織田信長と徹底抗戦した斎藤道三の隠し子?長井道利
元亀二年(1571年)8月28日、斎藤道三の息子とされる長井道利が白井河原の戦いで討死しました
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「美濃の蝮(まむし)」と称される戦国屈指の梟雄=斎藤道三(さいとうどうさん)の若い頃の子供?とされる長井道利(ながいみちとし)。。。
と言っても「?」をつけた事でお分かりのように諸説あります。
道三の弟説もあるし、長井利隆(としたか)の孫説に、長井長弘(ながひろ)の息子説(長井利隆と長弘は親子ともされるが確定ではない)などなど…
というのも、ご存知のように道三の前半生が微妙・・・
そもそもは、
僧から還俗(げんぞく=出家した人が俗人に戻る事)した松波庄五郎(まつなみしょうごろう)なる人物が、武士を目指して美濃(みの=岐阜県南部)の守護(しゅご=県知事みたいな)であった土岐(とき)氏の家臣の長井家のそのまた家臣となって、その家臣の家名である西村(にしむら)を名乗って西村勘九郎正利(にしむらかんくろうまさとし)称する中、
享禄三年(1530年)1月に主家である長井長弘夫妻を殺害して長井家を乗っ取って長井新九郎規秀(しんくろうのりひで)を名乗った。。。
↑で、このあたりで父が亡くなって息子に交代してるっぽいので、この長井新九郎規秀が、後の道三とされます。
このあと、天文七年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良(さいとうとしなが)が病死した事で、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったと。。。
で、道三が斎藤を名乗る一方で、長井家の名跡を継いだのが、今回の長井道利という事で、
道三の子供だから継いだのか?
もともと長井家の血筋だったから継いだのか?
が微妙なわけですが、
このあと、しっかりと斎藤家を盛り立てていく感じを見れば、やはり道三の息子説が有力な気がしますね(←個人の感想です)
とにもかくにも、こうして斎藤家を継いだ道三に仕えた長井道利・・・
しかし、この後、守護の土岐頼芸(ときよりなり)を追放して(12月4日参照>>)美濃の主となった父=道三と、嫡男(道利の弟?)の斎藤義龍(よしたつ=高政)が不仲になると、
義龍に味方する道利は、なんと!道三が寵愛する異母弟の孫四郎(まごしろう=道三の次男)と喜平次(きへいじ=道三の三男)の殺害を提案し、義龍とともに実行(10月22日参照>>)・・・
翌年の弘治二年(1556年)4月、父子最終決戦となる長良川(ながらがわ)の戦いで父=道三を討ち果たします(4月20日参照>>)。
う~ん…もし、道利が道三の息子だったとして、父と弟が争うとなるとどちらに味方するのか?
戦国と言えど悩むところかも知れませんが、道三は合戦の3年前の天文二十三年(1554年)に、すでに義龍に家督を譲って隠居してますし、
その長良川のページにも書かせていただいたように、
斎藤家内の合戦で道三の声掛けに応じた者が約2千で、義龍に味方したのが約1万7千ですから、
すでに決戦の前に斎藤家内の情勢は息子=義龍に傾いていた感がありますから、道利も、その情勢に乗っかった一人なのかも知れません。
…で、斎藤家の実権を握った義龍&道利は、その勢いのまま、同じ年の9月に明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃して、事実上明智(あけち)を滅亡させ、道利は明智庄の代官となりました(9月20日参照>>)。
しかし、ご存知のように、この時、父=道三は大きな置土産を残して逝きました。
そう、娘婿(2月24日参照>>)の織田信長(おだのぶなが)です。
一説には、かの長良川の戦いの前日に、道三は娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)が正室となっている尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長に対し「美濃を譲る」の遺言状(4月19日参照>>)を書いていたとされ、
信長は、それを大義名分に美濃を狙いに来るわけで・・・これを機に道利の人生は、徹底して織田信長と戦う事になるのです。
とは言え、この頃の信長は、まだ尾張一国を統一してないばかりか、自身の家中すらままならない状況だったわけで・・・
●弘治二年(1556年)8月に稲生の戦い>>
●弘治三年(1557年)11月に弟の信行を暗殺>>
●永禄元年(1558年)5月に浮野の戦い>>
と来て、いよいよ
永禄三年(1560年)5月の桶狭間の戦い>>
となるわけで、この間の信長は、美濃侵攻の成果はほとんど挙げる事ができませんでした。
しかし、そんなこんなの永禄四年〈1561年)5月11日、義龍が35歳という若さで急死し、嫡男の斎藤龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐ事になりますが、
そこをすかざす信長が、わずか3日後に美濃に侵攻して来るのです。
●5月14日=森部の戦い>>
●5月23日=美濃十四条の戦い>>
当然、斎藤家には動揺が走り、家臣団にも亀裂が生じますが、道利は、それらを修復しつつ、
重臣である美濃三人衆の
西美濃曾根城主・稲葉一鉄(いなばいってつ)
西美濃大垣城主・氏家卜全(うじいえぼくぜん)
西美濃北方城主・安藤守就(あんどうもりなり)
らにも、変わらず龍興を盛り立てていくよう働きかけました。
おかげで永禄六年(1563年)4月の、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)の戦いでは見事な勝利(4月21日参照>>)。
その翌年の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)占拠事件(2月6日参照>>) では、
道利は、毅然とした態度で事を治める一方で、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)との同盟を模索して、
崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市 )の僧=快川紹喜(かいせんじょうき)を甲斐に派遣しています。
ご存知の方も多かろうと思いますが、この快川和尚は、これを機に恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)に入り、後の武田滅亡の際には「滅却心頭火自涼」(心頭滅却すれば火も自ら涼し)の有名な辞世を残す方です(4月3日参照>>)。
しかし、やがて永禄八年(1565年)8月、信長に堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を落とされ(8月28日参照>>)、
続く9月には、織田方についた斎藤利治(としはる=道三の末子とされる)の攻撃によって関城(せきじょう=岐阜県関市)が陥落して(9月1日参照>>)、
情勢が織田有利に傾く中、
永禄十年(1567年)8月には、とうとう、かの美濃三人衆が織田信長に内応(8月1日参照>>)・・・
その半月後に斎藤家の居城=稲葉山城が陥落し、事実上美濃斎藤家は滅亡する事となりました(8月15日参照>>)。
落城はしながらも、その身は、龍興とともに脱出した道利は、長良川を下って伊勢長島(いせながしま=三重県桑名市長島町)へと逃れて、ここで長島一向一揆(5月12日参照>>)に加わって信長に抵抗しつつ、
やがて、信長と不和になりつつあった第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)に仕えるようになります。
そんなこんなの元亀二年(1571年)8月28日、
主君の池田勝正(いけだかつまさ)を追放して池田家を掌握した荒木村重(あらきむらしげ)が、義昭の将軍就任への尽力によって高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)与えられていた和田惟政(わだこれまさ)(2024年8月28日参照>>)を攻める白井河原(しらいかわら=大阪府茨木市)の戦いが勃発したのです。
この時、長井道利は主君である義昭の命により、和田惟政に味方する茨木重朝 (いばらきしげとも)の軍の一員として参加したのですが、未だ軍勢も整わない中で合戦の勃発となってしまい、
和田惟政は討死・・・続いて茨木重朝も討死し、大将を失った和田&茨木軍の大敗となり、長井道利も壮絶な討死を遂げたと言います。
ちなみに、この合戦での荒木村重の勝ちっぷりを耳にした事がキッカケで、信長は荒木村重を配下に加えた…との話もあるとか。。。
また、かつて長井道利とともに稲葉山城を脱出していた斎藤龍興は、この2年後の天正元年(1573年)の、信長が越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を追撃した刀禰坂(刀根坂・とねざか=福井県福井市)の戦いで討死するのですが(8月14日参照>>)、
一説には、今回の長井道利も白井河原ではなく、コチラの刀禰坂で討死したという説もあるようです。
いずれにしても、主君は変われど長井道利の思いは一途・・・
斎藤を守るからの→斎藤を倒した信長を倒す
の1本につながった道だけしか無かったのかも知れませんね。
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