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2023年7月 3日 (月)

武田信玄の諏訪侵攻~諏訪頼重との桑原城の戦い

 

天文十一年(1542年)7月3日、武田信玄が諏訪頼重を滅ぼす事になる桑原城の戦いの戦いがありました。

・・・・・・・・・

天文八年(1539年)11月 、半世紀以上に渡って諏訪大社上社神職を世襲する信濃諏訪郡(すわぐん=長野県諏訪郡)の領主であった諏訪頼満(すわよりみつ)が亡くなります。

この時、息子の諏訪頼隆(よりたか)が父より先に若くして亡くなっていたために、すでに5年前に孫の諏訪頼重(よりしげ)家督を譲っており、後継者問題は安心。。。

かつては境界を巡って争った隣国=甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)との同盟も、この祖父が、自身の代でしっかり結んでくれていたおかげで、亡くなったとて揺るぐ事なく、

むしろ、さらに強固にすべく、翌年の天文九年(1540年)に諏訪頼重は、武田信虎の三女=禰々(ねね=禰々御料人)を娶り、ほどなく嫡男の寅王丸(とらおうまる=長岌)をもうけています。

『寿斎記(じゅさいき)によれば、
この時、武田から嫁を娶ると同時に、諏訪からも同盟の証として諏訪頼重の娘(母は側室)が武田に遣わされ、その彼女が諏訪御料人(すわごりょうにん=勝頼の母)である…とされていますが、

一般的には『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にある「諏訪御料人は諏訪氏を滅ぼした後に側室にした」との見方が有力です。

いずれにしても…ここらあたりまでは、武田と諏訪の関係も平和そのものだったワケですが、天文十年(1541年)6月、状況が一変します。

Takedasingen600b そう・・・武田信虎の息子=武田晴信(はるのぶ=後の信玄)による武田家内クーデターです(6月14日参照>>)

その理由は様々に語られますが、

とにもかくにも、
父の信虎が、娘(定恵院=信玄の姉)の嫁ぎ先である隣国=駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)を訪ねて甲斐を留守にしている間に、

息子の信玄(しんげん=ややこしいので信玄呼びします)がクーデターを起こして勝手に武田の当主となって父を拒否し、信虎は、そのまま甲斐に戻れなくなり、事実上、追放された…あの一件です。

これによって、信玄率いるニュー武田家の対外政策も180度変わってしまう事になるのです。

年が明けた天文十一年(1542年)、先代とはうって変わって諏訪への侵攻を画策する信玄に対し、

さっそく、かねてより諏訪頼重に反感を持っていた伊那(いな=長野県飯田市・伊那市・駒ヶ根市周辺)地方の高遠頼継(たかとおよりつぐ)や、諏訪上社禰宜(ねぎ=神職)矢島満清(やしまみつきよ)らが信玄に内通。。。

天文十一年(1542年)6月24日、信玄は自ら諏訪に向かって出陣したのです。
(6月24日参照>>内容少しカブッてますm(_ _)m)

Suwakuwabarazyounotatakai
●↑桑原城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

6月29日に、信玄が御射山(みさやま=長野県諏訪市八島ケ原)に本陣を置くと、これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原(やざきはら=長野県茅野市)まで出陣して武田軍と対峙しますが、このまま武田軍とまともに戦っても勝てるまでの兵力を持っていなかった諏訪軍は、その日はやむなく撤退・・・

しかし、その夜のうちに武田軍が長峰(ながみね)から田沢(たざわ)へと進み、翌2日の早朝に、両者は筒口原(つつぐちはら)で対峙します。

この頃には、高遠頼継も杖突峠(つえつきとうげ=長野県伊那市と茅野市との境)を越えて諏訪盆地に侵入し、諏訪軍の背後を突きます。

これには諏訪軍も動揺・・・やむなく諏訪頼重は重臣たちの進言に従い、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市茅野上原)火を放って城を捨て桑原城(くわばらじょう=長野県諏訪市四賀桑原)へと後退したのです。

この日、炎に包まれた上原城を、武田軍が占拠します。

かくして天文十一年(1542年)7月3日武田軍が高橋口から、高遠勢が大熊口から、一斉に桑原城に迫ります。

先日も、武田軍オンリーでも対戦できるほどの数の兵を出せなかった諏訪勢・・・今度は高遠勢らも加わっての合戦ですから、さすがに多勢に無勢・・・

その数の差のワリにはよく戦った諏訪の城兵たちでしたが、さすがに翌日の4日になると、兵たちは疲弊し始め、我慢できない兵士たちは徐々に何処かへと四散しはじめます。

この状況に落城討死の覚悟を決める諏訪頼重。。。

…と、そこに武田側から和睦の提案が・・・
諏訪頼重は、その命が保障されるという条件で和睦を承諾し、開城に踏み切りましたが、

残念ながら、その約束は破られ、甲斐の東光寺(とうこうじ=山梨県甲府市)に連れて行かれて幽閉された後、7月21日に切腹を命じられ、ここに信濃の名門の一つであった諏訪惣領家は滅亡したのでした。

このあと信玄は、領地配分に不満を抱いた高遠頼継と宮川橋(みやがわばし=長野県茅野市宮川区)付近で戦う事になるのですが、そのお話は2024年9月25日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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