« 窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦 | トップページ | 持統天皇の夢を一身に受けた文武天皇の即位 »

2023年7月24日 (月)

関白の後継者を巡って藤原道長VS藤原伊周の争い~七条大路の合戦

 

長徳元年(995年)7月24日、藤原道長と甥っ子の藤原伊周が公の場で殴り合い寸前の口論・・・これが、3日後の七条大路の合戦を引き起こします

・・・・・・・・・

永祚二年(990年)7月、朝廷内の権力争いに打ち勝ち、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する家柄)嫡流としての地位を確立し、摂政(せっしょう=幼少または女性天皇の補佐役)関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)太政大臣(だいじょうだいじん=行政機関のトップ)などを務めた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が亡くなります。

すでに病を得ていた2ヶ月前に、父から関白、次いで摂政の座を譲られていた兼家の長男=藤原道隆(みちたか)は、これにより当然、藤原家トップの座も受け継ぐ事になるわけですが、

その事で、チョイと調子に乗り過ぎたのか?
第66代一条天皇(いちじょうてんのう)女御(にょうご=奥さんの一人)になっていた娘の定子(さだこ・ていし)(1月24日参照>>)を、父の喪中にも関わらず立后(りっこう=正式に皇后に定める事)させて中宮(ちゅうぐう=皇后・皇太后・太皇太后の総称)を号したのです。

これにはさすがに公卿(くぎょう=政治家)たちも
「ちょっとイキリ過ぎなんちゃうん?」
と、しかめ面だったようですが、

そんなしかめ面程度で収められられなかったのが、道隆の弟である藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)・・・

この時、道長が中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ=后妃に関わる役所の長)に任ぜられたにも関わらず、定子のもとには参上せず、ちょっとしたストライキを決行したところ、朝廷内の公卿たちからは拍手喝采だったとか・・・

そんな中、道長は翌正暦二年(991年)に大納言(だいなごん=行政機関の次官)に任ぜられますが、

一方で、道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)である藤原伊周(これちか)は、その翌年に同じ大納言に昇進したかと思うと、2年後の正暦五年(994年)のには道長を追い越し内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)になっちゃいます。

Fusiwaranokoretika500a もちろん、伊周は叔父である道長より、10歳くらい年下・・・それは、完全に我が世の春となった道隆の七光りであり、なんなら、
「次の関白&摂政は、ウチの息子=伊周でヨロシクね」
的な未来の道筋のアピール含みで、もう道隆一家はノリノリの頂点だったのです。

「なんか…調子乗り過ぎて腹立つなぁ」
と、道長がモヤモヤしていた長徳元年(995年)春・・・

なんと!都にて赤斑瘡(あかもがさ)なる病が大ハヤリ・・・

今で言う麻疹(ましん=はしか)だそうですが、当然、現在のような予防接種もなければ、医療の発達も無いわけで、その致死率がハンパなく、流行病にかかった道隆は、長徳元年4月10日に亡くなってしまったのです。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

死に際には、当然
「関白の座は息子の伊周…」
と願いますが、許されず、

道隆の死を受けて関白の座についたのは弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)でしたが、

なんと、その後ほどなく道兼も同じ病に倒れ、1ヶ月後の5月8日に亡くなってしまうのです。。。。在位は、わずか7日間でした。

こうなれば、当然、伊周が関白の座を狙います。

伊周は、妹の定子が一条天皇の寵愛を受けている事にかこつけて一条天皇を抱き込みます。

もちろん一条天皇も、ただ単に伊周の口車に乗せられているわけではなく、愛する定子が、関白の父という大きな後ろ盾を失った事への助け舟でもあったわけですが、、、

ただ、当然ながら道長も、
「オイオイ、三男の次は四男(?)の俺ちゃうんかい!」
と、このチャンスを見逃すわけにはいきません。

それを察してくれていたのは、一条天皇の母である藤原詮子(せんし・あきこ=東三条院・64代円融天皇の女御)でした。

かねてより道長推しな詮子は、自ら一条天皇のもとへはせ参じ、
「伊周はアカンて」
「道長クンの方がえぇ子やねん」
涙ながらに訴えたりしたのです。

もはや一触即発の両者の関係・・・そんな二人は公卿会議などの公の場で激しく口論する事もありました。

そんなこんなの長徳元年(995年)7月24日

陣座(じんのざ=重要事項の議定の場所)…と言いますから、今で言えば国会議事堂の、あの国会中継される本会議の場所みたいな所でしょうか?

そんな公の場所で始まった道長VS伊周による口論・・・

内容は、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)所領帳(しょりょうちょう=今で言えば土地の権利書?)の所有を巡っての言い争い・・・って、

完全に泥沼の遺産相続のアレですがな(@o@)

それが、そのうち
「宛(あたか)も闘乱(とうらん)の如(ごと)し」by藤原実資の日記
つまり、殴り合いのようになってしまったとか。。。

とは言え、さすがに公けの場、、、ここは、周囲が両者を引きはがしたと見え、それ以上の事は無かったのですが、

その3日後の7月27日・・・

平安京の七条大路にて、道長の従者たちと伊周の弟である藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)の従者たちがやらかしてしまうのです。

なんせ、この隆家は伊周の1番の味方であり、道長が伊周の次に敵視していた人物ですから・・・

記録によれば、どうやら先に手を出したのは道長の従者たち・・・

七条通という天下の往来にて遭遇した両者の従者たちですが、隆家の従者の中に武装した者が数多くいるのを見て取った道長の従者が、
「お前ら、なに武装しとんねん!」
と、その者らを捕縛しようとした事から、

両団体の間で乱闘が始まり、やがて、それが矢を射かける合戦状態になったのです。

合戦って大げさな~っと思ってしまいますが、実際に、この出来事は「七条大路の合戦」と呼ばれ、検非違使(けびいし=警察)の発動案件となっています。

しかも、この一件で検非違使に逮捕されたのが隆家の従者だけだった事を不満に思ったのか?この2日後にも両者の間で暴力事件が発生したとか・・・

さらに、強気の道長は、
「罪人となる従者を引き渡せへんねやったら、隆家クン本人が謹慎処分受けてもらう事になるで~」
と、まだまだヤル気満々だったとか・・・

とは言え、この合戦事件は、その後の9月に道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者になった事で、何となく下火になったようですが、

だからと言って、伊周が関白の座をあきらめたわけでは無かったのですが。。。

ドッコイ、
この翌年、伊周がとんでもない事件を起こして没落のキッカケを作ってしまうのです。

長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれる花山院との闘乱事件ですが、 事件の内容は2020年1月16日のページ>>で見ていただくとして…

本来なら、関わったどちらもがが他人に知られたくないような秘め事スッパ抜いたのは、誰あろう道長。。。

つまり…事件を公にする事で、伊周をドン底に突き落とす道長砲が炸裂したわけですな。

かくして、ご存知の道長全盛への時代へと向かっていく(10月16日参照>>)事になるのです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦 | トップページ | 持統天皇の夢を一身に受けた文武天皇の即位 »

平安時代」カテゴリの記事

コメント

もしかすると「源氏物語」での小競り合いの元ネタになった出来事では?
来年の大河ドラマでも触れられそうな出来事ですが、文中に出ている藤原隆家の代役がまだ決まっていません。今週そのほかの人物の新キャストが決まりました。あと、劇中劇として触れるであろう「源氏物語」の登場人物の配役もまだ未定です。

投稿: えびすこ | 2023年7月29日 (土) 08時43分

えびすさん、こんばんは~

物語が進む中で源氏物語に触れる部分はあると思いますが、劇中劇とはならないんじゃないでしょうか?

今現存する写本の数々が、どれだけ紫式部が書いた原本に近いのか?定かでは無い状態でやっちゃうと、それは大河ドラマではなくなってしまう気がします。

ま、今年の大河ドラマのように「これが新しい大河ドラマです」って言われて劇中劇が始まっちゃえば「そうなんだ~」と納得するしかないですがww

投稿: 茶々 | 2023年7月30日 (日) 02時01分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦 | トップページ | 持統天皇の夢を一身に受けた文武天皇の即位 »