徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方
承応二年(1653年)8月22日、徳川家康の側室で、徳川頼宣と徳川頼房の母となる養珠院お万の方が死去しました。
・・・・・・・・・
徳川家康(とくがわいえやす)の側室=お万の方(於万・萬)。。。
…と言っても、今回の大河ドラマ「どうする家康」で松井玲奈(まついれな)さんが演じている、後に結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)を産むお万の方(於万=長勝院)とは別人で、出家後は養珠院(ようじゅいん)と号するお万の方です。
…にしても、築山殿(つきやまどの)(8月22日参照>>)亡き後の朝日(あさひ=豊臣秀吉の妹・旭)さん(4月28日参照>>)という正室の流れはさておき、
家康さんには、20人くらいの側室いますけど、今回の松潤家康は、それこそ「どうする」んでしょう?
子供がいない人は何とかはしょったとしても、子供をもうけた人だけでも10人くらいいるんですが(茶阿局>>とか…)、
これから7~8人ぶんの「浜松ソープ」とか、百合姉さんとか、コンタクトアリス(於愛)ちゃんのようなシーンが用意されてるんでしょうか?
子供いなくても阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)は出るみたいだし…時間的にも難しいので、かなりはしょられるのは確かでしょうけど。。。
とにもかくにも本日の養珠院お万の方様は、
後に紀州(きしゅう=和歌山県)徳川家の祖となる十男=徳川頼宣(よりのぶ)と
水戸(みと=茨城県)徳川家の祖となる十一男=徳川頼房(よりふさ)を産んでるので、
さすがに完全スルーはできないのでは?
と思っているのですが、、、、
…で、そんな養珠院お万の方は、勝浦城(かつうらじょう=千葉県勝浦市 )主の正木頼忠(まさきよりただ)と智光院 (ちこういん)という女性との間に天正五年(1577年)~天正八年(1580年)頃に生まれたとされる説が有力です。
ちなみに、この智光院という女性は、あの小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を拠点とする北条一族の北条氏隆(ほうじょううじたか・もしくは北条氏尭)の娘だそうで(異説もあり)・・・なので、養珠院お万の方は小田原で生まれたとも言われます。
というのも、父である正木頼忠は、かつて、その父(つまりお万の方の祖父)が安房(あわ=千葉県南部)の里見(さとみ)家から北条に寝返った際の同盟の証として小田原城に送られ、人質生活を送っていた中での結婚だったからなのです。
人質とは言え、北条一族の娘を娶れるという事は、正木頼忠という人は、かなり北条から優遇されていたように思われますので、幼少期のお万の方の生活も、おそらくは、ひもじい思いをする事は無かったかと・・・
と思いきや、お万の方が生まれるか?生まれないか?のややこしい時期に、父の正木頼忠が、兄と父を同時に亡くした事で正木家の家督を継ぐため、妻子を小田原に残したまま、勝浦へ帰っちゃうのです。
その後、天正十二年(1584年)になって、母が蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、義父の居城である河津城(かわづじょう=静岡県賀茂郡河津町)に移り、お万の方はそこで養育されました。
この蔭山さんは、この頃は北条傘下に甘んじていましたが、もともとは鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)の足利持氏(あしかがもちうじ)の血筋の人ですから、永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)で散ったとは言え、誇り高き足利の血脈を継ぐ人には変わりなく、お万の方もおおむね幸せな少女期を過ごしたのではないか?と…
とは言え、天正十八年(1590年)には、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が起こってしまい(3月29日参照>>)、北条氏に付いて敗者となった蔭山氏広は、伊豆の修善寺(しゅぜんじ=静岡県伊豆市)にて蟄居の身となります。
・・・と、ここまで書いてて何ですが、実はお万の方は伊豆のお百姓さんの娘…とも言われます。
それは、ここから彼女は、大平村(おおひらむら=静岡県沼津市)の名主(村長)の星谷縫殿右衛門(ほしたにぬいえもん)に養育され、
その後、文禄二年(1593年)に家康と出会うから・・・つまり、家康さんと出会った時は、村の名主の養女?だったわけです。
…で、三島(みしま=静岡県三島市)に鷹狩に来ていた50歳過ぎの家康と出会った(というか紹介された?)お万ちゃんは、この時、16歳~18歳くらいの乙女。。。
お万を気に入った家康は、一旦、お万を、かつては北条の家臣で小田原征伐キッカケで徳川傘下に入った江川英長(えがわひでなが)の養女とし、その後、側室として迎えたのでした。
そして冒頭に書かせていただいたように慶長七年(1602年)の26歳くらいの時に頼宣を、翌年に頼房を出産しています(60歳過ぎの家康はガンバったと思う)。
ところで、
戦国武将の側室女性の場合、普段は奥向きの事しかやらないので、大抵は、「何年に誰々を産んだ」くらいの事しか逸話として残らない物なのですが、このお万さんの場合、特筆すべき逸話が一つ残っています。
それは慶長十三年(1608年)11月15日の事・・・
このお万さんは、養父とされる蔭山氏広の蔭山氏が代々日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依していた事から、彼女も日蓮宗の信者で、当時は日遠(にちおん)という僧にドハマリしていたのですが、
家康は浄土宗(じょうどしゅう)なので(「厭離穢土欣求浄土」やもんね)、日頃から、何かと言えば宗論(しゅうろん=仏教の教義や解釈についての議論)を仕掛けて来る日遠がうっとぉしかったのです。
で、その日、予定されていた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での問答=慶長宗論(けいちょうしゅうろん)の直前、家康は日蓮宗側の論者=日経(にっきょう)を家臣たちに襲撃させて瀕死の重傷を負わせたのです。
そのため
「これでは問答ができない」
として日経の弟子たちは宗論の延期を申し出るのですが聞き入れられず、
やむなく日蓮宗側は、日経を戸板に乗せて寝たまま会場入り、
なので宗論では、浄土宗の代表者である廓山(かくざん)が問いかけるも答えられる状況ではなく、
浄土宗側は
「こっちが色々聞いても、病気や言うて寝たままで何も答えへん…これは俺らの勝ちや!」
と称して、相手側の袈裟を剥がして勝利宣言し、家康も浄土宗の勝利を認めたのです。
納得いかない日経らは、
「いやいや、俺らが勝ったんや」
と主張した事で翌年に捉えられ、京都の六条河原にて、日経は耳と鼻を、他の弟子は鼻を削がれる酷刑に処されたのです。
これには当然、日遠も黙っていられず、法主(ほうしゅ・ ほっす=最高指導者)を辞職して、家康に再びの宗論を持ちかけたのです。
これに怒った家康は、日遠を捕まえて安倍川(あべかわ=静岡県静岡市葵区付近)の河原で磔にしようとしますが、
ここでお万の方登場!!!
日遠の助命を嘆願しますが、齢66の男家康・・・断固としてお万の願いを受け入れませんでした。
すると、お万は
「師匠が死ぬ時は弟子の私も死ぬしかない!」
と、日遠と自分の二人分の死装束を縫い、家康に迫ったのです。
さすがの家康も、可愛いお万ちゃんの命と引き換えにはできず、日遠を無罪放免にするしかなかったのだとか・・・
ま、これも日蓮宗の主張なので、どこまで実際の出来事に近いのかわかりませんが、彼女の死をも恐れぬ行動に、時の後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)も感動しきりだったようです。
それ以外の記録としては、実兄の三浦為春(みうらためはる)が、あの大坂の陣(おおさかのじん)>>に甥っ子の徳川頼宣に従って出陣し、大いに活躍した事で
「家康っさんも喜んどったで!」
と、家康の様子を兄に報せた手紙が残る程度の情報しかないお万さん、、、
家康亡き後は養珠院と号し、承応二年(1653年)8月22日、74歳前後でこの世を去りました。
晩年は、七面天女(法華経を守護する女神)を祀る、女人禁制の七面山(しちめんさん=山梨県南巨摩郡)に、僧侶たちの制止を跳ね除けて登り、
「七面山に最初に登った女性」
とされるお万の方。。。
慶長宗論と言い、強行突破登山と言い、
しとやかな姫というよりは、
なかなかに気の強いじゃじゃ馬だったのかも知れませんね。
家康さんの、女性の好みやいかに(#^o^#)
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コメント
お万の方は、妊活で温泉へ行ったり、身延山に登ったりアウトドア派でしたね。
投稿: やぶひび | 2023年8月22日 (火) 10時10分
やぶひびさん、こんばんは~
アクティブな人だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2023年8月23日 (水) 02時28分
この記事の方の「お万の方」は「葵徳川三代」に出ていました。
この記事の「お万の方」と結城秀康生母のお万の方(「小督局」とも呼ばれる)は江戸時代初頭期に「徳川家の人物」でしたが、江戸開府後に在住した場所が違いますね。
ちなみにこの間の放送で少年期の於義丸を演じた岩田琉聖くんは、3年前に家康の幼少期の竹千代役でした。
投稿: えびすこ | 2023年9月 9日 (土) 13時13分
えびすこさん、こんばんは~
今年の大河は残り時間が少ないので、どのように描かれるか?気になりますね
投稿: 茶々 | 2023年9月10日 (日) 01時38分