した事により、いつしか対立が生まれるようになってしまっていました。

しかし、ここに来て、身内同士でゴタゴタやってる場合ではなくなって来ます。

永正元年(1504年)の立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)では、甥っ子で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川氏親(いまがわうじちか)とともに扇谷上杉に味方して山内上杉に勝利してくれた北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:ここでは早雲呼びします)ですが、

Houzyousouun600 実のところ早雲は、明応二年(1493年)(異説あり)には、
かの堀越公方に勝利して伊豆討入りを果たし(10月11日参照>>)
明応四年(1495年)には小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して(2月16日参照>>)ノリノリで実効支配を拡大中・・・(8月25日参照>>)

「このままではヤバイかも…」
と思ったかどうかは定かではありませんが、

とにもかくにも永正二年(1505年)、反撃に出た山内上杉軍によって川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に追い込まれた上杉朝良(ともよし=扇谷当主)は、時の関東管領であった上杉顕定(あきさだ=山内当主)と和約して甥っ子の上杉朝興(ともおき)に家督を譲り、自らは江戸城(えどじょう=東京都千代田区)隠居する事にし、

ここに、約20年に渡る扇谷&山内=両上杉家の対立に、一応の終止符が打たれました。

そんなこんなの永正四年(1507年)・・・中央では、実子のいなかった管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)自身の後継者争い(8月1日参照>>)のゴタゴタで暗殺される(6月23日参照>>)という事件が起こり、

その約ひと月後の越後(えちご=新潟県)では、上記の政元とツルんでした越後守護の上杉房能(ふさよし=山内上杉顕定の弟)が、守護代(しゅごだい=副知事)長尾為景(ながおためかげ=後の上杉謙信の父)に追われて自刃するという下剋上が起こります(8月7日参照>>)

弟を殺された事に怒り心頭の上杉顕定は、養子の上杉憲房(のりふさ)とともに越後に侵攻して長尾為景に報復しようとしますが、逆に長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて長尾方の高梨政盛(たかなしまさもり)敗れて自刃してしまうのです(6月20日参照>>)

実は、この上杉顕定には実子は女子しかおらず、養子が上記の上杉憲房と、もう一人・・・足利家から養子に入った上杉顕実(あきざね=足利義綱)がいる。。。

養父の死の直後、一旦は、この上杉顕実が家督と関東管領職を受け継ぐのですが、、、お察しの通り、その状況に上杉憲房は不満ムンムン。。。

Gongenyamazyounotatakai
●権現山城の戦い位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

…てな事で、お待たせしました!(前置き長くてスンマセンm(_ _)m)
このチャンスに行動を起こすのが、我らが北条早雲。。。

なんせ、両上杉家の間を縫って関東での力を広げたいわけですから。。。

すでに不穏な空気を読み取って行動を起こしていた北条早雲は、上杉顕定らが越後に行っている永正七年(1510年)5月の時点で、武蔵(むさし=東京と埼玉・神奈川の一部)に侵出し椚田城(くぬぎだじょう=東京都八王子市:初沢城)を落としています。

さらに相模(さがみ=神奈川県)へと展開して住吉要害(すみよしようがい=神奈川県平塚市:鎌倉時代の山下長者の館跡)押さえて実戦に使えるよう再構築しつつ、権現山城(ごんげんやまじょう=神奈川県横浜市)上田政盛(うえだまさもり)を味方に引き入れたのです。

上田政盛の上田氏は、平安&鎌倉の昔から続く武蔵七党(むさししちとう)の家系で代々扇谷上杉氏の家臣で、しかも彼は嫡流・・・

そんな生粋の上杉家臣の離反を見過せなかったのが上杉憲房と、かの時に江戸城に引っ込んだ上杉朝良だったのです。

かくして永正七年(1510年)7月11日、上杉朝良は自ら出陣…上杉憲房は配下の成田親泰(なりたちかやす)渋江孫太郎(しぶえまごたろう)らを派遣し、さらに武蔵の一揆衆までも動員して権現山城を囲んだのです。

その日の正午頃に始まった攻撃は、そこから昼夜を問わず激しく続き、しかも上杉方は、どんどん新手を繰り出して来て止む事が無かったとか・・・

「…雲の浪 煙の波 天に連なりて辺なく…」『鎌倉九代紀』より)

さらに越後からも加勢が駆けつける中、大手から弓隊が仕掛けると、寄せ手の2万余騎が破竹の勢いで城の三方を取り囲み、天地を揺るがさんが如く一斉に鬨(とき)の声を挙げて籠城する城兵を悩ませ、晴天が霧に包まれて暗闇と化すほどの煙塵が立ち込める激しい攻撃。。。

やがて城の一部を占領されながらも、踏ん張って踏ん張って8日間耐えた権現山城も、ついに7月19日の真夜中、城は炎に包まれて落城したのでした。

この間、援軍に駆け付けた北条早雲も、敵軍のあまりの攻撃の激しさに退けられ、手出しできずにいましたが、この落城のドサクサに紛れて、何とか上田政盛を救い出し小田原まで逃亡させる事には成功しています。

ただし、この間に、東相模の大名=三浦義同(みうらよしあつ=三浦道寸)住吉要害を奪われて、さらに小田原への侵攻の気配が見えたため、北条早雲は、一旦、相模侵攻の手を止めて態勢を整える事にしたようで、ほどなく扇谷上杉家と和睦しています。

とは言え、ご存知のように、結局、北条早雲は相模制覇に向けて動き出すわけで・・・

と、そのお話は、
2年後の永正九年(1512年)に起こった岡崎城(おかざきじょう=神奈川県伊勢原市)の攻防=【北条早雲~悲願の相模制覇に向けて】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2023年7月 3日 (月)

武田信玄の諏訪侵攻~諏訪頼重との桑原城の戦い

 

天文十一年(1542年)7月3日、武田信玄が諏訪頼重を滅ぼす事になる桑原城の戦いの戦いがありました。

・・・・・・・・・

天文八年(1539年)11月 、半世紀以上に渡って諏訪大社上社神職を世襲する信濃諏訪郡(すわぐん=長野県諏訪郡)の領主であった諏訪頼満(すわよりみつ)が亡くなります。

この時、息子の諏訪頼隆(よりたか)が父より先に若くして亡くなっていたために、すでに5年前に孫の諏訪頼重(よりしげ)家督を譲っており、後継者問題は安心。。。

かつては境界を巡って争った隣国=甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)との同盟も、この祖父が、自身の代でしっかり結んでくれていたおかげで、亡くなったとて揺るぐ事なく、

むしろ、さらに強固にすべく、翌年の天文九年(1540年)に諏訪頼重は、武田信虎の三女=禰々(ねね=禰々御料人)を娶り、ほどなく嫡男の寅王丸(とらおうまる=長岌)をもうけています。

『寿斎記(じゅさいき)によれば、
この時、武田から嫁を娶ると同時に、諏訪からも同盟の証として諏訪頼重の娘(母は側室)が武田に遣わされ、その彼女が諏訪御料人(すわごりょうにん=勝頼の母)である…とされていますが、

一般的には『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にある「諏訪御料人は諏訪氏を滅ぼした後に側室にした」との見方が有力です。

いずれにしても…ここらあたりまでは、武田と諏訪の関係も平和そのものだったワケですが、天文十年(1541年)6月、状況が一変します。

Takedasingen600b そう・・・武田信虎の息子=武田晴信(はるのぶ=後の信玄)による武田家内クーデターです(6月14日参照>>)

その理由は様々に語られますが、

とにもかくにも、
父の信虎が、娘(定恵院=信玄の姉)の嫁ぎ先である隣国=駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)を訪ねて甲斐を留守にしている間に、

息子の信玄(しんげん=ややこしいので信玄呼びします)がクーデターを起こして勝手に武田の当主となって父を拒否し、信虎は、そのまま甲斐に戻れなくなり、事実上、追放された…あの一件です。

これによって、信玄率いるニュー武田家の対外政策も180度変わってしまう事になるのです。

年が明けた天文十一年(1542年)、先代とはうって変わって諏訪への侵攻を画策する信玄に対し、

さっそく、かねてより諏訪頼重に反感を持っていた伊那(いな=長野県飯田市・伊那市・駒ヶ根市周辺)地方の高遠頼継(たかとおよりつぐ)や、諏訪上社禰宜(ねぎ=神職)矢島満清(やしまみつきよ)らが信玄に内通。。。

天文十一年(1542年)6月24日、信玄は自ら諏訪に向かって出陣したのです。
(6月24日参照>>内容少しカブッてますm(_ _)m)

Suwakuwabarazyounotatakai
●↑桑原城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

6月29日に、信玄が御射山(みさやま=長野県諏訪市八島ケ原)に本陣を置くと、これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原(やざきはら=長野県茅野市)まで出陣して武田軍と対峙しますが、このまま武田軍とまともに戦っても勝てるまでの兵力を持っていなかった諏訪軍は、その日はやむなく撤退・・・

しかし、その夜のうちに武田軍が長峰(ながみね)から田沢(たざわ)へと進み、翌2日の早朝に、両者は筒口原(つつぐちはら)で対峙します。

この頃には、高遠頼継も杖突峠(つえつきとうげ=長野県伊那市と茅野市との境)を越えて諏訪盆地に侵入し、諏訪軍の背後を突きます。

これには諏訪軍も動揺・・・やむなく諏訪頼重は重臣たちの進言に従い、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市茅野上原)火を放って城を捨て桑原城(くわばらじょう=長野県諏訪市四賀桑原)へと後退したのです。

この日、炎に包まれた上原城を、武田軍が占拠します。

かくして天文十一年(1542年)7月3日武田軍が高橋口から、高遠勢が大熊口から、一斉に桑原城に迫ります。

先日も、武田軍オンリーでも対戦できるほどの数の兵を出せなかった諏訪勢・・・今度は高遠勢らも加わっての合戦ですから、さすがに多勢に無勢・・・

その数の差のワリにはよく戦った諏訪の城兵たちでしたが、さすがに翌日の4日になると、兵たちは疲弊し始め、我慢できない兵士たちは徐々に何処かへと四散しはじめます。

この状況に落城討死の覚悟を決める諏訪頼重。。。

…と、そこに武田側から和睦の提案が・・・
諏訪頼重は、その命が保障されるという条件で和睦を承諾し、開城に踏み切りましたが、

残念ながら、その約束は破られ、甲斐の東光寺(とうこうじ=山梨県甲府市)に連れて行かれて幽閉された後、7月21日に切腹を命じられ、ここに信濃の名門の一つであった諏訪惣領家は滅亡したのでした。

このあと信玄は、領地配分に不満を抱いた高遠頼継と宮川橋(みやがわばし=長野県茅野市宮川区)付近で戦う事になるのですが、そのお話は、また、その日の日付にてご紹介させていただきたいと思いますm(_ _)m
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