平致頼が退く~藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画
寛弘四年(1007年)8月9日、平致頼を抱き込んだ藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画が発覚しました。
・・・・・・・・・
藤原氏を政権トップの揺るぎない地位に押し上げた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が永祚二年(990年)に亡くなり、その後を継いで関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)になった長男の藤原道隆(みちたか)が、
「俺の後継者は息子の藤原伊周(これちか)」
と調子こいてる真っただ中の長徳元年(995年)に流行病で亡くなったかと思うと、
その後を継いだ道隆弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)も、同じ病で亡くなった事から、
宙に浮いた藤原氏トップの座と関白の座を巡って、道兼のさらに弟=藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)と、
道隆嫡男の藤原伊周が一触即発の状況に(7月24日参照>>)・・・
しかし、そのうち藤原道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)になった事から、一旦は、一触即発状況が緩む中での、
長徳二年(996年)1月、当時内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)だった藤原伊周が、花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)との乱闘騒ぎを起こして、自ら失脚の道を開いてしまったのでした(1月16日【長徳の変】参照>>)。
この事件によって、藤原伊周は大宰権帥 (だざいのごんのそち=大宰府の長官)として大宰府(だざいふ=現在の福岡県に置かれた地方行政機関)に左遷され、兄=伊周に加勢した弟の藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)は出雲権守(ごんのかみ=国司の長官)として出雲(いずも=島根県)に左遷され(←実際には病気を理由に兵庫県までしか行ってない)ますが、
そんな二人は、翌長徳三年(997年)の大赦(たいしゃ= 国家に吉凶等あった時の減刑)で罪を許され(早っ!)、翌年に帰京する事ができました。
とは言え、当然、そのまま前職に復帰して政界に戻って来れるというわけではない・・・この時、兄弟は24歳と19歳という働き盛りの年齢であったにも関わらず、何者にも任じられず、言わば飼い殺しのような状況だったのです。
しかし長保元年(999年)11月、そんな彼らの希望の星が誕生します。
伊周の妹で隆家の姉にあたる藤原定子(さだこ・ていし)・・・第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう=皇后)として入内(にゅうだい=妃・后として宮中に入る事)していた彼女が、天皇の第1皇子となる敦康親王(あつやすしんのう)を出産したのです。
一条天皇と定子の間には、長徳二年(996年)12月に第1子の脩子内親王(しゅうしないしんのう)という皇女をもうけていますが、
何たって今回は男の子=第1皇子ですから、ひょっとしてひょっとしたら、この皇子が将来の天皇になるかも知れないわけで、そうなれば、兼家亡き今は、伊周が天皇の母方の実家の長として政権を掌握して、念願の関白になれるかも知れない!
もう、期待いっぱい夢いっぱい♥
しかし敵も然る者・・・用意周到な道長は、朝廷に働きかけて、すでに6日前に入内させていた自身の長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)を、この敦康親王誕生のまったく同じ日に女御(にょうご=皇后予備軍)にさせ(11月1日参照>>)、翌長保二年(1000年)2月には中宮に立后(りっこう=皇后に立つ事)させたのです。
つまり一条天皇一人に対し、皇后が二人の状況・・・
そんな中、一条天皇の寵愛を一身に受ける定子は、この年の暮れに第2皇女の媄子内親王(びしないしんのう)を出産しますが、かなりの難産だったとみえ、その翌日に亡くなってしまうのです。
この時、お産に付き添っていた伊周は、亡くなった妹を抱きかかえ、ただただ号泣していたとか。。。
♪誰もみな 消えのこるべき 身ならねど
ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき ♪(by伊周『続古今和歌集』より)
ちなみに、定子の家庭教師として有名な清少納言(せいしょうなごん)は、定子が亡くなってほどなく、道長がその優秀さを惜しみ、
「彰子の家庭教師に…」
とのお誘いを断って宮中を出て行き、その代わりに彰子の家庭教師をやってくれる人材を探していたところを抜擢されたのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・なので、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、彼女たちが宮中で顔を合わす事は、たぶん無かったでしょうね。(1月25日参照>>)
・・・で、
そんなこんなの寛弘二年(1005年)に伊周は、准大臣(じゅんだいじん=大臣の下で大納言の上)に任ぜられ、ようやく政界に復帰する事ができましたが、それは、未だ一条天皇との間に子供をもうけていなかった中宮=彰子が、母を亡くした敦康親王の母代りとなって養育する事と引き換えにしたような復帰劇でした。
同じ宮中と言えど、この時代は通い婚・・・后妃のいる場所に天皇が通って来る形ですし、そこには子供と親父(后妃の父)がくっついてるわけで、
伊周は皇位継承の最短路線上にある親王の外舅でありながら、親王と接するには道長に気を使い接さねばならない事になります。
何となくお気の毒な感じ・・・
しかし、伊周&隆家兄弟はめげません!
なんと、ここで平致頼(たいらのむねより)という人物を抱き込みます。
この平致頼は、同じ貴族と言えど、「軍事貴族」と呼ばれる貴族で、10年ほど前に同族の平維衡(これひら)と伊勢(いせ=三重県中北部)にて合戦を繰り広げて、世間を騒がせたとして朝廷から大目玉を喰らい、隠岐(おき=島根県)へ配流にされていた人・・・長保三年(1001年)に罪が許されて従五位(じゅごい=ギリギリ貴族の官位)に戻れたところでした。
つまり平致頼は確かな武力を持つ貴族=いや、もうちょい後なら武士と呼ばれる種類の人なのです。
ちなみに、この時の平致頼の合戦相手となる平維衡は、後に、あの平清盛(きよもり)を輩出する事になる伊勢平氏(いせへいし)の祖とされる人物なので、「軍事貴族」のだいたいのイメージもお察し。。。
そんな平致頼を仲間に引き入れた伊周&隆家兄弟・・・そう、目的は、あの道長の暗殺でした。
ここのところの道長は、大和(やまと=奈良県)の金峰山(きんぷせん=大峰山脈)にある金峯山寺(きんぷせんじ=奈良県吉野郡吉野町吉野山)に参詣の計画を立てていたのです。
当然の事ながら、旅の途中は屋敷よりも警備が手薄・・・そこを「平致頼に襲撃してもらおう」という計画です。
かくして寛弘四年(1007年)8月2日に京都を発った藤原道長ご一行・・・襲撃は、その帰路を狙って決行する予定だったと思われます。
…と言うのも、その暗殺計画が、道長が京を出て7日後の寛弘四年(1007年)8月9日に発覚するのですよ。
つまり、もし暗殺計画が往路に決行される予定なら、もうとっくに決行されていなければなりませんから、この時点で「計画が発覚」という事は帰路に焦点を合わせていたのだろうと・・・
この時、伊周&隆家兄弟は、すでに32歳と29歳・・・もう立派な大人ですから、おそらく計画も用意周到に行われていたはず。。。
よって、朝廷には激震が走ります。
なんせ上記の通り、道長は旅行中ですから、その安否がわからない・・・なんなら、もう暗殺されちゃってるかも知れないわけで、、、
早速、朝廷は源頼定(みなもとのよりさだ)を勅使(ちょくし=天皇の使者)にたてて金峰山に派遣し、その安否情報を得ようとします。
ところが、、、
それは、慌てふためく都の貴族たちのから騒ぎに終わります。
何の事は無い、その勅使が都を発った翌日の8月13日、道長は何事も無く京都に戻って来たのです。
しかも、本人曰く
「襲撃なんて無かったヨ」
実は、さすがは天下の藤原道長・・・参詣の旅とは言え、その護衛の数がハンパ無かった。
しかも、いつものお抱えSPに加え、どうやら、彼を支持する側の軍事貴族の何人かにも兵をお願いしていたようで、その中には平致頼の持つ兵力と同レベルの者もいたとか・・・
くわしい史料が残っていないのでアレですが・・・
おそらく平致頼も、道長の道中の様子を探りに行った事でしょうよ。
けど、伊周&隆家兄弟から聞いていたよりははるかに大勢の護衛を引き連れていて、それこそ、ちゃんとした軍事貴族であればあるほど自身の兵力と相手の兵力の差を瞬時に見極める事ができるわけで、
無謀な攻撃は、ただただ負けるだけ…というのも、容易に予想できるわけですから、
「今、この状態で襲撃しても暗殺が成功するわけないと判断すれは退く」
というのも、立派な武士の判断ですからね。
でも、この平致頼の判断は伊周&隆家兄弟にとっても幸いでした。
なんせ、実行されなかった事で、これは「単なる噂」として処理され、伊周&隆家兄弟が何かの咎めを受ける事は無かったのです。
おかげで、翌寛弘五年(1008年)正月には、伊周は大臣に准ぜられ、朝議での発言権も復活しますが、
一方で、この年の9月に道長の娘の彰子が、一条天皇にとっての第2皇子=敦成親王(あつひらしんのう)を産んだ事によって、
将来、新天皇の外戚(がいせき=母方の実家)として隆盛を取り戻す夢もズタズタに砕かれ、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去るのです。
なんせ、この敦成親王が、この後、わずか8歳で第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位し、我が世の春を迎えた道長が、
有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
欠けたることの なしと思えば ♪
の歌を詠む(10月16日参照>>)事になるわけですから。。。
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コメント
平致頼と言う人は知りませんでした。
藤原伊周・隆家は花山法皇への暗殺疑惑の当事者であるのは知っていましたが、藤原道長本人も暗殺することを考えていたらしい、までは知りませんでした。
来年の大河ドラマでこのあたりも触れるでしょう。
一部報道だと藤原隆家役の代役が決まったとのことで、近日中にも正式に発表されるようです。
投稿: えびすこ | 2023年8月20日 (日) 09時38分
えびすこさん、こんばんは~
代役は竜星涼さんじゃ無かったかな?
まだ、正式では無いんですかね?
いずれにしても楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2023年8月21日 (月) 02時22分