北条早雲、相模へ進出~上杉朝良と上田政盛の権現山城の戦い
永正七年(1510年)7月11日、北条早雲に寝返った上田政盛の権現山城を上杉朝良&上杉憲房連合軍が攻撃しました。
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南北朝の動乱から、京都にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)が、本領である関東10ヶ国を統治すべく四男の足利基氏(もとうじ)を派遣した事に始まる鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)。。。(9月19日参照>>)
その補佐役として設置された関東管領(かんとうかんれい=関東執事)に代々従事していたのが上杉氏(うえすぎし)だったわけですが、それが、事実上の宗家である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)のほぼ独占状態であった事もあり、
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関東のゴタゴタが頂点に達した享徳四年(1455年)頃に、公方自体が幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市の堀越付近を本拠とた)と、自称の古河公方(こがくぼう=茨城県古河市付近を本拠とした)に分かれる中で、
堀越公方推す山内上杉家に対し、諸家の一つである扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が古河公方を推した事により、いつしか対立が生まれるようになってしまっていました。
しかし、ここに来て、身内同士でゴタゴタやってる場合ではなくなって来ます。
永正元年(1504年)の立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)では、甥っ子で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)の今川氏親(いまがわうじちか)とともに扇谷上杉に味方して山内上杉に勝利してくれた北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:ここでは早雲呼びします)ですが、
実のところ早雲は、明応二年(1493年)(異説あり)には、
かの堀越公方に勝利して伊豆討入りを果たし(10月11日参照>>)、
明応四年(1495年)には小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して(2月16日参照>>)、ノリノリで実効支配を拡大中・・・(8月25日参照>>)
「このままではヤバイかも…」
と思ったかどうかは定かではありませんが、
とにもかくにも永正二年(1505年)、反撃に出た山内上杉軍によって川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に追い込まれた上杉朝良(ともよし=扇谷当主)は、時の関東管領であった上杉顕定(あきさだ=山内当主)と和約して甥っ子の上杉朝興(ともおき)に家督を譲り、自らは江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に隠居する事にし、
ここに、約20年に渡る扇谷&山内=両上杉家の対立に、一応の終止符が打たれました。
そんなこんなの永正四年(1507年)・・・中央では、実子のいなかった管領(かんれい=将軍の補佐)=細川政元(ほそかわまさもと)が自身の後継者争い(8月1日参照>>)のゴタゴタで暗殺される(6月23日参照>>)という事件が起こり、
その約ひと月後の越後(えちご=新潟県)では、上記の政元とツルんでした越後守護の上杉房能(ふさよし=山内上杉顕定の弟)が、守護代(しゅごだい=副知事)の長尾為景(ながおためかげ=後の上杉謙信の父)に追われて自刃するという下剋上が起こります(8月7日参照>>)。
弟を殺された事に怒り心頭の上杉顕定は、養子の上杉憲房(のりふさ)とともに越後に侵攻して長尾為景に報復しようとしますが、逆に長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて長尾方の高梨政盛(たかなしまさもり)に敗れて自刃してしまうのです(6月20日参照>>)。
実は、この上杉顕定には実子は女子しかおらず、養子が上記の上杉憲房と、もう一人・・・足利家から養子に入った上杉顕実(あきざね=足利義綱)がいる。。。
養父の死の直後、一旦は、この上杉顕実が家督と関東管領職を受け継ぐのですが、、、お察しの通り、その状況に上杉憲房は不満ムンムン。。。
●権現山城の戦い位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
…てな事で、お待たせしました!(前置き長くてスンマセンm(_ _)m)
このチャンスに行動を起こすのが、我らが北条早雲。。。
なんせ、両上杉家の間を縫って関東での力を広げたいわけですから。。。
すでに不穏な空気を読み取って行動を起こしていた北条早雲は、上杉顕定らが越後に行っている永正七年(1510年)5月の時点で、武蔵(むさし=東京と埼玉・神奈川の一部)に侵出し椚田城(くぬぎだじょう=東京都八王子市:初沢城)を落としています。
さらに相模(さがみ=神奈川県)へと展開して住吉要害(すみよしようがい=神奈川県平塚市:鎌倉時代の山下長者の館跡)を押さえて実戦に使えるよう再構築しつつ、権現山城(ごんげんやまじょう=神奈川県横浜市)の上田政盛(うえだまさもり)を味方に引き入れたのです。
上田政盛の上田氏は、平安&鎌倉の昔から続く武蔵七党(むさししちとう)の家系で代々扇谷上杉氏の家臣で、しかも彼は嫡流・・・
そんな生粋の上杉家臣の離反を見過せなかったのが上杉憲房と、かの時に江戸城に引っ込んだ上杉朝良だったのです。
かくして永正七年(1510年)7月11日、上杉朝良は自ら出陣…上杉憲房は配下の成田親泰(なりたちかやす)や渋江孫太郎(しぶえまごたろう)らを派遣し、さらに武蔵の一揆衆までも動員して権現山城を囲んだのです。
その日の正午頃に始まった攻撃は、そこから昼夜を問わず激しく続き、しかも上杉方は、どんどん新手を繰り出して来て止む事が無かったとか・・・
「…雲の浪 煙の波 天に連なりて辺なく…」(『鎌倉九代紀』より)
さらに越後からも加勢が駆けつける中、大手から弓隊が仕掛けると、寄せ手の2万余騎が破竹の勢いで城の三方を取り囲み、天地を揺るがさんが如く一斉に鬨(とき)の声を挙げて籠城する城兵を悩ませ、晴天が霧に包まれて暗闇と化すほどの煙塵が立ち込める激しい攻撃。。。
やがて城の一部を占領されながらも、踏ん張って踏ん張って8日間耐えた権現山城も、ついに7月19日の真夜中、城は炎に包まれて落城したのでした。
この間、援軍に駆け付けた北条早雲も、敵軍のあまりの攻撃の激しさに退けられ、手出しできずにいましたが、この落城のドサクサに紛れて、何とか上田政盛を救い出し小田原まで逃亡させる事には成功しています。
ただし、この間に、東相模の大名=三浦義同(みうらよしあつ=三浦道寸)に住吉要害を奪われて、さらに小田原への侵攻の気配が見えたため、北条早雲は、一旦、相模侵攻の手を止めて態勢を整える事にしたようで、ほどなく扇谷上杉家と和睦しています。
とは言え、ご存知のように、結局、北条早雲は相模制覇に向けて動き出すわけで・・・
と、そのお話は、
2年後の永正九年(1512年)に起こった岡崎城(おかざきじょう=神奈川県伊勢原市)の攻防=【北条早雲~悲願の相模制覇に向けて】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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