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2023年8月28日 (月)

織田信長と徹底抗戦した斎藤道三の隠し子?長井道利

 

元亀二年(1571年)8月28日、斎藤道三の息子とされる長井道利が白井河原の戦いで討死しました

・・・・・・・・・・

「美濃の蝮(まむし)と称される戦国屈指の梟雄=斎藤道三(さいとうどうさん)若い頃の子供?とされる長井道利(ながいみちとし)。。。

と言っても「?」をつけた事でお分かりのように諸説あります。

道三の弟説もあるし、長井利隆(としたか)孫説に、長井長弘(ながひろ)息子説(長井利隆と長弘は親子ともされるが確定ではない)などなど…

というのも、ご存知のように道三の前半生が微妙・・・

Saitoudousan600 そもそもは、
僧から還俗(げんぞく=出家した人が俗人に戻る事)した松波庄五郎(まつなみしょうごろう)なる人物が、武士を目指して美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=県知事みたいな)であった土岐(とき)の家臣の長井家のそのまた家臣となって、その家臣の家名である西村(にしむら)を名乗って西村勘九郎正利(にしむらかんくろうまさとし)称する中、

享禄三年(1530年)1月に主家である長井長弘夫妻を殺害して長井家を乗っ取って長井新九郎規秀(しんくろうのりひで)を名乗った。。。
で、このあたりで父が亡くなって息子に交代してるっぽいので、この長井新九郎規秀が、後の道三とされます。

このあと、天文七年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良(さいとうとしなが)が病死した事で、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったと。。。

で、道三が斎藤を名乗る一方で、長井家の名跡を継いだのが、今回の長井道利という事で、
道三の子供だから継いだのか?
もともと長井家の血筋だったから継いだのか?
が微妙なわけですが、

このあと、しっかりと斎藤家を盛り立てていく感じを見れば、やはり道三の息子説が有力な気がしますね(←個人の感想です)

とにもかくにも、こうして斎藤家を継いだ道三に仕えた長井道利・・・

しかし、この後、守護の土岐頼芸(ときよりなり)を追放して(12月4日参照>>)美濃の主となった父=道三と、嫡男(道利の弟?)斎藤義龍(よしたつ=高政)が不仲になると、

義龍に味方する道利は、なんと!道三が寵愛する異母弟孫四郎(まごしろう=道三の次男)喜平次(きへいじ=道三の三男)殺害を提案し、義龍とともに実行(10月22日参照>>)・・・

翌年の弘治二年(1556年)4月、父子最終決戦となる長良川(ながらがわ)の戦い父=道三を討ち果たします(4月20日参照>>)

う~ん…もし、道利が道三の息子だったとして、父と弟が争うとなるとどちらに味方するのか?

戦国と言えど悩むところかも知れませんが、道三は合戦の3年前の天文二十三年(1554年)に、すでに義龍に家督を譲って隠居してますし、

その長良川のページにも書かせていただいたように、
斎藤家内の合戦で道三の声掛けに応じた者が約2千で、義龍に味方したのが約1万7千ですから、

すでに決戦の前に斎藤家内の情勢は息子=義龍に傾いていた感がありますから、道利も、その情勢に乗っかった一人なのかも知れません。

…で、斎藤家の実権を握った義龍&道利は、その勢いのまま、同じ年の9月に明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃して、事実上明智(あけち)を滅亡させ、道利は明智庄の代官となりました(9月20日参照>>)

しかし、ご存知のように、この時、父=道三は大きな置土産を残して逝きました。

そう、娘婿(2月24日参照>>)織田信長(おだのぶなが)です。

一説には、かの長良川の戦いの前日に、道三は娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)が正室となっている尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長に対し「美濃を譲る」の遺言状(4月19日参照>>)を書いていたとされ、

信長は、それを大義名分に美濃を狙いに来るわけで・・・これを機に道利の人生は、徹底して織田信長と戦う事になるのです。

とは言え、この頃の信長は、まだ尾張一国を統一してないばかりか、自身の家中すらままならない状況だったわけで・・・
●弘治二年(1556年)8月に稲生の戦い>>
●弘治三年(1557年)11月に弟の信行を暗殺>>
●永禄元年(1558年)5月に浮野の戦い>>
と来て、いよいよ
永禄三年(1560年)5月の桶狭間の戦い>>
となるわけで、この間の信長は、美濃侵攻の成果はほとんど挙げる事ができませんでした。

しかし、そんなこんなの永禄四年〈1561年)5月11日、義龍が35歳という若さで急死し、嫡男の斎藤龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐ事になりますが、

そこをすかざす信長が、わずか3日後に美濃に侵攻して来るのです。
●5月14日=森部の戦い>>
●5月23日=美濃十四条の戦い>>

当然、斎藤家には動揺が走り、家臣団にも亀裂が生じますが、道利は、それらを修復しつつ、
重臣である美濃三人衆
西美濃曾根城主・稲葉一鉄(いなばいってつ)
西美濃大垣城主・氏家卜全(うじいえぼくぜん)
西美濃北方城主・安藤守就(あんどうもりなり)
らにも、変わらず龍興を盛り立てていくよう働きかけました。

おかげで永禄六年(1563年)4月の、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)の戦いでは見事な勝利(4月21日参照>>)

その翌年の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)占拠事件(2月6日参照>>) では、

道利は、毅然とした態度で事を治める一方で、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との同盟を模索して、

崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市 )の僧=快川紹喜(かいせんじょうき)甲斐に派遣しています。

ご存知の方も多かろうと思いますが、この快川和尚は、これを機に恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)に入り、後の武田滅亡の際には「滅却心頭火自涼」(心頭滅却すれば火も自ら涼し)の有名な辞世を残す方です(4月3日参照>>)

しかし、やがて永禄八年(1565年)8月、信長に堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を落とされ(8月28日参照>>)

続く9月には、織田方についた斎藤利治(としはる=道三の末子とされる)の攻撃によって関城(せきじょう=岐阜県関市)が陥落して(9月1日参照>>)
情勢が織田有利に傾く中、

永禄十年(1567年)8月には、とうとう、かの美濃三人衆が織田信長に内応(8月1日参照>>)・・・

その半月後に斎藤家の居城=稲葉山城が陥落し、事実上美濃斎藤家は滅亡する事となりました(8月15日参照>>)

落城はしながらも、その身は、龍興とともに脱出した道利は、長良川を下って伊勢長島(いせながしま=三重県桑名市長島町)へと逃れて、ここで長島一向一揆(5月12日参照>>)に加わって信長に抵抗しつつ、

やがて、信長と不和になりつつあった第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)に仕えるようになります。

そんなこんなの元亀二年(1571年)8月28日

主君の池田勝正(いけだかつまさ)を追放して池田家を掌握した荒木村重(あらきむらしげ)が、義昭の将軍就任への尽力によって高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)与えられていた和田惟政(わだこれまさ)(2024年8月28日参照>>)を攻める白井河原(しらいかわら=大阪府茨木市)の戦いが勃発したのです。

この時、長井道利は主君である義昭の命により、和田惟政に味方する茨木重朝 (いばらきしげとも)軍の一員として参加したのですが、未だ軍勢も整わない中で合戦の勃発となってしまい、

和田惟政は討死・・・続いて茨木重朝も討死し、大将を失った和田&茨木軍の大敗となり、長井道利も壮絶な討死を遂げたと言います。

ちなみに、この合戦での荒木村重の勝ちっぷりを耳にした事がキッカケで、信長は荒木村重を配下に加えた…との話もあるとか。。。

また、かつて長井道利とともに稲葉山城を脱出していた斎藤龍興は、この2年後の天正元年(1573年)の、信長が越前えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を追撃した刀禰坂(刀根坂・とねざか=福井県福井市)の戦いで討死するのですが(8月14日参照>>)

一説には、今回の長井道利も白井河原ではなく、コチラの刀禰坂で討死したという説もあるようです。

いずれにしても、主君は変われど長井道利の思いは一途・・・
斎藤を守るからの→斎藤を倒した信長を倒す
1本につながった道だけしか無かったのかも知れませんね。
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2023年8月22日 (火)

徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方

 

承応二年(1653年)8月22日、徳川家康の側室で、徳川頼宣徳川頼房の母となる養珠院お万の方が死去しました。

・・・・・・・・・

徳川家康(とくがわいえやす)の側室=お万の方(於万・萬)。。。

…と言っても、今回の大河ドラマ「どうする家康」松井玲奈(まついれな)さんが演じている、後に結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)を産むお万の方(於万=長勝院)とは別人で、出家後は養珠院(ようじゅいん)と号するお万の方です。

…にしても、築山殿(つきやまどの)(8月22日参照>>)亡き後の朝日(あさひ=豊臣秀吉の妹・旭)さん(4月28日参照>>)という正室の流れはさておき、

Tokugawaieyasu600 家康さんには、20人くらいの側室いますけど、今回の松潤家康は、それこそ「どうする」んでしょう?

子供がいない人は何とかはしょったとしても、子供をもうけた人だけでも10人くらいいるんですが茶阿局>>とか…)

これから7~8人ぶんの「浜松ソープ」とか、百合姉さんとか、コンタクトアリス(於愛)ちゃんのようなシーンが用意されてるんでしょうか?

子供いなくても阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)は出るみたいだし…時間的にも難しいので、かなりはしょられるのは確かでしょうけど。。。

とにもかくにも本日の養珠院お万の方様は、
後に紀州(きしゅう=和歌山県)徳川家の祖となる十男=徳川頼宣(よりのぶ)

水戸(みと=茨城県)徳川家の祖となる十一男=徳川頼房(よりふさ)を産んでるので、
さすがに完全スルーはできないのでは?
と思っているのですが、、、、

…で、そんな養珠院お万の方は、勝浦城(かつうらじょう=千葉県勝浦市 )主の正木頼忠(まさきよりただ)智光院 (ちこういん)という女性との間に天正五年(1577年)~天正八年(1580年)頃に生まれたとされる説が有力です。

ちなみに、この智光院という女性は、あの小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を拠点とする北条一族北条氏隆(ほうじょううじたか・もしくは北条氏尭)の娘だそうで(異説もあり)・・・なので、養珠院お万の方は小田原で生まれたとも言われます。

というのも、父である正木頼忠は、かつて、その父(つまりお万の方の祖父)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)から北条に寝返った際の同盟の証として小田原城に送られ、人質生活を送っていた中での結婚だったからなのです。

人質とは言え、北条一族の娘を娶れるという事は、正木頼忠という人は、かなり北条から優遇されていたように思われますので、幼少期のお万の方の生活も、おそらくは、ひもじい思いをする事は無かったかと・・・

と思いきや、お万の方が生まれるか?生まれないか?のややこしい時期に、父の正木頼忠が、兄と父を同時に亡くした事で正木家の家督を継ぐため、妻子を小田原に残したまま、勝浦へ帰っちゃうのです。

その後、天正十二年(1584年)になって、母が蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、義父の居城である河津城(かわづじょう=静岡県賀茂郡河津町)に移り、お万の方はそこで養育されました。

この蔭山さんは、この頃は北条傘下に甘んじていましたが、もともとは鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)足利持氏(あしかがもちうじ)の血筋の人ですから、永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)で散ったとは言え、誇り高き足利の血脈を継ぐ人には変わりなく、お万の方もおおむね幸せな少女期を過ごしたのではないか?と…

とは言え、天正十八年(1590年)には、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が起こってしまい(3月29日参照>>)、北条氏に付いて敗者となった蔭山氏広は、伊豆の修善寺(しゅぜんじ=静岡県伊豆市)にて蟄居の身となります。

・・・と、ここまで書いてて何ですが、実はお万の方は伊豆のお百姓さんの娘…とも言われます。

それは、ここから彼女は、大平村(おおひらむら=静岡県沼津市)名主(村長)星谷縫殿右衛門(ほしたにぬいえもん)に養育され、

その後、文禄二年(1593年)に家康と出会うから・・・つまり、家康さんと出会った時は、村の名主の養女?だったわけです。

…で、三島(みしま=静岡県三島市)に鷹狩に来ていた50歳過ぎの家康と出会った(というか紹介された?)お万ちゃんは、この時、16歳~18歳くらいの乙女。。。

お万を気に入った家康は、一旦、お万を、かつては北条の家臣で小田原征伐キッカケで徳川傘下に入った江川英長(えがわひでなが)養女とし、その後、側室として迎えたのでした。

そして冒頭に書かせていただいたように慶長七年(1602年)の26歳くらいの時に頼宣を、翌年に頼房を出産しています(60歳過ぎの家康はガンバったと思う)

ところで、
戦国武将の側室女性の場合、普段は奥向きの事しかやらないので、大抵は、「何年に誰々を産んだ」くらいの事しか逸話として残らない物なのですが、このお万さんの場合、特筆すべき逸話が一つ残っています。

それは慶長十三年(1608年)11月15日の事・・・

このお万さんは、養父とされる蔭山氏広の蔭山氏が代々日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依していた事から、彼女も日蓮宗の信者で、当時は日遠(にちおん)という僧にドハマリしていたのですが、

家康は浄土宗(じょうどしゅう)なので「厭離穢土欣求浄土」やもんね)、日頃から、何かと言えば宗論(しゅうろん=仏教の教義や解釈についての議論)を仕掛けて来る日遠がうっとぉしかったのです。

で、その日、予定されていた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での問答=慶長宗論(けいちょうしゅうろん)の直前、家康は日蓮宗側の論者=日経(にっきょう)家臣たちに襲撃させて瀕死の重傷を負わせたのです。

そのため
「これでは問答ができない」
として日経の弟子たちは宗論の延期を申し出るのですが聞き入れられず、

やむなく日蓮宗側は、日経を戸板に乗せて寝たまま会場入り

なので宗論では、浄土宗の代表者である廓山(かくざん)が問いかけるも答えられる状況ではなく、

浄土宗側は
「こっちが色々聞いても、病気や言うて寝たままで何も答えへん…これは俺らの勝ちや!」
と称して、相手側の袈裟を剥がして勝利宣言し、家康も浄土宗の勝利を認めたのです。

納得いかない日経らは、
「いやいや、俺らが勝ったんや」
と主張した事で翌年に捉えられ、京都六条河原にて、日経は耳と鼻を、他の弟子は鼻を削がれる酷刑に処されたのです。

これには当然、日遠も黙っていられず、法主(ほうしゅ・ ほっす=最高指導者)を辞職して、家康に再びの宗論を持ちかけたのです。

これに怒った家康は、日遠を捕まえて安倍川(あべかわ=静岡県静岡市葵区付近)の河原で磔にしようとしますが、

ここでお万の方登場!!!

日遠の助命を嘆願しますが、齢66の男家康・・・断固としてお万の願いを受け入れませんでした。

すると、お万は
「師匠が死ぬ時は弟子の私も死ぬしかない!」
と、日遠と自分の二人分の死装束を縫い、家康に迫ったのです。

さすがの家康も、可愛いお万ちゃんの命と引き換えにはできず、日遠を無罪放免にするしかなかったのだとか・・・

ま、これも日蓮宗の主張なので、どこまで実際の出来事に近いのかわかりませんが、彼女の死をも恐れぬ行動に、時の後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)も感動しきりだったようです。

それ以外の記録としては、実兄の三浦為春(みうらためはる)が、あの大坂の陣(おおさかのじん)>>に甥っ子の徳川頼宣に従って出陣し、大いに活躍した事で
「家康っさんも喜んどったで!」
と、家康の様子を兄に報せた手紙が残る程度の情報しかないお万さん、、、

家康亡き後は養珠院と号し、承応二年(1653年)8月22日74歳前後でこの世を去りました。

晩年は、七面天女(法華経を守護する女神)を祀る、女人禁制の七面山(しちめんさん=山梨県南巨摩郡)に、僧侶たちの制止を跳ね除けて登り、
「七面山に最初に登った女性」
とされるお万の方。。。

慶長宗論と言い、強行突破登山と言い、

しとやかな姫というよりは、
なかなかに気の強いじゃじゃ馬だった
のかも
知れませんね。

家康さんの、女性の好みやいかに(#^o^#)
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2023年8月15日 (火)

上杉謙信の越中一向一揆攻め~第5次富山城の戦い

 

天正元年(1573年)8月15日、富山に侵攻した上杉謙信が越中一向一揆を平定しました。

・・・・・・・・・

永禄七年(1564年)8月の第五次川中島の戦い(8月3日参照>>)を最後に、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と相まみえる事が無かった越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、

Uesugikensin500 結着が着かないままフェードアウトしたこの戦いは、

その後に、別の場所での、両者がともに糸引く勢力が戦う代理戦争のようになっていたのが、一国を統べるような大物武将がいなかった越中富山(えっちゅうとやま)の地でした。

そこで謙信は何度も富山に出兵し、攻略をくりかえしていたのですが、
●元亀二年(1571年)3月=城生城の戦いと富山城>>
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆と日宮城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
そこには加賀&越中の一向一揆も絡んでいたわけで、

そんな中、
この頃は謙信と大の仲良しだった尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)が、元亀三年(1572年)11月20日付けの謙信宛ての書状にて、
「できたら、20日~30日の間に平らげはった方がよろしいで~ どうしても来年の春までかかるようやったら、一回、一向一揆と和睦して、先に信玄を討ってしまいなはれ。
信玄がおらんようになったら、自然と一向一揆も治まるんちゃいますか?」
と提案。。。

そこで謙信は天正元年(1573年=実際には7月に元亀より改元)4月に越中の一向一揆と和睦して、信玄との戦いに備えるべく居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)へと帰還しました。

なんせ、この頃の信玄は、前年の10月に甲斐を発ち
10月13日に一言坂の戦い>>
10月22日には伊平城の仏坂の戦い>>
12月19日には二俣城を攻略>>して、
12月22日には、あの三方ヶ原>>
年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城を攻撃>>
と、

どんどん上洛しちゃってる?感満載・・・信長も危ないけど、謙信も見過ごすわけにはいきませんから。。。

ところが、謙信が春日山城に帰っちゃうと、またまた動き出す越中の輩たち・・・

と言うのも、信玄は、信長と未だ絶賛敵対中(7月22日参照>>)越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)と連絡を取り、越中の一向一揆を焚きつけていたのです。

この焚きつけにまんまと燃え上がった一向一揆勢は、椎名康胤(しいなやすたね)らと与して謙信との和睦を破り、3月5日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い返したのでした。

「ならば…」
と、またまたの越中攻めを決意する謙信。。。

Etttyuuhinomiyazyoukoubouitikankeiz
Kensinetyuuikkouikii
位置関係図↑
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

早速、稲荷(いなり=富山県富山市稲荷元町)岩瀬(いわせ=同富山市岩瀬地区)本郷(ほんごう=富山市本郷町)押上(おしあげ=同富山市押上)など富山城を囲むように複数の付城(つけじろ=攻撃をするための出城)を構築し、

新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)からの兵を付城に入れて、それらを拠点に富山城への猛攻撃を開始すると、ままたく間に富山城を落としたばかりか、アッと言う間に神通川(じんつうがわ)以東を平定して見せたのです。 

4月に入ってから、配下の河田長親(かわだながちか)松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)に配置して越中の総指揮を任せたほか、一揆勢に睨みを効かせるべく、周辺の諸城にも人を配置し、謙信は4月21日に春日山城へ向けて帰国の途に就きました。

ところが・・・です。

かの野田城への攻撃>>を終えた以降の武田は、 配下の秋山虎繁(あきやまとらしげ=信友・晴近とも)が3月2日に岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)を落とす(3月2日参照>>)などしたものの、信玄自身に動きは無く・・・というより、なんなら甲斐に戻って行ったわけで

そう…ご存知のように、この富山城争奪戦の真っ最中の4月12日、武田信玄が亡くなっていたのです。

その遺言で(4月16日参照>>)
「三年隠せ」
と言われた信玄の死ですが、

武田方の奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)が、信玄の死の直後に三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)に寝返ったおかげで(9月8日参照>>)、信玄の思いとは裏腹に、噂は瞬く間に広がっていったのです。

謙信側にも・・・飛騨(ひだ=岐阜県北部)江馬輝盛(えまてるもり)から、まずは富山の河田長親の所に伝えられ、さらに謙信のもとに届けられました。

有名な話ではありますが、
忍びを走らせて事実確認し、その死が本当の事であると知った謙信は
「まことに惜しい武将を亡くした」
と涙したと伝えられています。

案の定、信玄の死は一向一揆衆を失望させはしましたが、かと言って、それで衰える事も無く、7月に入って再び不穏な空気を見せ始めたのです。

これを受けた謙信は、8月10日に越中に侵出し、三度めの一向一揆攻め・・・またもや、瞬く間に平らげ、その勢いで以って加賀(かが=石川県南部)朝日山(あさひやま=石川県金沢市)まで一気に攻めます。

少しばかり力の衰えた一向一揆衆ではありましたが、この時ばかりは、上杉軍が装備する鉄砲の数をはるかに上回る鉄砲を用意して迎撃しますが、ここで、越中の一向一揆も加賀の一向一揆も、まとめて制したい謙信は、上杉の持つ全力を行使して攻めまくります。

やがて、その勢いにも陰りを見せ始めた一向一揆・・・さらに、この頃には一向一揆に味方していた加賀の国衆たちも、徐々に謙信側に降って来るようになり、

天正元年(1573年)8月15日謙信は越中のほとんどを制圧したのです。

9月末、越後の春日山城への帰還を開始した謙信は、途中の魚津城 (うおづじょう=富山県 魚津市)の近くで野営し、歌を一首詠みます。

武士(もののふ)の よろいの袖を かたしきて
 枕に近き はつかりの声 ♪
「鎧の片方の袖を枕にして仮眠してると、初雁の鳴き声が枕元で聞こえて来るわ」

初雁(はつかり)とは、
立秋も過ぎたこの時期…秋になって最初に北方から渡って来た雁の事。。。
風流やね~謙信君

とは言え、
謙信ほどの大物でも、野営する時は鎧を着たままの状態で、ちょっとだけの仮眠で済ませてたんですね~
戦国は過酷やね~

と、まったりしてる場合では無い!

ちょうど、この時期に越前征伐を開始した織田信長は、まさに、この謙信の越中平定の前日の
8月14日に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いで勢いをつけ(8月14日参照>>)
6日後の8月20日には朝倉を倒し(8月20日参照>>)

その8日後の8月28日には、朝倉と組んでいた北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を葬り去り
翌天正二年(1574年)1月には、越前の一向一揆を脅かすようになるのです(1月20日参照>>)

そう・・・どんどん北上して来る信長の勢いを受けて、やがて謙信は一向一揆=本家本元の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)和睦を結び(5月18日参照>>)仲良かった信長と敵対する事になるのですが、

それらのお話は、また別のページでご覧あれm(_ _)m

★関連ページ
謙信の富山侵攻>>
謙信の飛騨侵攻>>
謙信の七尾城攻略>>
手取川の戦い>>
●謙信の能登平定>>
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2023年8月 9日 (水)

平致頼が退く~藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画

 

寛弘四年(1007年)8月9日、平致頼を抱き込んだ藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画が発覚しました。

・・・・・・・・・

藤原氏を政権トップの揺るぎない地位に押し上げた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が永祚二年(990年)に亡くなり、その後を継いで関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)になった長男の藤原道隆(みちたか)が、
「俺の後継者は息子の藤原伊周(これちか)
と調子こいてる真っただ中の長徳元年(995年)に流行病で亡くなったかと思うと、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

その後を継いだ道隆弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)も、同じ病で亡くなった事から、

宙に浮いた藤原氏トップの座と関白の座を巡って、道兼のさらに弟=藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)と、

道隆嫡男の藤原伊周が一触即発の状況(7月24日参照>>)・・・

しかし、そのうち藤原道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)になった事から、一旦は、一触即発状況が緩む中での、

長徳二年(996年)1月、当時内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)だった藤原伊周が、花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)との乱闘騒ぎを起こして、自ら失脚の道を開いてしまったのでした(1月16日【長徳の変】参照>>)

この事件によって、藤原伊周は大宰権帥 (だざいのごんのそち=大宰府の長官)として大宰府(だざいふ=現在の福岡県に置かれた地方行政機関)に左遷され、兄=伊周に加勢した弟の藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)出雲権守(ごんのかみ=国司の長官)として出雲(いずも=島根県)に左遷され(←実際には病気を理由に兵庫県までしか行ってない)ますが、

そんな二人は、翌長徳三年(997年)の大赦(たいしゃ= 国家に吉凶等あった時の減刑)で罪を許され(早っ!)翌年に帰京する事ができました。

とは言え、当然、そのまま前職に復帰して政界に戻って来れるというわけではない・・・この時、兄弟は24歳と19歳という働き盛りの年齢であったにも関わらず、何者にも任じられず、言わば飼い殺しのような状況だったのです。

しかし長保元年(999年)11月、そんな彼らの希望の星が誕生します。

伊周の妹で隆家の姉にあたる藤原定子(さだこ・ていし)・・・第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)中宮(ちゅうぐう=皇后)として入内(にゅうだい=妃・后として宮中に入る事)していた彼女が、天皇の第1皇子となる敦康親王(あつやすしんのう)出産したのです。

一条天皇と定子の間には、長徳二年(996年)12月に第1子の脩子内親王(しゅうしないしんのう)という皇女をもうけていますが、

何たって今回は男の子=第1皇子ですから、ひょっとしてひょっとしたら、この皇子が将来の天皇になるかも知れないわけで、そうなれば、兼家亡き今は、伊周が天皇の母方の実家の長として政権を掌握して、念願の関白になれるかも知れない!

もう、期待いっぱい夢いっぱい

しかし敵も然る者・・・用意周到な道長は、朝廷に働きかけて、すでに6日前に入内させていた自身の長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)を、この敦康親王誕生のまったく同じ日に女御(にょうご=皇后予備軍)にさせ(11月1日参照>>)、翌長保二年(1000年)2月には中宮に立后(りっこう=皇后に立つ事)させたのです。

つまり一条天皇一人に対し、皇后が二人の状況・・・

そんな中、一条天皇の寵愛を一身に受ける定子は、この年の暮れに第2皇女の媄子内親王(びしないしんのう)を出産しますが、かなりの難産だったとみえ、その翌日に亡くなってしまうのです。

この時、お産に付き添っていた伊周は、亡くなった妹を抱きかかえ、ただただ号泣していたとか。。。
♪誰もみな 消えのこるべき 身ならねど
 ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき ♪(by伊周『続古今和歌集』より)

ちなみに、定子の家庭教師として有名な清少納言(せいしょうなごん)は、定子が亡くなってほどなく、道長がその優秀さを惜しみ、
「彰子の家庭教師に…」
とのお誘いを断って宮中を出て行き、その代わりに彰子の家庭教師をやってくれる人材を探していたところを抜擢されたのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・なので、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、彼女たちが宮中で顔を合わす事は、たぶん無かったでしょうね。(1月25日参照>>)

・・・で、
そんなこんなの寛弘二年(1005年)に伊周は、准大臣(じゅんだいじん=大臣の下で大納言の上)に任ぜられ、ようやく政界に復帰する事ができましたが、それは、未だ一条天皇との間に子供をもうけていなかった中宮=彰子が、母を亡くした敦康親王の母代りとなって養育する事と引き換えにしたような復帰劇でした。

同じ宮中と言えど、この時代は通い婚・・・后妃のいる場所に天皇が通って来る形ですし、そこには子供と親父(后妃の父)がくっついてるわけで、

伊周は皇位継承の最短路線上にある親王の外舅でありながら、親王と接するには道長に気を使い接さねばならない事になります。

何となくお気の毒な感じ・・・

しかし、伊周&隆家兄弟はめげません!

なんと、ここで平致頼(たいらのむねより)という人物を抱き込みます。

この平致頼は、同じ貴族と言えど、「軍事貴族」と呼ばれる貴族で、10年ほど前に同族の平維衡(これひら)伊勢(いせ=三重県中北部)にて合戦を繰り広げて、世間を騒がせたとして朝廷から大目玉を喰らい、隠岐(おき=島根県)へ配流にされていた人・・・長保三年(1001年)に罪が許されて従五位(じゅごい=ギリギリ貴族の官位)に戻れたところでした。

つまり平致頼は確かな武力を持つ貴族=いや、もうちょい後なら武士と呼ばれる種類の人なのです。

ちなみに、この時の平致頼の合戦相手となる平維衡は、後に、あの平清盛(きよもり)を輩出する事になる伊勢平氏(いせへいし)の祖とされる人物なので、「軍事貴族」のだいたいのイメージもお察し。。。

そんな平致頼を仲間に引き入れた伊周&隆家兄弟・・・そう、目的は、あの道長の暗殺でした。

ここのところの道長は、大和(やまと=奈良県)金峰山(きんぷせん=大峰山脈)にある金峯山寺(きんぷせんじ=奈良県吉野郡吉野町吉野山)参詣の計画を立てていたのです。

当然の事ながら、旅の途中は屋敷よりも警備が手薄・・・そこを「平致頼に襲撃してもらおう」という計画です。

かくして寛弘四年(1007年)8月2日に京都を発った藤原道長ご一行・・・襲撃は、その帰路を狙って決行する予定だったと思われます。

…と言うのも、その暗殺計画が、道長が京を出て7日後の寛弘四年(1007年)8月9日発覚するのですよ。

つまり、もし暗殺計画が往路に決行される予定なら、もうとっくに決行されていなければなりませんから、この時点で「計画が発覚」という事は帰路に焦点を合わせていたのだろうと・・・

この時、伊周&隆家兄弟は、すでに32歳と29歳・・・もう立派な大人ですから、おそらく計画も用意周到に行われていたはず。。。

よって、朝廷には激震が走ります。

なんせ上記の通り、道長は旅行中ですから、その安否がわからない・・・なんなら、もう暗殺されちゃってるかも知れないわけで、、、

早速、朝廷は源頼定(みなもとのよりさだ)勅使(ちょくし=天皇の使者)にたてて金峰山に派遣し、その安否情報を得ようとします。

ところが、、、
それは、慌てふためく都の貴族たちのから騒ぎに終わります。

何の事は無い、その勅使が都を発った翌日の8月13日、道長は何事も無く京都に戻って来たのです。

しかも、本人曰く
「襲撃なんて無かったヨ」

実は、さすがは天下の藤原道長・・・参詣の旅とは言え、その護衛の数がハンパ無かった。

しかも、いつものお抱えSPに加え、どうやら、彼を支持する側の軍事貴族の何人かにも兵をお願いしていたようで、その中には平致頼の持つ兵力と同レベルの者もいたとか・・・

くわしい史料が残っていないのでアレですが・・・
おそらく平致頼も、道長の道中の様子を探りに行った事でしょうよ。

けど、伊周&隆家兄弟から聞いていたよりははるかに大勢の護衛を引き連れていて、それこそ、ちゃんとした軍事貴族であればあるほど自身の兵力と相手の兵力の差を瞬時に見極める事ができるわけで、

無謀な攻撃は、ただただ負けるだけ…というのも、容易に予想できるわけですから、
「今、この状態で襲撃しても暗殺が成功するわけないと判断すれは退く」
というのも、立派な武士の判断ですからね。

でも、この平致頼の判断は伊周&隆家兄弟にとっても幸いでした。

なんせ、実行されなかった事で、これは「単なる噂」として処理され、伊周&隆家兄弟が何かの咎めを受ける事は無かったのです。

Fuziwaranosyousi500ast おかげで、翌寛弘五年(1008年)正月には、伊周は大臣に准ぜられ、朝議での発言権も復活しますが、

一方で、この年の9月に道長の娘の彰子が、一条天皇にとっての第2皇子=敦成親王(あつひらしんのう)を産んだ事によって、

将来、新天皇の外戚(がいせき=母方の実家)として隆盛を取り戻す夢もズタズタに砕かれ、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去るのです。

なんせ、この敦成親王が、この後、わずか8歳で第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位し、我が世の春を迎えた道長が、
有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪
の歌を詠む(10月16日参照>>)事になるわけですから。。。


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2023年8月 1日 (火)

持統天皇の夢を一身に受けた文武天皇の即位

 

文武天皇元年(697年)8月1日、珂瑠皇子が第42代・文武天皇として即位しました。 

・・・・・・・・・

あの壬申の乱に勝利して(7月7日参照>>)第40代天皇となった天武天皇(てんむてんのう)と、その皇后である鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)の間に生まれた草壁皇子(くさかべのみこ)第一皇子として 天武天皇十一年(683年)誕生した珂瑠皇子(かるのみこ=軽皇子)。。。

Tennoukeizumonmu ←天皇系図(クリックで大きく)
(色々略してます)

誕生から3年後の朱鳥元年(686年)に祖父の天武天皇が崩御(9月9日参照>>)・・・

この時、天武天皇には10人ほど皇子がいましたが、第1皇子の高市皇子(たけちのみこ)の母は身分が低く、

後継者と目されたのは、皇后である鸕野讚良皇女が産んだ上記の第2皇子=草壁皇子か、その姉である大田皇女(おおたのひめみこ)が産んだ第3皇子の大津皇子(おおつのみこ)の二人でした。

そのため、すでに天武八年(679年)の5月に、天武天皇&皇后はじめ皇子や皇女も引き連れて、思い出の地(壬申の乱の旗揚げ地)である吉野(よしの=奈良県)へ赴き

吉野の誓い吉野の盟約とも)と呼ばれる「みんな仲良くやろうね」の誓いの儀式を行い(1月18日後半部分参照>>)、その代表者を草壁皇子にやらせて、後継者感を出していたのです。

しかし、優秀だと評判の大津皇子の事が気になる鸕野讚良皇女は、おそらくは、その計略?によって、天武天皇の崩御からわずか1ヶ月後に大津皇子を抹殺(←あくまで噂です)(10月3日参照>>)・・・

これで一安心・・・と思いきや、なんと、その草壁皇子が27歳の若さにして持統天皇3年(689年)4月に病没してしまうのです。

息子を亡くした鸕野讚良皇女は、その皇統を継ぐ者として草壁皇子の第1皇子である本日の主役=珂瑠皇子を後継者に立てようとしますが、未だ6歳の幼児ですし、上記の通り天武天皇の皇子中で適齢期な人も多くいたため、どうしたものか・・・

と、考えた末に鸕野讚良皇女は、自ら第41代・持統天皇(じとうてんのう)として即位・・・皇室史上3人目の女帝となったのでした。

そう、それもこれも愛する息子の忘れ形見である幼き珂瑠皇子に皇位を継承するため、、、

「見ときや!お祖母ちゃん、頑張るで~」
とばかりに、亡き天武天皇から引き継いだ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を頒布(はんぷ)し、日本初の本格的な都=藤原京を造営→遷都するのです(12月6日参照>>)
(なんなら、天孫降臨の神話も祖母から孫への継承話にしちゃったか?)

その後、これまで太政大臣(だいじょうだいじん=行政機関のトップ)として持統天皇を支えてくれていた長子の高市皇子が持統天皇十年(696年)に亡くなると、

Monmutennou600as 満を持して、その翌年の文武天皇元年(697年)8月1日、14歳という当時としては異例の若さで珂瑠皇子が、第42代・文武天皇(もんむてんのう)として即位し、

同時に祖母の持統天皇が太上天皇(だいじょうてんのう=譲位した天皇)と称して、若き天皇をサポートする体制になったのです。

もちろん、この太上天皇という称号は先例のない初の試み・・・

これを、
お祖母ちゃんの愛?と感じるか、
何が何でも自身の血脈に後を継がせたい女帝のエゴ?
と感じるかは、人それぞれでしょうが。。。

とにもかくにも、こうして即位した文武天皇は、穏やかな性格で怒りを露わにする事無く、それでいて歴史書や仏典に親しむ博学であり、弓の腕前も相当な物という、文字通り、文武両道の天皇様だったとか。。。

文武天皇三年(699年)には、
「呪術で民衆を惑わした」
あるいは「謀反を企てた」
として役小角(えんのおずね=役行者)を流刑にします(5月24日参照>>)が、
(ま、これは天皇の…というよりは官僚主導かも知れませんが)

一方で、即位から4年後の701年には、
「対馬(つしま)から金が出た」
という報告を受け、元号が大宝となり、

ご存知の大宝律令(たいほうりつりょう)が完成(8月3日参照>>)・・・一般的には、ここで日本(やまと)という国名も定められたとされます。

また、この文武天皇の治世の頃は、日照りの日が多く飢饉となる年が頻繁にあったため、天皇は、その度に年貢を軽減したり、皇室の蓄えを解放したり、雨乞いの儀式も何度も行ったとか。。。

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持統天皇が通った吉野への道筋に残る雨乞い儀式仮南無天踊りの様子(飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社)

さらに、地方に疫病が流行したと聞くや、医師と薬を現地に派遣して病人を救ったと言います。

その後、大宝二年(702年)12月には最愛の祖母=持統太政天皇が崩御しますが、この時、太政天皇は
「自分の葬儀は倹約するように…」
との遺言を残していたらしく、

その遺言通り、当時は行われていた
「死者を悼んで泣き叫ぶ儀式」
を中止し、喪服を着る事も無く、役人たちは通常通りの業務を行ったのだとか・・・

その5年後の慶雲四年(707年)6月15日文武天皇は未だ25歳の若さで崩御されますが、天皇もまた、葬儀を縮小するよう遺言を残したと言います。

実は、これには去る文武天皇四年(700年)に亡くなった僧=道昭(どうしょう)の影響が大きいらしい。。。

道昭は、かつて遣唐使として唐に入り、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記の三蔵法師です)の弟子になった人・・・

しかも、玄奘に大いに気に入られる優秀ぶりで、現地の学僧の指導もし、帰国の際には多くの経典を持ち帰り、さらに、唐で得た最先端の知識で以って地方の土木工事を指導したという、当時トップクラスの知識人で、

どうやら文武天皇は、この方から様々な教育を受けていたようなのですが、そんな道昭は、日本で初めて火葬で葬られた方なのです(3月10日参照>>)

つまり、そんな彼の指導を受けていた文武天皇もまた、自身の葬儀に質素倹約を心がけたという事なのでしょう。

わずか10年の在位ながら、飛鳥時代から奈良時代へと移行する節目のような時代に生きた文武天皇・・・

その後は、第1皇子の首皇子(おびとのみこ=後の聖武天皇)が未だ7歳の幼子であったため、首皇子へとつなぐ架け橋として文武天皇の生母(つまり草壁皇子の妃)である阿陪皇女(あへのひめみこ)が第43代=元明天皇(げんめいてんのう)として即位したのでした。
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