上杉謙信の越中一向一揆攻め~第5次富山城の戦い
天正元年(1573年)8月15日、富山に侵攻した上杉謙信が越中一向一揆を平定しました。
・・・・・・・・・
永禄七年(1564年)8月の第五次の川中島の戦い(8月3日参照>>)を最後に、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と相まみえる事が無かった越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、
その後に、別の場所での、両者がともに糸引く勢力が戦う代理戦争のようになっていたのが、一国を統べるような大物武将がいなかった越中富山(えっちゅうとやま)の地でした。
そこで謙信は何度も富山に出兵し、攻略をくりかえしていたのですが、
●元亀二年(1571年)3月=城生城の戦いと富山城>>
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆と日宮城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
そこには加賀&越中の一向一揆も絡んでいたわけで、
そんな中、
この頃は謙信と大の仲良しだった尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)が、元亀三年(1572年)11月20日付けの謙信宛ての書状にて、
「できたら、20日~30日の間に平らげはった方がよろしいで~ どうしても来年の春までかかるようやったら、一回、一向一揆と和睦して、先に信玄を討ってしまいなはれ。
信玄がおらんようになったら、自然と一向一揆も治まるんちゃいますか?」
と提案。。。
そこで謙信は天正元年(1573年=実際には7月に元亀より改元)4月に越中の一向一揆と和睦して、信玄との戦いに備えるべく居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)へと帰還しました。
なんせ、この頃の信玄は、前年の10月に甲斐を発ち、
10月13日に一言坂の戦い>>
10月22日には伊平城の仏坂の戦い>>
12月19日には二俣城を攻略>>して、
12月22日には、あの三方ヶ原>>、
年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城を攻撃>>
と、
どんどん上洛しちゃってる?感満載・・・信長も危ないけど、謙信も見過ごすわけにはいきませんから。。。
ところが、謙信が春日山城に帰っちゃうと、またまた動き出す越中の輩たち・・・
と言うのも、信玄は、信長と未だ絶賛敵対中(7月22日参照>>)の越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と連絡を取り、越中の一向一揆を焚きつけていたのです。
この焚きつけにまんまと燃え上がった一向一揆勢は、椎名康胤(しいなやすたね)らと与して謙信との和睦を破り、3月5日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い返したのでした。
「ならば…」
と、またまたの越中攻めを決意する謙信。。。
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
早速、稲荷(いなり=富山県富山市稲荷元町)・岩瀬(いわせ=同富山市岩瀬地区)・本郷(ほんごう=富山市本郷町)・押上(おしあげ=同富山市押上)など富山城を囲むように複数の付城(つけじろ=攻撃をするための出城)を構築し、
新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)からの兵を付城に入れて、それらを拠点に富山城への猛攻撃を開始すると、ままたく間に富山城を落としたばかりか、アッと言う間に神通川(じんつうがわ)以東を平定して見せたのです。
4月に入ってから、配下の河田長親(かわだながちか)を松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)に配置して越中の総指揮を任せたほか、一揆勢に睨みを効かせるべく、周辺の諸城にも人を配置し、謙信は4月21日に春日山城へ向けて帰国の途に就きました。
ところが・・・です。
かの野田城への攻撃>>を終えた以降の武田は、 配下の秋山虎繁(あきやまとらしげ=信友・晴近とも)が3月2日に岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)を落とす(3月2日参照>>)などしたものの、信玄自身に動きは無く・・・というより、なんなら甲斐に戻って行ったわけで
そう…ご存知のように、この富山城争奪戦の真っ最中の4月12日、武田信玄が亡くなっていたのです。
その遺言で(4月16日参照>>)、
「三年隠せ」
と言われた信玄の死ですが、
武田方の奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)が、信玄の死の直後に三河(みかわ=愛知県東部)の徳川家康(とくがわいえやす)に寝返ったおかげで(9月8日参照>>)、信玄の思いとは裏腹に、噂は瞬く間に広がっていったのです。
謙信側にも・・・飛騨(ひだ=岐阜県北部)の江馬輝盛(えまてるもり)から、まずは富山の河田長親の所に伝えられ、さらに謙信のもとに届けられました。
有名な話ではありますが、
忍びを走らせて事実確認し、その死が本当の事であると知った謙信は
「まことに惜しい武将を亡くした」
と涙したと伝えられています。
案の定、信玄の死は一向一揆衆を失望させはしましたが、かと言って、それで衰える事も無く、7月に入って再び不穏な空気を見せ始めたのです。
これを受けた謙信は、8月10日に越中に侵出し、三度めの一向一揆攻め・・・またもや、瞬く間に平らげ、その勢いで以って加賀(かが=石川県南部)の朝日山(あさひやま=石川県金沢市)まで一気に攻めます。
少しばかり力の衰えた一向一揆衆ではありましたが、この時ばかりは、上杉軍が装備する鉄砲の数をはるかに上回る鉄砲を用意して迎撃しますが、ここで、越中の一向一揆も加賀の一向一揆も、まとめて制したい謙信は、上杉の持つ全力を行使して攻めまくります。
やがて、その勢いにも陰りを見せ始めた一向一揆・・・さらに、この頃には一向一揆に味方していた加賀の国衆たちも、徐々に謙信側に降って来るようになり、
天正元年(1573年)8月15日、謙信は越中のほとんどを制圧したのです。
9月末、越後の春日山城への帰還を開始した謙信は、途中の魚津城 (うおづじょう=富山県 魚津市)の近くで野営し、歌を一首詠みます。
♪武士(もののふ)の よろいの袖を かたしきて
枕に近き はつかりの声 ♪
「鎧の片方の袖を枕にして仮眠してると、初雁の鳴き声が枕元で聞こえて来るわ」
初雁(はつかり)とは、
立秋も過ぎたこの時期…秋になって最初に北方から渡って来た雁の事。。。
風流やね~謙信君
とは言え、
謙信ほどの大物でも、野営する時は鎧を着たままの状態で、ちょっとだけの仮眠で済ませてたんですね~
戦国は過酷やね~
と、まったりしてる場合では無い!
ちょうど、この時期に越前征伐を開始した織田信長は、まさに、この謙信の越中平定の前日の
8月14日に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いで勢いをつけ(8月14日参照>>)、
6日後の8月20日には朝倉を倒し(8月20日参照>>)、
その8日後の8月28日には、朝倉と組んでいた北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)を葬り去り、
翌天正二年(1574年)1月には、越前の一向一揆を脅かすようになるのです(1月20日参照>>)。
そう・・・どんどん北上して来る信長の勢いを受けて、やがて謙信は一向一揆=本家本元の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)と和睦を結び(5月18日参照>>)、仲良かった信長と敵対する事になるのですが、
それらのお話は、また別のページでご覧あれm(_ _)m
★関連ページ
●謙信の富山侵攻>>
●謙信の飛騨侵攻>>
●謙信の七尾城攻略>>
●手取川の戦い>>
●謙信の能登平定>>
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