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2023年8月 1日 (火)

持統天皇の夢を一身に受けた文武天皇の即位

 

文武天皇元年(697年)8月1日、珂瑠皇子が第42代・文武天皇として即位しました。 

・・・・・・・・・

あの壬申の乱に勝利して(7月7日参照>>)第40代天皇となった天武天皇(てんむてんのう)と、その皇后である鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)の間に生まれた草壁皇子(くさかべのみこ)第一皇子として 天武天皇十一年(683年)誕生した珂瑠皇子(かるのみこ=軽皇子)。。。

Tennoukeizumonmu ←天皇系図(クリックで大きく)
(色々略してます)

誕生から3年後の朱鳥元年(686年)に祖父の天武天皇が崩御(9月9日参照>>)・・・

この時、天武天皇には10人ほど皇子がいましたが、第1皇子の高市皇子(たけちのみこ)の母は身分が低く、

後継者と目されたのは、皇后である鸕野讚良皇女が産んだ上記の第2皇子=草壁皇子か、その姉である大田皇女(おおたのひめみこ)が産んだ第3皇子の大津皇子(おおつのみこ)の二人でした。

そのため、すでに天武八年(679年)の5月に、天武天皇&皇后はじめ皇子や皇女も引き連れて、思い出の地(壬申の乱の旗揚げ地)である吉野(よしの=奈良県)へ赴き

吉野の誓い吉野の盟約とも)と呼ばれる「みんな仲良くやろうね」の誓いの儀式を行い(1月18日後半部分参照>>)、その代表者を草壁皇子にやらせて、後継者感を出していたのです。

しかし、優秀だと評判の大津皇子の事が気になる鸕野讚良皇女は、おそらくは、その計略?によって、天武天皇の崩御からわずか1ヶ月後に大津皇子を抹殺(←あくまで噂です)(10月3日参照>>)・・・

これで一安心・・・と思いきや、なんと、その草壁皇子が27歳の若さにして持統天皇3年(689年)4月に病没してしまうのです。

息子を亡くした鸕野讚良皇女は、その皇統を継ぐ者として草壁皇子の第1皇子である本日の主役=珂瑠皇子を後継者に立てようとしますが、未だ6歳の幼児ですし、上記の通り天武天皇の皇子中で適齢期な人も多くいたため、どうしたものか・・・

と、考えた末に鸕野讚良皇女は、自ら第41代・持統天皇(じとうてんのう)として即位・・・皇室史上3人目の女帝となったのでした。

そう、それもこれも愛する息子の忘れ形見である幼き珂瑠皇子に皇位を継承するため、、、

「見ときや!お祖母ちゃん、頑張るで~」
とばかりに、亡き天武天皇から引き継いだ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を頒布(はんぷ)し、日本初の本格的な都=藤原京を造営→遷都するのです(12月6日参照>>)
(なんなら、天孫降臨の神話も祖母から孫への継承話にしちゃったか?)

その後、これまで太政大臣(だいじょうだいじん=行政機関のトップ)として持統天皇を支えてくれていた長子の高市皇子が持統天皇十年(696年)に亡くなると、

Monmutennou600as 満を持して、その翌年の文武天皇元年(697年)8月1日、14歳という当時としては異例の若さで珂瑠皇子が、第42代・文武天皇(もんむてんのう)として即位し、

同時に祖母の持統天皇が太上天皇(だいじょうてんのう=譲位した天皇)と称して、若き天皇をサポートする体制になったのです。

もちろん、この太上天皇という称号は先例のない初の試み・・・

これを、
お祖母ちゃんの愛?と感じるか、
何が何でも自身の血脈に後を継がせたい女帝のエゴ?
と感じるかは、人それぞれでしょうが。。。

とにもかくにも、こうして即位した文武天皇は、穏やかな性格で怒りを露わにする事無く、それでいて歴史書や仏典に親しむ博学であり、弓の腕前も相当な物という、文字通り、文武両道の天皇様だったとか。。。

文武天皇三年(699年)には、
「呪術で民衆を惑わした」
あるいは「謀反を企てた」
として役小角(えんのおずね=役行者)を流刑にします(5月24日参照>>)が、
(ま、これは天皇の…というよりは官僚主導かも知れませんが)

一方で、即位から4年後の701年には、
「対馬(つしま)から金が出た」
という報告を受け、元号が大宝となり、

ご存知の大宝律令(たいほうりつりょう)が完成(8月3日参照>>)・・・一般的には、ここで日本(やまと)という国名も定められたとされます。

また、この文武天皇の治世の頃は、日照りの日が多く飢饉となる年が頻繁にあったため、天皇は、その度に年貢を軽減したり、皇室の蓄えを解放したり、雨乞いの儀式も何度も行ったとか。。。

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持統天皇が通った吉野への道筋に残る雨乞い儀式仮南無天踊りの様子(飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社)

さらに、地方に疫病が流行したと聞くや、医師と薬を現地に派遣して病人を救ったと言います。

その後、大宝二年(702年)12月には最愛の祖母=持統太政天皇が崩御しますが、この時、太政天皇は
「自分の葬儀は倹約するように…」
との遺言を残していたらしく、

その遺言通り、当時は行われていた
「死者を悼んで泣き叫ぶ儀式」
を中止し、喪服を着る事も無く、役人たちは通常通りの業務を行ったのだとか・・・

その5年後の慶雲四年(707年)6月15日文武天皇は未だ25歳の若さで崩御されますが、天皇もまた、葬儀を縮小するよう遺言を残したと言います。

実は、これには去る文武天皇四年(700年)に亡くなった僧=道昭(どうしょう)の影響が大きいらしい。。。

道昭は、かつて遣唐使として唐に入り、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記の三蔵法師です)の弟子になった人・・・

しかも、玄奘に大いに気に入られる優秀ぶりで、現地の学僧の指導もし、帰国の際には多くの経典を持ち帰り、さらに、唐で得た最先端の知識で以って地方の土木工事を指導したという、当時トップクラスの知識人で、

どうやら文武天皇は、この方から様々な教育を受けていたようなのですが、そんな道昭は、日本で初めて火葬で葬られた方なのです(3月10日参照>>)

つまり、そんな彼の指導を受けていた文武天皇もまた、自身の葬儀に質素倹約を心がけたという事なのでしょう。

わずか10年の在位ながら、飛鳥時代から奈良時代へと移行する節目のような時代に生きた文武天皇・・・

その後は、第1皇子の首皇子(おびとのみこ=後の聖武天皇)が未だ7歳の幼子であったため、首皇子へとつなぐ架け橋として文武天皇の生母(つまり草壁皇子の妃)である阿陪皇女(あへのひめみこ)が第43代=元明天皇(げんめいてんのう)として即位したのでした。
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コメント

「天上の虹」の最終盤の方で持統天皇から文武天皇への代替わりの過程が描写されています。
願わくば「天上の虹」を原作に5年後あたりにNHK大河ドラマになれば(実現できれば初の「漫画原作」)と切に願います。

なお、「天上の虹」は当初の何年かは雑誌連載でしたが、コミック本発行の後半部分は書き下ろしになったことと、いったん原稿を書いた直後に新資料・新説発見などの事情で、作者の想定より新刊の発行頻度が遅くなり、最末期は新刊発売が数年に1冊の頻度となりました。

投稿: えびすこ | 2023年8月 4日 (金) 13時49分

えびすこさん、こんばんは~

私も「漫画原作」はアリ派です。

今年のように、おそらく歴史好きではない方が作&脚本されるなら、秀逸な漫画の方がオモシロイと思います。

「大奥」を見てると、こっちが大河ちゃうん?と思うくらい良いですが、色々誓約があるのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2023年8月 5日 (土) 04時08分

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