窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦
永正三年(1506年)7月17日、筒井氏に攻められた窪城氏の窪之庄城が落城する窪之庄の戦いがありました。
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窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市窪之庄町)は、かつては興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)系の寺院=窪転経院(くぼのてんきょういん)があったとされる場所で、
窪之庄の環濠集落(かんごうしゅうらく=周囲に堀をめぐらせた集落)の北に位置する小高い丘の上に、興福寺衆徒の窪城(くぼき・くぼしろ)氏が構築した城です。
これまで何度か書かせていただいているように、ここ奈良=大和(やまと)という場所は、昔から、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)や興福寺(こうふくじ=同奈良市)や春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強く、鎌倉時代や室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)を置く事ができなかった中で、
戦国乱世に入った頃には、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始め、興福寺に属する『衆徒』の筒井(つつい=興福寺に属す)氏や、春日大社に属する『国民』の越智(おち=春日大社に属す)氏や十市(とおち=同春日大社)氏・・・そこに箸尾(はしお)氏を加えて『大和四家』と称される国衆たち が台頭して来るのです。
(このあたりの事は【大和国衆と赤沢長経の戦い】のページ>>で書いております)
そんな大和四家には力及ばぬ窪城氏は、何とか、この乱世の荒波を乗り越えるべく窪城当主が、あの山城の国一揆(やましろのくにいっき)を鎮圧してノリノリの古市澄胤(ふるいちちょういん)(9月17日参照>>)に近づいたかと思うと、
窪城嫡男が、古市と絶賛合戦中の筒井順賢(つついじゅんけん)(9月21日参照>>)に合力する・・・という風に、どちらが倒れても窪城という名跡を残せるように動いていたのです。
古市や筒井はもちろん十市などとも縁組を模索し、何とか好を通じようと試みていたようなのですが、
ところが、いつのほどからか、窪城氏は古市に傾いていき、やがて家内は古市一色に・・・そうなると、もちろん筒井とは敵対関係になるわけで。。。
そんなこんなの永正三年(1506年)、実は窪城衆は、窪之庄の東に位置する高樋城(たかひじょう=奈良県奈良市高樋町)を治める高樋(たかひ・たかとい)氏と、度々境界線を巡って争っていたのですが、
その高樋氏が筒井傘下であった事もあり、ここに来て一気に攻め取らんと鼻息荒く、7月12日に周辺の峡谷に放火して気勢を挙げ、高樋城に迫ったのです。
しかし、この時は、高樋城の城兵の決死の奮戦により兵糧の補給路を断たれたため、やむなく窪城衆は撤退する事に・・・
ところが、その報復戦として、今度は筒井軍が窪之庄城に攻撃を仕掛けて来たのです。
迎え撃つ窪城衆ではありましたが、やはり筒井は大所帯・・・善戦はしたものの、多勢に無勢では如何ともし難く、永正三年(1506年)7月17日、窪之庄城は落城したのでした。
窪之庄城の戦い・位置関係図
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その後の筒井氏が、
順賢から筒井順興(じゅんこう=順賢の弟)→さらに筒井順昭(じゅんしょう=順興の息子)と代替わりする中で、古市や越智を押しのけて、もはや破竹の勢いで大和国内に勢力を広げていくようになるため、窪城衆は、その筒井氏の与力として生き残るしかありませんでした。
●筒井VS古市~井戸城・古市城の戦い>>
●天文法華の乱~大和一向一揆>>
●筒井順昭の柳生城攻防戦>>
●越智党と貝吹山城攻防戦>>
やがて、大和全域を押さえんが勢いの全盛期を築いた筒井順昭が亡くなり、わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が後を継ぐ事になった永禄二年(1559年)前後、大和平定にやって来たのが、畿内を制覇して事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。
大幅改修した信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を拠点に奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城した松永久秀は、
永禄八年(1565年)には筒井順慶の本拠である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町 )を奪います(11月13日参照>>)。
やむなく筒井傘下の布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと逃亡する順慶・・・
それでも、窪城衆は筒井の与力を続けていた事から、永禄十一年(1568年)10月には、窪之庄城は松永久秀からの攻撃にさらされてしまいます。
松永軍に囲まれた窪之庄城では、劣勢を跳ね返すように城兵が何度も撃って出て、松永勢に痛手を喰らわせましたが、さすがに、圧倒的な兵の数を誇る松永軍を挽回する事はできず、永禄十一年(1568年)10月10日、窪之庄城は2度目の落城をしたのでした。
とは言え、この永禄十一年(1568年)という年・・・しかも10月って。。。
そう、、皆様ご存知の織田信長(おだのぶなが)の上洛です。
信長上洛の道のり
↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この先、第15代室町幕府将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、9月7日に岐阜(ぎふ)を出発した信長は、9月の終わりに京都に入り、そこから10月半ばにかけて敵対する三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らの城を次々と落としていくわけですが(9月7日参照>>)、
その三好三人衆とも絶賛交戦中(10月10日参照>>)の松永久秀は、この時、三好長逸(みよしながやす)から奪い取った芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に14日間滞在して畿内を平定していた信長にいち早く会いに行き、名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して織田傘下に入り、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「大和の地は自力で勝ち取っちゃってイイヨ」との信長の許可を得ちゃいます。
おそらくは、今回主役の窪城衆も、今やその主君となった筒井順慶も、信長本人に敵対する気は無かったでしょうが、今回ばかりは松永久秀に先を越されてしまった感じでしょうか?
ただ、この大物登場のおかげで、どうやら窪城衆は、ほどなく窪之庄城を奪い返し、短期の間にもとの姿に復興させる事ができていたのです。
この窪之庄城は、筒井城を奪われたままになっている筒井順慶にとって、北方に点在する松永方の諸城を攻める一つの拠点でもあり、指折りの戦略的要衝であったわけですから、
この頃、十市氏の内紛(12月9日参照>>)に乗じて、いつの間にか十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)を占拠したりして、徐々に力を蓄えていく筒井順慶を見て、すでに大和を平定したつもりでいた松永久秀も、なかなかの脅威に感じて来るわけで・・・、
元亀二年(1571年)5月9日、松永久秀は再び窪之庄城を攻めたのです。
しかし、この時の松永久秀は、窪城衆の繰り出すゲリラ戦に翻弄され、翌10日、長期戦になるのを恐れて、早々に兵を退いたのでした。
今回の勝利は、窪城衆に、そして彼らを配下に置く筒井順慶に、大きな自信を与えたのです。
なんせ、
このわずか半月後の8月4日、筒井順慶と窪城衆は、辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)の戦いにて松永久秀相手に大勝利を治め(8月4日参照>>)、その勢いのまま筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取る(11月26日参照>>)事になるのですから・・・
そして…さらにさらに…
やがては、松永久秀が信長と敵対し(10月3日参照>>)、筒井順慶こそが信長の傘下となる(10月7日参照>>)のは、皆様ご存じの通りです。
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